一 土曜日の六時四十二分
がりがりがり、と音がして、佳乃は目を開けた。
まだカーテンの隙間が灰色だった。枕元の時計を見る。六時四十二分。土曜日。仕事は休み。もう一度、目を閉じる。
がりがりがり。
佳乃は布団をかぶった。
夫の亮は、豆を挽いている。
結婚して五年。先週、初めて手回しのコーヒーミルを買った。それまでは店で挽いてもらった粉を使っていたのに、豆から挽くと全然違う、と急に言い出した。
全然違うのは、佳乃の睡眠だった。
「おはよう」
台所へ行くと、亮はいつもより機嫌がよかった。
「豆を挽く音がうるさい」
「え。起こした?」
「起きたから、ここにいる」
亮はミルを持ったまま、少し肩を落とした。
いつもなら、佳乃はそこで言い方を直した。ごめん、寝起きだから、と笑って、お湯を沸かすのを手伝う。今日は、そうしなかった。
金曜日の夜、佳乃は家で仕事の原稿を直していた。自分で書いたものではない。小さな会社の広報誌の、送られてきた文章を整える仕事だった。確認の返事が夜に届き、眠ったのは二時を回ってからだ。
亮は佳乃の顔を見た。
「コーヒー、飲む?」
「今は、いらない」
佳乃は寝室へ戻り、ドアを閉めた。
亮はもう、ミルを回さなかった。
二 冷たい二人分
九時半に起きると、台所にコーヒーが二杯あった。
亮は散歩へ出ていた。亮のカップにも、佳乃のカップと同じ高さまでコーヒーが残っていた。冷めたカップの横に、小さな紙がある。
〈温めて飲んでね〉
佳乃は、電子レンジへカップを入れた。
温め直すと、香りが少し変わった気がした。豆を挽いたからか、冷めたからか、よくわからない。
佳乃は、一人でパンを焼いた。

亮が帰ってきたのは、十時前だった。紙袋を提げている。
「パン、買ってきた」
トースターが、ちん、と鳴った。
二人でそれを見た。
「言えばよかったね」と亮が言った。
「私も、起きたって連絡すればよかった」
亮は買ってきたパンを袋から出した。カレーパンと、あんパンと、小さなチーズのパン。
「どれ、食べる?」
「今、焼いたばかりだから」
佳乃が言うと、亮はうなずいた。
テーブルの上は、何も足りないものがないのに、二人のいる場所だけが、少し空いていた。
亮はミルを箱へ戻し始めた。
「しまわなくてもいいよ」
「週末、うるさいから」
「朝早いのが、困っただけ」
「じゃあ、前の晩に挽いておく」
「それ、豆から挽く意味はあるの?」
亮の手が止まった。
佳乃は、違う、と思った。今のは、意地悪に聞こえる。自分でも、そう聞こえた。
「ごめん。私、味の違いは、まだよくわからない」
亮は箱のふたを、半分開けたまま椅子へ座った。
「朝、やることが欲しかったんだと思う」
「朝?」
「いつも、お湯を沸かすのも、パンを焼くのも、佳乃が先にやるだろ。休みの日くらい、僕が作ろうと思って」
佳乃は自分のトーストを見た。
先にやるのは、待つのが苦手だからでもあった。台所へ来て、まだ何も始まっていないと、そのまま自分で始める。それを、亮が何もしない証拠のように思っていた日もあった。
「だったら、私が起きてから、作ってくれたらいい」
「それだと、待たせる」
「待ってるよ」
自分で言って、佳乃は少し不安になった。本当に、待てるだろうか。
三 九時の開店
翌日の日曜は、九時に台所で会うことにした。
どちらも、しばらく寝ていた。亮は八時半に目が覚めたが、ミルを回さなかった。佳乃は八時四十分に起きて、台所の前を一度通り過ぎた。
冷蔵庫に牛乳を取りに行くだけなら、いいだろう。
そう思いかけて、水を飲みに行くことにした。コップを置いたあと、トースターの前へ手が伸びた。
止めた。
九時。二人で台所へ入った。
「何か、変だね」
「待ち合わせみたい」
亮は豆の袋を開け、ミルの小さな引き出しを確かめた。
佳乃は椅子へ座った。
がりがりがり。
正面で聞くと、なかなか大きな音だった。亮も、少し笑った。
「こんなに鳴ってたんだ」
「寝室、壁の向こうだから」
「こっちへ置こうか」
亮は、ミルを流しから離れた台の上へ移した。下へ畳んだ布巾を敷くと、台に伝わる音が、少し小さくなった。豆を砕く音は、そのままだった。
「どう?」
「今なら、平気」
佳乃は、膝の上で手を組んだ。
粉をこぼす。亮はそれを拭く。お湯を沸かし、カップを出し、フィルターを開く。佳乃なら、湯が沸く間に全部並べる。
言いかけて、口を閉じた。
「退屈?」
「少し」
「本、読んでていいよ」
佳乃は、居間から読みかけの文庫を持ってきた。
いつも、コーヒーを飲みながら本を読んでいた。今日は、コーヒーができるまで本を読んだ。
途中で一度、顔を上げた。亮は、お湯を注ぐ手を止めて、膨らんだ粉を眺めていた。
「それ、見てる時間なの?」
「そう」
「何かするんじゃなくて?」
「待ってる」
佳乃は、本へ目を戻した。
四 豆の減る速さ
九時十九分、コーヒーができた。
パンは、昨日買ってきたチーズのパンと、昨夜のうちに冷凍しておいたあんパンを、二人で半分ずつ食べた。カレーパンは昨日の昼に亮が食べた。
コーヒーは、やっぱり味の違いがよくわからなかった。
でも、温かかった。
佳乃がそう言うと、亮は笑った。
「そこは、僕じゃなくてもできる」
「うん。でも、今日は亮が作ったのを飲んでる」
亮はカップを置き、ミルの引き出しを開けた。粉が少しだけ残っていた。
佳乃は、本をもう一頁読んだ。
その次の土曜も、佳乃は仕事の返事を待って、夜更かしをした。
朝、亮からメッセージが届いた。
〈今日は九時半でいい?〉
佳乃は布団の中で、〈十時〉と返した。
返事は〈了解。お腹はすいてる〉だった。
佳乃は笑って、〈先に何か食べてて〉と打った。
十時に台所へ行くと、亮はバナナの皮を片付けていた。
テーブルには、カップが二つ。まだ空だ。
「パンは?」と佳乃は聞いた。
「冷凍のがある」
亮は冷凍庫から、二枚の食パンが入った袋を出した。
「あれ、私が月曜に食べるつもりだったやつ」
「そういうの、書いといてよ」
佳乃は冷蔵庫から卵を出した。
「今日は、目玉焼きにしよう。トーストは一枚、半分ずつ」
「僕がやる?」
「コーヒーをお願い。卵は私」
フライパンを温めながら、佳乃はミルの音を聞いた。
がりがりがり。
小さくなったわけではない。買った日より長く袋の口を折り返しながら、亮が来週は違う豆を買ってみたいと言った。
佳乃は目玉焼きを皿へ移した。黄身が一つ、端で少し破れてしまった。
「じゃあ、来週は、もう少し早くできるのにして」
「豆じゃなくて、僕の手順の問題だね」
亮はそう言って、自分用の小さな紙へ何か書いた。
佳乃は二人分の皿を並べた。黄身の破れたほうは、まだどちらの席にも置かなかった。



