一 こちら側の二階
待ち合わせの店の戸は、開かなかった。
橋を渡ってすぐ右に、青い庇の店があった。見上げると、二階の窓辺に黄色い花がある。封筒の絵で見た色だ。
入口に下がっていた札は〈本日休業〉だった。
畑中春は腕時計を見た。三時四十分。約束は四時だから、まだ早い。
青い封筒を鞄から出した。
中には短い手紙。封筒の裏には、手描きの道案内がある。
〈橋を渡ったら、すぐ右へ。青い庇の店で会いましょう。二階にいます。森〉
絵には川と、小さな橋と、二階の窓の花。
春は、木の椅子を一脚抱え直した。
椅子は軽い。なのに、運んでいると少しずつ腕に重みがたまる。古道具を直して売る仕事を始めて半年。今日の相手は、春が初めて、自分から修理を提案した客だった。
市で、脚のぐらついた椅子を見ていた女性に、直せます、と声をかけた。それが森さんだった。
「お店、川沿いなのよ。直ったら持ってきてくださる?」
スマートフォンで地図を送ってもらうつもりが、森さんはその場で青い封筒の裏に絵を描き始めた。
あとで店先の様子を確かめてから、同じ封筒に手紙を入れ、預けておく、と言った。
春は翌週、市の受付で封筒を受け取った。修理は、それから十日掛かった。
今、椅子の脚は四本とも、地面へきちんと着く。
春だけが、どこへ行けばいいのかわからなかった。
二 川沿いの店
青い庇の店は、駅から橋を渡って来た先にある、紙の専門店だった。
窓には便箋や封筒が並び、その中に、春の持っているものと同じ青い封筒もあった。間違いないと思った。森さんの電話番号を、春は聞いていなかった。
戸を叩いても、返事はない。
二階を見上げた。花は動かない。人の姿も見えない。
隣の洋品店のおじさんが、戸を開けて顔を出した。
「今日は、お休み」
「森さんと、四時に約束していて」
「森さん? その名前なら、川上の焼き菓子の店の人じゃないか」
春は、ほっとして顔を上げた。
おじさんは川を指した。
「川上のほう。青い庇なら、いくつかあるから」
春は川沿いを見た。細い通りには、同じような二階建てが並んでいた。木の看板と、小さな窓。川の手すりが続いている。
「この花の窓も、向こうに?」
絵を見せると、おじさんは眼鏡を取りに戻った。
「いや、これは紙屋の窓だね。うちのかみさんが鉢を分けた花だから」
春はもう一度、青い封筒を見た。
正しい店の、正しい窓で、違う相手を待っている。
「椅子、置いていく?」
おじさんが言った。
「歩いて探すなら、帰りに取りに来れば」
春は一度断りかけた。客の品を、知らない人のところへ置くのは不安だった。
けれど、抱えたまま歩いてぶつけるのも困る。
「お店の中の、端に置かせてもらってもいいですか」
「もちろん。店の前へ置いたら、売り物だと思われる」
春は椅子を置いて、青い封筒だけ持った。
三 見えている店
春がいるのは、紙の店がある東岸だった。駅は、橋を渡る前の西岸にある。このあたりの川は、北へ流れていた。春は東岸の道を、紙の店から上流へ歩いた。
もう一軒の青い庇は、その先にあった。
小さな焼き菓子店だった。戸を開けると、バターの匂いがした。
「森さん、いらっしゃいますか」
若い店員が、首をかしげた。
「森は、今日、駅のほうへ配達です。四時半には戻ると思います」
春は腕時計を見た。三時五十五分。
「私、四時に」
封筒を見せると、店員は笑った。
「これ、うちの森じゃないです。字、こんなにきれいじゃない」
「わかるんですか」
「毎朝、発注書を見るので」
春は自分でも少し笑った。
店員は、絵を眺めた。
「これ、道案内ですか」
「そのつもりで見てたんですけど」
「橋が、変ですね」
絵の橋は、地図の道の線のようには描かれていなかった。欄干が横に伸び、紙の専門店の窓の下を通っていた。春は、絵が苦手な人の地図なのだと思って、適当に補って読んでいた。
川は、青い線一本ではなく、細い波の重なりで描かれている。手すりも、その向こうの自転車も。
春は封筒を返してもらい、窓の前へ一歩寄った。自分で絵と景色を見比べる。

ここから見えるのは、下流にある紙の店の横の壁だった。川を向いた正面の窓は、斜めからしか見えない。橋はその向こう、低い位置へ延びている。
封筒の絵では、紙の店を正面から見ている。手前を橋の欄干が横切り、その奥の二階に、黄色い花の窓がある。
地図なら、店は上から描く。この絵は、誰かが窓から見ている景色なのだ。紙の店の正面が見える、川の反対側から。
春は封筒を裏返した。
森さんが最初に描いていた絵だ。市で、顔を上げることなく、紙へ線を引いていた。あとで店先を確認して、と言っていたのは、その絵へ手紙を足すことだったのだろうか。
〈橋を渡ったら、すぐ右へ〉
春は西岸の駅から来た。東へ橋を渡り、南へ右折して、紙の店へ行った。
でも、手紙には、どちら側から橋へ来るか書いていない。
ここからでは、橋の欄干越しに紙の店の正面は見えない。描いた人がいたのは、西岸の、橋を少し横から見下ろす場所だ。
春は、橋のたもとへ走った。
右岸と左岸を覚えるより、今は、自分の来た道を戻るほうが早かった。
四 椅子の向くほう
駅のある西岸へ戻ると、橋のすぐ北側にも、青い庇があった。
橋を渡って来るあいだ、春の背中側になっていた小さな店だ。庇は色が褪せ、川へ向いた二階の窓は、半分開いている。
表の看板には、〈森洋裁室〉とあった。
春が階段を上り始めると、上から声がした。
「あら、椅子は?」
森さんが手すりから顔を出した。
春はその場に座り込みそうになった。四時六分。
「向こうの、紙のお店の隣に」
「どうして?」
春は青い封筒を差し出した。
森さんはそれを見て、眉を上げた。
「……そうね。そっちから来たら、そうなるわ」
「この絵のお店だと、思ったんです」
「私、景色を描いたつもりだったの。いつも、ここから見るから」
森さんは、二階へ春を上げた。
ミシンが二台。裁ち台が一つ。窓から見ると、手前を橋の欄干が横切り、その向こうに、川向こうの紙の店の正面が見えた。二階の黄色い花まで、封筒の絵と同じだった。
「橋の向こうから帰ってくるつもりで、右って書いてしまった。あなたは駅から来るのよね」
「はい」
「私の店の名前、書けばよかったのよ」
森さんは封筒を置き、少し恥ずかしそうに笑った。
春は封筒をもう一度、窓の景色へ重ねてから、うなずいた。
自分も、修理の見積もりに〈いつもの磨き仕上げ〉と書いたことがあった。初めて頼んでくれた人へ。金額の話ではなく、どのくらい艶が出るのかと、何度も聞き返された。
森さんは鞄を取った。
「一緒に取りに行きましょう。椅子を置いてきたお店、知り合いだから」
洋品店のおじさんは、森さんを見ると、すぐ笑った。
「森先生だったのか。いつも先生って呼ぶから、名前のほうが出てこなかった。菓子屋の森君のほうかと思って」
「椅子、ありがとうございました」と春は言った。
「そろそろ、ちゃんとした案内を作らないと」と森さんは言った。
春は椅子を持ち上げた。
「今回の封筒、いただいてもいいですか。店の住所と、名前を足して、写しを作ってきます」
「そんな、修理のほかにも頼むの、申し訳ないわ」
春は首を振りかけて、途中で止めた。
椅子を直す仕事とは違う。仕上がりも、掛かる時間も、春にはまだ見積もれなかった。
「道案内の絵を作る仕事は、したことがないです。だから、うまくできるかわからない。でも、字を足して、次に来る方に見てもらうくらいなら」
森さんは、うなずいた。
「じゃあ、お礼はお茶で。今日は、椅子の分を払ってから」
椅子は二階の窓辺へ置いた。
森さんが座り、ゆっくり体を左右へ動かした。ぐらつかない。かかとが床へ着き、ミシンを離れて休むときに、ちょうどいい高さだった。
「これで、あの花を見ながら座れる」
森さんは、川向こうを指した。
春は自分が直した椅子を見た。市で見たときは、脚の悪い椅子だった。作業場では、接ぎ目と、古い傷と、磨くべき座面だった。
ここへ来ると、それは窓の外を見る椅子になった。

帰りに、森さんは青い封筒へ、約束どおり修理代を入れて渡した。春は中を確かめ、領収書を渡した。
「絵は、封筒の裏だから。残ってるわよ」
森さんは笑った。
春は階段を下り、店の前で一度だけ振り返った。
青い庇の下から、駅へ向かう道が見える。こちらの景色も、紙のどこかへ描いておいたほうがいいと思った。


