二百八十円のお釣り
土曜の朝十時。商店街の文房具店「ほたる堂」のシャッターが上がりきるのを、西脇灯は茶封筒を胸に抱えて待っていた。
封筒の表には、灯の字で「水曜はがき絵の会 共同購入 8,250円」とある。中身は五千円札が一枚、千円札が三枚、百円玉が二枚、五十円玉が一枚。先週の水曜に、公民館の和室で六人から集めたお金だ。家で三回数えた。折り返しは糊づけせず、差し込むだけにしてある。店で品物が足りなかったら、出し入れできるように。
「おはよう。早いのねえ」
生成りのカーディガンを羽織った宇野千鶴さんが、アーケードの向こうから歩いてきた。袖口がゆったりしていて、遠目には着物の袂のように見える。続いて森下さんが手を振り、柏木律がリュックを片方の肩に掛けて現れた。最後に、堀さんがジャージ姿で走ってきた。
「すみません、息子のサッカーが十一時からで。僕の分だけ先に……あ、まとめて払うんでしたね」
「はい、まとめてです。堀さんは固形水彩ひとつだけなので、すぐお渡しできます」
片桐ヨシさんは膝の具合がよくなくて、今日は来られない。帰りに森下さんが届けることになっている。
灯は注文表を広げた。半年前に宇野さんから会計を引き継いで、最初に作ったのがこの表だ。会のノートの一ページ目には、決まりも書いた。――会のお金で買ったものは、必ずレシートを残すこと。レシートのない支出は認めません。
書いたとき、宇野さんは「立派ねえ」とだけ言った。それが褒め言葉だったのか、灯にはいまもわからない。
店の中は、紙とインクの匂いがした。二十枚入りの水彩はがき紙を七冊。水筆ペンを三本。固形水彩の十二色を二つ。練り消しを二つ。柏木が棚の上段から絵の具の缶箱を下ろし、森下さんが「水筆、中字でいいのよね」と確かめる。灯は籠の中身を、注文表と一つずつ照らし合わせた。
レジの横には小さな木箱があって、親指ほどのマスキングテープが並んでいた。柿の実、どんぐり、銀杏の葉。手書きのポップに「ミニマスキングテープ 各200円」とある。宇野さんがその前で足を止めたのが、灯の目の端に入った。
「七千九百七十円になります」
レジの女性に言われて、灯は注文表を見直した。表の合計は八千二百五十円だ。
「あの、八千二百五十円では」
「水彩はがき紙が三冊以上で、一冊四十円引きなんです。七冊なので、二百八十円お引きしてます」
知らなかった。灯は封筒の中身を全部出して、トレーに置いた。八千二百五十円。女性がそれを数え、レジが開く。
「すみません、僕のだけ先にもらっていいですか」と堀さんが申し訳なさそうに言った。
「どうぞ」
灯は包装台で絵の具の箱を一つ小袋に入れ、堀さんに渡した。残りは人数分の小袋に分けていく。宇野さんの分。森下さんと片桐さんの分をまとめて一つ。柏木の分。自分の分。小袋四つを、店がくれた大きな紙袋に立てて入れた。小袋の口は、まだどれも開いていた。いちばん手前に、缶箱の入った柏木の小袋がある。空になった封筒は、そのすぐ横の、紙袋の口に差しておいた。
「五千円を超えましたので、よろしければこちらからおひとつ――」
レジの女性が何か言い、宇野さんが「あら」と身を乗り出した。けれど灯はちょうど堀さんに「レシートの写真、あとで送りますね」と声をかけていて、その続きを聞いていなかった。

「先に、お釣りの二百円です」
手のひらに百円玉が二枚落ちてきた。灯は左手で紙袋を押さえたまま、その二枚を封筒の口をめがけて落とした。小さく、コツンと鳴った。レジの音にまぎれ、灯は気に留めなかった。
「残りの八十円と、レシートです」
五十円玉が一枚と、十円玉が三枚。今度は紙袋から封筒を抜き出し、レシートと一緒にしっかり入れて、折り返しを差し込んだ。
アーケードの休憩ベンチで、灯は小袋を配った。
「値引きの分は家で計算して、水曜にお返しします」
「律儀ねえ」と森下さんが笑った。「一冊四十円でしょう。いいのに」
「よくないです」
柏木はこのまま大学へ行くと言って、小袋をリュックの横にぶら下げ、駅のほうへ歩いていった。宇野さんはベンチで自分の小袋をのぞき、何かを取り出してスマートフォンで写真を撮っていた。
八十円の封筒
夜九時。灯は台所のテーブルで封筒を逆さにした。
五十円玉が一枚。十円玉が三枚。それと、レシート。
もう一度振った。何も落ちてこない。
レシートには、合計七千九百七十円、お預り八千二百五十円、お釣り二百八十円と印字されている。値引きの二百八十円は一冊四十円ずつだから、灯の二冊で八十円、宇野さんが四十円、森下さんが八十円、柏木が四十円、片桐さんが四十円。自分の八十円を除いた二百円を、ほかの四人に返すつもりでいた。
その二百円がない。
トートバッグを裏返し、コートのポケットを探り、帰り道を頭の中でたどった。財布の小銭入れも数えた。朝、家を出る前に数えた額と、一円も変わっていない。
スマートフォンには、会のグループの通知がたまっていた。森下さんの「片桐さんにお届け完了!」と、膝に湿布を貼った片桐さんの写真。その下に、宇野さんの写真があった。水彩はがき紙が一冊、練り消しが一つ。それから、小さなマスキングテープ。柿の実の柄だ。
灯は画面を指で広げた。レジ横の木箱にあったものだ。各二百円。
宇野さんが木箱の前で足を止めていたこと。トレーのそばへ身を乗り出していたこと。それから、引き継ぎのときに受け取った古い会計ノートを思い出した。余白にときどき、鉛筆で「立替 宇野 あとで」と書いてあった。前の会計は、細かいものを先に買い、レシートを残さないまま、あとで会のお金からまとめて精算することがあったのだ。悪いことではない、と灯は自分に言い聞かせた。ただ、それをやめるために、自分が会計になった。
灯はグループに書いた。
〈【会計より】本日のお釣りが二百円合いません。レシートにない買物にお釣りを使われた方がいたら、教えてください〉
送ってから、少し強すぎたかと思った。けれど、誰かが名乗り出てくれれば済む話だ。十分待っても、来たのは森下さんの「えっ」というスタンプだけだった。
灯は、宇野さんとの個別のやりとりを開いた。
〈宇野さん、写真のテープ、レジ横の二百円のものですよね。お釣りから出されましたか? 責めるつもりはないので、そうなら教えてください〉
既読はすぐについた。返事は来なかった。
日曜の朝、七時十分。
〈出してません。〉
それだけだった。灯は三回読んだ。最後の句点が、文字よりも重かった。
ポップの下の一行
ほたる堂は十一時に開く。灯は十時五十分から店の前に立っていた。
レジ横の木箱は、昨日のままだった。柿、どんぐり、銀杏。ポップの「各200円」は太いマーカーで大きく書いてある。その下に、細いペンでもう一行あった。灯はしゃがんで読んだ。
〈★税込5,000円以上お買い上げの方に、お好きな柄をおひとつ差し上げます(10月末まで)〉
立ち上がると、膝が小さく鳴った。
「昨日のサークルの方ですよね」
レジの女性が、エプロンの紐を結びながら奥から出てきた。
「はい。あの、昨日このテープを……」
「ええ、おひとつお渡ししました。カーディガンの方が選ばれて。会のノートの表紙に貼るから、秋らしいのがいいって、柿のを」
会のノート。公民館の棚に置いてある、出席簿を兼ねた大学ノートのことだ。表紙の角がめくれていて、セロハンテープで何度も留め直してある。
「何かありました?」
「お釣りが……いえ、こちらの問題です。昨日、レジは合ってましたか」
聞いてから、失礼な質問だと気づいた。女性は気にする様子もなく答えた。
「昨日の締めは、過不足なしでした。二百八十円、ちゃんとお渡ししてると思います」
水彩はがき紙の棚には、昨日は気づかなかった黄色い札が値札に重ねて貼ってあった。〈秋の絵はがき応援 3冊以上で1冊400円〉。灯は注文表を作るのに、二週間前に森下さんが撮った棚の写真を使った。あのときは、まだこの札はなかったのだ。
店を出て、灯はアーケードのベンチに座った。昨日、小袋を配ったベンチだ。
〈宇野さん、お店で伺いました。テープはお店からいただいたもので、会のノートに貼るために選んでくださったんですね。お釣りから出したのではと疑ってしまい、本当に申し訳ありません〉
送ってから、五分ほど画面を見つめていた。
〈それはいいから〉
〈じゃあ、二百円はどこに行ったの〉
〈いま、どこ?〉
〈ほたる堂の前のベンチです〉
〈十分で行きます〉
缶の音
宇野さんは九分で来た。カーディガンではなく、紺のジャンパーを着ていた。
灯は立ち上がって頭を下げようとした。宇野さんは手のひらを見せて、それを止めた。
「謝るのは、二百円が見つかってからでいいわ」
「でも」
「見つからないうちに謝られるとね、まだ私が疑われてるみたいで落ち着かないのよ」
宇野さんは灯の隣に腰を下ろした。
「乾物屋を四十年やってたの。お釣りが合わない晩なんて、何べんもあった。合わないお金はね、たいてい、どこかにちゃんと落ちてるの。誰かのポケットじゃなくて」
宇野さんは昨日のことを、灯に順番に言わせた。封筒の中身を全部トレーに置いたこと。堀さんの袋を先に渡したこと。小袋を四つ、大きな紙袋に立てて入れたこと。空の封筒を紙袋の口に差したこと。
「それで、お釣りは二回に分けてもらったわね」
「はい。先に百円玉を二枚。封筒に入れて、次に八十円とレシートを」
「最初の二枚、どうやって入れた?」
灯は自分の右手を見た。昨日は左手で紙袋を押さえていた。右手で、封筒の口に――。
「……落としました。封筒の口に」
「そう。私、あのとき横でテープを選んでたでしょう。音がしたのよ」
「音?」
「封筒に硬貨が落ちたら、カサッていうの。紙の音。でもあれは、コツンだった。缶に当たる音」
宇野さんは指で、ベンチの板を軽く叩いた。
「固形水彩、缶のケースだったでしょう。あのとき聞こえて、あら、と思ったの。でも、あなたが次の八十円をちゃんと封筒にしまうのを見て、聞き違いかと思った。言えばよかったわね」
「いえ、それは」
「言えばよかったのよ。ゆうべのうちに思い出せたら、もっとよかった。でもあの文面を読んだら腹が立って、何も思い出せなかった」
灯は黙ってうなずいた。
絵の具の缶が入った小袋は二つあった。一つは会計の途中で、堀さんに渡している。紙袋に残っていたのは、一つだけだ。
「柏木くんのです」
灯はグループではなく、柏木に直接送った。
〈柏木くん、昨日の小袋、底を見てもらえますか。百円玉が二枚入っているかもしれません〉
既読はつかなかった。日曜の大学で何をしているのか、灯は知らない。
「待ってる間に、言っておくわね」
宇野さんは、商店街を行き交う人を眺めながら言った。
「あなたの決まりは正しいのよ。レシートのない支出は認めない。私が会計だったときは、あれができなかった」
「……はい」
「ただね、レシートの出ないものも、世の中にはあるの。おまけとか、もらいものとか、落としたものとか。支出じゃないけど、帳面には残しておいたほうがいい。あとで誰かが困らないように」
灯は、ゆうべ自分が書いた〈レシートにない買物〉という言葉を思い出した。
「それと、訂正は出すんでしょう」
「はい」
「私の名前、ちゃんと書いてね」
灯は顔を上げた。
「グループには、名前を出してなかったじゃない。でも、あの日テープの写真を上げたのは私だけ。誰も口には出さなくても、みんな少しは考えるのよ。だから、宇野は何もしてない、って名前を出して書いて。ぼかされると、ぼかしたところに私がずっと残るから」
それだけ言うと、宇野さんは立ち上がった。「夕方、わかったら教えて」と言い残して、帰っていった。
柏木の返信は、十六時五十分に来た。
〈ありました〉
写真の中で、紙袋の底の百円玉が二枚、固形水彩の箱にもたれるように並んでいた。
〈研究室の机の下に置きっぱなしで、袋を開けてませんでした。水曜に持っていきます。なんか重い気がしてたんですよね〉
百円玉二枚は、十グラムにも満たない。重い気がするはずがない。灯は少し笑って、その写真を宇野さんに転送した。
〈缶の音でした〉
〈でしょう〉
名前を書く
最初に書いた訂正は、こうだった。
〈先日の件、解決しました。お騒がせしました〉
灯はそれを消した。これでは、何がどう解決したのか誰にもわからない。わからないところには、宇野さんの言うとおり、誰かの名前が残る。
二度目の文は長すぎて、謝る言葉が三回も出てきた。それも消した。
送ったのは、三度目に書いたものだ。
〈【会計より・訂正とお詫び】昨日「お釣りが二百円合わない」と書いた件です。原因は私でした。お釣りの百円玉二枚を封筒に入れたつもりで、大きな紙袋の中の柏木くんの小袋に落としていました。柏木くんが確認してくれて、袋の底にありました。
また、宇野さんが写真に上げていたテープは、五千円以上の購入でお店からいただいたもので、宇野さんが会のノート用に選んでくださったものです。宇野さんはお釣りに一切手をつけていません。私が早とちりして、宇野さんにだけ確認の連絡をしてしまいました。申し訳ありませんでした。
値引き分(一冊四十円)は、水曜にお返しします〉
一分もしないうちに、森下さんから〈名探偵!〉と返ってきた。
〈名探偵は宇野さんです〉と灯は打った。
堀さんからは〈お疲れさまです。息子は二対一で勝ちました〉。片桐さんの分は森下さんが代わりに〈片桐さんが、四十円楽しみにしてるって〉と書いてきた。
宇野さんからは、柿のスタンプが一つ届いた。
灯は、会のノートの一ページ目を思い浮かべた。〈レシートのない支出は認めません〉。その下に何を書き足すか、その夜はずっと考えていた。
水曜の小袋
火曜の夜。灯は自分の小銭入れから十円玉と五十円玉を出して、テーブルに並べた。
宇野さん、四十円。森下さん、八十円。柏木、四十円。片桐さん、四十円。
自分の小銭で先に用意しておけば、水曜に柏木から二百円を受け取ってから両替する手間がない。封筒の八十円と柏木の二百円は、あとで自分の財布に入れればいい。合わせて二百八十円。いま出した二百円に、自分の値引き分の八十円を足した額と同じだ。
硬貨を包むのには、教室で余った半紙を使った。四つ折りにして端を糊で留め、それぞれの名前を書く。書き終えてから少し迷って、角に小さく柿の実を描いた。朱色を一滴落として、ヘタに緑を一筆。
水曜の夜七時。公民館の和室には、もう電気ストーブが出ていた。
柏木は来るなり、リュックから小さなチャック付きの袋を取り出した。研究室で土を入れる袋らしい。ラベルには油性ペンで〈百円玉×2 10/25 小袋底より採取〉と書いてある。
「試料扱いなんだ」と森下さんが笑った。
「つい」
灯はそれを受け取って、かわりに柏木の名前の小袋を渡した。
「四十円です」
「僕の四十円、僕が運んでたんですね」
片桐さんは膝に毛布を掛けて座っていた。小袋の柿を指でなぞって、「これ、開けるのがもったいないねえ」と言った。
宇野さんは何も言わずに小袋を受け取ると、かわりに紙袋から柿のテープを出した。棚から会のノートを下ろし、めくれた表紙の角に沿って、柿の実を一つずつ貼っていく。古いセロハンテープの上に、橙色の実が並んだ。
「どう」
「……かわいいです」
「でしょう。二百円じゃないけどね。ゼロ円」

灯は自分の会計ノートを開いた。土曜の欄に貼ったレシートの写しの下に、一行書き足す。
〈ミニマスキングテープ(柿) 1 0円 ほたる堂より(5,000円以上の購入で)〉
宇野さんがのぞきこんだ。
「そんなことまで書くの」
「書きます。レシートにないものも」
それから、会のノートの一ページ目を開いた。〈レシートのない支出は認めません〉の下に、今朝の通勤電車で決めた一行を書く。
〈お釣りは、レジで二人で数えること〉
「宇野さん」と灯は言った。「次の共同購入のとき、レジで隣に立ってもらえませんか。数えるのを見ていてほしいんです」
宇野さんは少し黙った。それから右手を灯の前に出し、指をそろえて、手のひらにくぼみを作った。
「お釣りはね、ここで受けるの。袋の上でもらわないこと。手の中で数えて、数え終わるまで、どこにも入れない」
「はい」
「四十年分の教えよ。安くないわよ」
「いくらですか」
「ゼロ円」
森下さんが吹き出し、柏木もつられて笑った。
その晩の題は「身近なもの」だった。片桐さんは老眼鏡を、堀さんは息子のサッカーのスパイクを、森下さんは公民館の湯呑みを描いた。柏木は試料袋に入った百円玉を描こうとして、森下さんに「それ、もう灯さんのでしょう」と止められた。
灯はしばらく迷ってから、会のノートを描くことにした。めくれた角と、そこに並ぶ柿の実。水筆ペンに朱を含ませると、紙の上でじわりとにじんだ。
隣では宇野さんが、レジ横の木箱を思い出しながら描いていた。どんぐりと、銀杏と、柿。それから、ポップの下の細い一行まで。
「そこまで描くんですか」
「描くわよ。いちばん大事なところでしょう」
灯は自分のはがきの隅に、小さく「0円」と書き入れた。


