一 甘いですね
「甘いですね」は、今日だけでもう二十回は聞いた。
三木奈緒は、次の紙スプーンを差し出した。日曜市の時計は十一時二十分。隣の屋台では焼きとうもろこしが鳴り、向かいでは犬が自分のリードを踏んで動けなくなっている。奈緒の前だけ、時間が進まない。
「ありがとうございます。こちら、いちごと黒こしょうの――」
「ごちそうさま」
食べ終えた人は、空のスプーンを捨てて歩いていった。
テーブルには四十瓶並べた。今は三十八瓶ある。売れたのは二瓶で、うち一瓶を買ったのは、隣のとうもろこし屋の奥さんだった。
「売れたのは売れたやん」と、店の主の田所さんは言った。
田所さんは、商店街の端でパンとジャムの店を営んでいる。今日は、そこで土日だけ働く奈緒を誘って、初めて市に出た。黒こしょう入りは奈緒が提案したものだ。瓶のラベルには、張り切って〈大人のいちご〉と刷った。
隣には、田所さんがいつも作る普通のいちごジャム。新作二十瓶と定番二十瓶を、同じ値段で置いた。
「試食を替えましょうか。普通のほうへ」
「どっちでもええよ」
それが、いちばん困る返事だった。
奈緒は平日に、食品会社の事務をしている。新商品の会議ではいつも、試食をして、意見を書き、机を拭いていた。一度くらい、味を決めるほうに回りたかった。
田所さんが奈緒の提案を聞いてくれたときは、うれしかった。試作を五回もした。黒こしょうを細かく挽いた回も、あえて粗くした回もある。今日売れた二瓶は、どちらも普通のほうだった。
テーブルの陰でスプーンを口へ入れた。いちごの味が来て、少し遅れて、舌の奥が温かくなる。
おいしいと思う。朝から何度も食べているから、もう、思い込んでいるだけかもしれない。
「奈緒さん、休憩。何か買うてき」
「お腹、すいてないです」
「いちごをお昼ごはんにしたらあかん」
「あ、戻ってくるついでに――」
田所さんは言いかけて、やめた。
「ううん。自分の好きなん買うてき。休憩やのに、買い出し頼むとこやった」
その少し間違った気遣いに、奈緒は初めて笑った。
二 何に塗るんですか
買ったのは、紙皿に載った揚げたてのポテトだった。
ベンチの先客は、とうもろこし屋の奥さんだった。買ってくれた瓶を買い物袋に入れるところで、奈緒と目が合った。
「あの、ありがとうございました」
「ちょうどなくなっててん」
奈緒は座った。感想を聞きたかった。けれど、買ってくれた人まで試食係にしたら、申し訳ないような気がした。
「何に塗るんですか」
口から出たのは、違う質問だった。
「うちはヨーグルト。夫は食パン。焦がしてから、山ほど塗る」
「焦がしてから」
「目ぇ離すねん。毎朝、焼けたって音がしてから洗濯物の話を始める」
奥さんは笑って、奈緒のポテトを見た。
「それ、一本もらってええ?」
「どうぞ」
奈緒も一本食べた。塩と油の味が、いちごでいっぱいだった口を広げた。紙皿の端に、黒こしょうの粒が付いている。

売り場へ戻ると、田所さんは小さなパンを切っていた。
「試食、なくなりました?」
「減らんから、私がお腹すいてきた」
田所さんは切れ端にジャムを塗って、口へ入れた。
「パンが欲しくなりますね」
「うち、パン屋やからな」
二人とも、テーブルの紙スプーンを見た。
ジャムだけを食べてもらっていた。色がきれいに見えると思って、白いスプーンを選んだのは奈緒だ。
「パンで試してみてもいいですか」
「切るの、手伝うてな」
試食用に使う予定ではなかったから、パンは少ししか残っていない。田所さんは販売用の小さな山形パンを一つ下げた。袋の口を結んでいた紐を、丁寧にほどいた。
パンにも値段があるのだ。奈緒は、その紐が緩むのを見ていた。
「何枚くらい切ります?」
「まず少し。全部替えて、また誰も食べへんかったら、二人でパンの大食い大会になる」
奈緒は笑わずにうなずき、包丁を受け取った。
三 おすすめしません
パンに載せた黒こしょうのジャムを、最初に食べたのは、革の帽子をかぶった男の人だった。
「甘いですね」
まただ、と思った。奈緒は笑顔を作る前に聞いた。
「普段は、何に塗られますか」
「ああ、僕は塗らない。妻が好きだから、見てただけ」
「奥さまは、辛いものはお好きですか」
「苦手。しょうが湯も辛いって」
奈緒は差し出しかけた新作の瓶を戻した。
「それなら、こちらの普通のいちごをおすすめします。今のには、黒こしょうが入っているので」
男の人は普通のジャムを試し、一瓶買った。
奈緒は袋を渡してから、田所さんを見た。
「新作、すすめませんでした」
「聞いとった。ええんちゃう」
次に来た人は、瓶を二つ持ち上げて、裏のラベルを見比べた。奈緒が説明しかけると、その人は片手を上げた。
「お昼を食べながら考えてもいい?」
「はい」
奈緒は説明を飲み込んだ。その人は隣の屋台へ行って、焼きとうもろこしを買った。戻ってはこなかった。
午後一時を過ぎた。
パンを使えば、どんどん売れるというわけではなかった。足を止める人は増えたが、試食だけの人も多い。田所さんが販売用から下げたパンは、半分になった。
「新作の札、変えていいですか」
〈大人のいちご〉を、奈緒は裏返した。
その言葉は好きだった。自分で印刷し、自分で角を丸く切った。捨てるのは惜しかったので、裏に鉛筆で書いた。
〈いちごと黒こしょう。チーズトーストにも〉
田所さんが読んだ。
「チーズトーストで試したん?」
「試作のとき。私は、それがいちばん好きでした」
「それ、朝から言うたらよかったな」
奈緒は、黒こしょうの瓶を一つ、普通の瓶の隣へ動かした。
大人の味だと褒めてほしかった。そればかり考えて、自分がどう食べると好きなのかを、一度も話していなかった。
ベビーカーを押した女の人が来て、鉛筆の札を読んだ。
「朝からこんなに手間、かけられないな」
奈緒は思わず、チーズをのせて焼くだけです、と言いかけた。
言わなかった。
「そのまま塗るなら、普通のいちごもあります」
その人は普通のほうを買った。
奈緒は売上の紙に一本線を足した。新作の欄は、まだ空白だった。普通のいちごのほうは、そのあとも少しずつ売れていった。
四 一瓶目
閉店の札を出す三時の少し前、杖をついた女の人が戻ってきた。
午前中に、ジャムを見ただけで行った人だった。今度は手に、小さな青い保冷袋を持っている。
「まだ、こっちの味見できる?」
黒こしょうの瓶を指した。
奈緒は新しいパンを一片取り、薄く塗って差し出した。
女の人は、食べてから少し待った。
「あとから来るのね」
「はい。最初は、いちごです」
「チーズね。いつもはチーズだけなの」
保冷袋の口から、角張った包みが見えた。日曜市の奥のチーズ屋の、黄色い紙だった。
「クリームチーズでも合います。私は食パンを焼いて――」
「パンは焼かないの。朝から見張るのが面倒だから」
奈緒は、昨日試作を食べた台所を思い出した。
焼くとおいしい。けれど、焼かない場合を、試していない。
「焼かないパンでは、私はまだ試していません。ジャムとクリームチーズを一緒に食べるのは、おいしかったです」
女の人は一瓶を手に取った。
「じゃあ、パンは私が試す」
奈緒は、代金を受け取った。お釣りを数える指が、少しもたついた。
「今度、お店で聞かせていただけたら」
言ってから、また感想を仕事にしてもらったようで、言い直した。
「あの、よかったらで」
「嫌いだったら、言うわよ」
女の人は保冷袋に瓶を入れた。

「もちろんです」と奈緒は言った。今度は、すぐに言えた。
店じまいをすると、新作は十九瓶、普通のいちごは十二瓶残った。新作は一瓶しか売れなかった。それでも奈緒は、売上の紙を畳まずに、しばらく見ていた。
田所さんは残ったパンの端を二つに割り、片方を差し出した。
「お腹すいた?」
「すきました」
「ジャム、どっち」
奈緒は少し考えた。今日はもう、いちごをずっと食べていた。
「何も塗らずに食べてもいいですか」
田所さんは口にパンをくわえたまま、うなずいた。
奈緒は自分で書いた札を、売れ残りの箱に立てた。鉛筆の先が丸まっている。次の日曜までに、削っておこうと思った。


