十八時四十分
閉店まで二十分を残して、ショーケースの中はほとんど空になっていた。残っているのは、フィナンシェが三つと、端の欠けたロールケーキが一切れ。
堀内孝之は厨房の作業台で、最後のシューの底に口金を差し込んだ。絞り袋を握ると、手のひらにやわらかな重みが返ってくる。十二個目。茶こしで粉糖を振り、バットに並べた。
明日の朝の分を少しでも進めておけば、三輪さんは五時に来なくて済む。そう考えて、仕込み表にはない作業を、彼は三十分前から始めていた。
「堀内さん、それ」
片付けを始めた三輪ことりが、厨房の暖簾をくぐったところで足を止めた。
「明日の朝の分です。十二個だけ、先に詰めておきました。残りの二十四個は朝に」
三輪さんはバットの前まで来ると、シューを一つ、指先でそっと持ち上げた。底を返し、親指の腹で触れる。それから、ボウルに残ったカスタードに温度計を差した。
数字は、まだ高かった。
「これは、明日の棚には出せません」
声は低かったが、怒ってはいなかった。かえって、それが堀内には堪えた。
「炊いたのが十八時ちょうどで……まだ、冷ましている途中で」
「うん。クリームは、店で決めた手順で冷やしてから詰めるんです。先に閉じ込めてしまうと、冷え方も確かめにくい。それに」
三輪さんはシューの底をこちらに向けた。焼き色の薄い生地が、うっすらと濡れて色を変えている。
「朝には、皮がクリームを吸いきっちゃう」
堀内は四十一歳だった。十八年勤めた会社の経理部を辞め、この店に来て三か月になる。ノートには工程を細かく書き込み、計量は誰より正確だと言われてきた。それでも、炊いたクリームが「冷める」までの時間は、表の上ではたった一行にすぎなかった。
「すみません。捨てます」
「待って」
三輪さんはバットを引き寄せ、一つを手に取った。
今夜だけの味
「半分こしましょう」
彼女はシューを二つに割った。湯気というほどではないけれど、割れ目から卵とバニラの匂いがふわりと立った。差し出された半分を、堀内は少し迷ってから受け取った。
口に入れると、カスタードは体温に近いゆるさのまま舌の上で崩れた。皮は外側だけが軽く、内側はクリームに寄り添ってしっとりしている。
「……おいしい、ですね」
「でしょう。これは今だけの味なんです。売れないのは、明日だから」
三輪さんは笑って、指についた粉糖をなめた。
「でも、おいしいかどうかと、持ち帰ってもらえるかは別です。渡す分は、店の手順で冷やして、確かめてからにしましょう。三枝さん、まだいるかな」
三輪さんは販売用のバットを脇へよけた。持ち帰る分は、店で決めた手順で冷やし、保冷剤と一緒に箱へ詰めた。
隣の花屋の三枝さんは、片付けをしているところだった。六個入りの箱を受け取ると、「今夜? いいの? ちょうど孫が来てるのよ」と目を丸くした。
「今夜中に、お願いします」
堀内が頭を下げると、三枝さんは箱を胸に抱えて、何度も頷いた。
残った五つは堀内の分になった。「娘さん、高校生でしたよね」と三輪さんが言い、保冷剤を二つ入れた箱を手渡してくれた。
厨房に戻ると、三輪さんはボウルを秤に載せた。
「残りが七百グラム。皮は二十四個。いつも一個四十グラム詰めるから」
「九百六十グラム要ります。二百六十、足りません」
数字だけは、すぐに口から出てくる。
「もう一回炊くと、冷ます時間が足りない。五時から炊いても間に合わなくはないけど」三輪さんは首を振った。「それより、今あるもので何ができるか、試してみませんか」
三つのカップ
残ったカスタードも、試作の前に冷ました。
三輪さんに教わりながら、堀内はカスタードを清潔なバットへ移し、店で決めた冷却の手順を確かめた。いつもノートに一行だけ書いていた工程だった。
「薄く広げるのは、熱の逃げ道を増やすため。厚いままだと、真ん中だけいつまでも温かいんです」
堀内はノートを開き、移した時刻と温度を書いた。途中でも確かめ、三輪さんに見てもらった。
片付けが済むころ、ようやく試作に進める状態になった。
三輪さんは冷蔵庫から生クリームを二パック出した。合わせて四百ミリリットル。そのうち少しだけを小さなボウルで八分立てにして、紙カップを三つ並べた。
「カスタードに、泡立てた生クリームを合わせます。量が増えて、口当たりも軽くなる。ただ、増やしすぎると卵の味が遠くなる」
カップに、比率を書いたマスキングテープを貼った。九対一、七対三、五対五。
堀内は小さな秤を使い、それぞれ十グラムずつ作った。

九対一は、さっきのカスタードとほとんど変わらない。重くて、まっすぐな味がする。五対五は、雲を食べているみたいに軽く、そのぶんバニラの輪郭がぼやけていた。七対三は、そのあいだに、ちょうどよく収まっていた。
「どれにします?」
三輪さんが訊いた。
「試食に使った分を引くと、カスタードは六百七十九グラムです。七対三なら、生クリームが二百九十一で、合わせて九百七十。二十四個に詰める分はあります」
「それは、計算の答えですね」三輪さんは自分のスプーンを置いた。「堀内さんの舌は、どれがいいって言ってますか」
堀内は、もう一度三つを順に食べた。目を閉じて、最後に九対一と七対三を比べ直す。
朝の十時に店を開けると、最初に来るのは決まって近所の老夫婦だ。昼前には、買物帰りの人たちが寄っていく。冷蔵ケースから出したばかりの、冷たいシューを食べる人たち。
「七対三です。冷えた状態で食べるなら、九対一は重く感じると思います。でも五対五だと、卵の味がしなくなる」
「数字と一緒になって、よかった」
三輪さんはテープを剥がし、堀内のノートの上に貼った。
「じゃあ明日、合わせるのは堀内さんにお願いします」
「僕が、ですか」
「私が五時に来て、皮を温め直します。百七十度で五分。皮が冷めたら、堀内さんがクリームを合わせて、詰める。最後に詰めるのは、開店の直前に」
「何時に詰めれば」
「それも、堀内さんが決めて」
言ってから、三輪さんは少し照れたように笑った。
「私、全部自分で決めちゃう癖があるんです。だから毎朝五時に来ることになる。今日みたいに先回りしてもらうより、一つ、ちゃんと渡したほうがいいなって」
堀内は時計を見て、それからノートのページをめくった。生クリームは、立ててから時間が経つと水が出る。皮は、詰めてから時間が経つと湿る。冷蔵ケースで冷やす時間は、少なくとも——。
「九時十分に合わせて、九時二十分から詰めます。九時五十分までにケースへ」
「わかりました」
三輪さんは、それ以上何も足さなかった。
九時四十分
翌朝、堀内が店に着いたのは八時半だった。
厨房では、温め直された二十四個の皮が網の上で冷めていた。指で弾くと、からりと乾いた手応えが返ってくる。
カスタードは、店の決まりに沿って冷やしておいた。三輪さんと状態を確かめてからラップを剥がすと、表面はなめらかで、膜も張っていなかった。ゴムべらでほぐすと、つやが戻った。
九時十分。生クリームを二百九十一グラム、八分立てにする。泡立て器を持ち上げ、角がやわらかくお辞儀したところで止めた。
まず三分の一をカスタードに入れて、ぐるりと混ぜる。残りを加えたら、今度は切るように、底からすくって返す。混ぜすぎると泡が消える。混ぜ足りないと、白い筋が残る。
三輪さんは少し離れた台で、タルト生地を伸ばしていた。こちらを見ているのかどうか、堀内にはわからなかった。
最後のひとすくいで、白い筋がふっと消えた。
彼は、そこで手を止めた。
九時二十分。皮の底に口金を差し込んで、絞る。手のひらに返ってくる重みが、昨日より少しだけ軽い。一個ずつ秤に載せた。四十一、四十、三十九、四十。
二十四個目を詰め終えたのは九時三十八分だった。そのうち一つを検品用に取り分け、残りに粉糖を振って、冷蔵ケースの下段に並べる。
九時四十分。ガラス越しに、三輪さんが手書きの札を差し込むのが見えた。〈シュー・ア・ラ・クレーム 二百八十円〉。いつもと同じ札だった。

「名前、変えないんですか」
「同じシューですから。中身が、昨日より少し軽いだけ」
十時、扉の鈴が鳴った。最初の客はやはり老夫婦で、シューを二つとフィナンシェを一つ買っていった。昼までに売れたシューは十一個。いつもの平日と、ほとんど変わらない数だった。
昼休み、堀内は検品用の一つを、三輪さんと半分に分けた。冷蔵ケースから出したばかりのシューはひんやりと冷たく、軽くて、卵の味が最後までちゃんと残っていた。
「昨日の夜のほうが、おいしかったかもしれませんね」
「あれは、あれ」三輪さんは笑った。「三枝さんのお孫さん、三つ食べたって」
堀内はノートを開き、昨日の欄の下に今日の数字を書き込んだ。〈九時十分 合わせ 七対三〉。それから少し迷って、その横に小さく書き足した。
〈混ぜ終わりは、白い筋が消えたところ。自分で止めた〉
夕方、彼はまたカスタードを炊いた。火を止めてバットに広げ、温度計を差す。
温度計の数字は、まだ高い。
まだ温かい。ここから先は、冷却の手順を一つずつ確かめる。


