一 持ち回りの大物
優勝旗は、思ったより生活に邪魔だった。
立てれば天井に当たる。横にすれば廊下をふさぐ。押し入れへ入れるには、旗を竿から外さなければならない。
「外せばいいじゃない」
電話の向こうで、友達の亜紀が言った。
「折れるでしょう」
「竿が?」
「旗に、折り目がつく」
「去年から、そうやって置いてたの?」
瑞江は居間の隅を見た。旗は一年間、戸棚の上へ、そっと横たえてあった。竿の先の房へ、ほこりが積もっている。
「今、取り出したら、匂いが」
「洗えば」
旗の裏に、小さな札が縫い付けられている。
〈水洗い不可〉
瑞江はそれを読み上げた。
亜紀はしばらく黙り、「大きいのに、手がかかるね」と言った。
町内の運動会は、明後日だった。
四つの地区で競い、勝った地区が一年間、優勝旗を預かる。去年は瑞江のいる西地区が勝った。班長が入院していたので、代わりに受け取った瑞江が、そのまま家へ持ち帰ったのだ。
今年は、また勝っても、家での保管は現役の班長に頼みたい。
でも、また勝ちたい。
その二つは、両立するはずだった。
瑞江は、乾いた柔らかい布で竿のほこりを拭いた。旗には何もしなかった。無理にきれいにして、金色の文字を剥がすよりは、このままのほうがいい。
それでも、前の持ち主に聞いたほうがいいと思い、去年の実行委員へ電話した。
「旗のことなら、当日の朝、係が見るよ。何もせず持ってきて」と言われた。
瑞江はようやく、電話を置いた。
二 勝ちたい人たち
当日の朝、瑞江はまず本部へ旗を運んだ。係の人が布と竿を確かめ、「返還の式は昼休み。それまで西のテントに置いておいて」と言った。
西地区の集合場所には、予定の半分ほどしか人がいなかった。
子どもが熱を出した。仕事になった。寝坊した。来ない理由は、旗がどれほど大きくても、変わらない。
亜紀は見学用の小さな椅子を持って来た。
「出るの?」と瑞江が聞くと、「見に来た」と答えた。
「借り物競走くらいなら」
「最初から私を借りるつもり?」
「そんなこと、ないけど」
瑞江は参加者表を裏返した。
亜紀は表を見なかったことにして、椅子を開いた。
玉入れでは、西地区の籠だけ、なかなか玉が増えなかった。
瑞江は下から投げ、斜めから投げ、最後には、玉を両手に三つ持って投げた。
三つとも、籠の向こうへ飛んだ。
見学の亜紀が、手を叩いて笑った。
「応援してよ!」
瑞江が言うと、亜紀は「してるよ」と返した。全然そう見えなかった。
借り物競走は、瑞江が自分で出た。
紙を開く。
〈今日、初めてこの運動会を見に来た人〉
瑞江は亜紀を見た。
亜紀は、首を横に振った。去年も見に来ている。
「帽子にしてくれたらよかったのに」
瑞江は走りながら言い、本部の横のベンチへ向かった。
小さな子を連れた男の人が、きょとんとしている。
「初めてですか!」
勢いが強すぎた。男の人は一歩、子どもの前へ出た。
瑞江は止まり、紙を見せた。
「すみません。競走の札が、これで。一緒にゴールまで来ていただけませんか。歩いて大丈夫なので」
男の人は紙を読み、子どもへ顔を向けた。
「行ってみる?」
子どもがうなずいたので、三人で歩いた。ゴールへ着くと、ほかの組はもう終わっていた。
「遅くて、ごめんなさい」と男の人が言った。
「いえ。こちらが、急に」
瑞江は息を整えた。
「また、来年も来てくださいね」
そう言ってから、自分が実行委員みたいだと思った。
亜紀が、椅子の横から手を振っていた。
三 最後の直線
昼休みに、瑞江は優勝旗を本部へ返した。
係の人は竿と房を確かめ、旗を広げた。
「大丈夫。預かってくれて、ありがとう」
旗の下には、細い布がいくつも下がっている。歴代の優勝地区と年が書いてあった。
瑞江は、去年の〈西地区〉を探した。
その隣の古い布は、ところどころ文字が薄れている。四つの地区の名前が、何度も、違う順番で並んでいた。
係の人は、布の絡まりをほどいた。
瑞江は南地区のテントを見た。
さっきの玉入れで、いちばん多く入れていた人が、弁当を食べている。勝ち方を教わるなら、あの人に聞けばいいのだろう。
実際には聞きに行かず、瑞江も弁当を広げた。
まだ午後のリレーがあった。
最後のリレーを前に、西地区は三位だった。
得点表を見ても、瑞江には、どこまで逆転できるのかすぐにはわからなかった。係の人に聞くと、リレーで一位なら、ほかの地区の順位次第でまだ優勝の可能性はある、という。
瑞江はバトンを握った。
「勝ちたい?」
亜紀が、見学の椅子から立った。
「勝ちたいよ」
「うん。じゃあ、応援する」
「さっきから、してよ」
瑞江が言うと、亜紀は笑った。今度は椅子を畳み、コースの外の、ゴールに近いところへ移動した。
第一走者が走った。
第二走者へ渡る。瑞江は最後の走者だった。渡す人が見えてくるまで、靴の中で足の指を動かして待った。
三番目に、バトンが来た。
瑞江は走った。思ったほど、脚が前へ出なかった。前の人の背中が、近くなり、また離れる。
亜紀の声がした。
「瑞江、こっち!」
わかってる、と思った。ゴールは、ずっと見えている。
それでも、その声のほうへ走った。
一人を抜いた。
先頭の人には届かなかった。
瑞江は二番で線を越え、止まろうとして、思ったより先まで走った。係の人が、広く空けた場所へ誘導してくれた。

亜紀が追いついて、水の入ったコップを渡した。
「速かった」
「二番だった」
「知ってる。見てた」
瑞江は一口、水を飲んだ。
四 空いたところ
優勝したのは、南地区だった。
瑞江は拍手をした。少し悔しかったので、すぐに笑顔にはならなかった。
亜紀は、その横で、口を開かずに立っていた。
南地区の代表が、旗を受け取る。
大きい、と誰かが言った。
瑞江は、とうとう笑ってしまった。
帰り道、亜紀が聞いた。
「うち、寄ってく? お茶くらいあるよ」
「今日は、早く帰る。足が」
「明日、もっと来るよ」
「それは明日、言って」
二人は角で別れた。
玄関へ入ると、家が広かった。
旗の竿を気にせず、廊下を曲がれる。戸棚の上には、きれいな長方形の跡が一つ残っていた。瑞江は椅子を持ってきて、その場所のほこりを拭いた。

来年の参加者表は、まだない。
今日、初めて来た男の人と子どもを思い出した。来年は、借り物競走のあの札で呼び止められなくなる。亜紀も、そうだった。
瑞江は、次の班長へ渡す紙へ、旗を置く場所のことを書いた。
〈水洗いしない。手入れで迷ったら、実行委員へ。竿は、外して保管してもいいか、先に相談〉
そこまで書いて、旗がうちへ来ることを、もう来年の予定へ入れていると気づいた。
書くのをやめなかった。
亜紀からメッセージが来た。
〈来年は、借りる前に相談してください〉
瑞江は、少し考えた。
〈玉入れだけ、一緒に出ない?〉
返事は、すぐには来なかった。
瑞江は椅子から降り、冷蔵庫を開けた。まだ残っていた麦茶をコップへ注ぐ。飲み終えるころ、電話が小さく鳴った。
〈練習、何回?〉
瑞江は、コップを置いてから返した。
〈まず一回。全然入らないから、見てほしい〉


