← 本棚へ戻る
旅・家族

助手席の地図

母の地図には、最短ではない道が引いてあった。

作者
GPT
読了目安
約8分
長さ
掌編
#ほっこり#日常
助手席の地図のイメージ

あらすじ

花の直売所へ向かう母の助手席で、香澄は遠回りも遅い運転も気になってしまう。紙の地図に付いた三つの赤い丸をたどると、知っていたはずの母の休日が見えてくる。

読みやすく、好きなところから。

目次・4章

一 右へ行く予定

母が運転席に座るところを、私はたぶん初めて、ちゃんと見た。

座席を少し前へ出す。背もたれを起こす。鏡を直し、靴のかかとを床につける。それから鍵を回す。

「シートベルト」

言われて、私は慌てて留めた。

母は六十二歳。私は三十一歳。実家へ帰るたび、駅まで迎えに来るのは父だった。母も運転することは知っていたが、それは、近くのスーパーへ行く程度だと思っていた。

今日の行き先は、片道一時間ほどの花の直売所だった。

「ナビ、入れたよ」

私がスマートフォンを置くと、母は、折り畳んだ地図を渡してきた。

「こっちも見て」

紙の地図には、色鉛筆で線が引いてあった。青い線と、赤い丸。赤い丸は三つ。

「この道、ずいぶん遠回りだよ」

「うん」

「ナビだと、バイパスで四十六分」

「途中で止まりたいから」

母はウインカーを出した。ナビは右と言い、車は左へ出た。

私は、もう不安になった。

二 止まっていい場所

母は、思ったより静かに運転した。

ハンドルを大きく回さない。前の車が曲がると、ゆっくり間を空ける。私がスマートフォンを見るたび、後ろから来る車が一台ずつ増えているような気がした。

「もう少し、速くてもいいんじゃない」

「急いでる?」

「私は、急いでないけど」

「じゃあ、大丈夫」

大丈夫なのは、母だけだった。

後ろの車が近い。私は窓から首を伸ばして、先の道を見た。

「抜かしてもらったら」

「次の待避所へ寄せるよ」

母はそうして、道の左の広いところへ入った。後ろの車が二台、続けて通り過ぎた。母は水を一口飲み、また発進した。

私は紙の地図を開いた。

最初の赤い丸は、今の待避所だった。母の字で〈見通しよし〉とある。

「ここ、知ってたの」

「先月、来たから」

「お父さんと?」

「由美ちゃんと」

私は顔を上げた。

由美ちゃんは、母が以前働いていた給食センターの同僚だ。駅前の店で二人でお茶を飲む、と聞いたことはある。こんな山道へ来ているとは知らなかった。

「由美ちゃんが運転?」

「交代。今日は私」

二つ目の丸は、川沿いの小さな店だった。

母は駐車場へ入り、エンジンを止めた。

「お手洗い、行ってくる」

「もうすぐ直売所にもあるよ」

「今、行きたいの」

母は財布だけ持って降りた。

私は助手席で、スマートフォンの画面を見た。最初の到着予定時刻を、もう十分も過ぎていた。買いたい花がなくなるのではないかと心配だったが、何の花を買うのか、まだ聞いていなかった。

母はトイレから戻る途中で、店のおばさんと話し込んだ。

私は窓を少し開けた。

「お母さん、花は」

「これから」

母は小さな袋を下げて戻ってきた。中には、細長い揚げせんべいが入っていた。

「ここの、おいしいの。帰りに食べよう」

「花は、何を買うの」

「見てから決める」

私はスマートフォンを、少し強く伏せた。

三 私の知らない行き先

直売所は、坂を上り切ったところにあった。

母は一度通り過ぎ、少し先の広場で向きを変えてから、戻った。

「入れなかったの?」

「対向車が来てたから」

「待てばよかったんじゃない」

母は、駐車してから私を見た。

「香澄、運転、代わりたい?」

私は黙った。

免許を取ってから、ほとんど運転していない。実家のこの車にも、運転席には一度しか座っていなかった。

「だったら、ちょっと静かにしてて。曲がるときに言われると、困る」

「ごめん」

私はベルトを外した。

怒られたことより、母が私に困っていたことが、こたえた。

売り場には、鉢植えの花がいくつも並んでいた。

母は端から見ていく。値札を見て、鉢を持ち上げ、戻す。私は少し離れて、寄せ植えの見本を見ていた。

「こっち、どう?」

白い花と青い花が、一つの大きな鉢からあふれていた。

「きれいね」

「これなら、一つで済むよ」

「何が?」

私は答えられなかった。

母は、少し日陰になった棚へ戻り、小さな苗を三つ選んだ。どれも今は花が咲いていない。細い葉が、少し頼りなく伸びていた。

「それ、何色なの」

「青と、白と、あとこれは黄色」

「バラバラじゃない」

「バラバラに植えるから」

母はかごを持ったまま笑った。

「私、家の庭に植えるんじゃないの」

給食センターで一緒だった人たちと、週に一度、地区の小さな広場を手入れしているのだという。花壇の一部を空けてもらい、それぞれが好きなものを植えている。

「今度、子どもたちが来るの。前に植えたのは、踏まれてしまって」

「柵、つけてもらえないの」

「遊ぶ広場だもん。花壇のふちだって、ちょうどいい平均台なのよ」

「それで、いいの?」

「いいわけじゃないけど。踏まれにくいほうへ、ずらす。空いた手前は、土のままにする」

母は苗の札を確かめた。

直売所で花のない苗を三つ選ぶ母と、かごを持って話を聞く香澄。

「由美ちゃんは、絶対ひまわりって言うの。大きくなるから、境目がはっきりするって」

「そんなこと、いつ始めたの」

「春から。あなたにも写真、送ったでしょう」

私は思い出した。緑色の写真に、〈今日も暑かった〉とだけ書かれていた。私は、〈水飲んでね〉と返した。

庭だと思っていた。実家の庭の写真だと。

「もう一回、送って」

私が言うと、母は苗の袋を受け取りながら、不思議そうな顔をした。

「あなたの電話の中に、あるでしょう」

四 地図の余白

帰り道、母が尋ねた。

「三つ目の丸、寄ってもいい?」

私は紙の地図を開いた。

小さな見晴らし台だった。そこへ行く道は本線から少し外れ、ナビでは目的地を入れ直さないと出てこなかった。

「車、止められる?」

「三台くらい。混んでたら、そのまま帰る」

私は、地図を膝の上へ置いた。

「じゃあ、次の分かれ道、左。橋の手前」

母はうなずいた。

見晴らし台には、車が一台もいなかった。

遠くの田んぼが、薄い緑の四角に分かれていた。鉄塔が並び、その向こうに、さっきまで見えなかった川が光っている。母は車から降り、苗を日陰へ移した。

私たちは手すりの前で、揚げせんべいを食べた。

「これ、おいしいね」

「由美ちゃんが見つけたの」

母の話に、何度も由美ちゃんが出てくる。それが少しおかしく、少し寂しかった。私は母の友達を名前で知っているだけで、二人がどうやっておいしいせんべいを探すのか、知らなかった。

「お父さんと来るときも、ここに寄る?」

「来たことないよ」

「え?」

「あの人、花に興味ないもの。釣り道具を見に行くときは、私が留守番」

私は笑った。

二人で何でも一緒にしていると思っていた。私が実家へ帰ると、父と母が二人でいるから。

「帰り、お父さんに何か買ってく?」

「せんべい、残してあげればいいでしょう」

母は袋をのぞいた。

中は空だった。残っているのは、二人が手に持った、食べかけの二本だけだった。

見晴らし台で母と香澄が食べかけの揚げせんべいを一本ずつ持ち、空の袋がベンチに置かれている。

私たちは、顔を見合わせた。どちらも、今食べかけている一本を戻そうとはしなかった。

「帰りに、もう一袋買おうか」

母が言った。

私は地図の二つ目の丸を見た。

「来た道、そのまま戻る?」

「どう思う?」

「トイレも寄れるし、道が広いし」

母はうなずき、最後の一口を食べた。

車に戻る前、私はスマートフォンで、母から届いていた写真を開いた。細いひまわりの苗の向こうに、丸太の遊具が写っていた。家の庭にはないものだった。

〈今日も暑かった〉

その下の、〈水飲んでね〉という私の返事。

私は、新しい返事を打ちかけて、やめた。母はすぐ隣にいた。

「今度、花壇、見せて」

母は車の鍵を出しながら、「草取りもしてくれるなら」と言った。

帰りは、私が地図を持った。

二つ目の赤い丸の横に、小さく〈せんべい〉と書き足した。母はそれを見て、〈お父さんの分〉も書いてと言った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また、読みたくなったときに。次の物語を探す