← 本棚へ戻る
食・仕事

試食係の午後

売れたのは、まだ一瓶。それでも聞きたいことが変わってきた。

作者
GPT
読了目安
約9分
長さ
掌編
#ほっこり#日常
試食係の午後のイメージ

あらすじ

日曜市で新作ジャムを売る奈緒。試食は減るのに、瓶は減らない。白いスプーンからパンへ、すすめる言葉から食べる人の朝へ。初めて自分で考えた味を売る、一日の小さな商い。

読みやすく、好きなところから。

目次・4章

一 甘いですね

「甘いですね」は、今日だけでもう二十回は聞いた。

三木奈緒は、次の紙スプーンを差し出した。日曜市の時計は十一時二十分。隣の屋台では焼きとうもろこしが鳴り、向かいでは犬が自分のリードを踏んで動けなくなっている。奈緒の前だけ、時間が進まない。

「ありがとうございます。こちら、いちごと黒こしょうの――」

「ごちそうさま」

食べ終えた人は、空のスプーンを捨てて歩いていった。

テーブルには四十瓶並べた。今は三十八瓶ある。売れたのは二瓶で、うち一瓶を買ったのは、隣のとうもろこし屋の奥さんだった。

「売れたのは売れたやん」と、店の主の田所さんは言った。

田所さんは、商店街の端でパンとジャムの店を営んでいる。今日は、そこで土日だけ働く奈緒を誘って、初めて市に出た。黒こしょう入りは奈緒が提案したものだ。瓶のラベルには、張り切って〈大人のいちご〉と刷った。

隣には、田所さんがいつも作る普通のいちごジャム。新作二十瓶と定番二十瓶を、同じ値段で置いた。

「試食を替えましょうか。普通のほうへ」

「どっちでもええよ」

それが、いちばん困る返事だった。

奈緒は平日に、食品会社の事務をしている。新商品の会議ではいつも、試食をして、意見を書き、机を拭いていた。一度くらい、味を決めるほうに回りたかった。

田所さんが奈緒の提案を聞いてくれたときは、うれしかった。試作を五回もした。黒こしょうを細かく挽いた回も、あえて粗くした回もある。今日売れた二瓶は、どちらも普通のほうだった。

テーブルの陰でスプーンを口へ入れた。いちごの味が来て、少し遅れて、舌の奥が温かくなる。

おいしいと思う。朝から何度も食べているから、もう、思い込んでいるだけかもしれない。

「奈緒さん、休憩。何か買うてき」

「お腹、すいてないです」

「いちごをお昼ごはんにしたらあかん」

「あ、戻ってくるついでに――」

田所さんは言いかけて、やめた。

「ううん。自分の好きなん買うてき。休憩やのに、買い出し頼むとこやった」

その少し間違った気遣いに、奈緒は初めて笑った。

二 何に塗るんですか

買ったのは、紙皿に載った揚げたてのポテトだった。

ベンチの先客は、とうもろこし屋の奥さんだった。買ってくれた瓶を買い物袋に入れるところで、奈緒と目が合った。

「あの、ありがとうございました」

「ちょうどなくなっててん」

奈緒は座った。感想を聞きたかった。けれど、買ってくれた人まで試食係にしたら、申し訳ないような気がした。

「何に塗るんですか」

口から出たのは、違う質問だった。

「うちはヨーグルト。夫は食パン。焦がしてから、山ほど塗る」

「焦がしてから」

「目ぇ離すねん。毎朝、焼けたって音がしてから洗濯物の話を始める」

奥さんは笑って、奈緒のポテトを見た。

「それ、一本もらってええ?」

「どうぞ」

奈緒も一本食べた。塩と油の味が、いちごでいっぱいだった口を広げた。紙皿の端に、黒こしょうの粒が付いている。

休憩のベンチで、奈緒がとうもろこし屋の奥さんと一皿のポテトを分ける。

売り場へ戻ると、田所さんは小さなパンを切っていた。

「試食、なくなりました?」

「減らんから、私がお腹すいてきた」

田所さんは切れ端にジャムを塗って、口へ入れた。

「パンが欲しくなりますね」

「うち、パン屋やからな」

二人とも、テーブルの紙スプーンを見た。

ジャムだけを食べてもらっていた。色がきれいに見えると思って、白いスプーンを選んだのは奈緒だ。

「パンで試してみてもいいですか」

「切るの、手伝うてな」

試食用に使う予定ではなかったから、パンは少ししか残っていない。田所さんは販売用の小さな山形パンを一つ下げた。袋の口を結んでいた紐を、丁寧にほどいた。

パンにも値段があるのだ。奈緒は、その紐が緩むのを見ていた。

「何枚くらい切ります?」

「まず少し。全部替えて、また誰も食べへんかったら、二人でパンの大食い大会になる」

奈緒は笑わずにうなずき、包丁を受け取った。

三 おすすめしません

パンに載せた黒こしょうのジャムを、最初に食べたのは、革の帽子をかぶった男の人だった。

「甘いですね」

まただ、と思った。奈緒は笑顔を作る前に聞いた。

「普段は、何に塗られますか」

「ああ、僕は塗らない。妻が好きだから、見てただけ」

「奥さまは、辛いものはお好きですか」

「苦手。しょうが湯も辛いって」

奈緒は差し出しかけた新作の瓶を戻した。

「それなら、こちらの普通のいちごをおすすめします。今のには、黒こしょうが入っているので」

男の人は普通のジャムを試し、一瓶買った。

奈緒は袋を渡してから、田所さんを見た。

「新作、すすめませんでした」

「聞いとった。ええんちゃう」

次に来た人は、瓶を二つ持ち上げて、裏のラベルを見比べた。奈緒が説明しかけると、その人は片手を上げた。

「お昼を食べながら考えてもいい?」

「はい」

奈緒は説明を飲み込んだ。その人は隣の屋台へ行って、焼きとうもろこしを買った。戻ってはこなかった。

午後一時を過ぎた。

パンを使えば、どんどん売れるというわけではなかった。足を止める人は増えたが、試食だけの人も多い。田所さんが販売用から下げたパンは、半分になった。

「新作の札、変えていいですか」

〈大人のいちご〉を、奈緒は裏返した。

その言葉は好きだった。自分で印刷し、自分で角を丸く切った。捨てるのは惜しかったので、裏に鉛筆で書いた。

〈いちごと黒こしょう。チーズトーストにも〉

田所さんが読んだ。

「チーズトーストで試したん?」

「試作のとき。私は、それがいちばん好きでした」

「それ、朝から言うたらよかったな」

奈緒は、黒こしょうの瓶を一つ、普通の瓶の隣へ動かした。

大人の味だと褒めてほしかった。そればかり考えて、自分がどう食べると好きなのかを、一度も話していなかった。

ベビーカーを押した女の人が来て、鉛筆の札を読んだ。

「朝からこんなに手間、かけられないな」

奈緒は思わず、チーズをのせて焼くだけです、と言いかけた。

言わなかった。

「そのまま塗るなら、普通のいちごもあります」

その人は普通のほうを買った。

奈緒は売上の紙に一本線を足した。新作の欄は、まだ空白だった。普通のいちごのほうは、そのあとも少しずつ売れていった。

四 一瓶目

閉店の札を出す三時の少し前、杖をついた女の人が戻ってきた。

午前中に、ジャムを見ただけで行った人だった。今度は手に、小さな青い保冷袋を持っている。

「まだ、こっちの味見できる?」

黒こしょうの瓶を指した。

奈緒は新しいパンを一片取り、薄く塗って差し出した。

女の人は、食べてから少し待った。

「あとから来るのね」

「はい。最初は、いちごです」

「チーズね。いつもはチーズだけなの」

保冷袋の口から、角張った包みが見えた。日曜市の奥のチーズ屋の、黄色い紙だった。

「クリームチーズでも合います。私は食パンを焼いて――」

「パンは焼かないの。朝から見張るのが面倒だから」

奈緒は、昨日試作を食べた台所を思い出した。

焼くとおいしい。けれど、焼かない場合を、試していない。

「焼かないパンでは、私はまだ試していません。ジャムとクリームチーズを一緒に食べるのは、おいしかったです」

女の人は一瓶を手に取った。

「じゃあ、パンは私が試す」

奈緒は、代金を受け取った。お釣りを数える指が、少しもたついた。

「今度、お店で聞かせていただけたら」

言ってから、また感想を仕事にしてもらったようで、言い直した。

「あの、よかったらで」

「嫌いだったら、言うわよ」

女の人は保冷袋に瓶を入れた。

黄色いチーズの包みとジャム一瓶が入った青い保冷袋を、奈緒と杖をついた客が持つ。

「もちろんです」と奈緒は言った。今度は、すぐに言えた。

店じまいをすると、新作は十九瓶、普通のいちごは十二瓶残った。新作は一瓶しか売れなかった。それでも奈緒は、売上の紙を畳まずに、しばらく見ていた。

田所さんは残ったパンの端を二つに割り、片方を差し出した。

「お腹すいた?」

「すきました」

「ジャム、どっち」

奈緒は少し考えた。今日はもう、いちごをずっと食べていた。

「何も塗らずに食べてもいいですか」

田所さんは口にパンをくわえたまま、うなずいた。

奈緒は自分で書いた札を、売れ残りの箱に立てた。鉛筆の先が丸まっている。次の日曜までに、削っておこうと思った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また、読みたくなったときに。次の物語を探す