一 前の晩の二つ折り
帳場の柱時計が十時を打ったとき、浅倉千波の前には二つ折りの紙が三枚並んでいた。
左半分は、どれも埋まっている。〈十四時十分 霧見温泉バス停着〉〈十五時 七曲の滝(滝見線バス 十四時四十二分発)〉〈十八時三十分 夕食 囲炉裏の間〉。時刻と場所と乗り物を、明朝体の十一ポイントで。東京のイベント会社に勤めていた八年のあいだに、千波の指は、こういう表を考えるより先に打つようになっていた。
右半分は白いままだった。
「ねえ千波、右、もらっていい?」
向かいの丸椅子で、久住まひるが膝を抱えていた。湯上がりの髪をタオルで巻いて、宿の浴衣の上に自分のフリースを羽織っている。松葉屋に来て五日目の晩で、浴衣の着方だけはまだ雑だった。
「右は、駅からの地図を大きく入れるつもりだったんだけど」
「地図は左に小さく入るよ。右は寄り道にしよう」
「寄り道」
「予定じゃないこと。わたし、ここに来て五日、寄り道しかしてないから。書くことならあるよ」
まひるはフリースのポケットから青い表紙のノートを出した。角が丸くなっている。ぱらぱらとめくって、千波のほうへ向けた。
〈酒屋の猫の名前は「課長」。呼んでも来ない〉
〈豆腐屋の油揚げは十時半に揚がる。揚げたては一枚百二十円、店先で食べてよい〉
〈共同浴場の「熱いです」の貼り紙、三種類ある。いちばん古いのが本当にいちばん熱い〉
〈橋の欄干の擬宝珠、一個だけ新しい〉
千波は最後の行で笑ってしまった。あの擬宝珠は、千波が中学生のとき、同級生が自転車でぶつけて落としたのだ。町内会が新しいのを付けたが、色が合わなかった。そんなことはもう誰も覚えていないと思っていた。
「お客さんがこれ読んで、猫を探して迷子になったらどうするの」
「迷子になるのも旅だよ」
「迷子になって困るのは、お客さんよりこっちなの」
言ってから、少し硬い声だったと思った。まひるは気にした様子もなく、ノートの別のページを開いている。
襖が開いて、母の富美子がほうじ茶を二つ持ってきた。
「まだやってるの。明日は三組だけなんだから、そんなに凝らなくても」
「三組だけだから凝れるの」
「はいはい」富美子は湯呑みをまひるの前に置き、そのまま肩を軽く叩いた。「まひるちゃん、ほんとに月曜に行っちゃうの。ずっといてくれたらいいのに」
「月曜の八時十二分のバスです」
まひるは笑って答えた。千波は、その笑いがほんの少し早く出たのに気づいた。この五日で、母はそれを三回言っている。父も一回言った。共同浴場で会った酒屋のおばさんにも言われたと、まひるは笑い話として報告していた。
富美子が出ていってから、千波は明日の予約表を読み上げた。
「梅の間、岡野様。お父さまとお嬢さま、十歳。十四時十分のバスで着いて、十五時から七曲の滝。萩の間、塩見鶴代様、お一人。十四時四十分ごろタクシー。桔梗の間、檜垣様と野々村様、男性お二人、お車で十五時半」
「塩見さんって、備考に『二十三回目』って書いてあったひと?」
「そう。おばあちゃんの代から、毎年十月の最後の土曜日。いつも萩の間」
「二十三回。すごいね。わたし、同じところに二回行ったことあるの、たぶん三か所くらいしかない」
千波はホチキスを探して帳場の引き出しを開けた。輪ゴム、使いかけの領収書、宿の名入りのマッチ。その下に、黄ばんだ紙が一枚挟まっていた。
手書きを複写した、二つ折りの紙だった。表に〈松葉屋 旅のしおり 平成十年 秋〉。祖母のキヨの字だ。払いが長くて、少し右に傾く字。
〈お風呂は二十三時まで〉
〈朝ごはんは七時半、お部屋へお持ちします〉
〈駅へのバスは、八時十二分と十一時五分〉
そして、いちばん下に一行。
〈迷ったら、橋の上で右を見ること〉
「これ、なに?」まひるが身を乗り出した。
「おばあちゃんがよく言ってた。迷ったら橋の上で右を見なさい、って」
「どういう意味?」
「知らない」
「知らないのに、言ってたのは覚えてるんだ」
「家のことって、そういうの多いでしょ」
まひるはしおりを両手で持って、天井の灯りに透かした。それから千波の三枚を引き寄せ、白い右半分のいちばん下に、鉛筆で同じ一行を書き写した。
「意味わかんないのに入れるの?」
「わかんないから入れるの。旅の人はね、そういうのが好き」
千波は少し考えて、自分の鉛筆を置いた。
「じゃあ、左はわたし、右はまひる。それでいい?」
「いい。一冊を二人で書くの、いいね」
結局、日付が変わるまでかかった。右半分には、まひるのノートから選んだ寄り道が四つずつ入り、いちばん下に祖母の一行が入った。帳場の古い複合機で両面に刷って、梅の間に二部、萩の間に一部、桔梗の間に二部、予備に一部。六部を二つ折りにして、千波は四隅をそろえた。
まひるは「おやすみ」と言って、いまは客を入れていない松の間へ戻っていった。手伝いの人のために寝具をひと組敷いてあるだけの部屋だ。廊下の床板が、まひるの足の下で三回鳴った。
二 九時の電話
土曜の朝は、玄関の掃き掃除から始まる。
七時に父の昭三が送迎用のワゴンを洗い、七時半に千波とまひるが三つの客室に風を通した。萩の間の窓からは谷が見える。川の向こうの斜面がところどころ赤くなっていて、まひるは窓枠に肘をついて「ここ、いい部屋だね」と言った。
「塩見さんがほかの部屋を嫌がるのもわかるでしょ」
「わかる。わたしでも二十三回来る」
「二回しか同じとこに行ったことないくせに」
帳場の電話が鳴ったのは九時五分だった。
町役場の観光係で、電話の向こうは千波の高校の一つ下の後輩だった。滝見線の上のほうで、法面に亀裂らしいものが見つかったという。今日の十三時から十六時半まで、点検のために町営バスを止める。
「急でごめんなさい。お客さんで、滝見線のバス使う人います?」
「……一組」
「ほんとすみません。夕方には通れると思うんですけど」
受話器を置いて、千波は梅の間のしおりを開いた。左半分の〈十五時 七曲の滝(滝見線バス 十四時四十二分発)〉が、もう嘘になっている。
まひるが脇から覗いた。
「旧道は? 沢沿いの。わたし水曜に途中まで行ったよ」
「旧道は地図に載ってない」
「載ってないけど道はあるよ。三十分ちょっとで滝の下に出るって、豆腐屋のおじさんが」
「この時期は落ち葉で滑るの。十歳の子だよ」
「十歳なら歩けるよ。わたし十歳のとき、父親と……」
「まひるが歩けたかどうかじゃなくて」
千波は鉛筆の尻で机を一度叩いた。自分でも思ったより大きな音がした。
「岡野様には、滝は無理ですって先に電話する。足湯と、川べりの散歩に替えてもらう。そのほうが安全」
「岡野さんの娘さん、予約のとき、自分で電話に出てきて『滝は何時に着きますか』って聞いたんでしょ。千波、昨日そう言ってた」
言っていた。予約の電話で、父親の後ろから女の子の声がして、受話器が渡されて、ひよりと名乗った子が「滝のバスは何分ですか」と聞いたのだ。千波は時刻を二度言い、女の子は二度復唱した。
「案内なら、わたしがするよ」まひるが言った。
「案内して、何かあって、それからのことを考えるのはうちなの」
そこで止めればよかった。
「まひるは月曜にはいないでしょ」
帳場の中が静かになった。柱時計の振り子の音が戻ってきた。
まひるは、うん、と小さく言った。それから、笑わなかった。
「……そうだね。じゃあ千波が決めて。下見して、だめなら電話しよう。わたしも行く」
千波が何か言う前に、また電話が鳴った。
今度は桔梗の間の檜垣様だった。落ち着いた低い声で、明日の朝、霧見山の雲海を見に出たいので五時過ぎには宿を出たい、朝食はいらないから何か持っていけるものを、と言う。
「五時過ぎ、ですね」
台所から富美子が顔を出して、口の形だけで「六時半から」と言った。松葉屋の台所は六時半に火が入る。祖母の代からそうだ。
「おにぎりでよろしければ、ご用意します」千波は言った。「お二人で、二つずつ」
電話を切ると、富美子が手を拭きながら出てきた。
「あんた、四時半に起きるの」
「起きる」
「わたしも起きる」まひるが言った。それから、少し間を置いて付け足した。「日曜の朝までは、いるから」
千波はうなずいた。それしかできなかった。
十一時に、二人で旧道へ入った。
宿を出て橋を渡り、向こう岸のたもとの石段から川原へ下りて、沢沿いに上流へ歩く。杉と楓が交じる斜面で、足もとは本当に落ち葉だらけだった。乾いているところは軽い音がして、湿っているところは音がしない。音がしないところが滑る。
千波がこの道を歩くのは、高校二年の夏以来だった。七月に戻ってきてから三か月、宿の中と、駅と、役場と、スーパーの間しか動いていない。旧道の入り口がこんなに暗かったかどうかも、思い出せなかった。
二十分ほど歩いたところで、道が細くなっていた。夏の雨で土が流れたのだろう、川側の縁が削れて、人ひとり分しかない。
「ここだね」まひるが言った。
「ここは山側を歩けば大丈夫。手すりになる木もあるし」
千波は上着のポケットを探って、赤いリボンを出した。土産物の箱に掛けるためのものを、出がけにひと巻き突っ込んできたのだ。山側の細い楓の幹に結ぶ。少し考えて、手前の杉にも一本。
「用意いいね」
「迷ったら困るのはこっちだから」
言ってから、昨夜と同じ言葉だと気づいた。まひるも気づいたらしく、少し笑った。今度は早くない笑い方だった。
三十四分で、滝の下に着いた。
七曲の滝は、名前ほど曲がってはいない。岩の段を七回折れて落ちるから七曲、と小学校で習ったが、千波は数えて六回しか見つけられなかった。今日も六回だった。滝壺のまわりの楓が、上の段から順に色を変えている。
まひるは岩に腰を下ろして、長いこと黙っていた。それから言った。
「さっきの、合ってるよ」
「何が」
「わたしは月曜にはいない。いなくなるとこばっかり、行ってる」
「……ごめん、あれは」
「謝るとこじゃないよ。本当のことだし。だから、いるうちにできることは、ちゃんとやりたいって話」
まひるは立ち上がって、尻の落ち葉を払った。
帰りは三十一分だった。石段を上がって、橋を宿のほうへ渡る。欄干の擬宝珠の一個だけが、まだ新しい色をしている。
まひるが橋の真ん中で立ち止まり、右を見た。
松葉屋の軒、豆腐屋の白い暖簾、その先で道が二つに分かれて、一本は山へ上がっていく。昼の光の中で、どれもただそこにあるだけだった。
「何もないね」
「昼だからかな」
「夜になったら何か見えるのかもね」
帳場に戻ると、千波は梅の間のしおりを刷り直した。左半分に、選べるように二つ。
〈A 沢沿いの旧道を歩いて滝へ(往復約七十分/宿の者が同行します/十六時四十五分までに宿へ戻ります)〉
〈B 先に足湯と川べりの散歩。夕方以降にバスが動けば、車で滝の入口まで〉
右半分の寄り道の欄に、まひるが一行足した。
〈赤いリボンのところは、山側を歩くこと〉
三 十四時十分のバス
霧見線のバスは、駅から五十分かけて谷を上ってくる。滝見線とは別の路線で、こちらは止まっていない。バス停は、橋の向こう岸にある。
十四時十分ちょうどに、緑の車体がバス停に入ってきた。降りてきた客は三人で、そのうち二人が岡野様だとすぐにわかった。四十代の男性が大きなボストンバッグを肩に掛け、その横に、赤いリュックの女の子がクリアファイルを胸に抱えて立っていた。
「松葉屋の浅倉です。ようこそお越しくださいました」
「お世話になります。岡野です。こっちが」
「岡野ひよりです」
女の子は父親より先に頭を下げた。肩までの髪を二つに結んで、片方のゴムだけ緑色だった。
クリアファイルの中身が見えた。画用紙を半分に折った手作りの冊子で、表紙に色鉛筆で〈たびのしおり 霧見温泉 作・岡野ひより〉。滝の絵が描いてある。七回曲がっていた。
千波は、歩きながら話そうと思っていたことを、バス停で話すことにした。後回しにして期待を膨らませるほうが、たぶん悪い。
「ひよりさん、お父さま。申し訳ないお知らせがあります。七曲の滝へ行くバスが、山の道の点検で、今日の午後だけ止まってしまいました」
ひよりの口が、少しだけ開いた。
父親の誠が、すぐに言った。
「ああ、そうなんですか。じゃあ、滝はまた今度にしようか、ひより。足湯もあるんだろう? 宿でゆっくりしよう」
早かった。娘ががっかりする前に、がっかりする理由ごと片づけてしまおうとする速さだった。千波はその速さを知っていた。今朝の自分が、受話器を取ろうとしていた速さだ。
「代わりの方法が、二つあります」
千波は刷り直したしおりを二人に一部ずつ渡した。
「ひとつは、沢沿いの古い道を歩いて滝まで行く方法です。片道三十五分くらい。今日の午前中に、わたしが歩いて確かめてきました。わたしが一緒に行って、十六時四十五分までには宿へ戻ります。もうひとつは、先に足湯と川べりの散歩をして、バスが動いたら夕方、車で滝の入口までお連れする方法です。ただ、夕方だと暗くて、滝は少ししか見えないかもしれません」
ひよりはしおりを読み、父親を見た。
誠もしおりを読み、娘を見た。
二人がそれぞれ、相手のために決めようとしているのがわかった。父親は娘が疲れないほうを。娘はたぶん、父親が嫌がらないほうを。
「ひよりさんのしおりですから」千波は言った。「ひよりさんが決めていいと思います。お父さまがよろしければ」
誠は少し驚いた顔をして、それから「うん」と娘に言った。
ひよりはクリアファイルから自分のしおりを出し、最後のページを開いた。表がひとつ書いてあって、いちばん上に〈よていがい〉とあった。下は空欄だった。
「学校の先生が、旅のしおりには予定外の欄を作りなさいって。予定外のことがあったら、ここに書くの」
リュックの横ポケットから鉛筆を出して、ひよりは空欄の一行目に書いた。
〈14:12 バスがとまってた。歩いていく〉
「歩きます」
「わかりました」
まひるならここで何か気の利いたことを言うだろう、と千波は思った。それから、自分に言えるいちばん気の利いたことを言った。
「歩きやすい靴に履き替えて、十四時五十五分に玄関に集合です」
宿に着いて二人を梅の間へ案内し、帳場に戻ると、十四時四十分に玄関の前でタクシーが止まった。
塩見鶴代様は、紺のコートを着て、小ぶりの革の旅行鞄を持っていた。六十八歳で、背筋がまっすぐで、運転手に「ありがとう、お釣りは結構」と言う声がよく通った。
「いらっしゃいませ。今年もありがとうございます」
「お世話になります。あら、あなた、千波さんね。今年はあなたなのね」
去年の秋、千波はまだ東京にいた。塩見様に会うのは子どものころ以来だ。覚えていてくれたのは、たぶん母が手紙に書いたからだろう。
萩の間へ案内して、お茶を淹れ、宿帳を書いてもらった。それから千波は、しおりを一部、両手で差し出した。
塩見様はそれを開き、左を見て、右を見て、少しだけ眉を上げた。
「今年はずいぶん賑やかね」
「友人と二人で作りました。お気に召さなければ」
「気に召さないわけじゃないのよ」
塩見様はしおりを座卓の上に置いた。置いたまま、指先で折り目を一度なぞった。
「ただ、去年までのとは違うのね、と思って」
「去年まで……」
「去年まで、っていうのは嘘ね。四年もらってないもの」
千波は黙った。祖母が腰を悪くして帳場を退いたのが四年前の春だ。それから、しおりを作る人はいなかった。母は台所で手一杯だったし、そもそも母は、祖母が毎年しおりを作っていたことを知らなかったかもしれない。千波も知らなかった。
「わたしね、十八冊持ってるの。キヨさんの」
「十八冊」
「毎年一冊。来るたびにもらって、帰ってから、本棚の同じところに挿すの」
塩見様はそれ以上は言わず、窓の外の谷を見た。千波も見た。午後の日が、斜面の赤いところに当たっていた。
「ご用意します。今年の分」
「あら。無理しないで」塩見様はこちらを見ないまま言った。「ないなら、ないでいいのよ」
けれど、座卓の上のしおりから指は離れていなかった。
十四時五十分、千波は帳場でまひるにメモを渡した。
〈十五時三十分 桔梗の間 檜垣様・野々村様 お車 駐車場は奥〉
〈十六時 萩の間 お茶のおかわり(塩見様は番茶、熱め)〉
〈十六時三十分 玄関の提灯をつける(スイッチは下駄箱の右)〉
「提灯、わたしでいいの?」
「電気だから。マッチじゃないから」
「そういう意味じゃないよ」まひるは笑った。「千波が行くんだね、旧道」
「わたしが確かめた道だから」
「うん。それがいい」
まひるはメモを帳場の電話の横に貼った。セロハンテープを、四隅にきちんと。
四 沢の旧道
十四時五十五分、玄関に三人がそろった。
誠はスニーカーに履き替えていたが、上着のポケットでスマートフォンが二度震えた。二度とも、取り出して画面を見て、戻した。
ひよりは千波のしおりを、自分のクリアファイルに一緒に挟んでいた。
橋を渡って石段を下りるとき、ひよりが言った。
「浅倉さんのしおり、右と左で字が違う」
「右は友だちが書いたの」
「さっき帳場にいた人?」
「そう」
「豆腐屋の油揚げ、明日も揚がる?」
「明日も十時半に揚がるよ」
「じゃあ明日の予定に入れる」
ひよりは歩きながら自分のしおりを開こうとして、誠に「前見て」と言われた。
旧道は、午前中より少し明るかった。日が西に回って、沢の向こうの斜面から光が入ってくる。落ち葉の上を、ひよりが先頭で歩きたがった。千波が二番目に入り、誠が最後についた。
二十分ほどで、楓の幹に結んだ赤いリボンが見えた。
「あ、これだ」ひよりが立ち止まった。「しおりに書いてある。赤いリボンのところは、山側」
「そう。ここから十歩くらい、こっちの手で木をつかんでね」
ひよりは言われたとおり、山側の木に手を添えて、一歩ずつ歩いた。渡りきってから振り返って、父親が来るのを待った。
誠は少し不格好に山側へ寄って歩き、渡りきったところで、ふう、と息をついた。
「お父さん、いま十二歩」
「数えてたのか」
「しおりに書く」

十五時三十六分に、滝の下に着いた。
ひよりは岩の上に立って、しばらく何も言わなかった。それから、自分のしおりに描いた七回曲がる滝の絵と、本物の滝を見比べた。
「……六回しかない」
「わたしも、いつも六回しか見つけられないの」千波は言った。
「七回目、どこかに隠れてるのかな」
「小学校のとき、先生は、上の木に隠れてるって言ってた」
「じゃあ冬に来たら見えるね」
ひよりはそう言って、また鉛筆を出した。予定外の欄に、二行目を書いた。〈15:36 滝 六回(七回目は冬)〉
それから父親のほうを向いた。
「お父さん。しおりの四番、見て」
誠は上着の内ポケットから、娘のしおりのコピーを出した。家を出る前に渡されていたらしい。千波は覗かなかったが、誠が読み上げた。
「四番。滝の前で、お父さんは、なにもしない」
誠は少しのあいだ黙っていた。
それから、ポケットからスマートフォンを出して、電源を切った。画面が暗くなるところを、娘に見せた。
「これでいい?」
「いい」
ひよりは満足そうに、父親の隣の岩に座った。誠は膝に肘をついて、滝を見た。本当に何もしなかった。
千波は少し離れたところで、二人の背中と、滝と、楓を見ていた。自分の書いたしおりの左半分を思い浮かべた。十四時十分、十五時、十八時三十分。時刻はきちんと並んでいるのに、四番目の項目に当たるものは、どこにも書いていなかった。
十六時ちょうどに、千波は「戻りましょう」と言った。
帰りの道は、行きより暗かった。
赤いリボンのところを、ひよりは今度は数えずに渡り、誠は今度は不格好ではなかった。旧道を抜けて石段を上がったとき、谷はもう青っぽい影に沈みはじめていた。
橋の真ん中に差しかかったのは、十六時三十四分だった。
ひよりが立ち止まった。クリアファイルから千波のしおりを出して、右半分のいちばん下を指でたどった。
「迷ったら、橋の上で右を見ること」
「迷ってないけどな」誠が言った。
「迷ってないけど、見る」
三人で、右を見た。
暗くなりかけた通りの中で、ひとつだけ灯りがついていた。松葉屋の軒先の提灯だった。丸い、橙色の灯りが、谷の影の中にぽつんと浮かんでいる。豆腐屋はもう暖簾をしまっていて、酒屋の窓はまだ暗い。灯っているのはそこだけだった。
その少し向こう、道が二つに分かれるところに、霧見山の登山口を示す白い道標が立っていて、西の空に残った明るさを受けて、白く浮いて見えた。
「あそこ、宿?」ひよりが言った。
「そう」
「旅の途中で、泊まるところが見えるの、いいね」
千波は返事をしなかった。できなかった、のほうが近い。
十六時三十分に提灯をつける、と書いたのは自分だ。三か月、毎日自分でつけてきた。けれど、つけたあとで、橋の上からそれを見たことは一度もなかった。
今日は、下駄箱の右のスイッチを、まひるが押したのだ。
「浅倉さん、寒い?」
「ううん。行きましょう」
橋を渡りきるまで、ひよりは何度か右を振り返った。
五 帳場をあずかった人
十六時四十二分に宿へ戻ると、帳場の前の長椅子に、男性が二人座っていた。予約表の、桔梗の間の二人だ。
まひるがお盆を持って奥から出てきて、千波を見て、ほっとした顔をした。
「おかえり。こちら檜垣様と野々村様。お部屋より、ここで川の音を聞いていたいって」
「ご挨拶が遅れました。浅倉です」
「どうも、檜垣です。いや、勝手に居座って」
白髪を短く刈った、眼鏡の男性が会釈した。隣の、日に焼けて髭を生やした男性が「野々村です」と言い、「四十年ぶりなんですよ、ここ」と付け足した。
「四十年……」
「大学の山岳部で。霧見山に登って、帰りにここに泊まったんです。おばあさんだったかな、宿の方に、紙を一枚もらって」
「しおりですか」
「そうそう。こいつはなくしたけど、僕はたぶん、実家の段ボールのどこかに」
檜垣が「なくしてない、どこにあるかわからないだけだ」と言い、野々村が笑った。
千波が二人に頭を下げて帳場に入ると、電話の横の千波のメモの隣に、もう一枚メモが貼ってあった。まひるの字だった。
〈十五時三十一分 桔梗の間ご到着 白いお車 駐車場奥〉
〈十五時四十分 お茶(ご希望で帳場前)〉
〈十六時二分 萩の間 番茶おかわり 熱め〉
〈十六時三十分 提灯 点灯〉
〈明日 五時十五分出発 霧見山 見晴らし岩へ 昭三さんの運転 了承済み〉
「千波の真似」まひるが小声で言った。
「真似、うまいね」
それから千波は、最後の行を指さした。
「見晴らし岩? 頂上じゃなくて?」
霧見山の頂上までは、登山口から歩いて二時間かかる。見晴らし岩は中腹にあって、林道を車で二十分上がれば、駐車場から歩いて十五分で着く。地元の人は、雲海ならそこで十分だと言う。けれど山の人は、たぶん頂上へ行きたがる。
「最初はね、野々村さんが頂上って言ってたの。四十年前と同じとこへ、って」まひるはさらに声を落とした。「で、檜垣さんが、うん、って言って、それから三回くらい黙ったの」
「黙った」
「お部屋に荷物置きに行くとき、階段、手すりにつかまってた。下りてくるときも」
千波は帳場の小窓から長椅子の二人を見た。野々村が何か言って、檜垣が笑っている。
「だからね、わたし、見晴らし岩にまだ行ったことないんです、って言ったの。月曜に帰っちゃうから、最後に雲海が見たいです、山のプロに連れてってほしいです、って」
「……行ったことないの、ほんと?」
「ほんと。それはほんと」
野々村は喜んで、それなら車で上がれるところがいいだろう、案内してやる、と言ったという。檜垣は「それがいい」と言い、それからは黙らなかった。
「勝手に決めて、ごめん。昭三さんに運転頼んだのも」
「決めたのは、お二人でしょ」
千波は言った。まひるは、ちょっと驚いた顔をした。
長椅子から立つとき、檜垣は膝に手をついた。野々村の手が、檜垣の背中の少し後ろで、触れないまま浮いていた。
「塩見さんとも、話したよ」まひるは急須を洗いながら言った。「お茶持ってったら、座りなさいって言われて」
「萩の間で?」
「うん。塩見さん、昔、列車の車掌さんだったんだって。四十年。寝台特急にも長く乗ってたって。毎晩、知らない人を乗せて、朝、知らない駅で降ろしてたって」
千波は手を止めた。
「だからね、年に一回くらいは、迎えられる側をやりたいんだって。同じ部屋で、同じ人に。……同じ人はもういないけど、って笑ってた」
「おばあちゃん、元気だけど」
「うん、それも言われた。帳場にいないって意味よ、って」
まひるは急須を伏せた。
「わたし、毎回違うところに帰ってます、って言ったら、若いうちはそれでいいのよ、って言われた」
「うん」
「若いからじゃないんだけどね」
まひるはそう言って、布巾をきれいに畳んだ。千波は何か言おうとして、言わなかった。若いからじゃない、の続きを、まひるはまだ持っているように見えた。それはいま、急須の横で聞くものではない気がした。
十七時十分、客がそれぞれ風呂へ行って宿が静かになった隙に、千波は帳場の電話で「下の家」にかけた。町の下手にある叔母の家で、祖母はそこの一階で暮らしている。
叔母が出て、少し待たされて、祖母の声がした。
「千波? どうしたの、お客さん来てるんでしょう」
「来てる。ちょっと聞きたいことがあって。おばあちゃんのしおりの、迷ったら橋の上で右を見ること、ってあれ、どういう意味?」
「どういう意味って」祖母は少し笑った。「見たんでしょう、右」
「見た。提灯が見えた。それと、登山口の道標」
「それよ」
「それって」
「夕方、道がわからなくなるお客さんがね、昔はよくいたの。そういう人は、たいてい橋に出るのよ。川沿いに歩けば橋に出るから。で、右を見たら、うちの提灯と、山の道標があるでしょう」
「うん」
「帰るんなら提灯のほう。まだ行くんなら道標のほう。迷ったら、どっちか決めなさいってこと。橋の上でぐずぐずしてたら冷えるからね」
千波は受話器を持ったまま、少し黙った。
「……どっちに行けばいいかは、書いてないんだね」
「そんなの、お客さんが決めることでしょう」
祖母は当たり前のように言った。それから、ふと思い出したように付け足した。
「今日、塩見さん来てるでしょう。十月の最後の土曜だものね」
「来てる。おばあちゃんのしおり、十八冊持ってるって」
「そうそう。あの人のはね、前の年のを写して、一か所だけ変えるの」
「一か所だけ?」
「そう。毎年一か所。朝ごはんの時間とか、バスの時刻とか、お風呂の札の色とか。どこを変えたか、あの人、当てるのよ。帰りがけに、玄関で。それが楽しみなんだって」
祖母は電話の向こうで、短く笑った。
「当てられなかったこと、一回もないのよ。悔しいったら」
六 二十時の空
十八時三十分、囲炉裏の間に三組がそろった。
炉を囲むように卓が三つあって、それぞれの卓に小さな灯りが置いてある。部屋食にしないのは人手が足りないからだが、母は「こっちのほうがお客さんが楽しそうだから」と言い張っている。
献立は、栗ご飯、岩魚の塩焼き、舞茸とむかごの小鍋、柿なます、それから富美子の漬物。
塩見様は栗ご飯の茶碗を受け取って、ふたを取り、湯気をひとつ吸ってから、千波を見上げた。
「同じね」
「母が炊いています。祖母のころから」
「そう。同じ」
その言い方で、千波は、塩見様がこれを確かめるためだけに一年待ったのかもしれないと思った。
野々村は隣の卓のひよりに、岩魚の骨の外し方を教えていた。頭を押さえて、尾のほうから箸で身を押して、背骨ごと抜く。ひよりは二回失敗して三回目に成功し、誠が「お父さんより上手い」と言った。野々村は、ニュージーランドの山小屋で三十年、こうやってお客に魚の食べ方を教えてきたんだと言った。
「山小屋?」ひよりが言った。
「山の上の宿だよ。ここと同じ。お客さんが来て、泊まって、次の朝、出ていく」
「さみしくない?」
野々村はちょっと考えた。
「さみしいときもある。でも、次の日、また違う人が来る」
檜垣が向かいで「こいつは昔からそういうやつだ」と言った。褒めているのかどうか、千波にはわからなかった。檜垣の声は穏やかだった。
食事の終わりに、千波は萩の間の卓へ行って、膝をついた。
「塩見様。去年までのしおりを、お持ちではありませんか」
塩見様は少し目を見開いて、それから小さく笑った。
「キヨさんに聞いたのね」
「はい」
「持ってるわよ。毎年、前の年のを持ってくるの。もう五年前のになっちゃったけど」
部屋に戻った塩見様は、帳場までそれを持ってきてくれた。祖母の最後のしおりは、角がわずかに擦り切れていたが、折り目はきちんとしていた。
二十時。ひよりのしおりの最後の予定は〈20:00 星を見る〉だった。
誠とひよりが玄関を出ると、それを聞いた野々村と檜垣も出てきて、千波とまひるも出た。
空は一面、雲だった。
提灯の灯りの外は真っ暗で、谷の向こうの山の形も見えない。星はひとつもなかった。
ひよりは空を見上げて、ずいぶん長いあいだ黙っていた。誠が何か言おうとして、言わずにいるのが千波にはわかった。滝の前でのことを、誠も覚えているのだろう。
ひよりはクリアファイルを出して、提灯の下で鉛筆を動かした。
〈20:00 くもり。星なし〉
そのとき、野々村が空を見上げたまま言った。
「北西から風が来てるね」
「風?」
「雲が南東へ流れてる。夜中には抜けるな。晴れて、風が止んで、明け方に谷が冷える。そうしたら、雲海が出る」
ひよりが顔を上げた。
「雲海って、雲の海?」
「雲の上から見る雲。明日の朝、僕らはそれを見に行くんだ」
「……見たい」
ひよりが父親を見た。今度は、父親のためにではなく、自分のために見ていた。
誠は困った顔をした。
「朝の五時だぞ。それに、お二人の邪魔に」
「邪魔じゃないですよ」檜垣が言った。それから、ほんの少しだけ笑った。「わたしらも、足が遅いもんでね。一緒に遅く歩いてもらえると、ありがたい」
野々村が横で、黙って檜垣の肩を叩いた。
千波は頭の中で数えた。ワゴンは八人乗り。運転の父、檜垣様、野々村様、岡野様が二人、まひる。六人。おにぎりは、檜垣様と野々村様に二つずつで四つだったのが、誠さんに二つ、ひよりさんに一つ、父に一つ、まひるに一つ。九つ。
「十個、握ります。一つは予備です」千波は言った。「五時十五分に玄関です。四時四十五分に、お部屋にお電話します」
ひよりは予定外の欄に、三行目を書いた。〈あした 5:15 雲海〉
それから少し考えて、四行目にも書いた。〈おにぎり〉
二十一時半、客が部屋に引き上げてから、千波とまひるは帳場で祖母のしおりを広げた。
五年前の秋の版は、平成十年のものとほとんど変わっていなかった。お風呂は二十三時まで。朝ごはんは七時半。駅へのバスは八時十二分と十一時五分。迷ったら、橋の上で右を見ること。いちばん下に〈松葉屋 キヨ〉。
「これを写して、一か所だけ変える」千波は言った。
「どこ変えるの?」
「それをいま考えてる」
まひるはしおりを手に取って、裏と表をひっくり返した。
「寄り道を一個だけ入れるのは? 油揚げとか」
「それだと、塩見さん、三秒で当てるよ」
「当てさせたらいいんじゃない?」
「当てるのが楽しみな人に、簡単すぎるのはどうかと思う」
二人でしばらく考えた。柱時計が十時を打った。
千波は新しい紙を出して、筆ペンで写しはじめた。祖母の字に似せようとして、最初の一行でやめた。似せても仕方がない。自分の字で書いた。お風呂は二十三時まで。朝ごはんは七時半。バスは八時十二分と十一時五分。迷ったら、橋の上で右を見ること。
いちばん下まで来て、筆ペンが止まった。
それから、書いた。
〈松葉屋 千波・まひる〉
まひるが手もとを覗きこんで、すぐに顔を上げた。
「わたしの名前はいいよ。月曜にはいないし」
千波は筆ペンのキャップを閉めた。
「書いたのは二人でしょ。月曜にいなくなっても、二人で書いたのは変わらないよ」
まひるはしばらく黙っていた。それから、うん、と言った。今朝と同じ「うん」だったが、声が違った。
「それが、変えた一か所?」
「そう。名前のところ」
「当てるかな」
「当てるでしょ。今まで全部当ててるんだから」
帳場の灯りを半分落として、二人は冷めたほうじ茶を飲んだ。
「ねえ」まひるが言った。「ずっといて、って言われるの、ほんとは嬉しいんだよ」
「うん」
「嬉しいんだけど、どこに行っても言われるの。牧場でも、民宿でも、果樹園でも。で、言われるたびに、ほんのちょっとだけ、いなくなるわたしが悪いみたいな気がする。誰も悪いなんて言ってないのに」
千波は湯呑みを両手で持った。
「わたしは言わないよ」
「知ってる。千波は言わない。だから来たんだよ」
柱時計の振り子が鳴った。
「わたしはいる」千波は言った。「……たぶん、しばらくは」
「しばらく?」
「決めてないの。会社やめて戻ってきたけど、ずっとここにいるって決めて戻ってきたわけじゃない。それ、まひるに言ってなかった」
まひるは、ふうん、と言って、それから笑った。
「橋の上で、ぐずぐずしてる?」
「冷えるね」
「冷えるよ」
二人で少し笑って、千波は帳場の灯りを消した。玄関の提灯だけが、まだついていた。二十三時に消すことになっている。
七 雲の上と、窓の内
四時半の台所は、まだ夜だった。
千波が電気をつけると、炊飯器から湯気が上がっていた。前の晩に五合を仕掛けておいたのだ。まひるが割烹着の紐を後ろ手で結ぼうとして失敗し、千波が結んでやった。
梅干しが四つ、塩昆布が三つ、焼いた鮭が三つ。千波が握り、まひるが海苔を巻いてラップで包み、マジックで中身を書いた。途中で交代したので、「うめ」「こんぶ」「さけ」とまひるの字のものと、「梅」「昆布」「鮭」と千波の字のものが混ざって、十個になった。
四時四十五分、手を洗って、梅の間と桔梗の間に電話をかけた。梅の間には、ひよりが一回目の呼び出しで出た。
四時五十分に、富美子が起きてきた。
「六時半からって言ったのに」
「わたしが握るって言ったでしょ」
「握るのはあんたでいいの。でも、山の上は寒いんだから」
富美子は大きな魔法瓶に味噌汁を入れて、紙コップをひと束添えた。迎える側の意地というのは、どうやら遺伝するらしい。
五時十五分、ワゴンが玄関を出た。運転席に昭三、助手席に野々村、二列目に檜垣と誠とひより、三列目にまひる。まひるは窓を開けて、小さく手を振った。千波も振った。テールランプが通りの先の二股を山のほうへ折れて、坂を上がっていった。
台所に戻ると、調理台には、宿に残しておいた予備のおにぎりが一つあった。マジックで「鮭」。千波の字だった。
五時五十分、帳場に塩見様が降りてきた。
「おはよう。早いでしょう、わたし」
「おはようございます。お早いですね」
「五時半に目が覚めるの。四十年、そうだったから。やめてもう八年になるのに、体が覚えてるのね」
塩見様は帳場の前の長椅子に座って、廊下の暗い窓を見た。
「みんな、行ったのね。雲海」
「はい。五時十五分に」
千波は少し迷ってから言った。
「塩見様。おにぎりが一つ、余っているんですが。朝ごはんの前に、もしよろしければ」
塩見様は、しばらく千波の顔を見ていた。
「朝ごはんの前に、おむすび」
「はい。鮭です」
「二十三年来て、初めてね」
それから、少し笑った。
「いただくわ。萩の間で食べる。あなたもいらっしゃい。お茶を二つ持って」
「いえ、わたしは」
「お客さんがいいって言ってるのよ」
萩の間の窓辺には、小さな椅子が二脚あった。障子を開けると、谷はまだ灰色だった。
塩見様はおにぎりのラップを丁寧にはがして、半分に割った。片方を千波に差し出した。
「一つしかないんでしょう」
「はい」
「じゃあ半分」
千波は受け取った。
六時を少し過ぎたころ、谷の底から白いものが上がってきた。最初は川の上だけだった。それが見る見るうちに広がって、豆腐屋の屋根を隠し、橋を隠し、向こうの斜面の赤いところを下から順に呑みこんでいった。窓の下の庭木も、白い中に沈んだ。

遠くの尾根の、ずっと上のほうに、朝日が当たった。
「あのへんかしら、見晴らし岩」
塩見様が指を伸ばした。尾根の中腹に、岩がひとつ、日を受けて光っている。人の姿は見えない。けれど、そこに六人いるはずだった。
「向こうから見たら、こっちが雲の下ね」
「はい」
「雲の上と、雲の下。どっちがいいってものでもないわね」
塩見様は半分のおにぎりを、ゆっくり食べた。千波も食べた。鮭は少し塩が強かった。四時半の自分の手は、まだ少し眠っていたらしい。
窓の外で、霧はゆっくり動いていた。どこへ行くというのでもなく、谷の形に沿って、満ちたり引いたりしていた。
七時ちょうどに、ワゴンが戻ってきた。
玄関の戸が開くなり、ひよりが靴を脱ぎかけのまま言った。
「雲の上にいた!」
頬が赤かった。寒かったのか、走ったのか、たぶん両方だ。クリアファイルを差し出してきたので、千波は受け取って開いた。予定外の欄に、行が増えていた。
〈6:07 雲海 太陽が雲から出た〉
〈おにぎり 梅 すっぱい〉
〈おみそしる〉
〈野々村さんが、雲は北西から来るといった〉
〈お父さん、なにもしなかった〉
最後の一行を、千波は二回読んだ。
誠が後ろから入ってきて、千波に頭を下げた。手に紙コップを持ったままだった。返しそびれたらしい。
お客さんたちの最後に、檜垣と野々村が入ってきた。檜垣は玄関の上がり框に腰を下ろして、ゆっくり靴を脱いだ。野々村がその横に立っていた。
「どうでした」千波は聞いた。
「頂上より良かった、と言ったら嘘になる」野々村が言った。
檜垣が笑った。
「でも、頂上と同じくらいだった。それは本当」
野々村はそう言って檜垣の隣に座り、自分の靴紐をほどいた。
まひるは最後にワゴンから降りてきた。手に何も持っていなかった。
「写真、撮った?」
「撮ってない」まひるは言った。「見てた」
七時半に朝食を出し、十時に、塩見様が帳場に降りてきた。
千波は、筆ペンで書いたしおりを二つ折りにして、両手で差し出した。
塩見様は玄関の上がり框に立ったまま、それを開いた。上から順に、指でたどった。お風呂。朝ごはん。バス。橋の上で右。
いちばん下で、指が止まった。
三秒くらいだった。
「二人なのね」
「はい。書いたのは二人です」
塩見様はしおりを閉じて、鞄の内ポケットに入れた。それから、宿代の入った封筒を千波に渡した。一泊二食の一万六千五百円と、入湯税の百五十円が、ちょうど入っていた。毎年ちょうど持ってくるのよ、と祖母が言っていたのを、千波は昨夜の電話のあとで思い出していた。
「来年は?」塩見様が聞いた。
「来年も書きます」千波は言った。それから、正直に付け足した。「……名前がいくつになるかは、わかりませんけど」
塩見様は目を細めた。
「それを当てるのが、楽しみなのよ」
迎えのタクシーに乗りこむ前に、塩見様は一度だけ橋のほうを振り返った。それからまっすぐ前を向いて、ドアを閉めた。
岡野様は十時二十分に宿を出た。十一時五分のバスまでのあいだ、ひよりは豆腐屋の前に立っていた。十時半ちょうど、店の奥で油の音がした。揚げたての油揚げを、ひよりは店先で一枚、誠は二枚食べた。まひるのノートのとおり、一枚百二十円だった。
檜垣様と野々村様は昼前に、白い車で山とは反対のほうへ帰っていった。野々村は来月、ニュージーランドへ戻るという。檜垣は運転席の窓から、また来ます、と言った。誰と来るのかは言わなかった。
八 しおりは二人分
月曜の朝、松葉屋は休館日だった。
七時五十分、まひるは玄関で大きなバックパックを背負った。来たときと同じ、くすんだ緑のバックパックで、横のポケットに青い表紙のノートが差してある。
富美子がおにぎりを二つ、新聞紙に包んで持たせた。
「まひるちゃん、ずっと……」
そこで富美子は言葉を止めて、少し考えるような顔をして、言い直した。
「……気をつけてね。向こうは海でしょう。風邪ひかないで」
「はい」
まひるは富美子の手を、両手で一回握った。
昭三が「バス停まで乗ってくか」と言い、まひるは「歩きます」と言った。
バス停は橋の向こう岸にある。千波は並んで歩いた。
朝の通りは静かだった。豆腐屋の暖簾はまだ出ていない。酒屋の店先で、課長がこちらを一瞥して、すぐに目をつぶった。
橋の手前で、千波は上着のポケットから二つ折りの紙を出した。
「これ」
まひるは受け取って、開いた。
表に〈旅のしおり 久住まひる様〉。左半分に、千波の明朝体の十一ポイントが並んでいた。
〈八時十二分 霧見温泉バス停発(霧見線)〉
〈九時二分 霧見駅着〉
〈九時十四分 霧見駅発 普通列車〉
〈十時三十八分 乗換駅着 新幹線は十時五十一分発〉
そこで、時刻の列は終わっていた。その下は白かった。
右半分には、一行だけ。
〈寄り道:〉
まひるは、しばらくその白いところを見ていた。
「ここから先は?」
「知らない。まひるが書いて」
「長崎まで調べなかったの? 千波が?」
「調べたよ」千波は言った。「調べたけど、書かなかった」
まひるは、ふっと笑った。それからバックパックを肩から下ろして、ノートのあいだから二つ折りの紙を出した。
「わたしも」
千波は受け取った。
表に、まひるの字で〈霧見温泉 日帰りの旅 浅倉千波様〉。
開くと、左半分に時刻が並んでいた。まひるの字で、けれど、千波の書き方で。
〈十時 起きる(遅くてよい)〉
〈十時三十分 豆腐屋 油揚げ 一枚百二十円 店先で食べる〉
〈十一時 旧道 赤いリボンを回収する(二本)〉
〈十二時 七曲の滝 七回目を探す(たぶん見つからない)〉
〈十五時 共同浴場 いちばん古い「熱いです」の湯〉
右半分は、上に〈予定外〉とだけ書いてあって、あとは白かった。
「月曜、休館日でしょ。千波の休みの日用」
「……時刻、書いてある」
「千波は、時刻があったほうが出かけるでしょ」
千波は何か言おうとして、うまく言えなくて、しおりを持ったまま、ただうなずいた。
橋の向こうの道を、緑のバスが谷を上ってくるのが見えた。
バス停で、まひるはバックパックを背負い直した。
「着いたら連絡する」
「しおりで?」
「絵はがきで。次どこにいるか書いて」
「次の次も?」
「次の次も」
バスが止まって、ドアが開いた。まひるはステップに足をかけて、それから振り返った。
「千波」
「うん」
「旧道、山側ね」
「知ってる」
まひるは笑って、乗りこんだ。ドアが閉まった。窓の向こうで、まひるが小さく手を振った。千波も振った。八時十二分だった。バスは定刻どおりに出て、谷を下っていった。
見えなくなるまで、千波はバス停に立っていた。それから、来た道を戻りはじめた。
橋の真ん中で、足が止まった。
右を見た。
朝の光の中で、松葉屋の軒の提灯は消えていた。その向こうで、道が二つに分かれて、一本は山へ上がっていく。登山口の白い道標が、朝日を受けていた。
千波は、手の中のしおりをもう一度開いた。
左半分のいちばん上、〈十時 起きる〉のさらに上の余白に、小さな字で書き足してあるのに、そのとき気づいた。さっきは見落としていた。
〈八時十五分 橋の上で右を見る〉
その下に、もう一行。
〈八時十六分 好きなほうへ〉
千波は声を出して笑った。橋の上には誰もいなかったので、ちょうどよかった。
腕時計を見た。八時十五分だった。
宿へ帰るか、山へ行くか。祖母は、どちらか決めなさいと言った。まひるは、好きなほうへ、と書いた。
八時十六分になった。
千波はしおりをたたんで、上着のポケットにしまった。それから、提灯のほうでも道標のほうでもなく、くるりと向きを変えて、いま来た向こう岸のたもとへ戻りはじめた。そこから川原へ下りる石段があって、その先が沢沿いの旧道だ。
赤いリボンが二本、まだ結んだままになっているはずだった。
油揚げが揚がるのは十時半だ。それまでには戻ってこられる。たぶん。戻ってこられなくても、それはそれで、予定外の欄に書けばいい。
石段のいちばん上の段は、落ち葉で少し湿っていた。千波は山側の手すりに手を添えて、下りていった。


