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家族・コメディ

父のラジオには、出ません

出ないと決めた娘が、父のラジオでいちばん忙しい三十分。

読了目安
20分
長さ
短編
#くすっと笑える#家族#お仕事
父のラジオには、出ませんのイメージ

あらすじ

父が地域ラジオで「来週は娘が来ます、たぶん」と言ってしまった。出演を断った葵は、忘れ物を届けるだけのはずが、使えなくなった音当てクイズの録音を知る。声は入れない、名前も出さない。その約束で、ガラスの外から手伝うことにした。

読みやすく、好きなところから。

目次・4章

一 たぶん、と言った

実家の居間のテーブルに、はがきが六枚並んでいた。
 宛名はどれも「村瀬葵さま」だった。二枚には、「さま」の上に小さく「(娘さん)」と書き添えてある。
「これ、なに」
 わたしが聞くと、母はみかんの皮を一本につなげたままむきながら答えた。
「ラジオ局から転送されてきたの。あんた宛て」
「わたし、ラジオ局に住所なんか出したことないけど」
「お父さんがね、先週の放送で言ったのよ。『来週は娘が来ます、たぶん』って」
 みかんの皮が、きれいな螺旋のまま皿に落ちた。

父は台所で湯呑みを洗っていた。洗いながら、小さな声で何か言っている。耳を澄ますと、
「さあ、水曜の夜、八時をまわりました。村瀬家の台所からお送りしております。本日の湯呑みは三つ……」
 実況だった。父は家でもときどきこうなる。
「お父さん」
「おっと、ここでゲストの登場です」
「ゲストじゃない。はがき、なに」
 父は蛇口を止めた。タオルで手を拭きながら、少しも悪びれずに振り向く。白髪の混じった短い髪に、老眼鏡。家ではただのお父さんの顔だ。
「たぶん、って言ったよ。たぶんは、来ないこともあるって意味だ」
「じゃあ、来ないほう」
「うん」
「うん、じゃなくて」わたしははがきを一枚取り上げた。「来週の放送で、来ませんって言ってよ。それと、名前出した?」
「名前は出してない。娘、とだけ」
「宛名に名前あるけど」
「それは商店街の人が知ってるからよ」と母が言った。「こすなの人は、みんな葵ちゃんを知ってるもの。あんた、福引きの係を三年もやったでしょ」
 それは中学のときの話だ。

はがきの字は、ていねいなのもあれば、急いで書いたのもあった。
『葵さんへ。お父さんの「となりの音」、毎週当てられません。娘さんなら当てられますか』
『娘さんの好きな食べ物を教えてください。たっちゃんが言うと話が長くなるので』
『来るなら、運動会の話を聞きたいです』
 三枚目で、わたしははがきを伏せた。
「ほら、これ。運動会」
「僕は何も言ってないよ」
「言うでしょ。番組で『娘さん』って呼ばれたら、絶対に子どものころの話になる。わたし、それがいやなの。あと、自分の声。録音で聞くと、知らない人がわたしのふりしてしゃべってるみたいで、ほんとにだめ」
 父は、ふうん、と言った。怒っている顔ではなかった。新しいはがきの字を読むときのように、少し首をかしげている。
「わかった。出ない」
「ほんとに?」
「了解しました」
 急にラジオの声になった。低くて、角がなくて、居間の空気がすこし広くなったように聞こえる声だ。
 母がみかんを一房、口に入れた。
「この人、『了解しました』って言ったときがいちばん怪しいのよ」
「怪しくない。了解は了解だ」
「三十五年聞いてるから知ってるの」
 わたしははがきを六枚そろえて輪ゴムをかけ、母に返した。
「とっといて。返事は書かない」
「捨てないの?」
「人がくれたものだから」
 父がうれしそうな顔をしかけたので、わたしは先に言った。
「それ、放送で言わないでね」
「……了解しました」
 母が、ほらね、という顔をした。

二 手提げと、桶の音

土曜の午後二時四十分、洗濯物を干し終えたところで母から電話が来た。
「お父さん、手提げ忘れてった。紺のやつ」
「中身は」
「台本と、局から借りてるレコーダーと、のど飴。それにはがき六枚。わたし三時半から公民館で卓球の試合なのよ。ペアの人に迷惑かけられないから」
「届けろってこと」
「届けるだけでいいわよ。出ろなんて言わない。あんたが出ないって言ったら出ないの、うちは」
 そう言われると断りにくい。わたしは乾いたばかりの生成りのニットを着て、スニーカーをはいた。

三時五分に実家で手提げを受け取った。母はもうラケットケースを肩にかけていた。
「四時から放送でしょ。わたし聞けないから、あんた、どんなだったか教えて」
「届けたら帰るよ」
「そう?」
 母はそれ以上何も言わずに自転車で出ていった。

こすな商店街のまんなかに、元は布団屋だった店がある。そこが「こすなエフエム」だ。通りに面した窓がそのままガラス張りのブースになっていて、外から中が見える。扉の上には「ON AIR」と書かれた赤いランプ。今は消えている。
 三時二十五分に着いた。ガラスの向こうで、父がヘッドホンを首にかけ、口を大きく開けたり閉じたりしている。発声練習らしい。音は聞こえないので、金魚みたいに見えた。
 裏口から入ると、狭い調整室に黒いトレーナーの女性がいた。髪が短く、片耳だけヘッドホンを当てている。
「あ。娘さん」
 わたしを見るなりそう言って、すぐに言い直した。
「出ないほうの、娘さん」
「……話が回るのが速いですね」
「狭い町なので。ディレクターの柿沼です。卓もやってます。というか、ほかに誰もいないので全部やってます」
 柿沼さんは手提げを受け取ると、中からレコーダーを出した。台本とはがき六枚は、父に渡してくれた。
「助かりました。これがないと『となりの音』ができないので」

調整室の隅のパイプ椅子に、若い男の人が座っていた。白いシャツの胸ポケットに、四つ折りのメモが入っている。膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。
「今日のゲストの江波さん。三軒先の豆腐屋さん」
「江波拓真です」と立ち上がって、頭を下げすぎて椅子に脚をぶつけた。「ラジオ、初めてで」
「わたしも初めて来ました」
「出るんですか」
「出ません」
 拓真さんは、うらやましそうな顔をした。

三時三十二分、柿沼さんがレコーダーをノートパソコンにつないだ。
「村瀬さん、木曜に録れたって言ってたんですけど、わたしまだ聞いてなくて。……ほんとは木曜に聞いとくべきでした」
 再生ボタンが押された。
 カポーン、と桶の音が鳴った。銭湯の、あの高い天井に響く音だ。いい音だった。
 そのすぐ上に、声がかぶさった。
『……いい音だねえ』
 カコン。
『これはね、当たらないよ。絶対当たらない』
 ざばあ、とお湯の音。
『ふふ。来週が楽しみだ』
 柿沼さんが一時停止を押した。調整室が静かになる。
「村瀬さん」
 トークバックのボタンを押して、ブースに呼びかけた。ガラスの向こうで父が顔を上げる。
「これ、ささやきのほうが大きいです」
 ヘッドホンをつけ直した父の声が、調整室のスピーカーから返ってきた。
『ささやいたのに』
 わたしは思わず笑ってしまった。拓真さんも肩を震わせている。柿沼さんだけは笑っていなかった。
「コーナーは十六時十三分からです。四分。どうするかな」
『じゃあ、僕が口で桶の音をまねる』
「絶対だめです」

柿沼さんが進行表を確かめているあいだに、わたしはテーブルの台本に目をやった。父の字で、時刻と段取りが書いてある。
 十六時二分の欄に、こうあった。
『おわび(娘は出ません。僕が勝手に言った)』
 「出ません」が、ボールペンで二重に丸く囲んである。その下には、消しゴムで消したあとが薄く残っていた。何度か書き直したらしい。
 了解しました、の続きはここに書いてあったのか、と思った。
「柿沼さん」と、わたしは言った。「その四分、録り直したら間に合いますか」
「誰が録るんですか」
「わたしが。近くで。二十分あれば」
 柿沼さんはわたしの顔を見た。値段を確かめるような目だった。
「できますか」
「配車係なので。二十分の仕事を二十分で終わらせるのは得意です」
 柿沼さんが短く笑った。初めて笑ったのを見た。
「何を録ります?」
 わたしはガラス越しに通りを見た。三軒先に、白い暖簾。「江波豆腐店」。
「江波さん」
「はい」拓真さんの背筋が伸びた。
「お店の音、録らせてもらってもいいですか。お母さんに聞いてもらえますか」
 拓真さんは目を丸くして、すぐにスマホを出した。

電話のあいだに、わたしは柿沼さんに条件を言った。
「わたしの声は入れません。名前も出さない。わたしが録って、わたしが切る。それだけです」
「了解。クレジットは?」
「なしで」
 言ってから、少し考えた。父はたぶん、何か言いたくなる。言わないでと言えば我慢するだろうけれど、我慢している父が放送で変な間をあけるほうが、聞いていて落ち着かない。
 わたしは柿沼さんのスケッチブックを借りて、太いペンで書いた。
『呼ぶなら「出ない人」。それ以外はNG』
「これ、ブースに見せといてください」
 柿沼さんがガラスに向けて掲げた。父はそれを読み、ゆっくり親指を立てた。
 拓真さんが電話を切った。
「いいそうです。母、いま夕方のぶんを切ってるところだって。……『早く来な』って言ってました」
 三時四十分。わたしはレコーダーを持って裏口を出た。

三 出ない人の三十秒

豆腐屋の中はひんやりしていて、大豆を炊いたあとの甘いにおいがした。
 しず子さんは、拓真さんと同じまるい目をしていた。白い前掛けに、袖をまくった腕。大きな水槽の前に立っている。
「ラジオに、うちの豆腐が出るの」
「音だけです。お母さんの声は入れません」
「あら、残念」
 そう言って笑い、水の中に手を入れた。
 水に沈めた板の上に、大きな豆腐がのっている。しず子さんは包丁をすうっと水に入れた。しゅっ、と小さな音。刃が板に当たって、こと。
「これを八丁ぶん切るの。いい?」
「お願いします」
 わたしはレコーダーを、水槽のすぐ脇の乾いた台に置いた。

豆腐店で店主が水槽の板の上の豆腐を切り、葵が静かに見守る。小さなレコーダーは水槽から離れた乾いた台に置かれている。

テイク一は、四丁目のところで店の前を自転車が通り、ベルがちりんと鳴った。
 テイク二は、しず子さんが水をはねさせて「あら、ちょっと大きかった」と言った。
「ごめんなさいね、声入れないんだったわね」
「大丈夫です。もう一回だけ」
 しず子さんは切ったぶんを脇へ移し、次の大きな豆腐を板にのせた。店の夕方の仕込みは、まだ続いていた。

テイク三。わたしは息を止めた。
 しゅっ、こと。しゅっ、こと。しゅっ、こと。
 三つ目と四つ目のあいだで、しず子さんの手がほんの少し止まった。水面を見ている。揺れがおさまるのを待ってから、四つ目。しゅっ、こと。
 残りの四つを切り終えると、最後にひしゃくで水をすくって、水槽に戻した。とぷん。
 停止ボタンを押した。三時五十二分。
「いまの、途中で止まりましたよね」
「止まった? ああ、四丁目ね。わたし、あそこで必ず一回、水を見るのよ。濁ってないか。癖ね」
 しず子さんは手を拭きながら、通りの先のガラス張りをちらっと見た。
「拓真、ちゃんとしゃべれてた?」
「固まってました」
「でしょうね」しず子さんはため息をついた。「あの子、ふだんはよくしゃべるのよ。豆の話になると、止まらないくらい」
「録音、今日の放送と、来週局のサイトに載る分に使っていいですか」
「どうぞ。いい音だったら、来週お豆腐買いに来て」

三時五十五分に局へ戻った。父はもうブースの中で、マイクの位置を指一本ぶんずつ直している。
「切るの、お願いできます?」と柿沼さんが言った。「わたし、四時から卓を離れられないので」
 調整室の隅のノートパソコンを指さす。
「三十秒。頭とお尻を〇・五秒ずつフェード。書き出したら『tonari_sat』って名前で、このフォルダに。送出のパソコンから見えます」
「わかりました」
「音、ヘッドホンで聞いてください。モニターのスピーカーは放送が出てるので」
 わたしはヘッドホンをつけた。片耳だけ外しておく。放送の音も少し聞いていたかった。

十六時ちょうど、扉の上のランプが赤くなった。
 ジングルが鳴る。商店街の福引きの鐘をサンプリングしたという、からんからんと鳴る短い音楽。それが終わる二十秒のところで、柿沼さんが父のフェーダーを上げた。
「土曜四時のこすな商店街。村瀬達夫です」
 調整室のスピーカーから流れてきたのは、家の台所で湯呑みの数を数えていた人の声だった。でも、同じ声には聞こえなかった。急がず、言葉の端まで丁寧に置いていく。夕方の通りに、ちょうどいい明るさの電気をつけるような声だった。
 わたしは編集ソフトの波形を拡大しながら、片耳で聞いていた。
「まず、ひとつおわびです」
 十六時二分。わたしの手が止まった。
「先週、来週は娘が来ます、と言いました。たぶん、と付けましたが、たぶんを付ければ何を言ってもいいわけではありません。本人に聞かずに言いました。娘は、出ません。お便りをくださったみなさん、ありがとうございます。それから、すみませんでした」
 一秒、間があった。
父が何か言い足しかけて、口を閉じた。こちらをちらりと見て、台本に目を戻す。
 わたしも、波形に目を戻した。了解は了解だ。今度は少し、信じてもいい気がした。

十六時四分、拓真さんがブースに入った。
「今日のゲストは、江波豆腐店の江波拓真さんです」
「え、えっと。江波豆腐店の……」
 そこで止まった。
 一秒。二秒。三秒。
 放送で三秒の無音は、ほんとうに長い。調整室の空気まで止まった気がした。柿沼さんの指がフェーダーの上で固まっている。
「拓真くん」
 父の声は、さっきと何も変わらなかった。
「今朝は、何時に起きた?」
「……三時、四十分です」
「三時四十分。そのとき、外は」
「まっくらです。でも、豆はもう、昨日の夜から水に浸けてあって」
「何時間くらい?」
「この季節だと、十五時間くらい……夏はもっと短くて」
 そこから声が出はじめた。父は、拓真さんが数と手順で答えられることしか聞かなかった。何時に、何回、どのくらい。ガラス越しに、父の左手が見えた。手のひらを下に向けて、ゆっくり、二度、机の上を押さえるように動かしている。
 ゆっくりでいい、という合図だ。拓真さんには見えていたのかどうかわからない。でも、拓真さんの話す速さは、その手の動きに合っていった。
 この人、こういうことができるんだ、とわたしは思った。家で湯呑みを実況している人と同じ人なのに。

十六時九分、三十秒が切れた。テイク三の、しゅっ、という一つ目の音の〇・五秒前から、最後のとぷんのあとまで。ちょうど三十秒。書き出して、名前をつけて、フォルダに置いた。
「入れました」
 十六時十分。柿沼さんは送出用のパソコンでファイルを開き、三番のスロットに入れた。わたしの顔を見ずに親指だけ立てた。

十六時十三分。
「さて、となりの音のコーナーです」と父が言った。「今週の音は、僕が録ったものではありません。僕が録ったものは、僕のささやきがうるさくて使えませんでした」
 ブースで拓真さんが笑い、その笑い声がマイクに入った。
「今日の音は、出ない人が録ってくれました。拓真くん、一緒に聞いてください」
 十六時十四分。柿沼さんが三番を押した。
 しゅっ、こと。しゅっ、こと。しゅっ、こと。
 少しの間。
 しゅっ、こと。
 ガラスの向こうで、拓真さんの目がまるくなるのが見えた。
 とぷん、で音が終わった。
「さあ、なんの音でしょう」と父が言った。「僕もいま初めて聞きました。わかる人、いますか」
「……うちの、母です」
 拓真さんの声が、少しかすれていた。
「どうしてわかる」
「三つ目と四つ目のあいだが、ちょっと長いんです。母は、四丁目のところで必ず一回、水を見るので。濁ってないか。父がやってたころはなかった間なんです。母が店を継いでから、ずっとそうで」
 そこから拓真さんは止まらなかった。水を替える回数のこと、冬になると手が赤くなること、母の包丁は自分の包丁より二センチ短いこと。父は、ほとんど相づちしか打たなかった。
 途中で一度だけ、父が息を吸った。
「とうふだけに、とう……」
 柿沼さんがわたしを見た。わたしはスケッチブックをつかんで、ガラスに押しつけた。
『ダジャレ禁止』
 父はそれを読むと、何事もなかったように続けた。
「……とうとう、うちの番組にも水の音が来ましたね」
 ごまかしきれていなかったが、拓真さんは笑ってくれた。

四 出ない人の帰り道

十六時二十分、曲に入った。こすな高校吹奏楽部が録音した『こすな音頭』。ランプはついたままだが、柿沼さんが父と拓真さんのマイクを下げる。父がカフボタンも押したのが見えた。
 調整室のスピーカーから、トークバック越しの父の声がした。放送には乗らない声だ。
『葵。はがき、一枚読んでいいか。返事はしなくていい』
 柿沼さんがわたしにトークバックのボタンを譲ってくれた。わたしはボタンを押さずに考えた。それから、輪ゴムでとめた六枚のはがきを思い浮かべた。水曜の夜に、全部読んだ。
わたしはトークバックのボタンを押した。
「どれ」
『どれならいい』
「六枚目。二丁目の湯気さんの」
 ガラスの向こうで、父の眉が上がった。
『なんでその人が常連だって知ってる』
「……いいから。それだけね」
 ボタンを放すと、調整室にはまた吹奏楽の音だけが残った。

十六時二十四分。父がカフを戻したのを確かめて、柿沼さんがマイクのフェーダーを上げた。
「お便りを一枚。ペンネーム、二丁目の湯気さん。いつもありがとうございます」
 読み間違えないように練習した人の読み方だった。湯気、の「げ」まで丁寧だった。
「『娘さんが来ても来なくても、たっちゃんは毎週出てくださいね。たっちゃんの声を聞くと、土曜日だなと思います』」
 父は、はがきを机に置いた。
「出ます。毎週出ます。出る人と出ない人で、ちょうどいいんだと思います」
 わたしはスケッチブックで顔をあおいだ。調整室が少し暑かった。

十六時二十六分、調整室の電話が鳴った。柿沼さんが受話器を肩にはさむ。次の番組の人からで、どうやら電車が遅れているらしい。柿沼さんはメモを取りながら、片手でスケッチブックとペンをわたしに押しつけた。
「時間、出して。あの人いつも押すから」
 口の動きだけで、そう言った。
 わたしはガラスの前に立った。父と目が合った。
『あと3分』
 父がうなずく。拓真さんに最後の宣伝を振っている。「お店は朝何時から?」「七時からです」「油揚げは?」「午後にはだいたいなくなります」。
『あと1分』
 父はまとめに入った。うまい。と思ったら、
「そういえば昔、運動会で——」
 わたしはページをめくって書きなぐり、ガラスに叩きつけるように見せた。
『運動会×』
 父の口が一瞬止まった。
「——運動会の話は、しません。しない約束なので」
 ブースで拓真さんが吹き出した。
『30秒』
「今日のゲストは江波豆腐店の江波拓真さんでした。となりの音を録ったのは、出ない人。音は江波豆腐店の包丁でした」
『しめ』
 わたしは「しめ」の下に、線を三本引いた。
「土曜四時のこすな商店街。また来週、土曜の四時に。村瀬達夫でした」
 十六時二十九分四十秒。柿沼さんが受話器を置いてジングルを出した。からんからん。十六時三十分ちょうど、送出が次の番組の頭に切り替わった。
 柿沼さんが時計を見て、ゆっくり息を吐いた。
「ぴったり。半年ぶり」

調整室側の葵が札を父へ向け、ガラスの向こうの父が目を向ける。手前では短髪の柿沼が受話器を肩にはさみ、メモを取る。

ランプが消えた。
 父がブースから出てきた。ヘッドホンのあとが髪に残っている。拓真さんは何度も頭を下げて、母に電話すると言って裏口から飛び出していった。
「どうだった」
 父が聞いた。ラジオの声ではなかった。
「声、家と違うね」
「どっちが好き」
「家のほうが、うるさい」
「答えになってないぞ」
 わたしは少し迷ってから、言った。
「毎週聞いてる」
 父が、目をぱちぱちさせた。
「掃除しながら。四時から。だから二丁目の湯気さんも知ってるし、となりの音が先月三回続けて当たりなしだったのも知ってる」
「……いつから」
「お父さんが始めたときから」
 父は眼鏡を外して、シャツの袖で拭いた。拭く必要なんかなさそうな眼鏡だった。かけ直すと、すっかりいつもの顔になっていた。
「それ、来週言っていい?」
「だめ」
「だよね」
 柿沼さんが、調整室のドアにもたれて聞いていた。
「村瀬さんの娘さん」
「葵です」
「葵さん。土曜、たまに時間係やりません? マイクのない側で。この人、カンペ出してもわたしの言うことはあんまり聞かないんですよ」
 父が「聞いてるよ」と言い、柿沼さんが「聞いてません」と言った。
 わたしは、さっきのスケッチブックを見下ろした。『しめ』の下の三本線。書いているとき、楽しかった。三分を三分で、三十秒を三十秒で終わらせて、それがちゃんと夕方の空気に乗っていくのが。
「月に一回なら」とわたしは言った。「名前は出さない。声も入れない。それと、お父さんがダジャレを言いかけたら、カンペで止めていい」
「最後のは毎週お願いしたいです」
「僕の権利は」と父が言った。
「出る権利はあるよ。毎週出るんでしょ」
 父は、それ以上何も言わなかった。

四時五十分。三軒先の豆腐屋で、しず子さんが待っていた。
「聞いたわよ。ラジオで。拓真から電話で」
「来週お豆腐買いに来て、って言われたので」とわたしは言った。「でも、今日来ました」
 木綿を二丁と、油揚げを一袋。最後の一袋だった。
「五百二十円ね」
 わたしが財布を出す前に、父が小銭入れを開けた。百円玉が五枚と十円玉が二枚。数えて、トレーに並べる。
「ここは僕が。出演料だ」
「出てないけど」
「じゃあ、出ない料」
 しず子さんが笑って、レジを打った。

家に帰ると、母はもう戻っていた。台所の椅子で湿布を貼っている。
「二回戦負け。で、どうだったの」
「普通」とわたしは言った。
「普通じゃなかったでしょ」と母が言う。「ペアの人がね、試合の合間にスマホで聞いてたのよ。『出ない人』って何回言った?」
「三回」
「三回」と父も言った。
 ふたりとも数えていたのだ。

六時半、湯豆腐が煮えた。土鍋の中で、木綿が四角く揺れている。
 父が鍋のふたを取り、湯気の中に顔を突っ込むようにして言った。
「さあ、土曜の夜、六時半をまわりました。村瀬家の食卓からお送りしております。本日の湯豆腐は、江波豆腐店の木綿が二丁、それに油揚げが——」
 わたしは黙って、右手を父の前に出した。指を三本。それから一本。それから、手のひらを下に向けて、ゆっくり二度、テーブルを押さえる。
 父は口を閉じた。
 母が、箸を持ったまま肩を揺らして笑った。
「なにそれ」
「時間係」
「家でもやるの」
「家は無料」
 父は笑いをこらえる顔で、わたしの取り皿に豆腐を一つ入れた。四角く、少しも崩れていなかった。
 父のラジオには、出ない。
 でも、父の三十秒を数えるのは、わりと好きだ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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