一 濡らすな、開けるな、一日ひとつ
戸川クリーニングの帳場の奥には、古い板が一枚かかっている。墨はとうに薄れているが、ノエは目をつぶっても読める。
一、濡れた布に風は畳めぬ。
二、開けた風は戻らぬ。
三、畳んだ風は、一日にひとつずつほどける。
その下に、あとから別の手で小さく書き足してある。——匂いは最後まで残る。
十月二十一日の朝六時半、ノエはその板の前で、包みをひとつ抱えて立っていた。生成りの麻布を七つに畳み、角に赤い糸を一本結んだもの。風を抱いた布は、結び目の糸をかすかに持ち上げる。七つ畳みなら、糸は指を立てたようにまっすぐ立つはずだった。
糸は垂れていた。毛先だけが、息を吹きかけられたみたいにふるえている。
「ひとつ分、あるかないかだね」
店主の戸川トキが、アイロン台の向こうから言った。七十になるが、シャツの襟を押さえる手は止まらない。一階では町の人の服を洗い、裏の丘では風を畳む。それがこの店の二つの仕事で、トキは五十年、そのどちらも休んだことがない。
ノエは包みに鼻を寄せた。薄荷と、乾いた萱の匂いがした。丘の干し場のまわりに生えているものの匂いだ。風が抜けても、それだけはしっかり残っている。
「昨日の朝です」とノエは言った。「六時四十分に西から強いのが来て。裾がまだ少し湿ってたのは、わかってました」
トキは何も言わなかった。言われなくても、ノエには全部わかっていた。朝露が乾くまで待て。見習いになった最初の週から、何十回も言われてきたことだ。昨日のノエは、待てば風が行ってしまうと思った。灘浦の船大工から頼まれた七つ畳みは、この秋いちばん大きな注文で、ノエが一人で畳ませてもらう初めての七つだった。
水を含んだ布は、風を抱いたふりをする。畳んだときには確かに重く、膨らんでいる。けれど夜のあいだに、風は濡れた布目から少しずつ抜けていく。残るのは、捕まえた場所の匂いだけだ。
「次に強い西が来るのは」
「晴雨計を見るかぎり、二十八日あたり。外れるかもしれない」
船大工の柾木さんは、二十二日に帆の試しをして、二十三日に舟を渡すと言っていた。二十八日では間に合わない。
トキは電話のところへ行き、灘浦の番号を回した。ノエはその背中を見ていた。短いやりとりのあと、トキは受話器をノエに向けた。
「柾木さんが、あんたと話すって」
受話器の向こうの声は低く、波の音みたいにざらついていた。
「残ってるのは、どのくらいだ」
「……ひとつ、あるかないかです。すみません」
「匂いは」
「薄荷と、萱です」
少し間があった。
「持ってこい。見てから決める」
電話が切れた。ノエが受話器を戻すと、トキはもう帳場の引き出しから封筒を出していた。中には前金の五千六百円。ひと畳み八百円の、七つ分だ。それから、トキの字で書いた短い手紙。
「うちの決まりは知ってるね」
「捕まえた風は、どんなでも届ける。決めるのは頼んだ人」
「ならいい。七時五十二分のバスに乗りな。夕方までに開けないと、ひとつも残らないよ」
二 下りの便
風上町から灘浦までは、バスで川口駅へ下り、そこから海沿いの線に乗り換える。乗り継ぎがよくても、五時間と少しかかる。
ノエは包みを膝に置き、赤い糸が見えるように抱えた。バスが坂を下るあいだ、糸は九時を過ぎても、指の幅ほど浮いたり沈んだりしていた。窓の外の丘はだんだん低くなり、やがて干し場の物干し竿も見えなくなった。
川口駅で乗った列車は空いていた。向かいの席に、籠を提げた年配の女の人が座った。しばらくして、その人がくん、と鼻を鳴らした。
「薄荷かしら。いい匂い」
「すみません、これです」ノエは包みを少し持ち上げた。「風が入ってた布なんです」
「入ってた?」
「今は、ほとんど抜けちゃって」
女の人は、へえ、と赤い糸を眺めた。ノエはそれ以上説明しなかった。説明すれば、どこかに言い訳が混じりそうだった。
十一時を過ぎると、線路は海に沿って走りはじめた。秋の灘の海は鏡のように凪いでいた。この季節、灘浦の入り江には二週間ほど、まるで風が立たない。だから船大工は、山の上の店から風を取り寄せる。舟台の上の帆に、畳んだ風を開いて当て、帆の張りを確かめる。柾木さんは三十年、そうやって舟を仕上げてきたと、トキから聞いていた。

ノエは糸に触れないように、そっと手のひらを近づけた。かすかな、ほんとうにかすかな息が、肌に当たった。
もし今ここで開いたら、どのくらい吹くだろう。窓のカーテンがすこし揺れるくらいだろうか。そんな考えが浮かんだこと自体がいやで、ノエは包みを膝の奥へ引き寄せた。開けた風は戻らない。開けるかどうかは、届け先の人が決めることだ。
十三時十分、灘浦に着いた。駅前の時計の下で地図を確かめ、入り江の奥へ歩いた。潮と、乾いた木と、油の匂い。舟台の並ぶ浜の端に、「柾木造船」と書いた板を打ちつけた小屋があった。
小屋の前の舟台に、舟が一艘載っていた。二十二尺ほどの、細身の渡し舟。真新しい杉の肌に、まだ名前は書かれていない。帆柱には生成りの帆が一枚上げてあったが、風がないので、ただ垂れて細かな縦じわを寄せていた。
三 灘浦の舟台
柾木さんは、舟の横で鉋を研いでいた。六十を過ぎた、肩の厚い人だった。ノエが名乗る前に顔を上げ、包みを見た。
「戸川んとこの」
「野上ノエです。このたびは、すみませんでした」
ノエは頭を下げ、包みを両手で差し出した。柾木さんは受け取らずに赤い糸へ顔を寄せ、鼻で長く息を吸った。
「今年は薄荷が強いな」
「……はい。干し場の脇に、増えてて」
「トキさんの丘の匂いだ。三十年、毎年嗅いでる」
柾木さんは研ぎ石を水桶に沈め、手を拭いた。
「いつ畳んだ」
「昨日の朝、六時四十分です。裾が濡れてるのはわかってました。待たなかったのは、私です」
言ってしまうと、それ以上言うことはなかった。ノエは封筒を出した。
「前金をお返しします。店主からの手紙も入ってます」
柾木さんは封筒を受け取ると、手紙だけ抜いて読んだ。読み終えて、封筒ごと作業台に置いた。怒っているのかどうか、ノエには顔からはわからなかった。
「強い試しは、二十八日より前にはできないってことだな」
「晴雨計が当たれば二十八日です。外れたら、もっと後です」
そのとき、浜のほうで自転車のブレーキが鳴った。荷台に水筒をくくりつけた女の人が、自転車を押して舟台へやって来た。日に焼けた顔で、髪を後ろでひとつに縛っている。
「柾木さん、お茶。——お客さん?」
「風上町の、風屋の見習いだ」
「あ、帆の風の」
女の人は潮見ルリと名乗った。入り江の口から向かいの小島まで、渡し舟を出している。今まで乗っていたつばめ丸は四十年ものの舟で、この秋で引退させる。新しい舟で十一月一日から渡しを再開すると、島の人たちに約束していた。
「二十三日に受け取って、一週間、慣らすつもりだったんです」とルリは言った。「新しい舟は、癖がわかるまでお客さんを乗せたくないから」
ノエはもう一度、事情を話した。今度はルリに向けて。昨日の朝の自分を責めすぎないように、かばいもしないように、起きたことを順番どおりに話すよう気をつけた。
ルリは黙って聞き、それから舟を見上げた。垂れた帆を。
「強い風の試しをしないと、帆を使って外へは出せないんですよね」
「出せん」と柾木さんが言った。「強い風で試してない帆では、外へ出せん。そこは曲げない」
「じゃあ、二十八日まで待つ?」
「それだと、あんたの慣らしは三日になる。風が外れたら、慣らしなしで一日の朝を迎える」
三人は、しばらく舟を見ていた。入り江の水は動かず、帆も動かなかった。
ノエの膝の横で、包みの赤い糸がふるっと一度だけ持ち上がり、また垂れた。
柾木さんが、それを見ていた。
四 弱い風の使い道
「その糸、なんのためにつけてる」
柾木さんに訊かれて、ノエは包みを持ち上げた。
「風の残りを見るためです。布の中の風が息をすると、糸が浮きます。強ければ立つし、弱ければ垂れます」
「帆にも同じことをする」と柾木さんは言った。「帆の表と裏に毛糸を貼る。風がきれいに流れてれば、糸は両側とも後ろへまっすぐ流れる。どこかで帆がたるんでたり、膨らみすぎてたりすると、裏の糸がくるくる回る」
「強い風のときに、ですか」
「この帆は、強い風のときには癖が見えにくい。ぱんと張っちまってな。弱い風のときに、糸の動きを見たいんだ」
柾木さんは作業台の封筒を指で叩いた。
「本当は、強いのを当てる前に、弱いので一度見たかった。だがこの入り江は凪で、弱い風すら来ない。ひと畳みだけ頼むのも、手間を取らせると思ってやめた」
ルリが、あ、と声を出した。
「じゃあ、それを今、使えるってこと?」
「使える。だが、それで強い試しが済むわけじゃない。帆を上げて外には出せん。そこは変わらん」
柾木さんはノエを見た。ノエはうなずいた。弱い風で帆の癖が見えても、強い風で帆柱や継ぎ目が持つかどうかはわからない。
「ルリ」と柾木さんは言った。「選び方は二つある。二十八日まで待って、強いのと弱いのをまとめてやる。あるいは、今この風で帆の癖を見て、今夜と明日で直して、二十三日に舟を渡す。そのかわり、強い試しが済むまでは、帆を使うのは入り江の中だけだ。岬の外へ出るなら帆を下ろして櫓を使え。風が来たら、俺も乗って帆を試す」
「強いのが一日に間に合わなかったら?」
「渡しは櫓でやれ。あんたは十五年、櫓で渡してきた」
ルリは水筒の蓋を開け、お茶をひとくち飲んだ。それから、舟の舳先を手のひらで軽く叩いた。
「受け取ります、二十三日に。入り江の中で慣らす。凪なら、櫓の練習にちょうどいいし」
そして、ノエのほうを見た。
「その風、開けてもらえる?」
ノエは柾木さんを見た。ふつう、風を開けるのは使う人だ。けれど柾木さんは首を振った。
「お前が畳んだ風だ。お前が開けろ。俺は帆を見る」
柾木さんは小屋から赤い毛糸の玉を持ってきた。ノエも鞄から、包みに結ぶための予備の赤い糸を出した。二人で帆の表と裏に、手のひらほどの間隔で糸を貼っていった。上から三段、横に四列。帆の裏の高いところには、ルリが脚立に乗って手を伸ばした。
十六時二十分。陽が入り江の向こうへ傾きはじめていた。
ノエは帆の風上側、舳先寄りに立ち、包みを胸の高さに掲げた。赤い糸は、もうほとんど浮かなかった。結び目をほどき、ひとつ、ふたつ、と声に出しながら、畳んだときと逆の順に布を開いていく。丘で畳むときも、こうして数える。数えないと、風の数を自分でごまかしてしまう気がするからだ。
五つ、六つ、七つ。
布が一枚の四角に戻った瞬間、ノエの顔に、ぬるい息のようなものが当たった。
強くはなかった。洗濯物の袖がようやく揺れるくらいの風だ。それでも、今日この入り江ではじめて吹いた風だった。薄荷と乾いた萱の匂いが、舟台いっぱいに広がった。
帆が、ゆっくりと腹をふくらませた。

表の毛糸が、いっせいに後ろへ流れた。ルリが小さく「わ」と言った。ノエは布を両手で張ったまま、帆の裏をのぞいた。下の段の糸は、表と同じようにまっすぐ流れている。中の段も。
上の段の、帆柱寄りから二本目の糸だけが、くるり、くるりと回っていた。
「そこだ」
柾木さんはチョークを持って脚立に上がり、回る糸のまわりに丸を描いた。それから帆の縁の縫い目を指でたどり、もう一本、短い線を引いた。
「上のほうで膨らみが深すぎる。ここの縫い目を少し詰める。この帆は強い風だと、ここも張っちまって見えにくい」
風はそこで細くなり、帆はまた垂れた。ノエの手の中には、からになった麻布が残った。匂いだけは、まだ残っていた。
ルリが帆に顔を近づけた。
「帆が薄荷くさい」
「二、三日は抜けんだろうな」と柾木さんが言った。
「いいです、それ」とルリは笑った。「島のおばあちゃんたち、たぶん喜ぶ」
ノエは布を畳んだ。風の入っていない布は、驚くほど軽かった。
柾木さんは作業台に戻り、封筒を作業着の胸ポケットにしまった。それから小屋の棚の缶を開け、百円玉を八枚数えて、ノエの手のひらに載せた。
「ひと畳み分は払う。使ったのは俺だ」
「でも、それは」
「決めるのは頼んだ者だろう」
ノエは口を閉じた。今朝、自分がトキに言った言葉だった。
「それと、七つ畳みをもう一枚。代金は届いたときに払う」柾木さんは手紙の裏に鉛筆で何か書きつけ、ノエに返した。「今度は、乾いてから畳め」
「はい」
ノエは八百円と手紙と、からになった布を鞄にしまった。
帰りの最終にはもう間に合わなかった。ルリが「うちに泊まりなよ」と言い、自転車の荷台にノエの鞄を載せて、入り江沿いの道を押して歩いた。途中でルリは、つばめ丸の話をした。父親から継いだ舟で、櫓のにぎりがルリの手の形にすり減っていること。新しい舟の櫓はまだつるつるで、手になじまないこと。
「一週間あれば、少しはなじむと思うんだ」とルリは言った。「凪でよかった。今年は凪に助けられる」
その夜、ルリの家の台所で、ノエは鯵の干物と味噌汁をごちそうになった。ルリに電話を借りて、トキに決まったことをそのまま伝えた。トキは「そう」とだけ言って、「明日の始発で帰っといで。洗い物がたまってる」と付け足した。
五 乾くまで待つ
晴雨計は当たった。
十月二十八日の朝五時五十分、ノエは丘の干し場にいた。空はまだ青く暗く、西の山の端がわずかに白い。竿に生成りの麻布を一枚かけ、角を洗濯ばさみ二つで留める。足もとの草は、露でびっしょりだった。
六時十二分、最初の強い西が来た。竿が鳴り、布が大きく腹をふくらませた。
ノエは手を伸ばしかけて、止めた。布の裾に指で触れる。冷たく、しっとりしている。
風は干し場を抜け、丘の向こうへ行ってしまった。
背中のほうで足音がして、トキが湯気の立つ湯呑みを二つ持って上がってきた。ひとつをノエに渡し、自分は物置の前の木箱に腰かけた。何も言わなかった。ノエも何も言わず、お茶を飲んだ。
六時四十分、もう一度来た。八日前、ノエが畳んでしまったのと同じ時刻だった。裾はまだ湿っていた。ノエは見送った。
七時半、陽が丘に当たりはじめた。薄荷の葉の露が光り、ゆっくり消えていった。萱が、乾いた音を立てはじめた。
八時十分、ノエは裾をつまんだ。指の腹には何もつかなかった。日向の匂いがした。
八時二十二分、西が来た。
布がふくらむ。ノエは両端をつかみ、ひとつ、と言って最初の折り目をつけた。布の中で、風が押し返してくる。次の一陣を待つ。ふたつ。みっつ。四つめで腕が震えた。五つ、六つ。七つめの風は少し遅れて来て、ノエは最後の折り目を、体ごと押さえこむようにして畳んだ。
角に、赤い糸を結んだ。
糸は、指を立てたようにまっすぐ立った。
木箱の上で、トキが湯呑みを置いた。
「明日、行っといで」
それだけだった。ノエは包みを抱えて、しばらく干し場に立っていた。七つの風は腕の中で重く、あたたかく、ときどき布ごしにノエの手を押した。
翌二十九日、ノエはまた七時五十二分のバスに乗った。灘浦に着いたとき、赤い糸はまだ高く立っていた。ひとつほどけて、六つ分。柾木さんが最初から見込んでいた数だった。柾木さんは糸をひと目見てうなずき、五千六百円を数えてノエに渡した。帆の上の段には、少し詰めた新しい縫い目が通っていた。
試しを見ていきたい気持ちはあった。けれど店には、冬物のコートが山になって待っていた。ノエは昼過ぎの列車で帰った。
十一月三日、店の郵便受けに一枚の葉書が届いた。表の宛名は柾木さんの硬い字で、裏はルリの丸い字だった。
——二十九日の試し、帆柱も継ぎ目も持ちました。柾木さんが舳先に、私が艫に乗って、岬の外を二往復。一日の朝から、帆で渡しています。帆はまだ少しだけ薄荷の匂いがします。島の人に何の匂いかと訊かれるたび、風上町の丘の匂いだと答えています。舟の名前は「なぎ」にしました。
ノエは葉書を、帳場の板の横に画鋲で留めた。トキはアイロンをかけながら、ちらりとそれを見ただけだった。
それからノエは、洗い上がった麻布を一枚持って裏の丘へ上がった。十月二十日に畳んだ、あの布だ。トキが冬物と一緒に洗ったので、薄荷の匂いはもう落ちていた。次の注文に使えるように、竿にかけて広げる。
指で裾に触れると、まだ少し湿っていた。
ノエは洗濯ばさみを留め直し、乾くまで待つことにした。


