一 あったねー
潮見台駅の改札を出たところで、戸倉千晶は腕時計を見た。十一時二十八分。約束は十一時半で、ふみの乗った電車は十一時二十六分に着いているはずだった。
「千晶」
声は後ろから聞こえた。振り向くと、相沢ふみが改札の外の柱の前に立って、柱に貼られた古いタイル画を見上げていた。波とカモメと、少し首の長すぎる灯台。
「いつからいたの」
「十一時の電車。ひとつ早いのに乗れたから」
「連絡してよ」
「これ見てたら、時間になった」
ふみはタイルの灯台を指さした。「この灯台、九年前もこんなに首長かった?」
「覚えてない」と千晶は言って、少し笑った。ふみは変わっていない。マスタード色のカーディガンの袖を手の甲までのばして、帆布のトートバッグを肩にかけている。髪は昔より長くなって、うしろで低くまとめていた。
会うのが九年ぶりというわけではない。ふみが仙台に引っ越してからも、年に一度か二度は会っている。ただ、いつも食事だけだった。どこかへ一緒に何かを見に行くのは、九年前の美術館以来になる。
あの日のことは、二人ともあまり口にしない。千晶は四十分で全部屋を見終わり、美術館のカフェで二時間待った。ふみが出てきたとき、千晶は氷がすっかり溶けたアイスコーヒーのグラスの前で腕を組んでいた。ふみは「ごめん」と言い、千晶は「いいよ」と言った。帰りの電車では、二人ともほとんどしゃべらなかった。
今回、水族館に行こうと言い出したのはふみだった。明日、潮見台の商店街でパン屋の新しい看板を描く仕事がある。だから前の日に行く、と。
千晶はすぐに返信した。「行こう。ただし別行動で。お互い好きに見て、時間を決めて合流」
送ってから、少し冷たかったかと思って、「そのほうが二人とも楽しいと思う」と付け足した。ふみからは、ひれで親指を立てたクジラのスタンプが返ってきた。千晶はその日のうちに有休を申請した。
昼は駅前の「しおみ食堂」で食べた。水族館の前に魚を食べるのはどうなのかと千晶が言うと、ふみは「見る前だからいいんだよ」と真顔で言って、アジフライ定食を二つ頼んだ。千晶が食べ終わったとき、ふみはまだ一枚目のフライの尻尾のほうをかじっていた。千晶はお茶を二回おかわりして待った。待つのは苦手だ。でも、今日はそれでいいと決めていた。食堂の代金はふみが払った。水族館のチケット二枚は、千晶がネットで買ってある。
水族館は、駅から海のほうへ坂を下って七分のところにある。潮見台水族館。子どものころ、二人が住んでいた団地からバスで来られたので、千晶の母に連れられて何度も来た。三年前に建て替えられて、外観はすっかり白くなっている。
入口に向かう列に並んでいるとき、ふみが言った。
「ねえ、大きい水槽の下の窓、覚えてる? エイがおなかを見せて、頭の上を通っていくところ。わたしたち、あそこのこと、エイの窓って呼んでたよね」
千晶はそのとき、スマホにチケットのQRコードを出そうとしていた。画面がなかなか明るくならない。
「あったねー」
そう言いながら、明るさの設定を探していた。
入ってすぐのホールに、大きな館内マップがあった。千晶は足を止めた。こういうものの前では、千晶は止まる。
順路はこうなっていた。二階の入口から入って、①磯の部屋。②大水槽の水面デッキでは、大水槽を上からのぞける。スロープを下りて一階に行くと③大窓。同じ大水槽を、正面の大きなガラスから見る場所だ。そこから角を曲がって④浅瀬の部屋、⑤クラゲの回廊、⑥深海の小部屋。外に出ると⑦屋外テラスで、アザラシとペンギンがいる。テラスの端には「もう一周」と書かれた階段があり、二階の入口ホールに戻れる。まっすぐ進めば⑧出口とショップとカフェ。閉館は十七時。
④浅瀬の部屋の中に、小さな四角い囲みがあって、「エイの窓」と書いてあった。
千晶はそれを知っていた。去年、甥っ子を連れて一度来たのだ。浅瀬の部屋の低いところにある、子どもの目の高さの小さな窓で、砂の上にエイがいる。甥っ子はそこから動かなかった。
マップの横には、今日の解説の時間も出ていた。十三時、ペンギン解説(屋外テラス)。十三時三十分、ダイバー解説(大窓)。十五時四十分、アザラシ解説(屋外テラス)。番号のある場所にはそれぞれスタンプ台があって、八つ全部押すとショップで記念のポストカードがもらえる、とも書いてある。千晶は入口の箱からスタンプ用の台紙を二枚取り、一枚をふみに渡した。
「じゃあ、合流は三時」千晶はマップの④の中の小さな四角を、指でとんとんと叩いた。「ここ。エイの窓」
ふみはうなずいた。
「エイの窓ね。うん」
ふみの目はマップではなく、ホールの床を見ていた。床のタイルのところどころに、貝の形がはめこまれている。

「わたし、見てるあいだはスマホ見ないから」とふみは言った。「二時五十五分にアラームだけかけとく。ふるえるやつ」
「えらい」
千晶は本気でそう言った。九年前の美術館で、ふみがときどきスマホを出して時間を気にしていたのを覚えている。気にさせていたのは自分だ、ということも。
「十二時半ね。じゃあ、あとで」
「あとで」
二人は同時に①磯の部屋に入り、千晶だけがそのまま出ていった。
二 千晶の三周
磯の部屋を出るとき、千晶は振り返らなかった。振り返れば、最初の水槽の前でもうしゃがみこんでいるふみが見えるとわかっていた。それを見ると、なぜだか少し気が重くなりそうだった。
千晶の見方には、千晶なりの順番がある。まず一度、全部をざっと通る。水槽の大きさと明るさと、人の流れを見る。ラベルは名前だけ読む。どこに何があるかを体に入れてから、二周目で好きなところへ戻る。仕事でバスの運行表を作っているせいかもしれない。路線は、一度端から端まで乗ってみないとわからない。
②の水面デッキでは、大水槽を上からのぞきこんだ。天井の窓から入った光が、水面でちぎれて揺れている。ずっと下を、大きな平たい影がゆっくり横切っていった。エイの背中だ。スタンプを押す。②。
一階へ下りるスロープは、少しずつ暗くなるように照明が落としてあった。下りるにつれて、壁の青が濃くなっていく。これは好きだ、と千晶は思った。階段ではなくスロープにして、明かりを少しずつ変えて、歩いているうちに海に入っていく気分にさせる。誰かがそう決めて、図面を引いたのだ。
③大窓。正面のガラスは、千晶の背丈の三倍くらいの高さがあった。銀色の群れが、右から左へ、窓いっぱいに流れていく。千晶は三秒だけ立ち止まり、スタンプを押して、角を曲がった。
④浅瀬の部屋。低い小窓が「エイの窓」だ。砂の上で平たいエイがじっとしていて、子どもが三人、ガラスにおでこがつかないぎりぎりのところに並んでいた。千晶は子どもたちの頭越しに少しのぞいてから、スタンプの列に並んだ。④。
⑤クラゲの回廊と⑥深海の小部屋は、どちらも暗い。千晶はここだけ、少し歩く速さを落とした。暗いところでは、ガラスに映る自分の顔がじゃまになる。目が慣れるまで、少しかかる。
テラスに出ると、十二時五十六分だった。ペンギン解説は十三時から。完璧だ、と千晶は思った。こういう小さな「完璧」を一日にいくつか拾えると、千晶は機嫌がいい。
解説係の人は、ペンギン一羽ずつの名前と見分け方を教えてくれた。翼につけた輪の色で見分けるのだという。千晶は輪の色と名前を、口の中で三回くり返して覚えた。たぶん明日には忘れている。でも、今日は覚えていたかった。
十三時十五分、「もう一周」の階段を上って二階の入口ホールに戻った。①磯の部屋に入ると、ふみがいた。
最初の水槽の前だった。四十五分前とほとんど同じ場所だ。壁ぎわの低い段に腰かけて、膝の上の小さなスケッチブックに鉛筆を走らせている。岩を組んだ浅い水槽で、千晶が一周目に名前だけ読んだラベルには、小さなカニとハゼの仲間の名前が並んでいた。
千晶は声をかけずに、ふみの後ろを通った。通りながら、少しだけ水槽をのぞいた。岩と水と、なにか小さいもの。それを何十分も見ていられる理由は、千晶にはわからなかった。九年前の千晶なら、わからないことに少しいらいらしただろう。今日の千晶は、わからないまま通りすぎることにした。
十三時三十分、大窓の前でダイバー解説を聞いた。ウェットスーツを着た係の人が水槽の中に入り、水中マイクで話す。ガラスのこちら側のスピーカーから、くぐもった声が聞こえる。ダイバーの人が手を振ると、前の列の子どもたちがいっせいに振り返した。千晶も小さく振った。
十三時五十五分、出口の手前で⑧のスタンプを押した。八つそろった。台紙の八つのマスが全部埋まったのを、千晶はしばらく眺めていた。ポストカードとの交換は最後でいい。
三周目はゆっくり回ることにした。千晶にとっての「ゆっくり」で。
十四時五分、②の水面デッキで、またふみを見かけた。ふみは磯の部屋を出て、デッキの手すりのそばに立っていた。下をのぞきこんだまま、何かを待つように動かない。千晶はまた、その背中の後ろを通った。
深海の小部屋では、今度は解説パネルを全部読んだ。読みながら、この部屋が順路のこの場所にある理由を考えた。クラゲの回廊で暗さに目を慣らしてから、もっと暗い部屋に入れる。たぶん、そういうことだ。誰かと答え合わせをするわけではないけれど、千晶はこういうことを考えるのが好きだった。
十四時五十分、千晶は④浅瀬の部屋へ向かった。エイの窓の前で時計を見ると、十四時五十二分だった。早すぎるとは思わなかった。待ち合わせには、少し早めに着くものだ。
三 エイのおなか
十五時になった。ふみは来なかった。
まあ、ふみだし、と千晶は思った。五分くらいは。
十五時一分、メッセージを送った。「エイの窓、着いてる」
十五時五分。「ふみ?」
既読はつかない。そうだった。見てるあいだはスマホを見ない、と言っていた。えらい、と言ったのは千晶だ。
エイの窓の前の子どもは入れ替わって、二人になっていた。千晶は窓の横の壁にもたれて、入ってくる人の顔を一人ずつ見た。マスタード色のカーディガンは来ない。
十五時八分。千晶は考えはじめた。待つのは苦手だが、考えるのは苦手ではない。
一つ目。ふみが時間を忘れている。磯の部屋で、一時間近く同じ水槽を見ていた人だ。ありえなくはない。でも、ふみはアラームをかけると言った。ふみは、自分で言ったことは守る。九年前もそうだった。美術館でも、閉館の三十分前には出てくると言って、本当に三十分前に出てきた。千晶が二時間待ったのは、ふみが遅れたからではない。千晶が早すぎたからだ。
二つ目。場所を間違えている。エイの窓はマップに一つしかない。でも、エイが見える場所なら、ほかにもある。②の水面デッキから見えた大きな影も、エイだった。ふみは二時すぎ、デッキの手すりのところでじっとしていた。
千晶は、エイの窓をのぞきこんだ。砂の上に平たいエイが一枚、じっとしている。上から見下ろす形だ。見えているのは背中で、目が二つ、小さく出っぱっている。
背中。
水面デッキから見えたのも、背中だった。
――エイがおなかを見せて、頭の上を通っていくところ。
列に並んでいたとき、ふみはそう言った。千晶は画面の明るさを探していた。あったねー、と言った。あったのは確かだ。でも、ちゃんと聞いてはいなかった。
――あそこのこと、エイの窓って呼んでたよね。
千晶は小窓の前から体を起こした。おなかが見えるのは、下から見上げる場所だ。この建物で、エイの下に人が立てる場所は一つしかない。
角を曲がると、すぐだった。三十歩もない。
③大窓の前は、ダイバー解説のときよりずっと空いていた。ガラスの前に、背もたれのない長いベンチが二つ並んでいる。左のベンチの端に、マスタード色のカーディガンが座っていた。膝の上にはスケッチブック。顔は上を向いている。
ちょうど、エイが一枚、ガラスの高いところを横切っていくところだった。白いおなかが天井からの光を受けて、ふみの顔の上をゆっくり通りすぎていく。
千晶は、声をかけるのを少し待った。何秒か。エイが窓の端に消えるまで。
ふみが振り向いた。
「あ、千晶。三回目」
「三回目って何」
「通ったの。磯のところと、デッキのところ。これで三回目」
自分の背中が見られていたことを、千晶はそのとき初めて知った。
「十五時十三分」千晶は時計を見て言った。「ふみ、ここ、エイの窓じゃないよ」
「エイの窓でしょ」ふみは真上を指さした。「おなか」
「マップだと、エイの窓はあっち。④の、浅瀬の部屋の中の小さい窓。私、指さしたよね」
ふみはまばたきをした。それから、トートバッグからくしゃくしゃになった館内マップを出して広げ、④を見つけた。
「……ほんとだ。書いてある」
「指さしたとき、どこ見てたの」
「床」ふみは正直に言った。「貝がはまってたから」
千晶は何か言いかけて、やめた。そのかわりに、自分のことを言った。
「私も、並んでるときにふみが言ったこと、聞いてなかった。エイの窓って呼んでたよねって。あったねーって言ったけど、スマホいじってた」
「言ったね、あったねーって」
「聞いてなかった」
「うん。そんな気はしてた」
ふみは少し笑って、ベンチの自分の隣をぽんぽんと叩いた。千晶は座った。
「アラーム、鳴った?」
「二時五十五分にポケットがふるえたから、ここで待ってた。ここがエイの窓だから」
「スマホ見てよ、とは言わないでおく」と千晶は言った。
「言っていいよ」
「言わない。えらいって言ったの、私だから」
「三時から十三分、待ってた?」
「ふみは?」
「わたしはアラームから十八分。でも、そのあいだに、エイが三回通った」
「数えてたの」
「数えてはない。見てた」
四 四分十秒
それから二人は、しばらく黙っていた。気まずい黙りかたではなかったが、千晶の膝は小さく揺れていた。
ふみが言った。「美術館のとき、千晶がカフェのガラスの向こうに見えてたんだよね。最後の部屋の前の廊下から」
千晶は膝を揺らすのをやめた。
「背中が怒ってた」
「怒ってないよ」
「怒ってたよ。それで、最後の部屋は走って見た。走って見たから、何があったか覚えてない」
「……怒ってるつもりはなかった。ただ、ふみが私のせいで急いでるのがわかって、それが嫌で。たぶん、それで背中がああなった」
「千晶のせいじゃないよ。わたしが、千晶を待たせるのが嫌だったの」
「待ったのは、私が勝手に早く終わるからでしょ」
「そうだね」ふみはあっさり言った。「千晶は勝手に早く終わる」
千晶は笑ってしまった。
「でもね」とふみは続けた。「今日、千晶が後ろを通ったとき、ちょっとうれしかった。あ、回ってるな、と思って。楽しそうな歩き方だった」
「楽しかったよ。ペンギンの輪の色、全部覚えた。たぶん明日には忘れるけど」
「スタンプは?」
千晶は台紙を出した。八つ全部埋まっている。ふみも自分の台紙を出した。①、②、③。
「三つ」
「ここで押した」ふみは大窓の横のスタンプ台をあごで示した。「二時二十五分くらい」
閉館まで、あと一時間四十五分あった。千晶はいつもの癖で、頭の中で組み立てを始めた。ふみはまだ④から先を見ていない。クラゲに二十分、深海に二十五分、アザラシ解説が十五時四十分から――
「千晶、いま時間割を作ってるでしょ」
「作ってない」
「作ってる顔」
「……作ってた」
「作っていいよ。でも、その前に二十分だけ、ここに座ってて」
千晶はふみを見た。
「二十分、なにもしないで?」
「なにかしてもいいよ。見てれば」
千晶は大窓を見た。青くて、広い。銀色の群れが右から左へ流れていき、窓の外へ消える。しばらくすると、また右から現れる。
最初の三分くらい、千晶の膝は揺れていた。四分目に、気がついた。
「ふみ。今の群れ、さっきのと同じ?」
「どうかな。たぶん」
千晶は腕時計のストップウォッチを押した。群れの先頭が窓の左端に消えたときに押して、右端にまた現れたときに止める。四分十秒。
もう一回。四分五秒。
「同じ群れかどうかはわからないけど」と千晶は言った。「同じくらいの間隔で回ってくる。たぶん」
「たぶんね」
「水槽の大きさと泳ぐ速さで決まるのかな。いや、知らないけど。知らないことを言うのはやめとく」
「やめとくの、えらい」
三回目は四分二十秒だった。
「ちょっと遅れた」
「エイが前を横切ったから、よけたんじゃない?」
「それも、たぶんでしょ」
「たぶん」
ふみはスケッチブックをめくった。大窓の下書きが描いてある。四角い窓と、群れの流れを表す線と、ベンチの端。ふみはその余白を指でとんとんと叩いた。
「ここに、千晶の数字、書いていい?」
「何のために」
「わたしの絵には、時間が入らないから」
千晶は少し考えてから、ふみの鉛筆を借りて、余白に小さく書いた。4'10"、4'05"、4'20"。ふみの鉛筆は、千晶の手には少し短かった。書き終わって、すぐに返した。
ふみはページを一枚戻した。磯の水槽の岩のすきまが、細かく描いてあった。小さなカニの脚が一本一本まで描いてある。その絵の隅に、ぼんやりした人影がひとつあった。小さなリュックを背負った、早足の後ろ姿。次のページのデッキの手すりの絵にも、同じリュックの人影が半分だけ描いてあった。
「これ、私?」
「一時すぎと、二時すぎ。時間はちゃんと見てないけど」
「一時十七分と、二時五分」千晶は言った。「合ってる」
「千晶、通るのが速いから、二回とも半分しか描けなかった」
二十分たった。千晶の時計で、ちょうど。
「ねえ」と千晶は言った。「次から、待ち合わせ、やめない?」
「水族館で?」
「水族館で。合流場所を決めると、どっちかが待つことになる。待ってると、待ってることしか考えなくなる。私は、そういう人だから」
「わたしは、待ってるあいだも見てるけど」
「同じ待ち時間でも、ふみはエイを見てたんだよね。私は時計ばっかりだった」
「エイの窓だよ」
「わかった。ふみのエイの窓」千晶は認めた。「で、提案。ふみは好きなところにいて、動きたくなったら動く。私は回る。回ってきたら、ふみを探して肩を叩く」
「探せる?」
「この館、一周二十五分くらい。止まってるふみを探す目安にはなる。動いたら行き違うかもしれないけど、見つからなかったら、館を出てから連絡しよう」
「わたしのことも、四分十秒みたいに」
「そう。たぶん」
「叩かれたら、わたしはどうするの」
「ひとつだけ、そのとき見てるものを教えて。私はひとつだけ、時間を教える。閉館まであと何分とか、次の解説が何時とか」
ふみは考えた。鉛筆のおしりで、あごを二回つついた。
「ひとつだけ、ね。二つはだめ?」
「ひとつ。私が待つことになるから」
「それ、待ってるじゃん」
「肩を叩いて、ひとつ聞くあいだだけ。それは待つって言わない」
ふみは笑った。「言うと思う」
「言わない」
十五時三十八分。千晶は立ち上がった。
「アザラシ解説、行ってくる」
「わたしはクラゲ」
「④は?」
「通るよ」
「エイの窓、ちゃんと見てね。本物の」
「どっちも本物だよ」
五 ひとつだけ
アザラシ解説は十五分だった。係の人は、プールにいるアザラシの一頭が「マル」という名前で、名付けたのは前の担当者で、由来は誰も知らないのだと話した。会場が笑った。千晶はそれを、ふみに教える「ひとつ」の候補に取っておいた。
十五時五十五分、「もう一周」の階段を上がり、①と②を抜けて、スロープを下りた。大窓を過ぎ、④を抜ける。エイの窓の前には、また子どもが並んでいた。
ふみは⑤クラゲの回廊にいた。円い水槽の前で、首を少しかしげている。十六時八分。
千晶は、ふみの肩をとんと叩いた。
ふみは振り返らずに、水槽の中を指さした。
「あの、ちょっと遅れてるやつ」
小さな丸いクラゲがたくさん、ゆっくり浮かんだり沈んだりしていた。その中に一つだけ、傘のふちが少し折れたようになっているのがいる。

「みんなと同じように動いてるのに、ちょっとずつ遅れるの」
千晶はしばらくそれを見た。たしかに、そう見えた。本当に遅れているのかはわからない。ただ、そう見えるということはわかった。
「千晶の番」
「閉館まで、五十二分」
「それだけ?」
「ひとつだけって言ったでしょ」
「アザラシは?」
「それは次」
千晶はもう歩きだしていた。背中のほうで、ふみが小さく笑う気配がした。
二回目は十六時二十五分、⑥深海の小部屋だった。暗い部屋で、ふみを見つけるのに少し時間がかかった。目が慣れるまでにかかる時間は、千晶もふみも同じだった。ふみはいちばん奥の、背の低い水槽の前にしゃがんでいた。
とん。
「赤いのに、ここだと黒っぽく見える」ふみはささやいた。水槽の岩の上に、細長いエビが一匹いる。照明が暗く青みがかっているせいで、色がよくわからない。「ラベルの写真だと赤いの。でもここで見ると、赤だって知ってるから赤く見えるだけな気もする」
千晶はラベルと水槽を見比べた。わからなかった。わからないのは、悪くなかった。
「千晶の番」
「アザラシの一頭、名前がマル」
「時間じゃないじゃん」
「マルっていう名前の由来は、誰も知らないんだって」
「時間じゃないのに、ふたつ言った」
「……閉館まで三十五分」
「みっつ」
千晶は暗がりで肩をすくめて、部屋を出ていった。
閉館を知らせる音楽は、十六時四十五分に流れはじめた。ゆっくりしたオルゴールの曲だった。
三回目に千晶がふみを見つけたのは、⑦テラスだった。夕方の光が、海のほうから低く差していた。ふみはアザラシのプールの前の柵にもたれていた。プールでは一頭が、水面から顔だけ出している。
とん。
「あれ、マルかな」
「わかんない。輪とかないし」
「千晶。いまわたしが見てるもの、ひとつだけ」とふみは言った。「千晶」
「は?」
「回ってきて、肩を叩くまでの顔。三回とも、ちょっと得意そうだった」
千晶は言い返そうとしたが、うまく言葉が出てこなかった。
「時間」とふみが言った。
「閉館まで、十三分」
「じゃあ、出口までは一緒に歩く?」
「それは待ち合わせじゃないから、いい」
出口の手前の⑧のスタンプ台で、ふみは自分の台紙にスタンプを押した。千晶はのぞきこんだ。①②③⑤⑥⑦⑧。
「④がない」
「子どもが並んでたから、あとでいいかと思って」
「エイの窓、見た?」
「見たよ。本物の。背中が砂と同じ色で、目だけ出てた。しばらく見てた」
「でも押してない」
「押してない」ふみは台紙をトートバッグにしまった。「七つ。いいの。次に来たときに押す」
ショップのカウンターで、千晶は八つ埋まった台紙を出した。係の人が三種類のポストカードを並べてくれた。ペンギンと、クラゲと、大窓。千晶は大窓を選んだ。窓いっぱいの青の中を、エイの白いおなかが一枚、斜めに横切っている絵だった。
潮見台駅まで、来た坂を七分かけて上った。ふみが泊まるホテルは駅の向こう側にあって、千晶は電車で帰る。改札の前で二人は立ち止まった。柱のタイルの灯台が、夕方の光で少し赤く見えた。
「ふみ、これ」
千晶はポストカードを出した。裏には、さっき坂の途中で立ち止まって書いた数字が並んでいる。4'10"、4'05"、4'20"。その下に小さく「④」と書いて、丸で囲んであった。
「④って」
「次に押すやつ」
ふみはポストカードを表に返して、しばらく見ていた。大窓と、エイのおなか。
「仙台にも水族館あるよ」
「知ってる」
「エイの窓、あるかな」
「あったら、ふみのエイの窓なのか、マップのエイの窓なのか、確かめてから行く」
「確かめないで行こうよ」とふみは言った。「待ち合わせしないんだから」
千晶は少し考えて、うなずいた。
「明日の看板。パン屋さんの」と千晶は言った。「何時から?」
「九時。たぶん夕方まで」
「昼休み、十二時十分に商店街を通る。営業所から歩いて」
「通るだけ?」
「肩、叩く」
「ひとつだけね」
「ひとつだけ」
ふみは手を振って、駅の向こう側へ続く階段を上っていった。マスタード色のカーディガンが見えなくなってから、千晶は改札に入る前に、もう一度柱の灯台を見上げた。首が長い。九年前もそうだったかどうかは、やっぱり思い出せなかった。それでよかった。次にふみが来たときに聞けばいい。
水族館では、待ち合わせない。たぶん、商店街でも。


