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ファンタジー

雨粒を売る、砂漠の市

降るまでは、雨。六分ぶんの夕立を、ふたりで運ぶ。

読了目安
22分
長さ
短編
#わくわく#旅#魔法
雨粒を売る、砂漠の市のイメージ

あらすじ

雨を瓶に集める書庫係ニナが、砂漠の市で買ったのは降る前の雨ひと粒。銀貨一枚を出した天幕職人カリマは、自分の天幕で雨音を聞きたいと言う。七晩明ければ干からびる粒を運ぶ三日間、瓶に残したい人と降る音を聞きたい人の旅が始まる。

読みやすく、好きなところから。

目次・5章

一 七本柱の市

七本柱の市は、干上がった川の底に立つ。両岸に古い石の柱が七本並んでいて、柱と柱のあいだに布を張れば、それがそのまま店になる。月に一度、三日月の晩から二日間だけ、砂漠の四方から商人が集まってくる。

ニナは柱の影から影へ移りながら、手帳の地図に印をつけていた。

「香辛料、三番目の柱。塩、五番目。井戸屋は川下の端……」

「そんなの書かなくても、匂いで分かるでしょう」

後ろからカリマが言った。赤茶の布を頭に巻き、腰に巻き尺を下げている。北の湖町カルナから来たニナを、ラクダ隊で市まで運んできたのがカリマだ。本業は天幕職人で、市には自分の天幕を売りに来ていた。持ってきた二張りは、昼前にもう売れている。

「匂いは帰ったら消えます。紙は残ります」

「あなた、ほんとに図書館の人ね」

「書庫係です」

ニナが探しているのは、雨だった。

カルナの家には、窓辺の棚に瓶が四十一本並んでいる。中身は全部、雨だ。湖の上の雨、峠の雨、海辺の町の霧雨。一本ずつに、どこで、いつ、何で受けたかを書いた札がついている。最初の一本は子どものころに窓の外へ出したコップで、それからずっと、旅に出るたび空き瓶を三本持っていく。掌に収まる小さな標本瓶だ。一本が満ちれば、ニナには十分だった。

四十二本目は砂漠の雨と決めていた。砂漠ではめったに降らないから、七本柱の市では雨を売っている——そう教えてくれたのは、カルナの港に来た香辛料商人だった。

「あった。あれ」

カリマが顎で指したのは、六番目の柱の陰にある、いちばん小さな店だった。

灰色の屋根布の下、台の上に素焼きの壺が並んでいる。どの壺も汗をかいたように湿っていて、近づくとひんやりした空気が頬に触れた。台の奥では、痩せた男が帳面に何か書きつけていた。台の端に打ちつけた木札に、ザイードと彫ってある。

「雨を売っていると聞きました」

「売ってる」

男は顔を上げずに言った。

「瓶ひとつ分、いただけますか」

「瓶の水なら井戸屋だ。川下の端」

「水ではなくて、雨がほしいんです」

ザイードはようやく筆を置いた。壺のひとつの蓋を外し、湿った砂の中から、指先で何かをつまみ出す。

うずらの卵くらいの、透きとおった粒だった。ガラス玉に見えるが、光の通り方が違う。中で何かが、ゆっくり傾いている。

「雨粒だ。去年の春、赤い谷に来た夕立の一粒。降る前に拾った」

「降る前に……拾った?」

「拾う奴がいる。拾い方は売り物じゃない」

ザイードは粒を砂に戻し、すぐに蓋をした。口の中で小さく「八」と言ったのが聞こえた。数えていたらしい。

それから台の下から木の札を出して、ニナの前に置いた。墨で五行、書いてある。

雨粒の扱い
 一、日陰で保管すること。取り出して眺めるときは、日陰で十数えるうちに壺へ戻すこと。
 二、降らせるには、素手で百数えるあいだ温め、空の見える地面に置くこと。
 三、降るのは置いた場所から五歩まで。長さは市の砂時計でひと返し。
 四、買った夜を一晩目として、七晩明けた朝に干からびる。干からびた粒は返品不可。
 五、瓶詰めの水がほしい客は、井戸屋へ。

ニナは二度読んだ。三度目は声に出しかけて、やめた。

「つまり、これは雨そのもの、ということですか。水ではなく」

「降ったら水になる。降るまでは雨だ」

「瓶に入れたまま、持って帰ることは」

「七晩。そのあとは塩みたいな粒になる。客はたいてい、そこで文句を言う」

ザイードは台の脇の砂時計を指で弾いた。手のひらほどの、真鍮の枠の砂時計だ。

「ひと返しで、だいたい六分。雨はそれだけ降る。強さは、元の夕立しだいだ」

カルナまでは、アイン・セラのオアシスで北行きのラクダ隊に乗り換えて、そこからさらに二十日近くかかる。七晩では、とても足りない。

「六分も降るの」

横でカリマが言った。その声だけ、市のざわめきから浮いて聞こえた。

「五歩って、このくらい?」

カリマは巻き尺を引き出しもしないで、砂の上を大股で五歩歩いた。振り返って、両腕を広げる。

「ここから、ここまで。円にしたら、うちの天幕がまるごと入る」

「入るだろうな」とザイードは言った。

「値段は」とニナは訊いた。

「銀貨六枚。値切りはしない。壺と砂はつける」

ニナは財布をのぞいた。銀貨が五枚と、銅貨がひと握り。銅貨は帰りの食料に回すと決めて、もう勘定してある。

「五枚しかありません」

「じゃあ買えない」

ニナが財布の紐を締めかけたとき、横から銀貨が一枚、台に置かれた。

「はい、六枚」

「カリマさん、それは」

「貸すんじゃない。買うの」

カリマはにっと笑った。

「六分の一は、私の雨」

「雨を六つに分けるんですか」

「ひと返しで六分なら、一分は私の分でしょ」

ザイードは銀貨を一枚ずつ数えて、帳面に書きつけた。〈雨粒一。赤い谷、春の夕立。西風〉。それから粒を湿った砂ごと小さな壺に移し、蓋の上に平たい石をのせ、背負えるように縄をかけてくれた。

「西風?」

ニナは帳面をのぞき込んだ。

「拾った日の風だ。雨は自分の風を覚えてる」

説明はそれだけだった。ザイードはもう、次の客のほうを向いていた。

二 六分の一

翌朝、三頭のラクダが七本柱の市を出て、アイン・セラへ向かった。三日の道のりだ。

雨粒の壺は、ニナのラクダの鞍の、日陰になる側に吊るした。濡らした布を巻いて、二刻ごとに水袋の水を少しだけしみこませる。水は十分に積んでいるから、粒を冷やすくらいの余裕はあった。

「で、どこで降らせるの」

並んで揺られながら、カリマが訊いた。

「まだ決めていません」

「決めてないって顔じゃないわね」

ニナは手帳を開いた。昨夜のうちに書いた計算がある。

「七晩明けた朝に干からびるなら、七晩目の夜までは持ちます。アイン・セラで北のラクダ隊に乗り換えて、あと三晩運べば、そのぶんカルナの近くで降らせられます」

「近くって、どのくらい」

「……二十日の道のうちの、三日ぶん」

「それで砂漠のまんなかで、ひとりで六分、雨に打たれるわけ」

「瓶を三本、口を上にして並べます」

カリマは鞍の上でのけぞって笑った。ラクダのジャジャが迷惑そうに耳を振った。

「瓶の口に、雨が自分から入ってくると思ってるの? 小指の先くらいの口よ。六分じゃ、底がやっと濡れるくらいでしょう」

ニナは黙った。実は昨夜、計算の途中でそれに気づいて、見なかったことにしていた。カルナの雨はひと晩じゅう降るから、窓の外に瓶を出しておけば勝手にいっぱいになる。六分しか降らない雨を受けたことは、一度もない。

「私の天幕を使えばいいのよ」

カリマは言った。

「屋根で受けて、角から落とすの。屋根は広いもの、ぜんぶ集まる」

「その天幕は、カリマさんの家にあるんですよね」

「アイン・セラの、うちの庭」

「つまり、アイン・セラで降らせろということですね」

「そう言ってる」

カリマの理由は、市を出る前に一度聞いていた。天幕を縫って二十二年になる。山羊の毛と麻を織り、油を引き、縫い目に蝋を詰める。北の商人にも南の隊商にも、「雨が降っても中は乾いてる」と言って売ってきた。

「でもね、自分の天幕の中で雨の音を聞いたことは、一度もないの」

アイン・セラに最後に雨が来たのは、カリマが弟子入りする前の年だったという。

「屋根を雨が叩く音。売り文句に使ってるのに、知らないのよ。笑うでしょ」

ニナは笑わなかった。それならカリマさんの一分で聞けばいい——と言いかけて、一分では天幕の屋根が湿るかどうかも怪しいと思い直した。

昼過ぎ、二つ岩の井戸に着いた。今夜はここで野営する。先に塩の隊商が来ていて、井戸のまわりに荷が積み上がっていた。白い塩の板を麻袋に詰めて、ラクダに振り分けて積むらしい。

荷の陰から、十五か十六くらいの少年がこちらを見ていた。日に焼けた腕に、塩が白く粉をふいている。ラクダから下ろした鞍のそばでニナが壺の布を湿らせていると、少年が近づいてきて、壺を顎で指した。

「それ、何」

「預かりものです」

半分は本当だった。六分の一は、カリマのものだ。

「冷たい匂いがする。売ってくれ」

「売りません」

少年はふん、と鼻を鳴らして、塩の山のほうへ戻っていった。

その夜、ニナはいつものように手帳をつけた。

〈二つ岩。夕方、壺の布を湿らす。寝る前、ふた確認。石あり。粒は見ていない(出すと十数えるのが怖い)〉

少し考えて、書き足した。

〈塩の隊商の少年が、壺を見ていた〉

三 石の位置

朝、ニナは壺の前で立ちすくんだ。

ふたの上の石がずれていた。平たい石が斜めにのっていて、ふたと壺の口のあいだに指一本ぶんの隙間がある。

ニナはふたを取り、湿った砂を指でそっと探った。冷たい砂しかない。もう一度、底まで探る。

ない。

「カリマさん」

自分の声が、思ったより高かった。焚き火の跡で湯を沸かしていたカリマは、ニナの顔を見て、湯沸かしを置いた。

「ない?」

「ありません。ふたの石がずれていました。わたし、寝る前に確かめました。書いてあります」

ニナは手帳を開いて見せた。〈ふた確認。石あり〉。

カリマは手帳を見て、それから自分の手を見た。

「……ごめん。夜中に一度、出した」

「出した?」

「星の下で見たかったの。一回だけ。十までは数えてない、八で戻した。ほんとよ。手のひらにものせてない。指でつまんだだけ」

カリマは指先をつまむ形にして見せた。

「でも、石をちゃんと戻したかは……覚えてない。眠かったから」

ニナは何か言おうとして、言葉を選びそこね、口を閉じた。

頭の中に札の二行目があった。素手で百数えるあいだ温め、空の見える地面に置くこと。

「もし、落としていたら」

「落としてない。それに、もし降ったんなら、このへんが濡れてるはずでしょ」

カリマの言うとおりだった。二人のまわりの砂は、どこも乾いている。五歩の円どころか、手のひらほどの濡れた跡もない。降っていないのなら、粒はどこかにあるはずだ。

「塩の隊商です」とニナは言った。

「あの子?」

「昨日、売ってくれと言いました。冷たい匂いがする、と」

ニナはもう歩き出していた。後ろでカリマが何か言ったが、聞かなかった。

塩の隊商は出発の支度をしていた。少年は麻袋の口を縛っていて、ニナが近づいても手を止めずに、目だけ上げた。

「ゆうべ、わたしの壺に触りましたか」

「触ってない」

「ふたの石がずれていて、中のものがなくなっていました」

少年は麻袋を置いて立ち上がった。ニナより少し背が高かった。

「おれが盗ったって?」

「訊いているんです」

「訊いてる顔じゃない」

少年は両手を突き出した。塩でひび割れた、白っぽい手だった。

「おれの手、見ろよ。夜中じゅう塩の板を割ってた。親方に訊け」

ニナが答える前に、少年の後ろで大柄な男が、面倒くさそうに言った。

「こいつは朝まで板割りだ。おれの横でな」

少年はニナの横をすり抜けて、ニナたちの野営地のほうへずかずか歩いていった。壺を吊るした鞍の前にしゃがみ込み、砂の上をじっと見る。

「ほら」

鞍の下の砂に、小さな跡があった。三つに分かれた指の跡。そのそばに、何かを引きずったような細い筋が、点々と続いている。筋は野営地の端の、こぶだらけの低い木のほうへのびていた。

「スナミミだ」と少年は言った。「冷たいもんが好きなんだよ。昼の暑いあいだ、巣に冷たいもん溜めて、その上で寝る。うちの隊のスプーン、毎回やられる」

「スナミミ……」

ニナは手帳を出しかけて、やめた。今は書いている場合ではない。

「わたし、あなたを疑いました」

「知ってる」

「ごめんなさい」

少年は肩をすくめた。

「銅貨一枚」

「え?」

「教えた代。それと、スナミミの巣に手ぇ突っ込むと噛まれるぞ。これはおまけ」

カリマが噴き出した。ニナは財布から銅貨を一枚出して、少年の塩だらけの手にのせた。少年はそれを親指で弾いて受け止めると、隊商のほうへ戻っていった。名前を訊きそびれたことにニナが気づいたのは、その背中が塩の山の陰に消えてからだった。

こぶの木の根元に、握りこぶしほどの穴が開いていた。中は暗くて、のぞいても何も見えない。ただ、穴の口からひんやりした空気がかすかに上がってくる。

「手を入れたら噛まれる」とカリマが言った。「それに、手で握ったら」

「温まります」

二人は顔を見合わせた。穴の中は空が見えないから、そこで雨は降らない。けれど素手で温めたまま外へ持ち出し、砂に落としたら、巣の入口に赤い谷の夕立が六分間降る。水が穴へ流れ込むかもしれない。

「それはちょっと、見てみたい気もするけど」

「カリマさん」

「冗談よ」

ニナは鞍袋を探って、細長い布の包みを取り出した。開くと、真鍮のピンセットが入っていた。指より長い。書庫で古い紙の破れた端をつまむのに使っていて、旅先では雨瓶の札を貼り直すのにも使う。

「そんなもの持ってきてるの」

「いつも持っています」

ニナは腹ばいになって、穴の口に頬を寄せた。冷気が目にしみる。カリマが横から、手鏡で朝日を穴の中へ跳ね返した。

光の筋の奥に、いろいろなものが見えた。木のスプーンが二本。真鍮のボタン。青いガラスのかけら。小さな金属の指ぬき——カリマが「あ、私の」と言った。そしていちばん奥に、うずらの卵ほどの透きとおった粒。

その上で、灰色の毛玉が丸くなっていた。素手で百数える、という条件を、人間でないこの生き物は満たさなかったらしい。耳が体の半分くらいある。毛玉は光に目を細めて、迷惑そうに鼻をひくつかせた。

「どいてもらえますか」

ニナは小声で頼んだ。毛玉はどかなかった。

ピンセットを差し入れる。先がスプーンの柄に当たって、かち、と鳴った。毛玉が耳を立てる。ニナは息を止めて、ピンセットを少し左へずらした。

日陰の巣穴の前で、ニナが真鍮のピンセットを使い、カリマが手鏡で照らす。灰色の小さなスナミミと、冷たい収集物が見える。

先が粒に触れた。つるりと逃げる。もう一度。今度は粒の両側を、そっと挟んだ。固くはない。熟れた木の実を挟んだときのような、かすかな弾力がある。

引き出すあいだ、毛玉は粒がなくなった窪みに鼻を突っ込み、それから、まあいいか、という顔でスプーンの上に丸まり直した。

明るいところで見ると、粒の中では昨日と同じように何かがゆっくり傾いていた。ピンセットの先で冷たく光っている。

「壺」とニナが言うより早く、カリマが壺を差し出していた。粒が湿った砂に沈む。カリマはふたをして石をのせ、その上から自分の手のひらで押さえた。

「……いち、に」

数えかけて、カリマはやめた。

「もう数えなくていいのよね」

「はい」

ニナは砂の上に座り込んで、ピンセットの先を布で拭いた。手が少し震えていた。

「指ぬき、置いてきていいんですか」

「あの子のほうが似合うわよ」

その日は、昼近くまで出発できなかった。日盛りを避けて、夕方に距離を稼いだ。ニナは鞍の上で手帳を開き、少し迷ってから書いた。

〈二つ岩。朝、粒がなかった。スナミミの巣にあった。ピンセットで出した。塩の隊商の少年を疑った。違った。銅貨一枚。名前を訊きそびれた〉

それからページの下の余白に、別のことを書いた。

〈ひとりで北へ運んでいたら、わたしは気づいただろうか〉

答えは書かずに、ページを閉じた。夜になれば、ニナはふたを確かめる。けれど、確かめたあとに起きたことまでは確かめようがない。それに瓶の口が小指の先ほどしかないことも、もう分かっていた。

夜、焚き火の向こうからカリマが言った。

「アイン・セラで降らせてくれたら、私の一分はあなたにあげる」

「一分では、何も変わりません」

「変わるわよ。気持ちが」

ニナは笑った。笑ってから、自分が笑ったことに少し驚いた。

「天幕の屋根の、どこから水が落ちるんですか」

「四つの角。どこでも、あなたの好きな角」

四 北西の角

三日目の夕方、アイン・セラに着いた。

オアシスといっても、大きな町ではない。井戸が三つと、なつめやしの林と、日干し煉瓦の家が二十ほど。カリマの家は林の外れにあって、裏庭は北の井戸に向かって、ほんのわずかに下っていた。そこに天幕がひと張り、張りっぱなしになっている。売り物ではなく、自分用だ。

三歩四方ほどの低い天幕だった。庭に沿って、天幕全体も少しだけ北へ傾いている。屋根は黒っぽい山羊毛と麻の織物で、縫い目に沿って蝋が白く光っている。四隅の布は細く絞ってあって、そこから水が落ちるようになっていた。

「雨が降ったら、ここから落ちる。たぶんね」

「たぶん」

「降ったことがないんだから」

ニナは天幕のまわりを二周した。どの角がいいだろう。家の陰になる西側はやめて、空の開けた東の角に決めた。東の角の下に瓶を二本並べる。三本目は手元に残した。

カリマは天幕の中に毛布を敷いて、仰向けに寝転がり、屋根を見上げていた。

「ねえ、早く」

「温めるのは、わたしがやります」

「あなたの五枚だものね」

ニナは壺のふたを取って、粒を手のひらに転がした。冷たい。ひやりとしたあと、手のひらのまんなかで、粒が少しずつ重くなっていく気がした。

「いち、に、さん……」

「声に出すの?」と天幕の中から声がした。

「出さないと、わたしは数を飛ばします」

「じゃあ私も数える」

「カリマさんは速いので、黙っていてください」

五十を過ぎたころ、粒の中の傾きが速くなった。七十で、手のひらがしっとり濡れてきた。汗ではない。九十で、遠くのほうで何かが低く鳴った。空は晴れていて、夕焼けがなつめやしの葉の先を赤く染めていた。

「……百」

ニナは天幕の南の辺から一歩離れた、空の見える砂の上に、粒をそっと置いた。南の辺の真ん中から一歩の場所だった。

カリマが入口から顔を出して、砂時計を返した。ザイードの店にあったほど立派ではない、台所の砂時計だ。長さは市のものとほとんど同じだと、カリマは言っていた。

最初に来たのは、風だった。

西から、熱い風がひと吹き。ニナの髪が東へなびいた。砂の匂いに、焼けた石の匂いと、どこか遠くの知らない花の匂いが混じっていた。

それから、一粒。ニナの額に、大きなぬるい雨粒が落ちた。

次の瞬間には、もう降っていた。

ばらばらと、大粒の雨が天幕の屋根を叩く音がした。砂の上に丸い黒い跡がいくつもでき、すぐにつながって、あたり一面が濃い色に変わった。

「聞こえる!」

天幕の中でカリマが叫んだ。

「ニナ、聞こえる! こういう音なのね!」

ニナは東の角を見た。

水が、落ちていなかった。

初めは布が水を含んでいるのだと思った。ニナは選んだ角の下で、瓶を構えたまま待った。入口の砂時計が半分ほど落ちて、ようやく、ほかの角を見た。

雨は斜めに降っていた。西から東へ、風に押されて、細い線を引くように。雨は天幕の西側の屋根を叩いて西の斜面を流れ、西の二つの角から落ちていた。庭が北へ下っているぶん、北西の角のほうが太い紐になっている。東の角は屋根の陰になって、ぽつり、ぽつりと滴るだけだった。

〈西風〉。雨は自分の風を覚えてる。

ザイードの帳面の字が頭に浮かんだ。書いてあったのに。

ニナは走った。

瓶を二本ひっつかんで、天幕のまわりを回り込む。雨が顔に、首に、背中に当たった。ぬるい。カルナの雨とはまるで違う。カルナの雨は冷たくて細くて、窓の向こうで静かに降る。この雨は、肩を叩いてくる。

北西の角にたどりつくと、落ちてくる水の紐の下に一本目の瓶を差し出した。瓶はあっという間に重くなった。小指の先ほどの口から水があふれて、手首を伝った。

「何本目!」と天幕の中から声がした。

「一本目、いっぱいです!」

二本目を差し出す。足元の砂がぐしゃりと沈んで、ニナはよろけて膝をついた。それでも瓶は角の下から動かさなかった。

雲のない夕空の下、小さな黒い天幕を雨が叩く。ニナは屋根の角の水を小瓶で受け、入口のカリマは雨音を聞いて笑う。

天幕の中から、カリマの笑い声がした。それから「あ」という声。

「どうしました」

「漏れてる! 鼻に落ちた! 頭のところの縫い目!」

カリマは怒っていなかった。屋根を叩く雨音に負けない声で、笑いながら叫んでいた。

「ここだったのね! 二十二年、知らなかった!」

砂時計は天幕の入口に置いてあった。膝をついたまま見ると、砂はもう三分の一も残っていなかった。

二本目の瓶が、三分の二まで満ちた。

雨の粒が、少しずつまばらになっていく。屋根を叩く音が、ばらばらから、ぽつ、ぽつ、に変わった。北西の角から落ちる水の紐が細くなり、糸になり、しずくになった。

最後の一粒が、ニナのうなじに落ちた。

風がやんだ。

砂時計の砂は、ほとんど同時に落ちきっていた。

空には雲ひとつなかった。夕焼けはさっきより少しだけ紫がかっていて、濡れた天幕の屋根がその色を映していた。粒を置いた場所を中心に、砂が丸く、濃い色に濡れている。五歩の円だ。その外側は、さっきまでと同じ乾いた砂だった。

粒は、どこにもなかった。置いたあたりの砂に、指先ほどの小さな窪みが残っているだけだった。

カリマが天幕から這い出してきた。鼻の頭が濡れている。

「あなた、ずぶ濡れよ」

「知っています」

ニナは座り込んだまま、二本の瓶を見下ろした。一本は口まで、もう一本は三分の二。濁ってはいない。傾けると、焼けた石と知らない花の匂いが、かすかにした。

「カリマさんの一分は」

「聞いたわよ。屋根の音。最初から最後まで」

「それなら、六分ぜんぶカリマさんの分ですね」

「あなたは六分ぜんぶ、濡れてたけどね」

二人は顔を見合わせて、笑った。

ニナは、手元に残しておいた三本目の瓶を出した。五歩の円のなかでいちばん濃く濡れているところの砂を、ピンセットの柄で少しずつ瓶に入れていく。濡れた砂はすぐに乾くだろう。乾いても、ここで雨を受けた砂であることに変わりはない。

五 四十二

翌朝、ニナは北へ向かうラクダ隊に乗り換えることになっていた。

出発の前に、カリマの家の台所で札を書いた。手帳を破った紙が三枚。旅のあいだに折れないよう、厚紙に貼る。

カリマは天幕の屋根の裏に、指で蝋の塊を押し込んでいた。頭の上の、あの縫い目だ。

「書けた?」

「書けました」

ニナは一枚目を読み上げた。

「四十二。アイン・セラの雨。元は赤い谷の、春の夕立。西風。カリマの天幕、北西の角より。砂時計ひと返し。うち六分の一は、カリマの分」

「最後のは、いらないでしょう」

「いります。分けたので」

二枚目は〈四十二の二。同上。三分の二〉。三枚目は〈雨のあとの砂。五歩の円の内側〉。

カリマは蝋のついた手を止めて、三枚の札をのぞき込んだ。

「〈スナミミの巣を経由〉って書かないの」

「……それは手帳に書きました」

林の向こうで、ラクダ隊の鈴が鳴った。ニナは三本の瓶を布で包んで、鞍袋のいちばん内側にしまった。ピンセットはその外側に入れた。

「カルナは、雨がよく降るんでしょう」とカリマが言った。

「ひと晩じゅう降ります。冬は三日続けて」

「三日も。天幕が持つか、見てみたいわね」

「縫い目を直してから来てください」

カリマは笑って、蝋のついた指で鼻の頭を掻いた。

「次に七本柱の市へ行くときは、雨粒、私が五枚出す」

ニナは少し考えた。

「では、わたしが一枚」

「あなたの一分は、何に使うの」

「まず、買う前に風の向きを訊きます。北西とは限りませんから」

カリマが声をあげて笑った。ジャジャが迷惑そうに耳を振った。

ラクダの背に揺られながら、ニナは一度だけ振り返った。なつめやしの林の外れで、カリマが天幕の屋根に手を当てていた。もう乾いているはずの屋根を、確かめるみたいに。

鞍袋の中で、瓶が小さく触れ合って鳴った。カルナまでは二十日。帰ったら、四十一本の隣にこの三本を並べる。窓の外で冷たい雨が降る晩には、たぶん一度は栓を抜いて、焼けた石の匂いがまだするか確かめるだろう。

確かめなくても、札は残る。

ニナは手帳を開いた。おとといの余白に書いた問いの下に、短く書き足す。

〈気づかなかったと思う。それに、瓶の口は小さすぎた〉

それから、ページを閉じた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また、読みたくなったときに。次の物語を探す