一 白い布は洗濯中
水曜日、化け屋敷の玄関には、白い布が干してある。
正確には、おばけの衣装だ。
「裸じゃないんだから、そんなに見ないで」
廊下の奥から声がした。
美晴は干した布から目をそらした。見えているのは、床から少し浮いた、半透明の青い服の女だった。裸どころか、いつもよりきちんとした襟が付いている。
「今日もその格好で出ればいいのに」
「それじゃ、下宿を探しに来た人でしょう」
返事をしたのは千代さん。この屋敷の二階で、階段を上がる客を、後ろから呼び止める役をしている。
おばけが本当に出る屋敷として売り出してから、屋敷には少しずつ客が来るようになった。美晴はその受付と掃除を担当する、生きている人間だ。
水曜日だけは、受付も脅かしも休み。美晴は昼の間に掃除をして、早く帰ることになっている。
だが、廊下の先で三人のおばけが並んでいた。
千代さんと、天井から顔を出す源さんと、壁の向こうを歩くタケル。
「お願いがあるの」と千代さんは言った。
「脅かしてほしい」
美晴は、持っていたバケツを置いた。
二 怖がる側の都合
「皆さん、おばけでしょう」
「だから、驚く側をやったことがないの」
千代さんは椅子に腰を下ろした。ちゃんと座れるのに、扉を通るときは面倒がって壁を抜ける。
ここのおばけは、物に触ると決めれば触れる。すり抜けると決めれば、すり抜ける。ただし、持ち物まで一緒には抜けられない。源さんが天井へ財布を置き忘れるのは、そのせいだった。
「この間のお客さんね、廊下を走ってきたのに、帰りは笑ってたでしょう。ああいうの、私もしてみたい」
「怖いのは、嫌ではないんですか」
「嫌だけど、終わったら笑えるくらいの」
タケルが言った。三人の中でいちばん若く見えるが、いくつなのかは、美晴はまだ知らない。
美晴は時計を見た。掃除の続きに戻れば、いつもどおり三時には帰れる。
「十分だけなら。私が仕事でやる脅かしじゃなくて、遊びとして」
「源さん、聞いた?」
千代さんが上を向いた。源さんの顔はもう、天井の中へ半分入っていた。
「掃除の邪魔はせんよ」
「遊びの途中で逃げるなら、荷物を持って逃げてくださいね」
源さんはポケットの財布を押さえた。
まず、美晴は扉の後ろへ隠れた。
三人には廊下を歩いてもらい、通りかかったところで、両手を上げた。
「わっ!」
千代さんは微笑んだ。
源さんは目を細めた。
タケルは「おお」と言った。
「感想?」
「うん」
次は白い布をかぶった。
「干してあるからって、まだ乾いてないよ」と千代さんが言った。
美晴はすぐに脱いだ。言われたとおり、肩が冷たくなっていた。
電気を消した。三人のおばけは、暗い中でも美晴がよく見えるらしく、「右の裾、踏みそう」と親切に教えてくれた。
棚の上から木の人形を落とす仕掛けは、掃除の仕事を増やしただけだった。
美晴は床へ座り、散らばった木の人形を拾った。
「普段、何が怖いんですか」
三人は考えた。
源さんが「火事」と言い、タケルが「それは遊びにしちゃ駄目」と答えた。
千代さんは、少し考えてから言った。
「人に嫌われること」
「それも、ちょっと重いです」
美晴は木の人形を、一つずつ箱へ戻した。
三 開けてはいけない箱
十分は、もう過ぎていた。
「今日はここまで。私、掃除を終わらせます」
美晴が言うと、三人は名残惜しそうにうなずいた。
「今度、考えてきます。私だけじゃなくて、皆さんも考えてください」
「私たちが考えたら、驚けないじゃない」と千代さんが言った。
「一人ずつ、違う仕掛けを考えたら?」
タケルが少し顔を上げた。源さんも、天井から出てきた。
「互いに、知らない仕掛けを」
「それなら私、考える」と千代さんが言った。
美晴はバケツを持って、裏の物置へ行った。
そこには、先月までの古い案内板や、修理待ちの椅子がある。椅子の隙間に、紙箱が一つ挟まっていた。ふたの横に、小さな丸い穴がいくつも開いている。
「誰かの、忘れ物?」
持ち上げると、中で何かが動いた。
美晴はそのまま、床へ置いた。
かさ。
もう一度、音がした。
美晴は後ろへ下がった。箱の中身より、箱を開けた瞬間に飛び出してくるものが、昔から苦手だった。
何かわからないものが、わからないまま、こちらへ来る。
物置の戸の横から、源さんがのぞいた。
「どうした」
「これ、何ですか。皆さんの?」
源さんは箱を見た。丸い穴を見て、すっと顔色を変えた。もともと薄い顔色が、さらに薄くなる。
「わしは、知らん」
「触ってないですよね」
「触ってない」
源さんは壁の向こうへ消えた。
すぐに、千代さんとタケルが来た。タケルは穴を見てしゃがみ、箱へ手を伸ばしかけた。
「開けていい箱?」
美晴は聞いた。
「……僕のだよ」
タケルの声は、いつもより小さかった。
箱の中で、ぴ、と声がした。
美晴はゆっくり息を吐いた。
「鳥?」
タケルはうなずいた。物置の奥の、破れた換気網を指す。
「今朝、ここに入ってきて、出口がわからなくなってたから。外へ出そうと思って、箱に。でも源さんを呼びに行ったら、天井に財布を探しに行ってて」
「それで、そのまま?」
「水の皿は入れた。でも、後で怒られると思ったら、言いにくくなって」
千代さんはタケルの隣へしゃがんだ。
「鳥がいるのに、脅かしごっこしてたの」
タケルは下を向いた。
美晴は窓を開け、外へ出られる場所を確かめた。三人で箱を庭へ運ぶ。源さんも、いつの間にか廊下の端に立っていた。
誰も手で追わず、箱を安定した場所へ置き、少し離れてふたを開けた。
小さな茶色い鳥が、ふたの縁へ止まった。
源さんが一歩下がった。
鳥は屋敷の屋根へ飛び、それから、木立のほうへ消えた。

四 次の水曜日
「源さん、鳥が苦手なんですか」
美晴が聞くと、源さんは帽子をかぶり直した。
「急に飛ぶからな」
「すり抜ければ、当たらないでしょう」
「当たるかどうかの話ではない」
美晴には、わかる気がした。
タケルは、空の箱を畳んでいた。千代さんは、換気網を直すよう、管理人へ頼むためのメモを書いている。字は、意外に丸かった。
「ごめん」とタケルが言った。
「今度は、閉じ込めたら、すぐ言って。助けるつもりでも、私たちだけで何とかできるか、わからないから」
美晴がそう言うと、タケルはうなずいた。
源さんが、小さく咳払いをした。
「わしも、すぐ来ればよかった。箱が動いて、怖くてな」
「言ったら、嫌われると思った」とタケルは言った。
千代さんが、手を止めた。
「嫌いにはならないけど、怒ることはあるよ」
タケルはうなずき、それから美晴を見た。
「今の、少し怖かった」
美晴は笑うか迷った。千代さんも、同じ顔をしていた。
「次は、ちゃんと、終わって笑えるやつにしよう」
美晴が言うと、源さんは大きくうなずいた。
翌週、水曜日。
美晴が屋敷へ来ると、廊下の椅子に、紙箱が三つ並んでいた。
一つには〈中は空〉、一つには〈生き物ではありません〉、最後の一つには〈源さん、財布はポケット〉と書いてある。
「先に全部教えたら、怖くないでしょう」
美晴が言うと、千代さんは真面目な顔で答えた。
「何が出ないかは教えたけど、何が出るかは、教えてない」
タケルが、二番目の箱を抱えた。
「源さんから、どうぞ」
「わしは、そっちがいい」
源さんは〈中は空〉と書いた箱を指した。
「それ、上から手が出ます」
千代さんが言ってしまい、三人はしばらく黙った。
美晴は、玄関の〈本日休館〉の札を裏返さずに、内側から鍵を掛けた。今日は、自分の掃除が終わってから、十五分だけ参加する約束だった。
午後、最後の窓を拭いてから、美晴は掃除道具をしまった。椅子を一つ借りて、箱の並ぶ廊下へ戻る。
源さんが一つ目の箱へ近づき、短く叫んだ。
それから、笑う声がした。



