一 入口から三歩
喫茶こならで働き始めた日に、私はお客さんの人数を間違えた。
十一時四十分。窓際にスーツの男性が一人。中央の席には、緑色のコートを背に掛けた女性が一人。ほかの椅子は空いていた。なのに、厨房のレールには注文票が三枚あった。
一枚目は、二番、ブレンド。
二枚目は、五番、ミルクティー。
三枚目は、五番、トースト。パンは切らない。
「ミルクティーとトーストのセットですね」
私は会計の伝票を一枚にまとめようとした。
「まとめんといて。追加のご注文やから、出すまで票を残しといて」
店主の園田さんは、トースターをのぞいたまま言った。
五番の女性は、ミルクティーを前に、本を読んでいた。向かいの椅子にも、隣の椅子にも荷物はない。私は入口を見た。昨日教わった席の配置では、五番は四人掛けだ。席そのものは間違えていない。
トーストを運ぶと、女性は小さく首を振った。
「まだ、そこへ置いておいて」
テーブルの端を指していた。
私は皿を置いた。パンは厚い一枚切りで、四隅が少し濃く焼けていた。バターは小皿に、ナイフは皿の右側に添える。それがこの店の決まりだった。
「お待ち合わせですか」
聞くと、女性は笑った。
「ええ。もう着くと思う」
私は入口から三歩のレジへ戻った。
この店を選んだのは、静かそうだったからだ。前の職場は駅前の大きなカフェで、私はいつも誰かに謝っていた。ここなら、一人ずつ、ちゃんと顔を見て接客できると思った。
五番の皿のバターは、まだ包みのままだった。
二 おかわりではありません
十二時を過ぎると、店は急に忙しくなった。
私は水差しを持って歩き、園田さんは卵を焼きながらコーヒーを淹れた。五番のテーブルは間仕切りの向こうへ半分隠れ、誰が出入りしたか見ている余裕がなくなった。
「五番さん、追加でコーヒー。薄め」
園田さんが言った。
レールに四枚目が掛かった。五番、ブレンド、薄め。
「ミルクティーから、ですか」
「薄めやって。お湯の量、こっちで見るから」
私はカップを温めた。
五番へ運ぶと、女性が二人いた。
コートの女性は、相変わらず本を読んでいる。向かいには、紺の作業着の女性。短い白髪で、手には、木の粉のようなものが付いていた。
待っていた人が来たのだ。
「お待たせしました」
私は作業着の女性の前へ、コーヒーを置いた。
「ありがとう。あなたが新しい人ね」
そう言って、女性はトーストを指でつまんだ。
薄くなっていた。
一枚のパンは切らない。その注文を厨房へ通したのは私だ。ナイフは、バターの小皿の横にあった。刃にパンくずが付いていたかは、そのとき確かめなかった。
コートの女性の皿には、もう片方のパンが載っていた。さっきまで、カップだけだった人の前に。
「取り皿、お持ちしました?」
自分で聞いて、自分で変だと思った。私が持ってきた覚えはない。
「カウンターにあったから、いただいたの」とコートの女性が言った。
私は二人のカップを見た。
ミルクティーは少し減っていて、コーヒーからは湯気が立っている。皿も、コートの人が使っているほうだけ、バターの跡があった。
トーストを頼んだのは、まだ来ていなかった作業着の人なのだろうか。だったら、先に半分食べてもいいように、頼んであるのだろうか。
私は、そういうことは余計に聞かない店員になると決めていた。
なのに、気になった。
三 半分の厚さ
二人が帰るとき、園田さんはレジに立っていた。
作業着の女性は、コーヒーの分を払った。
コートの女性はミルクティーと、トーストの分を払った。
「あ、別なんですね」
私は、二人の分を一枚にまとめかけた手を引っ込めた。
「いつも、こうなのよ」
コートの女性は、緑の袖に腕を通した。
作業着の女性が私を見た。
「変な顔してるね」
「すみません」
「謝らなくていいけど。パン?」
私はとうとううなずいた。
園田さんが、使い終わった注文票を外した。
「言うたらよかったな。午前中、説明する間がなくて」
作業着の女性は、近くの額縁工房の人だった。コートの女性はその友達で、週に一度、ここで会う。工房の人は昼休みがずれやすく、何時に来られるかは、仕事次第だという。
「今日は十二時五分だった」と作業着の人は言った。「来週は、もっと遅いかも」
「じゃあ、先にパンを?」
「そう。私が頼むの」とコートの人が言った。
「半分食べたところで、この人が来たら、残りを渡すんですか」
私が聞くと、二人は顔を見合わせた。
「食べ始めるのは、二人になってからよ」
「じゃあ、冷めませんか」
「冷める」と、作業着の人が即答した。
私は黙った。
たぶん、もう一つ何かある。冷めてでも待つほど大切な思い出とか、この店でしか味わえない、二人だけの時間とか。
コートの人は、私の顔を見て、少し困ったように笑った。
「私、焼いたばかりのパンを切るの、苦手なの。つぶしてしまうでしょう。それで前に、全部こっちで切ってたら」
「厚さが違った」と作業着の人が言った。
「毎回、言うのよ。自分のほうが薄いって」
「実際、薄かった」
「だから、切るのはこの人。その代わり、私が先に注文することにしたの」
私は、皿の上のパンを思い出した。
焼き目の四角を二つに分けたのではない。厚い一枚を、横から二枚に分けていたのだ。上面と下面を分ければ、片方には上の焼き目、片方には下の焼き目が残る。
だから、私には一枚のパンが、そのまま半分に減ったように見えた。
「熱いと、中が切りにくいんだよ」と作業着の人は言った。「少し置いてくれてると、ちょうどいい」
「冷めたパンが好きなんですか」
「私は熱いほうが好き」
「私も」とコートの人が言った。
二人とも、普通に損をしているらしかった。

園田さんが、レジの下からメモ帳を出した。
「前にも話したやろ。うちのパン、頼まれたら薄く切ってから焼けるって」
「それだと、歯応えが違うのよ」
「そこは二人とも同じ意見なんやな」
二人はうなずいた。そこの意見だけは、一度も割れたことがないのだそうだ。
四 来週の注文
午後の客足が落ち着くと、園田さんは賄いにトーストを焼いた。
私は水を飲んでいた。園田さんは一枚焼いたパンをしばらく置き、それから横から切った。
「やってみたかった?」
「はい」
私は一枚受け取った。確かに、先に薄く切って焼くのとは違う。内側が白く柔らかく、外側だけが香ばしい。半分でも、ずいぶん満足できた。
「お二人のこと、最初から知ってたんですか」
「ここ、二十年やってるからね」
「私、待ち合わせの人の分まで食べてるのかなって、思ってしまって」
園田さんは、自分のパンを見た。
「まあ、そういうお客さんもおる」
「いるんですか」
「いる。今の二人は違った。それだけ」
私は、スーツの人の空いたカップを片付けた。二番の人は、本当にブレンドを一杯飲んで帰っただけだった。こちらには、何も謎はなかった。
「来週は、私が切っておきましょうか」
「あの二人に聞いてみ。勝手に切ったら、楽しみ取り上げたことになるかもしれん」
園田さんの口ぶりは、親切というより、経験だった。
私はメモ帳に書いた。

〈五番の二人。パンを先に出す。切らない。皿を二枚。薄めのコーヒーは、工房の人が来てから〉
そう書いて、〈五番〉に線を引いた。来週も同じ席に座るとは限らない。
新しい店では、一人ずつ顔を見ようと思っていた。けれど、顔を覚える前に、人を二人と数え、注文票を三枚と数えていた。
園田さんは、パンくずを集めながら言った。
「それと、あの二人、来週来えへんよ。火曜に旅行やって」
「週に一度、会うって」
「せやから、来週も会う。ここじゃないだけ」
私はメモを閉じた。
残り半分のトーストを、もう一口かじる。自分のほうが、少し薄い気がした。比べる相手は、もう食べ終わっていた。


