← 本棚へ戻る
趣味・友情コメディ

負けた人から、ケーキを選ぶ

モンブランは、ひとつだけ。負けた人から選べるなら――。

読了目安
30分
長さ
短編
#くすっと笑える#ケーキ#友だち
負けた人から、ケーキを選ぶのイメージ

あらすじ

月に一度の大人の卓球会。新入りを励ますための「負けた人からケーキを選ぶ」決まりは、平和だった。箱に秋限定モンブランがひとつだけ入っていた土曜日までは。自分で手抜き禁止まで言い出した負けず嫌いの私は、おやつと勝ちたい腕のあいだで空回りする。

読みやすく、好きなところから。

目次・5章

一 最後のひとつ

土曜日の午後一時四十五分、私はラケットケースを肩にかけて、商店街の角を早足で曲がった。

洋菓子ポワンのショーケースが横目に入る。いちばん上の段に、茶色い小山がいくつも並んでいた。細く絞った栗のクリームがぐるぐると巻かれ、てっぺんに渋皮つきの栗がひとつずつ載っている。

今年も出たんだ、と思ったのは一瞬だった。信号が点滅しはじめたので、私は走った。みどり台地区センターの体育室は二時から四時まで。遅れて入ると、岩城さんに「真柴さんは今日、不戦敗か」と言われる。言われるのはまだいい。言い返せないのが嫌なのだ。

私たちの会は「みどり台土曜卓球会」という。月に一度、第四土曜日に五人で集まり、四十分ほど打ち合ってから、一ゲームずつの総当たりをする。賞品も賞状もない。あるのは、終わったあとに談話室で食べるケーキだけだ。

体育室に入ると、台はもう二台出ていた。

「真柴さん、ネット張るの手伝って」

世話役の梅津さよりさんが、支柱を抱えて手招きした。四十五歳。駅前の花屋で週に四日働いていて、ケーキの買い出しはいつもこの人の係だ。

奥の台では、根本千鶴さんがひとりでサーブ練習をしていた。高校時代は卓球部でインターハイの予選まで行ったという五十二歳で、ふだんは会計事務所に勤めている。ヘアバンドで前髪を上げ、黙々と球を出している姿は、休日の大人というより朝練の部員だった。

入口のほうで「すいません、遅くなりました」と声がした。戸川遼くんだ。二十七歳、入会して二か月。新品のラケットに、値札の跡が残っていそうな黄緑のシャツ。小脇に小さなノートを抱えている。

最後に、白いポロシャツの岩城寛治さんがゆっくり入ってきた。六十八歳。四十年近く線路の保守の仕事をしていたという人で、背中がまっすぐで、眼鏡の奥の目がいつも少し笑っている。笑っているように見えるだけで、台の前に立つと容赦がない。

入会して二年。私はこの人に、月例の総当たりで十九回挑み、十九回負けている。

練習のあいだ、私は岩城さんと台をはさんで打った。岩城さんの球は低く、重く、こちらの打ち気を吸い取るように沈んでくる。下回転のカットで粘られると、私はいつも先に焦れて、強打をネットにかける。

「今日も元気だな、真柴さん。元気がネットに引っかかってる」

「引っかかってません。今のは様子見です」

「様子見でラケットを振り切る人は、初めて見た」

二時四十分、梅津さんが手を叩いた。

「はい、総当たりの前に、今日のケーキを発表します。みんな談話室へ」

談話室は体育室の隣にある八畳ほどの部屋で、長机と、利用者が使っていい小さな冷蔵庫がある。梅津さんは冷蔵庫から白い箱を出し、両手で長机の真ん中に置いた。箱の側面には、ポワンの金色のシールが貼ってある。

蓋が開いた。五人の頭が箱の上に集まった。

「苺のショートケーキ。ベイクドチーズケーキ。ガトーショコラ。洋梨のタルト」

梅津さんの指が、左から順に動いていく。そして右端で止まった。

「それから、和栗のモンブラン。秋限定よ。一時二十分に行ったら、最後のひとつだったの」

誰も、すぐには何も言わなかった。

茶色いクリームが、細い糸を巻いたように盛り上がっている。てっぺんの栗は渋皮がつやつやしていて、横に金箔がほんの少し。ポワンの和栗のモンブランは秋にしか出ない。去年、私は三回買いに行って、二回売り切れだった。

最後のひとつ。

その言葉に、何かが小さく引っかかった。一時四十五分に通りかかったとき、ショーケースの上の段には、茶色いものが何個も並んでいなかったか。

談話室で五人がケーキの箱をのぞく。苺、チーズ、ショコラ、洋梨、栗の五個が一列に並び、岩城は右端のモンブランに目を向ける。

でも、走りながら横目で見ただけだ。茶色いケーキならほかにもある。栗のタルトかもしれないし、マロンパイかもしれない。梅津さんが帰ったあとに、お店が奥から追加を出しただけかもしれない。

それに今は、それどころではなかった。

「俺は別に、甘いものなら何でもいい」

岩城さんが言った。目はモンブランから一ミリも動いていない。

「わたしも何でもいいのよ。みんなが好きなのを選んで」

梅津さんが言った。目は洋梨のタルトに落ちている。

「わたしはショコラ。それ以外は要らない」

根本さんだけが正直だった。

「モンブラン、おいしそうですね」

戸川くんが無邪気に言った。四人が同時に戸川くんを見た。

この「負けた人からケーキを選ぶ」という決まりは、先月できたばかりだ。

先月の総当たりで、戸川くんは四戦全敗だった。談話室でケーキを待ちながら、彼は笑ってノートを閉じ、「僕、向いてないかもしれません」と言った。冗談の顔をしていたけれど、ノートの角を何度も指でこすっていた。

梅津さんはその場で、クリップボードの裏に書いた。

――負けた数の多い人から、ケーキを選ぶ。

「今日からこれでいきましょう。負けた人にはおやつの楽しみを。勝った人には勝った喜びを。ね、平和でしょう」

先月の箱は、ショートが二つにチーズとショコラとシュークリームだった。戸川くんは真っ先にチーズケーキを取って、うれしそうに食べた。私たちは拍手した。平和だった。

平和だったのは、箱の中に取り合うものがなかったからだ。

体育室に戻りながら、私は頭の中で計算した。負けた数の多い人から選べる。つまり、モンブランがほしい人は負ければいい。

振り返ると、岩城さんがラケットのラバーを妙に念入りに拭いていた。梅津さんは肩を回しながら、「最近、肩が上がらなくて」と誰にともなく言った。今朝、花屋で鉢を六つ運んだ話を、練習中に元気にしていたはずだ。

まずい。全員、負けにくる。

「梅津さん、決まりをひとつ足させてください」

私は手を挙げた。

「わざと負けるのを禁止にしましょう。見ている三人のうち二人以上が『手抜き』と言ったら、その試合は手を抜いた人の勝ちにする」

「勝ちにするの? 負けにするんじゃなくて?」

「負けたい人に負けをあげたら、ご褒美です」

「なるほど」

梅津さんは感心したように頷いて、クリップボードに書き足した。根本さんが「賛成」と短く言った。岩城さんはラバーを拭く手を止めて、私を見た。

「真柴さん。それは自分の首を絞める決まりだぞ」

「私は最初から本気です」

本気で、上手に負けるつもりだった。

戸川くんがノートから顔を上げた。

「手抜きって、わざと負けるってことですか? そんなことする人、いるんですか?」

誰も返事をしなかった。体育室の高い窓から秋の午後の光が斜めに入って、床の白線を照らしていた。

梅津さんがクリップボードを、台の横のパイプ椅子に立てかけた。今日の決まりはこうなった。

一、総当たり。一ゲーム十一点先取。十対十になったら、二点差がつくまで。
二、負けた数の多い人から、ケーキを選ぶ。負けた数が同じなら、取られた点の多い人から。
三(真柴案)、見ている三人のうち二人以上が「手抜き」と言ったら、その試合は手を抜いた人の勝ちとする。

総当たりは十試合。台は一台だけ使い、残りの三人が見る。見ている三人が審判で、そのうちひとりが得点係をする。

二 負けるのは、むずかしい

第一試合は、梅津さん対戸川くん。

梅津さんは、構えた瞬間から負ける顔をしていた。

最初のサーブは、ふわりと高く上がった。戸川くんの胸の高さに、ちょうど打ちごろの球。戸川くんは目を輝かせて思いきり振りかぶり――球は天井の照明のすぐ下まで飛んで、体育室の奥の肋木に当たった。

「一対〇、梅津さん」

得点係の根本さんが、乾いた声で言った。

梅津さんの顔が、一瞬だけ曇った。

次も、その次も、梅津さんは打ちごろの球を送った。戸川くんはそれを、ネットに、台の外に、自分の足元に打った。四対〇になったところで、梅津さんはサーブをネットにかけた。

「あら、やだ」

声が少し大きかった。

「手抜き」

岩城さんがすかさず言った。

私は迷った。今のはわざとだと思う。思うけれど、梅津さんのサーブはふだんからときどきネットにかかる。根本さんは首を振った。

「今のは、本当に下手だった」

「根本さん、ひどい」

梅津さんは抗議したが、うれしそうでもあった。一票。手抜きは成立しない。

戸川くんは途中から、見違えるように球を入れはじめた。梅津さんが返しやすい球ばかり送ってくるのだから、当たり前といえば当たり前だ。九対九まで追いついたとき、彼の頬は赤くなっていた。

そこから、戸川くんのサーブが二本続けて長く出て、台の向こうへ消えた。

「十一対九、梅津さん」

梅津さんは、ラケットを持ったまましばらく立っていた。勝った人の顔ではなかった。

「梅津さん、強いですね」

戸川くんが頭を下げた。

「……そうでもないのよ」

梅津さんは、心からそう言っているようだった。

第二試合は、私と根本さん。

作戦はこうだ。最初は普通に打つ。根本さんは強いから、普通に打てば私はたぶん負ける。自然に負けて、誰にも何も言わせない。

問題は、根本さんの球が良すぎたことだった。

回転のよくわかる、きれいな球だった。速いけれど、返せる。返せるけれど、ぎりぎり。そういう球が来ると、体のほうが先に動く。フォアで打ち返し、バックでしのぎ、気がつくと八対八になっていた。

私は息を吸った。モンブラン。渋皮の栗。ここで三本続けて取ったら、私は勝ってしまう。

根本さんの次の球はバックに来た。私はほんの少しだけ、ラケットの面を上に向けた。球はふわりと浮いて、台の端からこぼれた。

「手抜き!」

岩城さんの声が、体育室に響いた。

「今のは、惜しかったように見えたけど」

梅津さんが首をかしげる。

「えっ、わかりません。どれですか?」

戸川くんは本気で慌てていた。一票。私は残りの二本も同じくらいの角度で浮かせて、八対十一で負けた。

ネット越しに、根本さんが私を見た。

「最後の三本、腕が死んでた」

「疲れてたんです」

「練習のとき、四十分ずっと全力で打ってたじゃない。あなたが疲れるの、見たことない」

根本さんは低い声で言って、ラケットを台に置いた。怒っているというより、がっかりしていた。インターハイの予選まで行った人に、腕の死んだ球を三本も打ってしまった。

私は負けたのに、なぜか負けたことが少し悔しかった。

第三試合は、岩城さん対戸川くん。

岩城さんは台の前に立つと、眼鏡を外してシャツの裾で拭いた。

「今日はどうも、照明がまぶしい」

「二年間、同じ照明ですよ」

私が言うと、岩城さんは聞こえないふりをした。

「それに、このボールは新しすぎるな。弾みが読めん」

「さっきの練習と同じボールです」

「真柴さん、審判は黙って見てるもんだ」

岩城さんは、ふわふわした球を送った。カットでも何でもない、ただの山なりの球だ。戸川くんは今度こそ落ち着いて打ち返した。返った球は台の角をかすって、低く跳ねた。

次の瞬間、岩城さんの体が沈んだ。

六十八歳とは思えない速さで右足が出て、ラケットが床すれすれから球をすくい上げた。球は戸川くんのコートの真ん中に、ぽとりと落ちた。戸川くんは一歩も動けなかった。

体育室が静かになった。

岩城さんは、自分のラケットを見下ろしていた。

「……今のは、手首が勝手に」

「手首は勝手に動きません」

根本さんが言った。少し笑っていた。

それからも岩城さんは負けようとした。山なりの球を送り、戸川くんがいい球を返してくるたびに、手首が勝手に動いた。十一対八。岩城さんは勝った。

試合が終わると、岩城さんは天井を見上げた。

「勝ってしまった」

勝った人がこんなに悲しそうな顔をするのを、私は初めて見た。戸川くんは「勉強になりました」と言って、ノートに何か書いていた。

第四試合の梅津さん対根本さんは、あっという間だった。梅津さんが負けようとする前に、根本さんの球が全部決まってしまったのだ。十一対五。手抜きのしようもなかったと、梅津さんはむしろ満足そうだった。

第五試合は、私と戸川くん。

今度こそ、と私は思った。今度こそ負ける。根本さんのような良い球は来ない。戸川くんには勝ってほしい。それに私は負けたい。理由がふたつ重なれば、腕も言うことを聞くだろう。

私は打ちやすい高さに、打ちやすい速さで返した。戸川くんはそれをネットに打った。

もう一度、もう少し打ちやすく返した。台の外に打った。

戸川くんのフォアに、そっと置くように返した。戸川くんは振り遅れて、ラケットの縁に当てた。球は真上に上がって、彼の頭に落ちた。

「三対〇、真柴さん」

得点係の梅津さんが、申しわけなさそうに言った。

四本目は戸川くんのサーブだった。彼はトスをまっすぐ上げ、手首を小さく切るように動かした。短い球がネットのすぐ向こうで沈むように落ちて、二度弾んだ。私は台に手をつきそうになりながら手を伸ばしたが、届かなかった。

「……今の、入りましたか」

「入った。今のは取れなかった」

私が言うと、戸川くんはその場で小さく跳ねた。

「家の台で練習してたんです。下回転のショートサーブ。動画を見ながら、ひと月」

「すごいじゃない」

本当にすごかった。わざとではなく、私は取れなかった。

でも、そのサーブが入ったのはその一本だけだった。残りの球を私がどれだけやさしく返しても、戸川くんの球は台に収まらなかった。十一対七。私は勝ってしまった。

戸川くんはタオルで顔を拭きながら、私を見た。

「真柴さん、今日、なんだかすごく優しいですね」

胸に、何かが小さく刺さった。私は「そう?」とだけ言って、ラケットのラバーを拭いた。岩城さんみたいに、妙に念入りに。

三 負け合い

五試合が終わったところで、梅津さんがクリップボードを読み上げた。

「わたし、一勝。根本さん、二勝。岩城さん、一勝。真柴さん、一勝。戸川くんは、まだ」

「まだ、って言ってもらえるの、うれしいです」

戸川くんが言った。

第六試合は、岩城さん対梅津さん。

審判は私と根本さんと戸川くん。台の横に三人でパイプ椅子を並べて座ると、根本さんが腕を組んだ。

三本目くらいで、私は気がついた。

二人とも、負けようとしている。

岩城さんのサーブがふわりと上がる。梅津さんがそれを、さらにふわりと返す。岩城さんがそれを、さらにふわりと返す。白い球がネットの上を行ったり来たりしながら、だんだん高く、だんだん遅くなっていく。打ち合いではなかった。秋の公園でシャボン玉を見ているようだった。

やがて梅津さんが「あっ」と言いながら球を見送った。球は梅津さんの側の台で弾んで、彼女の脇を抜けて床に落ちた。

「一対〇、岩城さん」

次の球は、岩城さんが「おっと」と言いながら見送った。

「一対一」

「あっ」

「おっと」

「あら」

「む」

四対四になったとき、根本さんが立ち上がった。

卓球台をはさんで球を見送ろうとする梅津と岩城。審判の根本が指を向け、かな子も手を上げかけ、戸川がノートを持って見守る。

「はい、手抜き」

「手抜き」

私も言った。言いながら、さっきの自分の三本を思い出して、頬が熱くなった。

戸川くんは、私たちを交互に見ていた。

「これ、手抜きなんですか? すごくゆっくりした試合だなと思って見てました。ああいう戦法なのかなって」

「戦法じゃない」

根本さんが言った。

「で、どっちの手抜き?」

梅津さんがラケットを胸に当てて訊いた。

「両方」

三人の声が揃った。

私の決まりでは、手を抜いた人の勝ちになる。両方が手を抜いたら、両方が勝つ。そんな試合はない。

「決まりの穴ね」

梅津さんが、なぜか少しうれしそうに言った。

根本さんは台の横に立った。

「最初からやり直し。〇対〇。今度は本気で。また手を抜いたら、この試合は二人とも勝ち。二人そろって、後ろのほうで選びなさい」

「そんな試合はないだろう」

岩城さんが言うと、根本さんは即座に答えた。

「作ればある」

岩城さんと梅津さんが、同時に背筋を伸ばした。

やり直しの試合は、まるで別物だった。

岩城さんの、低く沈むカット。梅津さんの、粘っこいバックのツッツキ。梅津さんは見た目よりずっと球をよく拾う人で、岩城さんのカットを三本、四本と台に戻した。岩城さんが「ほう」と声を漏らし、次の一本をさっきより強く切った。

審判の三人は、だんだん椅子の前のほうへ身を乗り出した。

「梅津さん、今のバック!」

戸川くんが思わず叫んだ。梅津さんが一本取って、小さく拳を握った。岩城さんが眼鏡を指で押し上げた。

十一対八で、岩城さんが勝った。

梅津さんは膝に手をついて、息を切らしながら笑っていた。

「あー、楽しかった。でも、このラケット重いのよ。替えようかしら」

「ラケットのせいにするな」

そう言う岩城さんも、肩で息をしていた。

見ているあいだ、私の右手はずっとむずむずしていた。

第七試合は、根本さん対戸川くん。根本さんには手を抜く理由がない。ショコラがあればいいのだ。だからいつも通り本気で、いつも通り速かった。ただ、球と球のあいだに、ときどき短い言葉を挟んだ。

「肘、体から離さない」

「はい」

「今の、手で打った。足で打って」

「はい!」

十一対三。戸川くんは三点取った。そのうち一点は、あの短いサーブだった。根本さんは手を伸ばしたが、届かなかった。球が二度弾むのを見届けてから、「いいサーブ」と言った。

戸川くんはノートに大きく何か書いた。

第八試合は、私と梅津さん。

二人とも負けたかった。梅津さんはもう一勝してしまっているし、私も一勝してしまっている。でも、パイプ椅子には根本さんが座っていて、腕を組んでいて、その目が「さっき言ったこと、覚えてるわね」と言っていた。

私は普通に打った。梅津さんも普通に打った。普通に打つと、私のほうが少しだけ強かった。それだけのことだった。十一対九。

「真柴さん、腕、生きてたわね」

根本さんが言った。褒められたのだと思うけれど、うれしいのかどうか、よくわからなかった。

第九試合は、岩城さん対根本さん。

これは最初から、誰も手を抜かなかった。岩城さんは二勝、根本さんは三勝。負けたほうが早く選べるけれど、根本さんはショコラがあればいい。そして岩城さんは、根本さんと台をはさむと、ケーキのことを忘れる人だった。

根本さんの速いドライブを、岩城さんがカットで沈める。沈んだ球を、根本さんがもう一度持ち上げる。ラリーが十本、十五本と続くたびに、審判の三人の首が左右に揺れた。

十対十。デュース。

岩城さんが一本取って、十一対十。

最後の球は、根本さんのドライブがわずかに長くなって、台の端を越えた。

「十二対十、岩城さん」

得点係の戸川くんが、裏返った声で言った。

根本さんは天井を見上げて、それから言った。

「十二対十は、実質引き分け」

「十二対十は、十二対十だ」

岩城さんは言った。うれしそうだった。根本さんも、怒った顔のまま口の端が上がっていた。

四 最終試合

「では、ここまでの成績」

梅津さんがクリップボードを読み上げた。

「戸川くん、〇勝四敗。わたし、一勝三敗。真柴さん、二勝一敗。根本さん、三勝一敗。岩城さん、三勝〇敗。残りは第十試合、真柴さん対岩城さん」

「大一番ですね!」

戸川くんがノートを抱きしめた。何も知らない人の、まっすぐな声だった。

私はパイプ椅子の背に掛けたタオルで手を拭きながら、頭の中で数字を並べた。

私が負けたら、二勝のまま。戸川くんと梅津さんの次、三番目に選べる。二人が何を取るかはわからない。でも梅津さんはたぶん洋梨のタルトだ。戸川くんは、先月はチーズケーキだった。モンブランが残る見込みは、かなり高い。

私が勝ったら、私と岩城さんと根本さんが三勝で並ぶ。そこから先は、取られた点の多い順。

クリップボードをのぞきこんだ。私がここまでに取られた点は、根本さんに十一、戸川くんに七、梅津さんに九。二十七点。岩城さんは、戸川くんに八、梅津さんに八、根本さんに十。二十六点。

私が十一点取れば、岩城さんは三十七点になる。勝つには九点までしか取られてはいけないから、私は多くても三十六点。デュースになっても、二点差で勝つかぎり、この一点の差は消えない。勝てば、私は岩城さんの後に選ぶことになる。

つまり、モンブランがほしいなら、私は負ければいい。

台の向こうで、岩城さんもクリップボードを見ていた。眼鏡の奥の目が、ゆっくり動いている。岩城さんが勝てば四勝で、いちばん最後に選ぶ。負ければ三勝で並び、取られた点はきっと私より多くなる。

岩城さんも、負ければモンブランに近づく。

二人とも、負けたい。

そして、私の決まりがある。見ている三人のうち二人が「手抜き」と言えば、手を抜いたほうの勝ち。審判は梅津さんと根本さんと戸川くん。根本さんは、さっきからずっと腕を組んでいる。

私は台の前に立った。三十四歳の私が、土曜の午後に、モンブランひとつのために、どうやって上手に負けるかを考えている。

賭けではない。おやつだ。仲間のおやつ。だからこそ、たちが悪い。

じゃんけんで、先にサーブを取ったのは岩城さんだった。

最初の何本かは、変な試合だった。

岩城さんのサーブは普通のサーブに見えた。私の返球も、普通の返球に見えたと思う。でも、どちらの球にもほんの少しだけ力がなかった。決めにいくべき球を、二人とも、ほんの少しだけ台の外へ逃がした。

一対一。二対二。三対三。

根本さんが、何も言わずに目を細めた。梅津さんは自分のことを棚に上げて、口に手を当てて笑いをこらえていた。戸川くんだけが真剣な顔で、「すごい、拮抗してる」とつぶやいた。

次のラリーで、岩城さんの返球が来た。

山なりの、高い球だった。私のフォアのいちばん打ちやすいところに、ふわりと落ちてくる。

わざとだ、と頭は思った。見送らなきゃ、と頭は思った。

右腕は、もう振り終わっていた。

パン、と乾いた音がして、球は岩城さんのバック側のコーナーを抜け、体育室の壁で跳ねた。

「四対三、真柴さん」

戸川くんの声が響いた。

私はラケットを見下ろした。さっきの岩城さんと同じ格好をしていたと思う。

岩城さんの顔が変わった。

いつも少し笑っているように見える目から、笑いが消えた。岩城さんは黙って球を拾い、黙って構え、私の次のサーブを、低く、重く、沈むカットで返してきた。

いつもの岩城さんの球だった。

私はそれをネットにかけた。いつものように。

「四対四」

岩城さんが低い声で言った。

「真柴さん。今のは、手首が勝手に、か」

「腕が勝手に、です」

「なら仕方ない」

それから先は、誰も手を抜かなかった。

岩城さんのカットは、こちらの打ち気を吸い取る。焦れて強く打てば、ネットにかかる。だから私はこの二年間、焦れない練習をしてきた。ツッツいて、ツッツいて、待つ。三本でも五本でも、岩城さんの球がほんの少し浮くのを待つ。

五対六。七対七。八対九。

審判の三人が、椅子から腰を浮かせていた。

モンブランのことは、二度だけ思い出した。一度目は七対七のとき。てっぺんの栗が、頭の中でつやつや光った。二度目は八対九のとき。でもその二度目は、すぐに十九回分の負けに押し流された。十九回、この台の前で、私は岩城さんに「元気がネットに引っかかってる」と言われてきた。

九対九。サーブが私に回ってきた。

私は短いサーブを出した。戸川くんのサーブを少しだけ真似した。岩城さんは台に体を寄せて、それを払った。私はそれを、待っていた球として、ただ返した。岩城さんはまたカットで沈めた。私はツッツいた。三本。四本。五本目に、岩城さんの球がほんの少し、ネットより高く浮いた。

今度は、頭と腕が同じことを考えていた。

フォアで打った球は、岩城さんのラケットの先をかすめるように抜けた。

「十対九」

戸川くんの声が震えていた。

もう一本、私のサーブ。同じ短いサーブを出した。岩城さんは今度は払わず、低く切って返した。私はツッツいた。岩城さんもツッツいた。七本。八本。誰も息をしていなかった。九本目、岩城さんの球が私のフォア側に深く来た。私は一歩下がって、体ごと振った。

球は岩城さんのバックの深いところに落ちて、そのまま床に転がった。

「……十一対九。真柴さん」

体育室が、しんとしていた。

高い窓から入る光が、さっきより低く、赤くなっていた。

私は自分が息を止めていたことに気づいて、大きく吐いた。足が少し震えていた。

「手抜き、と言う人」

梅津さんが、得点板の横でそっと訊いた。

根本さんが首を振った。戸川くんも首を振った。梅津さんも首を振った。

「誰も、抜いてない」

根本さんが言った。腕組みを解いていた。

岩城さんはしばらく台の向こうに立ったまま、私を見ていた。それから眼鏡を外して、シャツの裾で拭いた。

「……照明が、まぶしかった」

そう言って、岩城さんは笑った。いつもの、笑っているように見えるだけの目ではなく、ちゃんと口を開けて、声を出して。

「二十戦目で、とうとうか。最後のフォアは取れなかった。あれは取れん」

「取れないように打ちました」

「知ってる」

岩城さんは台を回ってきて、右手を出した。私はその手を握った。乾いていて、大きくて、思っていたより熱かった。

「途中から、モンブランのことを忘れてた」

岩城さんは小さな声で言った。

「不覚だ」

梅津さんが、クリップボードに鉛筆を走らせた。

「では、最終成績。戸川くん、〇勝。わたし、一勝。真柴さん、岩城さん、根本さんが三勝で並びました。決まりの二番、取られた点の多い人から」

梅津さんは、指で数字を追っていった。

「根本さん。取られた点は、真柴さんに八、わたしに五、戸川くんに三、岩城さんに十二。合計二十八」

「十二は、実質十」

「十二は十二です。――真柴さん。根本さんに十一、戸川くんに七、わたしに九、岩城さんに九。合計三十六」

自分の喉が鳴るのが聞こえた。

「岩城さん。戸川くんに八、わたしに八、根本さんに十、真柴さんに十一。合計、三十七」

一点。

「選ぶ順番を発表します。一番、戸川くん。二番、わたし。三番、岩城さん。四番、真柴さん。五番、根本さん」

岩城さんが天井を見上げた。さっき「勝ってしまった」と言ったときと同じ角度で、でもまるで違う顔で。

私はクリップボードをもう一度のぞいた。三十六と三十七。戸川くんにあと二点取られていれば。梅津さんに、もう少し粘られていれば。最後の試合だけ引き延ばしても、二人の差は縮まらない。

「先に、もう少し取られておけば……」

「そんな計算をしながら勝つ余裕なんて、なかったでしょう」

根本さんが言った。その通りだった。九対九から、私はただ目の前の一本を取りにいっただけだった。

岩城さんは、負けようとして負けきれなかった試合で、少しずつ点を取られていた。山なりの球を送って、戸川くんに、梅津さんに、少しずつ。そして最後に、本気で私に負けて、十一点取られた。

負けた人から、ケーキを選ぶ。

決まりは、正しく働いていた。

五 勝った人から

談話室の長机に、蓋を開けた箱が置かれた。五人がそのまわりに立った。

「では一番、戸川くん」

戸川くんが箱をのぞきこんだ。私たち四人は息を詰めた。岩城さんの喉仏が、一度上下した。

戸川くんの指がゆっくり右へ動いていって、止まった。

「チーズケーキでいいですか。僕、チーズケーキがいちばん好きなんです。先月もこれでした」

談話室の空気が、いっせいに抜けた。

「いいに決まってるじゃない」

梅津さんが言った。声が少し裏返っていた。戸川くんは、何がそんなにうれしいのかわからない顔で、紙皿にチーズケーキを載せた。

「二番、わたし。……わたしは別に、何でもいいんだけど」

「嘘だ」

四人の声が揃った。梅津さんは洋梨のタルトを取った。

「三番、岩城さん」

岩城さんは紙皿を持って、箱の前に立った。

「俺は別に、甘いものなら何でも――」

「嘘だ」

今度は戸川くんまで一緒に言った。岩城さんは何か言い返そうとして、やめた。そして、とても丁寧な手つきで、和栗のモンブランを皿に移した。てっぺんの栗は少しも傾かなかった。

私は苺のショートケーキを取った。根本さんは最後に残ったガトーショコラを、最初からそれしか見ていなかった顔で取った。

「いただきます」

岩城さんはモンブランを、フォークの先でほんの少しずつ崩して食べた。ひと口ごとに目を閉じていた。

「うまい」

それだけ言った。

悔しかった。でも、ショートケーキの苺は思っていたより甘かった。スポンジのあいだにも、薄く切った苺が挟んであった。ポワンのショートケーキをちゃんと味わって食べたのは、たぶん初めてだった。いつもは、モンブランか、ほかの何かを選んでいたから。

「真柴さん、モンブラン好きなんですか?」

チーズケーキを半分食べたところで、戸川くんが訊いた。

「……どうして?」

「岩城さんの順番が発表されたとき、真柴さん、この世の終わりみたいな顔してました」

「してない」

「してたわ」

梅津さんと根本さんの声が揃った。

戸川くんはフォークを置いて、少し考える顔をした。

「あの、もしかして今日、皆さん――僕に、わざと負けようとしてましたか?」

談話室が、また静かになった。

「最初の梅津さんも、岩城さんも、真柴さんも、なんだかすごく打ちやすい球をくれるなと思ってたんです」

誰も何も言えなかった。私はフォークを持ったまま固まっていた。優しいですね、と言われたときに刺さった場所が、もう一度痛んだ。

戸川くんはノートを開いて、今日のページを見た。

「それでも、勝てなかったんですか、僕」

一瞬の間があって、根本さんが噴き出した。続いて梅津さんが、岩城さんが、最後に私が笑った。戸川くん本人も笑っていた。

「勝てなかったわね」

根本さんが言った。

「でも、あのサーブは本物だった。真柴さんもわたしも取れなかった。来月、手を抜いてくる相手がいたら、あれを全部打ちなさい」

「はい」

戸川くんはノートに「全部打つ」と書いた。

紙皿を片づけながら、私は梅津さんの横に立った。

「梅津さん。モンブラン、本当に最後のひとつでした?」

梅津さんの手が、一瞬止まった。

「どうして?」

「一時四十五分にポワンの前を通ったとき、上の段に茶色いのがたくさん並んでた気がするんです。走りながらだったから、栗のタルトだったかもしれないし、梅津さんが帰ったあとにお店が追加を出したのかもしれないけど」

梅津さんは洋梨のタルトの最後のひと切れを、ゆっくり口に入れた。噛んで、飲みこんで、それから言った。

「わたしが買う前は、六つ、あったかしら」

「梅津さん」

長机の向こうで、岩城さんと根本さんが同時に振り向いた。

「だって先月、みんなお行儀がよすぎたじゃない」

梅津さんは紙皿を重ねながら言った。

「戸川くんに気をつかって、誰も大きな声を出さなくて、試合が静かで。わたしの作った決まりのせいかしらと思ったの。だから、ひとつだけ取り合うものを入れたらどうなるかなって」

「どうなったんですか」

「全員、大声出してたじゃない」

梅津さんは満足そうに笑った。

「いちばんの手抜きは、梅津さんだ」

岩城さんが言った。

「決まりを足しましょう」

根本さんがクリップボードを取り上げた。

「四、世話役の買い物も、審判の対象とする」

「えっ、ちょっと」

「賛成」

「賛成」

「賛成です」

根本さんを入れて、四票だった。

四時二十分に地区センターを出ると、商店街はもう夕方の色になっていた。

ポワンのショーケースの上の段には、和栗のモンブランがひとつだけ残っていた。

今度こそ、本当に最後のひとつだ。

私はガラスの前で立ち止まった。財布はラケットケースの外ポケットに入っている。会のケーキは会費から出ているけれど、これは自分のお金で、自分のために買うものだ。負けた人から選ぶ決まりは、地区センターの談話室の中だけの話だ。

扉を押すと、「いらっしゃいませ」と店の人の声がした。その後ろで、もう一度扉の鈴が鳴った。

振り返ると、白いポロシャツの上に紺のジャンパーを羽織った岩城さんが立っていた。

私たちはショーケースの中のひとつと、お互いの顔を、順番に見た。

「……家内に、栗のパウンドケーキを頼まれててな」

岩城さんは言った。目はモンブランを見ていた。

「負けた人から選びますか」

私が言うと、岩城さんはふん、と鼻を鳴らした。

「俺はもう一個食った。甘いものは一日一個と決めてる」

「さっき、甘いものなら何でもいいって」

「何でもいいが、一個だ」

岩城さんはパウンドケーキの棚のほうへ一歩ずれて、顎でショーケースを指した。

「今日は、勝った人から選べ」

私は、和栗のモンブランをひとつ、と言った。店の人が小さな箱に入れてくれた。てっぺんの栗は、少しも傾かなかった。

帰り道、私はラケットの上に球を載せて歩くときのように、箱をまっすぐ水平に持って歩いた。

二十戦目で、一勝十九敗。モンブランがひとつ。ショートケーキの苺が甘かったことも、ついでに覚えておく。

来月は、デュースで勝とう。十三対十一。モンブランのことを思い出す暇もないくらいの試合で。

そこまで考えて、私は商店街の真ん中で、ひとりで笑った。

たぶん来月も、そんな余裕はない。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また、読みたくなったときに。次の物語を探す