一 右へ行く予定
母が運転席に座るところを、私はたぶん初めて、ちゃんと見た。
座席を少し前へ出す。背もたれを起こす。鏡を直し、靴のかかとを床につける。それから鍵を回す。
「シートベルト」
言われて、私は慌てて留めた。
母は六十二歳。私は三十一歳。実家へ帰るたび、駅まで迎えに来るのは父だった。母も運転することは知っていたが、それは、近くのスーパーへ行く程度だと思っていた。
今日の行き先は、片道一時間ほどの花の直売所だった。
「ナビ、入れたよ」
私がスマートフォンを置くと、母は、折り畳んだ地図を渡してきた。
「こっちも見て」
紙の地図には、色鉛筆で線が引いてあった。青い線と、赤い丸。赤い丸は三つ。
「この道、ずいぶん遠回りだよ」
「うん」
「ナビだと、バイパスで四十六分」
「途中で止まりたいから」
母はウインカーを出した。ナビは右と言い、車は左へ出た。
私は、もう不安になった。
二 止まっていい場所
母は、思ったより静かに運転した。
ハンドルを大きく回さない。前の車が曲がると、ゆっくり間を空ける。私がスマートフォンを見るたび、後ろから来る車が一台ずつ増えているような気がした。
「もう少し、速くてもいいんじゃない」
「急いでる?」
「私は、急いでないけど」
「じゃあ、大丈夫」
大丈夫なのは、母だけだった。
後ろの車が近い。私は窓から首を伸ばして、先の道を見た。
「抜かしてもらったら」
「次の待避所へ寄せるよ」
母はそうして、道の左の広いところへ入った。後ろの車が二台、続けて通り過ぎた。母は水を一口飲み、また発進した。
私は紙の地図を開いた。
最初の赤い丸は、今の待避所だった。母の字で〈見通しよし〉とある。
「ここ、知ってたの」
「先月、来たから」
「お父さんと?」
「由美ちゃんと」
私は顔を上げた。
由美ちゃんは、母が以前働いていた給食センターの同僚だ。駅前の店で二人でお茶を飲む、と聞いたことはある。こんな山道へ来ているとは知らなかった。
「由美ちゃんが運転?」
「交代。今日は私」
二つ目の丸は、川沿いの小さな店だった。
母は駐車場へ入り、エンジンを止めた。
「お手洗い、行ってくる」
「もうすぐ直売所にもあるよ」
「今、行きたいの」
母は財布だけ持って降りた。
私は助手席で、スマートフォンの画面を見た。最初の到着予定時刻を、もう十分も過ぎていた。買いたい花がなくなるのではないかと心配だったが、何の花を買うのか、まだ聞いていなかった。
母はトイレから戻る途中で、店のおばさんと話し込んだ。
私は窓を少し開けた。
「お母さん、花は」
「これから」
母は小さな袋を下げて戻ってきた。中には、細長い揚げせんべいが入っていた。
「ここの、おいしいの。帰りに食べよう」
「花は、何を買うの」
「見てから決める」
私はスマートフォンを、少し強く伏せた。
三 私の知らない行き先
直売所は、坂を上り切ったところにあった。
母は一度通り過ぎ、少し先の広場で向きを変えてから、戻った。
「入れなかったの?」
「対向車が来てたから」
「待てばよかったんじゃない」
母は、駐車してから私を見た。
「香澄、運転、代わりたい?」
私は黙った。
免許を取ってから、ほとんど運転していない。実家のこの車にも、運転席には一度しか座っていなかった。
「だったら、ちょっと静かにしてて。曲がるときに言われると、困る」
「ごめん」
私はベルトを外した。
怒られたことより、母が私に困っていたことが、こたえた。
売り場には、鉢植えの花がいくつも並んでいた。
母は端から見ていく。値札を見て、鉢を持ち上げ、戻す。私は少し離れて、寄せ植えの見本を見ていた。
「こっち、どう?」
白い花と青い花が、一つの大きな鉢からあふれていた。
「きれいね」
「これなら、一つで済むよ」
「何が?」
私は答えられなかった。
母は、少し日陰になった棚へ戻り、小さな苗を三つ選んだ。どれも今は花が咲いていない。細い葉が、少し頼りなく伸びていた。
「それ、何色なの」
「青と、白と、あとこれは黄色」
「バラバラじゃない」
「バラバラに植えるから」
母はかごを持ったまま笑った。
「私、家の庭に植えるんじゃないの」
給食センターで一緒だった人たちと、週に一度、地区の小さな広場を手入れしているのだという。花壇の一部を空けてもらい、それぞれが好きなものを植えている。
「今度、子どもたちが来るの。前に植えたのは、踏まれてしまって」
「柵、つけてもらえないの」
「遊ぶ広場だもん。花壇のふちだって、ちょうどいい平均台なのよ」
「それで、いいの?」
「いいわけじゃないけど。踏まれにくいほうへ、ずらす。空いた手前は、土のままにする」
母は苗の札を確かめた。

「由美ちゃんは、絶対ひまわりって言うの。大きくなるから、境目がはっきりするって」
「そんなこと、いつ始めたの」
「春から。あなたにも写真、送ったでしょう」
私は思い出した。緑色の写真に、〈今日も暑かった〉とだけ書かれていた。私は、〈水飲んでね〉と返した。
庭だと思っていた。実家の庭の写真だと。
「もう一回、送って」
私が言うと、母は苗の袋を受け取りながら、不思議そうな顔をした。
「あなたの電話の中に、あるでしょう」
四 地図の余白
帰り道、母が尋ねた。
「三つ目の丸、寄ってもいい?」
私は紙の地図を開いた。
小さな見晴らし台だった。そこへ行く道は本線から少し外れ、ナビでは目的地を入れ直さないと出てこなかった。
「車、止められる?」
「三台くらい。混んでたら、そのまま帰る」
私は、地図を膝の上へ置いた。
「じゃあ、次の分かれ道、左。橋の手前」
母はうなずいた。
見晴らし台には、車が一台もいなかった。
遠くの田んぼが、薄い緑の四角に分かれていた。鉄塔が並び、その向こうに、さっきまで見えなかった川が光っている。母は車から降り、苗を日陰へ移した。
私たちは手すりの前で、揚げせんべいを食べた。
「これ、おいしいね」
「由美ちゃんが見つけたの」
母の話に、何度も由美ちゃんが出てくる。それが少しおかしく、少し寂しかった。私は母の友達を名前で知っているだけで、二人がどうやっておいしいせんべいを探すのか、知らなかった。
「お父さんと来るときも、ここに寄る?」
「来たことないよ」
「え?」
「あの人、花に興味ないもの。釣り道具を見に行くときは、私が留守番」
私は笑った。
二人で何でも一緒にしていると思っていた。私が実家へ帰ると、父と母が二人でいるから。
「帰り、お父さんに何か買ってく?」
「せんべい、残してあげればいいでしょう」
母は袋をのぞいた。
中は空だった。残っているのは、二人が手に持った、食べかけの二本だけだった。

私たちは、顔を見合わせた。どちらも、今食べかけている一本を戻そうとはしなかった。
「帰りに、もう一袋買おうか」
母が言った。
私は地図の二つ目の丸を見た。
「来た道、そのまま戻る?」
「どう思う?」
「トイレも寄れるし、道が広いし」
母はうなずき、最後の一口を食べた。
車に戻る前、私はスマートフォンで、母から届いていた写真を開いた。細いひまわりの苗の向こうに、丸太の遊具が写っていた。家の庭にはないものだった。
〈今日も暑かった〉
その下の、〈水飲んでね〉という私の返事。
私は、新しい返事を打ちかけて、やめた。母はすぐ隣にいた。
「今度、花壇、見せて」
母は車の鍵を出しながら、「草取りもしてくれるなら」と言った。
帰りは、私が地図を持った。
二つ目の赤い丸の横に、小さく〈せんべい〉と書き足した。母はそれを見て、〈お父さんの分〉も書いてと言った。


