← 本棚へ戻る
夫婦・日常

豆を挽く音がうるさい

豆の音は、前より小さくなったわけではない。

作者
GPT
読了目安
約7分
長さ
掌編
#ほっこり#日常
豆を挽く音がうるさいのイメージ

あらすじ

土曜の朝、夫が始めたコーヒーの音で起こされた佳乃。二人分の気遣いが、冷めたコーヒーと余ったパンになる。九時に台所で会うと決めた夫婦の、まだ少しうまくいかない朝。

読みやすく、好きなところから。

目次・4章

一 土曜日の六時四十二分

がりがりがり、と音がして、佳乃は目を開けた。

まだカーテンの隙間が灰色だった。枕元の時計を見る。六時四十二分。土曜日。仕事は休み。もう一度、目を閉じる。

がりがりがり。

佳乃は布団をかぶった。

夫の亮は、豆を挽いている。

結婚して五年。先週、初めて手回しのコーヒーミルを買った。それまでは店で挽いてもらった粉を使っていたのに、豆から挽くと全然違う、と急に言い出した。

全然違うのは、佳乃の睡眠だった。

「おはよう」

台所へ行くと、亮はいつもより機嫌がよかった。

「豆を挽く音がうるさい」

「え。起こした?」

「起きたから、ここにいる」

亮はミルを持ったまま、少し肩を落とした。

いつもなら、佳乃はそこで言い方を直した。ごめん、寝起きだから、と笑って、お湯を沸かすのを手伝う。今日は、そうしなかった。

金曜日の夜、佳乃は家で仕事の原稿を直していた。自分で書いたものではない。小さな会社の広報誌の、送られてきた文章を整える仕事だった。確認の返事が夜に届き、眠ったのは二時を回ってからだ。

亮は佳乃の顔を見た。

「コーヒー、飲む?」

「今は、いらない」

佳乃は寝室へ戻り、ドアを閉めた。

亮はもう、ミルを回さなかった。

二 冷たい二人分

九時半に起きると、台所にコーヒーが二杯あった。

亮は散歩へ出ていた。亮のカップにも、佳乃のカップと同じ高さまでコーヒーが残っていた。冷めたカップの横に、小さな紙がある。

〈温めて飲んでね〉

佳乃は、電子レンジへカップを入れた。

温め直すと、香りが少し変わった気がした。豆を挽いたからか、冷めたからか、よくわからない。

佳乃は、一人でパンを焼いた。

亮のいない朝の台所で、佳乃がカップを持ち、もう一杯のコーヒーとメモがテーブルに残る。

亮が帰ってきたのは、十時前だった。紙袋を提げている。

「パン、買ってきた」

トースターが、ちん、と鳴った。

二人でそれを見た。

「言えばよかったね」と亮が言った。

「私も、起きたって連絡すればよかった」

亮は買ってきたパンを袋から出した。カレーパンと、あんパンと、小さなチーズのパン。

「どれ、食べる?」

「今、焼いたばかりだから」

佳乃が言うと、亮はうなずいた。

テーブルの上は、何も足りないものがないのに、二人のいる場所だけが、少し空いていた。

亮はミルを箱へ戻し始めた。

「しまわなくてもいいよ」

「週末、うるさいから」

「朝早いのが、困っただけ」

「じゃあ、前の晩に挽いておく」

「それ、豆から挽く意味はあるの?」

亮の手が止まった。

佳乃は、違う、と思った。今のは、意地悪に聞こえる。自分でも、そう聞こえた。

「ごめん。私、味の違いは、まだよくわからない」

亮は箱のふたを、半分開けたまま椅子へ座った。

「朝、やることが欲しかったんだと思う」

「朝?」

「いつも、お湯を沸かすのも、パンを焼くのも、佳乃が先にやるだろ。休みの日くらい、僕が作ろうと思って」

佳乃は自分のトーストを見た。

先にやるのは、待つのが苦手だからでもあった。台所へ来て、まだ何も始まっていないと、そのまま自分で始める。それを、亮が何もしない証拠のように思っていた日もあった。

「だったら、私が起きてから、作ってくれたらいい」

「それだと、待たせる」

「待ってるよ」

自分で言って、佳乃は少し不安になった。本当に、待てるだろうか。

三 九時の開店

翌日の日曜は、九時に台所で会うことにした。

どちらも、しばらく寝ていた。亮は八時半に目が覚めたが、ミルを回さなかった。佳乃は八時四十分に起きて、台所の前を一度通り過ぎた。

冷蔵庫に牛乳を取りに行くだけなら、いいだろう。

そう思いかけて、水を飲みに行くことにした。コップを置いたあと、トースターの前へ手が伸びた。

止めた。

九時。二人で台所へ入った。

「何か、変だね」

「待ち合わせみたい」

亮は豆の袋を開け、ミルの小さな引き出しを確かめた。

佳乃は椅子へ座った。

がりがりがり。

正面で聞くと、なかなか大きな音だった。亮も、少し笑った。

「こんなに鳴ってたんだ」

「寝室、壁の向こうだから」

「こっちへ置こうか」

亮は、ミルを流しから離れた台の上へ移した。下へ畳んだ布巾を敷くと、台に伝わる音が、少し小さくなった。豆を砕く音は、そのままだった。

「どう?」

「今なら、平気」

佳乃は、膝の上で手を組んだ。

粉をこぼす。亮はそれを拭く。お湯を沸かし、カップを出し、フィルターを開く。佳乃なら、湯が沸く間に全部並べる。

言いかけて、口を閉じた。

「退屈?」

「少し」

「本、読んでていいよ」

佳乃は、居間から読みかけの文庫を持ってきた。

いつも、コーヒーを飲みながら本を読んでいた。今日は、コーヒーができるまで本を読んだ。

途中で一度、顔を上げた。亮は、お湯を注ぐ手を止めて、膨らんだ粉を眺めていた。

「それ、見てる時間なの?」

「そう」

「何かするんじゃなくて?」

「待ってる」

佳乃は、本へ目を戻した。

四 豆の減る速さ

九時十九分、コーヒーができた。

パンは、昨日買ってきたチーズのパンと、昨夜のうちに冷凍しておいたあんパンを、二人で半分ずつ食べた。カレーパンは昨日の昼に亮が食べた。

コーヒーは、やっぱり味の違いがよくわからなかった。

でも、温かかった。

佳乃がそう言うと、亮は笑った。

「そこは、僕じゃなくてもできる」

「うん。でも、今日は亮が作ったのを飲んでる」

亮はカップを置き、ミルの引き出しを開けた。粉が少しだけ残っていた。

佳乃は、本をもう一頁読んだ。

その次の土曜も、佳乃は仕事の返事を待って、夜更かしをした。

朝、亮からメッセージが届いた。

〈今日は九時半でいい?〉

佳乃は布団の中で、〈十時〉と返した。

返事は〈了解。お腹はすいてる〉だった。

佳乃は笑って、〈先に何か食べてて〉と打った。

十時に台所へ行くと、亮はバナナの皮を片付けていた。

テーブルには、カップが二つ。まだ空だ。

「パンは?」と佳乃は聞いた。

「冷凍のがある」

亮は冷凍庫から、二枚の食パンが入った袋を出した。

「あれ、私が月曜に食べるつもりだったやつ」

「そういうの、書いといてよ」

佳乃は冷蔵庫から卵を出した。

「今日は、目玉焼きにしよう。トーストは一枚、半分ずつ」

「僕がやる?」

「コーヒーをお願い。卵は私」

フライパンを温めながら、佳乃はミルの音を聞いた。

がりがりがり。

小さくなったわけではない。買った日より長く袋の口を折り返しながら、亮が来週は違う豆を買ってみたいと言った。

佳乃は目玉焼きを皿へ移した。黄身が一つ、端で少し破れてしまった。

「じゃあ、来週は、もう少し早くできるのにして」

「豆じゃなくて、僕の手順の問題だね」

亮はそう言って、自分用の小さな紙へ何か書いた。

佳乃は二人分の皿を並べた。黄身の破れたほうは、まだどちらの席にも置かなかった。

目玉焼きを一つずつ載せた二皿と半分ずつのトーストを前に、佳乃と亮が朝食を整える。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

また、読みたくなったときに。次の物語を探す