一 必ず笑います
「笑えんかったら、笑わんといてね」
川原まりはそう言って、私にチケットを二枚差し出した。
私は一枚だけ受け取った。
「二人分、払うから」
「そういうことをせんといてほしいんよ」
市民ホールの小会議室。まりは来週、そこで初めて一人芝居をする。大きな舞台ではない。午後の短い演目を何組かで持ち寄る会で、まりの出番は十分だった。
「でも、一人分しか売れへんより」
「空席を一つ増やして、売れたことにせんといて」
私は二枚目のチケットから手を引いた。
まりとは、高校の家庭科室で同じミシンを使った。どちらも下糸がつって、二人とも、先に使った人のせいにした。そのときから三十年以上、友達だ。
まりが芝居を始めたのは二年前だった。私はその間ずっと、いいねえ、向いてると思う、と言っていた。
見たことは、まだなかった。
「絶対、笑うから」
私が言うと、まりはチケットの半券を指で押さえた。
「それも、先に決めんといて」
二 袋の中の魚
本番の前々日、私は練習を見せてもらった。
まりの家の居間に、椅子が一脚、買い物袋が一つ。台本は、自分で書いたという。
「魚を買いに行った人の話」
「魚、買うん?」
「今からするから、先に聞かんで」
まりは廊下へ出て、戻ってきた。
背中が少し丸くなっていた。片手で買い物袋を抱え、もう片方の手で眼鏡を持ち上げる。近所でよく会う、どこかのおばさんが入ってきたみたいだった。
「ええの買うたわ。今日はね、ええのよ」
私はうなずいた。
袋から出てきたのは、小さな扇風機だった。
「ああ、そっちかあ」
私は、わかったことがうれしくて拍手した。
まりは扇風機を持ったまま止まった。
「まだ」
「ごめん」
その人は魚を買いに行ったのに、安売りの扇風機を買い、次には湯のみを買い、魚だけを買わずに帰ってくる。家族へ夕飯を尋ねられると、扇風機を回して、ごまかす。
私は、二度、笑うのを逃した。
一度目は湯のみが出たとき。まりが次に何を言うか聞きたくて、息を止めていた。
二度目は、扇風機を魚に見立てて、ひれを作るところ。これは笑うところだと思ったが、まりの手元が危なっかしくて、倒れないように見守ってしまった。
終わると、私は大きく拍手した。
「上手やった」
まりは、扇風機のコードを巻きながら聞いた。
「どこが」
「全部」
「全部は、ないと思う」
私はお茶を飲んだ。お茶は冷たくなっていた。
「まどか、さっき、学校の発表会を見に来たお母さんみたいやった」
「応援してるから」
「知ってる。応援してくれてるのは、知ってるんやけど」
まりは、袋へ扇風機を戻した。
少しだけ腹が立った。悪いことは何もしていないつもりだった。時間も空けた。チケットも買った。褒めたのに。
帰り際、まりが言った。
「あと一回だけ見て。嫌やったら、本番だけでもええけど」
私は靴のかかとを踏みかけて、戻した。
「明日の晩なら」
三 面白くなかったところ
次の日の練習で、私は拍手をしなかった。
まりが一度、こちらを見た。そのまま続けた。
最後まで終わってから、手を叩いた。
「どう?」
「魚の名前をずっと説明するところは、長いと思った」
まりは黙った。
私は、やっぱり言わなければよかったと思った。
「どのへん」
「アジとサバを迷って、タイを見て、値段の話をして、もう一回アジへ戻るやろ。そのあとに、扇風機が出てくるまで」
「そこ、おばさんのこだわりなんよ」
「うん」
「そこを書きたかったんよ」
私はうなずいた。直してほしいとは言っていない。それでも、説明を続けないと逃げたことになるような気がした。
「私は、魚を買う場面を待ってしまった。魚を買う人の話やと思ったから。最初に扇風機が見えたら、魚を買えてない人の話として、聞ける気がする」
まりは、買い物袋をのぞいた。
それから、台本を手に取った。
「なるほどね」
私はようやく息をついた。
「直す?」
「今は直さん。本番までに、これ以上変えると、私が帰ってこられん」
「あ、そう」
まりは笑った。
「でも、長いと思った場所は、わかった。自分でも、ちょっと気になってた」
机の上に、小さなメモが置かれた。〈魚屋、短くできるか〉。
それは直す約束ではなく、まりが後で考えるためのメモだった。
まりはメモを台本に挟んだ。私はお茶のカップに手を伸ばした。今日は、まだ温かかった。

「湯のみを出して、魚が逃げたって言うところは、好きやった」
「あそこ、毎回ちょっと違うんよ」
「昨日は『逃げた』で、今日は『先に帰った』やった」
まりは、驚いた顔をした。
「聞いてたんや」
「聞いてるよ」
言ってから、二人で少し笑った。
四 逃げた魚
本番の会議室は、半分くらい埋まっていた。
私は三列目の端に座った。空席を見て、もう一枚買えばよかったと一瞬思った。それから、そこに一枚のチケットを置いても、人が増えるわけではないと思い直した。
まりの前の人は、ハーモニカを吹いた。少し音を外したが、やり直さなかった。
まりが出てきた。
背中を丸くして、買い物袋を抱え、客席を一度だけ見た。私を探したのか、全体を見たのかは、わからなかった。
「ええの買うたわ。今日はね、ええのよ」
袋から、扇風機が出た。
後ろの席で、誰かが笑った。
その笑いがうれしくて、私はまりより先に笑いそうになった。けれど、今はまだ、扇風機を置くところだ。私は手を膝の上で重ねた。
魚屋の話は、昨日より少し短くなっていた。
まりはアジを見て、サバを見て、そのまま扇風機の安売りの話へ進んだ。タイの値段は出てこなかった。
直したのだ。私に言わずに。
私は、そのことを後で聞こうと思った。今、聞くことではなかった。
湯のみが出た。
まりは袋を何度ものぞき、とうとう底を裏返した。魚はいない。
「あの子、先に帰ってしもうた」
そこで、最前列の男の子が言った。
「扇風機が食べたんちゃう?」
会議室が、ふっと揺れた。
まりは扇風機を見た。
長い、一秒。
私は、まりの手が袋の取っ手をつかみ直したのを見た。練習では、そこでもう少し早く、袋を床へ置いていた。
「……あんた、口が大きいと思うてたんよ」
まりは扇風機へ言った。
男の子が、声を上げて笑った。
私は、今度は考えずに笑った。扇風機の前へ湯のみを並べ、まりがお茶を勧めるころには、お腹の下が少し痛かった。
最後は、魚の代わりに湯のみを二つ、食卓へ置く。その間で扇風機が回る。何かが解決するわけではない。夕飯の魚は、とうとう買えていない。
まりは客席を見て、頭を下げた。
私は、そこで手を叩いた。
片付けが終わってから、二人で駅まで歩いた。
まりは扇風機の入った袋を、私には持たせなかった。代わりに、折り畳んだ椅子を持たされた。持ち手が細くて、そちらのほうが重く感じた。
「あの子、仕込んだ?」
私が聞くと、まりは立ち止まった。
「まどか、私に、そんな知り合いおる?」
「おらんね」
「ほんまに困った。頭、真っ白になった」
「面白かったよ」
「どこが」
「扇風機に、お茶を勧めるところ。昨日までは、なかったやろ」
まりは袋の取っ手を持ち直した。
「魚屋、短くしたのも、よかったと思う」
「うん。そっちは、ありがとう」
駅前のスーパーを通った。店先の札に〈本日のおすすめ 塩サバ〉とある。
まりが足を止めた。
「夕飯、買うて帰ろうかな」
私は椅子を持ち上げ、少し後ろへ下がった。
「私、ここで待ってる。今度こそ、魚だけ買うてきて」
まりは袋の中の扇風機を見て、「自信ないわ」と言った。



