一 最後のひとつ
土曜日の午後一時四十五分、私はラケットケースを肩にかけて、商店街の角を早足で曲がった。
洋菓子ポワンのショーケースが横目に入る。いちばん上の段に、茶色い小山がいくつも並んでいた。細く絞った栗のクリームがぐるぐると巻かれ、てっぺんに渋皮つきの栗がひとつずつ載っている。
今年も出たんだ、と思ったのは一瞬だった。信号が点滅しはじめたので、私は走った。みどり台地区センターの体育室は二時から四時まで。遅れて入ると、岩城さんに「真柴さんは今日、不戦敗か」と言われる。言われるのはまだいい。言い返せないのが嫌なのだ。
私たちの会は「みどり台土曜卓球会」という。月に一度、第四土曜日に五人で集まり、四十分ほど打ち合ってから、一ゲームずつの総当たりをする。賞品も賞状もない。あるのは、終わったあとに談話室で食べるケーキだけだ。
体育室に入ると、台はもう二台出ていた。
「真柴さん、ネット張るの手伝って」
世話役の梅津さよりさんが、支柱を抱えて手招きした。四十五歳。駅前の花屋で週に四日働いていて、ケーキの買い出しはいつもこの人の係だ。
奥の台では、根本千鶴さんがひとりでサーブ練習をしていた。高校時代は卓球部でインターハイの予選まで行ったという五十二歳で、ふだんは会計事務所に勤めている。ヘアバンドで前髪を上げ、黙々と球を出している姿は、休日の大人というより朝練の部員だった。
入口のほうで「すいません、遅くなりました」と声がした。戸川遼くんだ。二十七歳、入会して二か月。新品のラケットに、値札の跡が残っていそうな黄緑のシャツ。小脇に小さなノートを抱えている。
最後に、白いポロシャツの岩城寛治さんがゆっくり入ってきた。六十八歳。四十年近く線路の保守の仕事をしていたという人で、背中がまっすぐで、眼鏡の奥の目がいつも少し笑っている。笑っているように見えるだけで、台の前に立つと容赦がない。
入会して二年。私はこの人に、月例の総当たりで十九回挑み、十九回負けている。
練習のあいだ、私は岩城さんと台をはさんで打った。岩城さんの球は低く、重く、こちらの打ち気を吸い取るように沈んでくる。下回転のカットで粘られると、私はいつも先に焦れて、強打をネットにかける。
「今日も元気だな、真柴さん。元気がネットに引っかかってる」
「引っかかってません。今のは様子見です」
「様子見でラケットを振り切る人は、初めて見た」
二時四十分、梅津さんが手を叩いた。
「はい、総当たりの前に、今日のケーキを発表します。みんな談話室へ」
談話室は体育室の隣にある八畳ほどの部屋で、長机と、利用者が使っていい小さな冷蔵庫がある。梅津さんは冷蔵庫から白い箱を出し、両手で長机の真ん中に置いた。箱の側面には、ポワンの金色のシールが貼ってある。
蓋が開いた。五人の頭が箱の上に集まった。
「苺のショートケーキ。ベイクドチーズケーキ。ガトーショコラ。洋梨のタルト」
梅津さんの指が、左から順に動いていく。そして右端で止まった。
「それから、和栗のモンブラン。秋限定よ。一時二十分に行ったら、最後のひとつだったの」
誰も、すぐには何も言わなかった。
茶色いクリームが、細い糸を巻いたように盛り上がっている。てっぺんの栗は渋皮がつやつやしていて、横に金箔がほんの少し。ポワンの和栗のモンブランは秋にしか出ない。去年、私は三回買いに行って、二回売り切れだった。
最後のひとつ。
その言葉に、何かが小さく引っかかった。一時四十五分に通りかかったとき、ショーケースの上の段には、茶色いものが何個も並んでいなかったか。

でも、走りながら横目で見ただけだ。茶色いケーキならほかにもある。栗のタルトかもしれないし、マロンパイかもしれない。梅津さんが帰ったあとに、お店が奥から追加を出しただけかもしれない。
それに今は、それどころではなかった。
「俺は別に、甘いものなら何でもいい」
岩城さんが言った。目はモンブランから一ミリも動いていない。
「わたしも何でもいいのよ。みんなが好きなのを選んで」
梅津さんが言った。目は洋梨のタルトに落ちている。
「わたしはショコラ。それ以外は要らない」
根本さんだけが正直だった。
「モンブラン、おいしそうですね」
戸川くんが無邪気に言った。四人が同時に戸川くんを見た。
この「負けた人からケーキを選ぶ」という決まりは、先月できたばかりだ。
先月の総当たりで、戸川くんは四戦全敗だった。談話室でケーキを待ちながら、彼は笑ってノートを閉じ、「僕、向いてないかもしれません」と言った。冗談の顔をしていたけれど、ノートの角を何度も指でこすっていた。
梅津さんはその場で、クリップボードの裏に書いた。
――負けた数の多い人から、ケーキを選ぶ。
「今日からこれでいきましょう。負けた人にはおやつの楽しみを。勝った人には勝った喜びを。ね、平和でしょう」
先月の箱は、ショートが二つにチーズとショコラとシュークリームだった。戸川くんは真っ先にチーズケーキを取って、うれしそうに食べた。私たちは拍手した。平和だった。
平和だったのは、箱の中に取り合うものがなかったからだ。
体育室に戻りながら、私は頭の中で計算した。負けた数の多い人から選べる。つまり、モンブランがほしい人は負ければいい。
振り返ると、岩城さんがラケットのラバーを妙に念入りに拭いていた。梅津さんは肩を回しながら、「最近、肩が上がらなくて」と誰にともなく言った。今朝、花屋で鉢を六つ運んだ話を、練習中に元気にしていたはずだ。
まずい。全員、負けにくる。
「梅津さん、決まりをひとつ足させてください」
私は手を挙げた。
「わざと負けるのを禁止にしましょう。見ている三人のうち二人以上が『手抜き』と言ったら、その試合は手を抜いた人の勝ちにする」
「勝ちにするの? 負けにするんじゃなくて?」
「負けたい人に負けをあげたら、ご褒美です」
「なるほど」
梅津さんは感心したように頷いて、クリップボードに書き足した。根本さんが「賛成」と短く言った。岩城さんはラバーを拭く手を止めて、私を見た。
「真柴さん。それは自分の首を絞める決まりだぞ」
「私は最初から本気です」
本気で、上手に負けるつもりだった。
戸川くんがノートから顔を上げた。
「手抜きって、わざと負けるってことですか? そんなことする人、いるんですか?」
誰も返事をしなかった。体育室の高い窓から秋の午後の光が斜めに入って、床の白線を照らしていた。
梅津さんがクリップボードを、台の横のパイプ椅子に立てかけた。今日の決まりはこうなった。
一、総当たり。一ゲーム十一点先取。十対十になったら、二点差がつくまで。
二、負けた数の多い人から、ケーキを選ぶ。負けた数が同じなら、取られた点の多い人から。
三(真柴案)、見ている三人のうち二人以上が「手抜き」と言ったら、その試合は手を抜いた人の勝ちとする。
総当たりは十試合。台は一台だけ使い、残りの三人が見る。見ている三人が審判で、そのうちひとりが得点係をする。
二 負けるのは、むずかしい
第一試合は、梅津さん対戸川くん。
梅津さんは、構えた瞬間から負ける顔をしていた。
最初のサーブは、ふわりと高く上がった。戸川くんの胸の高さに、ちょうど打ちごろの球。戸川くんは目を輝かせて思いきり振りかぶり――球は天井の照明のすぐ下まで飛んで、体育室の奥の肋木に当たった。
「一対〇、梅津さん」
得点係の根本さんが、乾いた声で言った。
梅津さんの顔が、一瞬だけ曇った。
次も、その次も、梅津さんは打ちごろの球を送った。戸川くんはそれを、ネットに、台の外に、自分の足元に打った。四対〇になったところで、梅津さんはサーブをネットにかけた。
「あら、やだ」
声が少し大きかった。
「手抜き」
岩城さんがすかさず言った。
私は迷った。今のはわざとだと思う。思うけれど、梅津さんのサーブはふだんからときどきネットにかかる。根本さんは首を振った。
「今のは、本当に下手だった」
「根本さん、ひどい」
梅津さんは抗議したが、うれしそうでもあった。一票。手抜きは成立しない。
戸川くんは途中から、見違えるように球を入れはじめた。梅津さんが返しやすい球ばかり送ってくるのだから、当たり前といえば当たり前だ。九対九まで追いついたとき、彼の頬は赤くなっていた。
そこから、戸川くんのサーブが二本続けて長く出て、台の向こうへ消えた。
「十一対九、梅津さん」
梅津さんは、ラケットを持ったまましばらく立っていた。勝った人の顔ではなかった。
「梅津さん、強いですね」
戸川くんが頭を下げた。
「……そうでもないのよ」
梅津さんは、心からそう言っているようだった。
第二試合は、私と根本さん。
作戦はこうだ。最初は普通に打つ。根本さんは強いから、普通に打てば私はたぶん負ける。自然に負けて、誰にも何も言わせない。
問題は、根本さんの球が良すぎたことだった。
回転のよくわかる、きれいな球だった。速いけれど、返せる。返せるけれど、ぎりぎり。そういう球が来ると、体のほうが先に動く。フォアで打ち返し、バックでしのぎ、気がつくと八対八になっていた。
私は息を吸った。モンブラン。渋皮の栗。ここで三本続けて取ったら、私は勝ってしまう。
根本さんの次の球はバックに来た。私はほんの少しだけ、ラケットの面を上に向けた。球はふわりと浮いて、台の端からこぼれた。
「手抜き!」
岩城さんの声が、体育室に響いた。
「今のは、惜しかったように見えたけど」
梅津さんが首をかしげる。
「えっ、わかりません。どれですか?」
戸川くんは本気で慌てていた。一票。私は残りの二本も同じくらいの角度で浮かせて、八対十一で負けた。
ネット越しに、根本さんが私を見た。
「最後の三本、腕が死んでた」
「疲れてたんです」
「練習のとき、四十分ずっと全力で打ってたじゃない。あなたが疲れるの、見たことない」
根本さんは低い声で言って、ラケットを台に置いた。怒っているというより、がっかりしていた。インターハイの予選まで行った人に、腕の死んだ球を三本も打ってしまった。
私は負けたのに、なぜか負けたことが少し悔しかった。
第三試合は、岩城さん対戸川くん。
岩城さんは台の前に立つと、眼鏡を外してシャツの裾で拭いた。
「今日はどうも、照明がまぶしい」
「二年間、同じ照明ですよ」
私が言うと、岩城さんは聞こえないふりをした。
「それに、このボールは新しすぎるな。弾みが読めん」
「さっきの練習と同じボールです」
「真柴さん、審判は黙って見てるもんだ」
岩城さんは、ふわふわした球を送った。カットでも何でもない、ただの山なりの球だ。戸川くんは今度こそ落ち着いて打ち返した。返った球は台の角をかすって、低く跳ねた。
次の瞬間、岩城さんの体が沈んだ。
六十八歳とは思えない速さで右足が出て、ラケットが床すれすれから球をすくい上げた。球は戸川くんのコートの真ん中に、ぽとりと落ちた。戸川くんは一歩も動けなかった。
体育室が静かになった。
岩城さんは、自分のラケットを見下ろしていた。
「……今のは、手首が勝手に」
「手首は勝手に動きません」
根本さんが言った。少し笑っていた。
それからも岩城さんは負けようとした。山なりの球を送り、戸川くんがいい球を返してくるたびに、手首が勝手に動いた。十一対八。岩城さんは勝った。
試合が終わると、岩城さんは天井を見上げた。
「勝ってしまった」
勝った人がこんなに悲しそうな顔をするのを、私は初めて見た。戸川くんは「勉強になりました」と言って、ノートに何か書いていた。
第四試合の梅津さん対根本さんは、あっという間だった。梅津さんが負けようとする前に、根本さんの球が全部決まってしまったのだ。十一対五。手抜きのしようもなかったと、梅津さんはむしろ満足そうだった。
第五試合は、私と戸川くん。
今度こそ、と私は思った。今度こそ負ける。根本さんのような良い球は来ない。戸川くんには勝ってほしい。それに私は負けたい。理由がふたつ重なれば、腕も言うことを聞くだろう。
私は打ちやすい高さに、打ちやすい速さで返した。戸川くんはそれをネットに打った。
もう一度、もう少し打ちやすく返した。台の外に打った。
戸川くんのフォアに、そっと置くように返した。戸川くんは振り遅れて、ラケットの縁に当てた。球は真上に上がって、彼の頭に落ちた。
「三対〇、真柴さん」
得点係の梅津さんが、申しわけなさそうに言った。
四本目は戸川くんのサーブだった。彼はトスをまっすぐ上げ、手首を小さく切るように動かした。短い球がネットのすぐ向こうで沈むように落ちて、二度弾んだ。私は台に手をつきそうになりながら手を伸ばしたが、届かなかった。
「……今の、入りましたか」
「入った。今のは取れなかった」
私が言うと、戸川くんはその場で小さく跳ねた。
「家の台で練習してたんです。下回転のショートサーブ。動画を見ながら、ひと月」
「すごいじゃない」
本当にすごかった。わざとではなく、私は取れなかった。
でも、そのサーブが入ったのはその一本だけだった。残りの球を私がどれだけやさしく返しても、戸川くんの球は台に収まらなかった。十一対七。私は勝ってしまった。
戸川くんはタオルで顔を拭きながら、私を見た。
「真柴さん、今日、なんだかすごく優しいですね」
胸に、何かが小さく刺さった。私は「そう?」とだけ言って、ラケットのラバーを拭いた。岩城さんみたいに、妙に念入りに。
三 負け合い
五試合が終わったところで、梅津さんがクリップボードを読み上げた。
「わたし、一勝。根本さん、二勝。岩城さん、一勝。真柴さん、一勝。戸川くんは、まだ」
「まだ、って言ってもらえるの、うれしいです」
戸川くんが言った。
第六試合は、岩城さん対梅津さん。
審判は私と根本さんと戸川くん。台の横に三人でパイプ椅子を並べて座ると、根本さんが腕を組んだ。
三本目くらいで、私は気がついた。
二人とも、負けようとしている。
岩城さんのサーブがふわりと上がる。梅津さんがそれを、さらにふわりと返す。岩城さんがそれを、さらにふわりと返す。白い球がネットの上を行ったり来たりしながら、だんだん高く、だんだん遅くなっていく。打ち合いではなかった。秋の公園でシャボン玉を見ているようだった。
やがて梅津さんが「あっ」と言いながら球を見送った。球は梅津さんの側の台で弾んで、彼女の脇を抜けて床に落ちた。
「一対〇、岩城さん」
次の球は、岩城さんが「おっと」と言いながら見送った。
「一対一」
「あっ」
「おっと」
「あら」
「む」
四対四になったとき、根本さんが立ち上がった。

「はい、手抜き」
「手抜き」
私も言った。言いながら、さっきの自分の三本を思い出して、頬が熱くなった。
戸川くんは、私たちを交互に見ていた。
「これ、手抜きなんですか? すごくゆっくりした試合だなと思って見てました。ああいう戦法なのかなって」
「戦法じゃない」
根本さんが言った。
「で、どっちの手抜き?」
梅津さんがラケットを胸に当てて訊いた。
「両方」
三人の声が揃った。
私の決まりでは、手を抜いた人の勝ちになる。両方が手を抜いたら、両方が勝つ。そんな試合はない。
「決まりの穴ね」
梅津さんが、なぜか少しうれしそうに言った。
根本さんは台の横に立った。
「最初からやり直し。〇対〇。今度は本気で。また手を抜いたら、この試合は二人とも勝ち。二人そろって、後ろのほうで選びなさい」
「そんな試合はないだろう」
岩城さんが言うと、根本さんは即座に答えた。
「作ればある」
岩城さんと梅津さんが、同時に背筋を伸ばした。
やり直しの試合は、まるで別物だった。
岩城さんの、低く沈むカット。梅津さんの、粘っこいバックのツッツキ。梅津さんは見た目よりずっと球をよく拾う人で、岩城さんのカットを三本、四本と台に戻した。岩城さんが「ほう」と声を漏らし、次の一本をさっきより強く切った。
審判の三人は、だんだん椅子の前のほうへ身を乗り出した。
「梅津さん、今のバック!」
戸川くんが思わず叫んだ。梅津さんが一本取って、小さく拳を握った。岩城さんが眼鏡を指で押し上げた。
十一対八で、岩城さんが勝った。
梅津さんは膝に手をついて、息を切らしながら笑っていた。
「あー、楽しかった。でも、このラケット重いのよ。替えようかしら」
「ラケットのせいにするな」
そう言う岩城さんも、肩で息をしていた。
見ているあいだ、私の右手はずっとむずむずしていた。
第七試合は、根本さん対戸川くん。根本さんには手を抜く理由がない。ショコラがあればいいのだ。だからいつも通り本気で、いつも通り速かった。ただ、球と球のあいだに、ときどき短い言葉を挟んだ。
「肘、体から離さない」
「はい」
「今の、手で打った。足で打って」
「はい!」
十一対三。戸川くんは三点取った。そのうち一点は、あの短いサーブだった。根本さんは手を伸ばしたが、届かなかった。球が二度弾むのを見届けてから、「いいサーブ」と言った。
戸川くんはノートに大きく何か書いた。
第八試合は、私と梅津さん。
二人とも負けたかった。梅津さんはもう一勝してしまっているし、私も一勝してしまっている。でも、パイプ椅子には根本さんが座っていて、腕を組んでいて、その目が「さっき言ったこと、覚えてるわね」と言っていた。
私は普通に打った。梅津さんも普通に打った。普通に打つと、私のほうが少しだけ強かった。それだけのことだった。十一対九。
「真柴さん、腕、生きてたわね」
根本さんが言った。褒められたのだと思うけれど、うれしいのかどうか、よくわからなかった。
第九試合は、岩城さん対根本さん。
これは最初から、誰も手を抜かなかった。岩城さんは二勝、根本さんは三勝。負けたほうが早く選べるけれど、根本さんはショコラがあればいい。そして岩城さんは、根本さんと台をはさむと、ケーキのことを忘れる人だった。
根本さんの速いドライブを、岩城さんがカットで沈める。沈んだ球を、根本さんがもう一度持ち上げる。ラリーが十本、十五本と続くたびに、審判の三人の首が左右に揺れた。
十対十。デュース。
岩城さんが一本取って、十一対十。
最後の球は、根本さんのドライブがわずかに長くなって、台の端を越えた。
「十二対十、岩城さん」
得点係の戸川くんが、裏返った声で言った。
根本さんは天井を見上げて、それから言った。
「十二対十は、実質引き分け」
「十二対十は、十二対十だ」
岩城さんは言った。うれしそうだった。根本さんも、怒った顔のまま口の端が上がっていた。
四 最終試合
「では、ここまでの成績」
梅津さんがクリップボードを読み上げた。
「戸川くん、〇勝四敗。わたし、一勝三敗。真柴さん、二勝一敗。根本さん、三勝一敗。岩城さん、三勝〇敗。残りは第十試合、真柴さん対岩城さん」
「大一番ですね!」
戸川くんがノートを抱きしめた。何も知らない人の、まっすぐな声だった。
私はパイプ椅子の背に掛けたタオルで手を拭きながら、頭の中で数字を並べた。
私が負けたら、二勝のまま。戸川くんと梅津さんの次、三番目に選べる。二人が何を取るかはわからない。でも梅津さんはたぶん洋梨のタルトだ。戸川くんは、先月はチーズケーキだった。モンブランが残る見込みは、かなり高い。
私が勝ったら、私と岩城さんと根本さんが三勝で並ぶ。そこから先は、取られた点の多い順。
クリップボードをのぞきこんだ。私がここまでに取られた点は、根本さんに十一、戸川くんに七、梅津さんに九。二十七点。岩城さんは、戸川くんに八、梅津さんに八、根本さんに十。二十六点。
私が十一点取れば、岩城さんは三十七点になる。勝つには九点までしか取られてはいけないから、私は多くても三十六点。デュースになっても、二点差で勝つかぎり、この一点の差は消えない。勝てば、私は岩城さんの後に選ぶことになる。
つまり、モンブランがほしいなら、私は負ければいい。
台の向こうで、岩城さんもクリップボードを見ていた。眼鏡の奥の目が、ゆっくり動いている。岩城さんが勝てば四勝で、いちばん最後に選ぶ。負ければ三勝で並び、取られた点はきっと私より多くなる。
岩城さんも、負ければモンブランに近づく。
二人とも、負けたい。
そして、私の決まりがある。見ている三人のうち二人が「手抜き」と言えば、手を抜いたほうの勝ち。審判は梅津さんと根本さんと戸川くん。根本さんは、さっきからずっと腕を組んでいる。
私は台の前に立った。三十四歳の私が、土曜の午後に、モンブランひとつのために、どうやって上手に負けるかを考えている。
賭けではない。おやつだ。仲間のおやつ。だからこそ、たちが悪い。
じゃんけんで、先にサーブを取ったのは岩城さんだった。
最初の何本かは、変な試合だった。
岩城さんのサーブは普通のサーブに見えた。私の返球も、普通の返球に見えたと思う。でも、どちらの球にもほんの少しだけ力がなかった。決めにいくべき球を、二人とも、ほんの少しだけ台の外へ逃がした。
一対一。二対二。三対三。
根本さんが、何も言わずに目を細めた。梅津さんは自分のことを棚に上げて、口に手を当てて笑いをこらえていた。戸川くんだけが真剣な顔で、「すごい、拮抗してる」とつぶやいた。
次のラリーで、岩城さんの返球が来た。
山なりの、高い球だった。私のフォアのいちばん打ちやすいところに、ふわりと落ちてくる。
わざとだ、と頭は思った。見送らなきゃ、と頭は思った。
右腕は、もう振り終わっていた。
パン、と乾いた音がして、球は岩城さんのバック側のコーナーを抜け、体育室の壁で跳ねた。
「四対三、真柴さん」
戸川くんの声が響いた。
私はラケットを見下ろした。さっきの岩城さんと同じ格好をしていたと思う。
岩城さんの顔が変わった。
いつも少し笑っているように見える目から、笑いが消えた。岩城さんは黙って球を拾い、黙って構え、私の次のサーブを、低く、重く、沈むカットで返してきた。
いつもの岩城さんの球だった。
私はそれをネットにかけた。いつものように。
「四対四」
岩城さんが低い声で言った。
「真柴さん。今のは、手首が勝手に、か」
「腕が勝手に、です」
「なら仕方ない」
それから先は、誰も手を抜かなかった。
岩城さんのカットは、こちらの打ち気を吸い取る。焦れて強く打てば、ネットにかかる。だから私はこの二年間、焦れない練習をしてきた。ツッツいて、ツッツいて、待つ。三本でも五本でも、岩城さんの球がほんの少し浮くのを待つ。
五対六。七対七。八対九。
審判の三人が、椅子から腰を浮かせていた。
モンブランのことは、二度だけ思い出した。一度目は七対七のとき。てっぺんの栗が、頭の中でつやつや光った。二度目は八対九のとき。でもその二度目は、すぐに十九回分の負けに押し流された。十九回、この台の前で、私は岩城さんに「元気がネットに引っかかってる」と言われてきた。
九対九。サーブが私に回ってきた。
私は短いサーブを出した。戸川くんのサーブを少しだけ真似した。岩城さんは台に体を寄せて、それを払った。私はそれを、待っていた球として、ただ返した。岩城さんはまたカットで沈めた。私はツッツいた。三本。四本。五本目に、岩城さんの球がほんの少し、ネットより高く浮いた。
今度は、頭と腕が同じことを考えていた。
フォアで打った球は、岩城さんのラケットの先をかすめるように抜けた。
「十対九」
戸川くんの声が震えていた。
もう一本、私のサーブ。同じ短いサーブを出した。岩城さんは今度は払わず、低く切って返した。私はツッツいた。岩城さんもツッツいた。七本。八本。誰も息をしていなかった。九本目、岩城さんの球が私のフォア側に深く来た。私は一歩下がって、体ごと振った。
球は岩城さんのバックの深いところに落ちて、そのまま床に転がった。
「……十一対九。真柴さん」
体育室が、しんとしていた。
高い窓から入る光が、さっきより低く、赤くなっていた。
私は自分が息を止めていたことに気づいて、大きく吐いた。足が少し震えていた。
「手抜き、と言う人」
梅津さんが、得点板の横でそっと訊いた。
根本さんが首を振った。戸川くんも首を振った。梅津さんも首を振った。
「誰も、抜いてない」
根本さんが言った。腕組みを解いていた。
岩城さんはしばらく台の向こうに立ったまま、私を見ていた。それから眼鏡を外して、シャツの裾で拭いた。
「……照明が、まぶしかった」
そう言って、岩城さんは笑った。いつもの、笑っているように見えるだけの目ではなく、ちゃんと口を開けて、声を出して。
「二十戦目で、とうとうか。最後のフォアは取れなかった。あれは取れん」
「取れないように打ちました」
「知ってる」
岩城さんは台を回ってきて、右手を出した。私はその手を握った。乾いていて、大きくて、思っていたより熱かった。
「途中から、モンブランのことを忘れてた」
岩城さんは小さな声で言った。
「不覚だ」
梅津さんが、クリップボードに鉛筆を走らせた。
「では、最終成績。戸川くん、〇勝。わたし、一勝。真柴さん、岩城さん、根本さんが三勝で並びました。決まりの二番、取られた点の多い人から」
梅津さんは、指で数字を追っていった。
「根本さん。取られた点は、真柴さんに八、わたしに五、戸川くんに三、岩城さんに十二。合計二十八」
「十二は、実質十」
「十二は十二です。――真柴さん。根本さんに十一、戸川くんに七、わたしに九、岩城さんに九。合計三十六」
自分の喉が鳴るのが聞こえた。
「岩城さん。戸川くんに八、わたしに八、根本さんに十、真柴さんに十一。合計、三十七」
一点。
「選ぶ順番を発表します。一番、戸川くん。二番、わたし。三番、岩城さん。四番、真柴さん。五番、根本さん」
岩城さんが天井を見上げた。さっき「勝ってしまった」と言ったときと同じ角度で、でもまるで違う顔で。
私はクリップボードをもう一度のぞいた。三十六と三十七。戸川くんにあと二点取られていれば。梅津さんに、もう少し粘られていれば。最後の試合だけ引き延ばしても、二人の差は縮まらない。
「先に、もう少し取られておけば……」
「そんな計算をしながら勝つ余裕なんて、なかったでしょう」
根本さんが言った。その通りだった。九対九から、私はただ目の前の一本を取りにいっただけだった。
岩城さんは、負けようとして負けきれなかった試合で、少しずつ点を取られていた。山なりの球を送って、戸川くんに、梅津さんに、少しずつ。そして最後に、本気で私に負けて、十一点取られた。
負けた人から、ケーキを選ぶ。
決まりは、正しく働いていた。
五 勝った人から
談話室の長机に、蓋を開けた箱が置かれた。五人がそのまわりに立った。
「では一番、戸川くん」
戸川くんが箱をのぞきこんだ。私たち四人は息を詰めた。岩城さんの喉仏が、一度上下した。
戸川くんの指がゆっくり右へ動いていって、止まった。
「チーズケーキでいいですか。僕、チーズケーキがいちばん好きなんです。先月もこれでした」
談話室の空気が、いっせいに抜けた。
「いいに決まってるじゃない」
梅津さんが言った。声が少し裏返っていた。戸川くんは、何がそんなにうれしいのかわからない顔で、紙皿にチーズケーキを載せた。
「二番、わたし。……わたしは別に、何でもいいんだけど」
「嘘だ」
四人の声が揃った。梅津さんは洋梨のタルトを取った。
「三番、岩城さん」
岩城さんは紙皿を持って、箱の前に立った。
「俺は別に、甘いものなら何でも――」
「嘘だ」
今度は戸川くんまで一緒に言った。岩城さんは何か言い返そうとして、やめた。そして、とても丁寧な手つきで、和栗のモンブランを皿に移した。てっぺんの栗は少しも傾かなかった。
私は苺のショートケーキを取った。根本さんは最後に残ったガトーショコラを、最初からそれしか見ていなかった顔で取った。
「いただきます」
岩城さんはモンブランを、フォークの先でほんの少しずつ崩して食べた。ひと口ごとに目を閉じていた。
「うまい」
それだけ言った。
悔しかった。でも、ショートケーキの苺は思っていたより甘かった。スポンジのあいだにも、薄く切った苺が挟んであった。ポワンのショートケーキをちゃんと味わって食べたのは、たぶん初めてだった。いつもは、モンブランか、ほかの何かを選んでいたから。
「真柴さん、モンブラン好きなんですか?」
チーズケーキを半分食べたところで、戸川くんが訊いた。
「……どうして?」
「岩城さんの順番が発表されたとき、真柴さん、この世の終わりみたいな顔してました」
「してない」
「してたわ」
梅津さんと根本さんの声が揃った。
戸川くんはフォークを置いて、少し考える顔をした。
「あの、もしかして今日、皆さん――僕に、わざと負けようとしてましたか?」
談話室が、また静かになった。
「最初の梅津さんも、岩城さんも、真柴さんも、なんだかすごく打ちやすい球をくれるなと思ってたんです」
誰も何も言えなかった。私はフォークを持ったまま固まっていた。優しいですね、と言われたときに刺さった場所が、もう一度痛んだ。
戸川くんはノートを開いて、今日のページを見た。
「それでも、勝てなかったんですか、僕」
一瞬の間があって、根本さんが噴き出した。続いて梅津さんが、岩城さんが、最後に私が笑った。戸川くん本人も笑っていた。
「勝てなかったわね」
根本さんが言った。
「でも、あのサーブは本物だった。真柴さんもわたしも取れなかった。来月、手を抜いてくる相手がいたら、あれを全部打ちなさい」
「はい」
戸川くんはノートに「全部打つ」と書いた。
紙皿を片づけながら、私は梅津さんの横に立った。
「梅津さん。モンブラン、本当に最後のひとつでした?」
梅津さんの手が、一瞬止まった。
「どうして?」
「一時四十五分にポワンの前を通ったとき、上の段に茶色いのがたくさん並んでた気がするんです。走りながらだったから、栗のタルトだったかもしれないし、梅津さんが帰ったあとにお店が追加を出したのかもしれないけど」
梅津さんは洋梨のタルトの最後のひと切れを、ゆっくり口に入れた。噛んで、飲みこんで、それから言った。
「わたしが買う前は、六つ、あったかしら」
「梅津さん」
長机の向こうで、岩城さんと根本さんが同時に振り向いた。
「だって先月、みんなお行儀がよすぎたじゃない」
梅津さんは紙皿を重ねながら言った。
「戸川くんに気をつかって、誰も大きな声を出さなくて、試合が静かで。わたしの作った決まりのせいかしらと思ったの。だから、ひとつだけ取り合うものを入れたらどうなるかなって」
「どうなったんですか」
「全員、大声出してたじゃない」
梅津さんは満足そうに笑った。
「いちばんの手抜きは、梅津さんだ」
岩城さんが言った。
「決まりを足しましょう」
根本さんがクリップボードを取り上げた。
「四、世話役の買い物も、審判の対象とする」
「えっ、ちょっと」
「賛成」
「賛成」
「賛成です」
根本さんを入れて、四票だった。
四時二十分に地区センターを出ると、商店街はもう夕方の色になっていた。
ポワンのショーケースの上の段には、和栗のモンブランがひとつだけ残っていた。
今度こそ、本当に最後のひとつだ。
私はガラスの前で立ち止まった。財布はラケットケースの外ポケットに入っている。会のケーキは会費から出ているけれど、これは自分のお金で、自分のために買うものだ。負けた人から選ぶ決まりは、地区センターの談話室の中だけの話だ。
扉を押すと、「いらっしゃいませ」と店の人の声がした。その後ろで、もう一度扉の鈴が鳴った。
振り返ると、白いポロシャツの上に紺のジャンパーを羽織った岩城さんが立っていた。
私たちはショーケースの中のひとつと、お互いの顔を、順番に見た。
「……家内に、栗のパウンドケーキを頼まれててな」
岩城さんは言った。目はモンブランを見ていた。
「負けた人から選びますか」
私が言うと、岩城さんはふん、と鼻を鳴らした。
「俺はもう一個食った。甘いものは一日一個と決めてる」
「さっき、甘いものなら何でもいいって」
「何でもいいが、一個だ」
岩城さんはパウンドケーキの棚のほうへ一歩ずれて、顎でショーケースを指した。
「今日は、勝った人から選べ」
私は、和栗のモンブランをひとつ、と言った。店の人が小さな箱に入れてくれた。てっぺんの栗は、少しも傾かなかった。
帰り道、私はラケットの上に球を載せて歩くときのように、箱をまっすぐ水平に持って歩いた。
二十戦目で、一勝十九敗。モンブランがひとつ。ショートケーキの苺が甘かったことも、ついでに覚えておく。
来月は、デュースで勝とう。十三対十一。モンブランのことを思い出す暇もないくらいの試合で。
そこまで考えて、私は商店街の真ん中で、ひとりで笑った。
たぶん来月も、そんな余裕はない。


