天板の寸法
土曜の午後三時、柚希が祖父の家の台所に入ると、オーブンの天板が流し台に立てかけてあった。その前で祖父の勝治が、巻尺を伸ばしている。
「二十八の、三十六」
「何を測ってるの」
「天板だ。今日のピザの寸法」
祖父は今日で七十九になる。朝から「今年の誕生日は自分で焼く」と言い張っているらしい。昼前に祖母の澄江から届いた連絡は短かった。〈おじいちゃんがピザを焼くと言ってます。来られるなら来て。家じゅう粉だらけになる前に〉
柚希は駅前のピザ店で、週に三日働いている。半年のあいだに一番褒められたのは、生地を丸く伸ばす手だった。店長いわく「縁がきれいにそろってる」。祖母が自分を呼んだのはそのためだろうと、柚希は思っていた。
「おじいちゃん、ピザは丸いんだよ」
「うちのオーブンは四角い」
「四角いのは天板だけでしょ。丸く伸ばして、真ん中に置けばいいの」
「そうすると角が四つ余る」祖父は巻尺の先で天板の隅をこつんと叩いた。「直径二十八の丸だと、天板の四割近くが空く。オーブンは天板全部を温めるんだぞ。熱がもったいない」
「電気代の話?」
「熱の話だ」
居間から祖母の声が飛んでくる。「両方の話よ」
調理台にはレジ袋が二つ並んでいた。祖父の袋から出てきたのは、サラミ一パック十二枚、ピーマン二個、玉ねぎ一個、ピザ用チーズ二百グラム。そこへ冷蔵庫から、使いかけのケチャップが出てきた。柚希も自分の袋を開ける。来る途中のスーパーで買ったモッツァレラ一個、バジル一パック、トマト缶。
「ケチャップは塗らないからね」
「塗る。ピザはケチャップだ」
「それはピザトースト」
「ピザトーストだってピザだ」祖父は胸を張った。「昔、職場の向かいの喫茶店で出してたのは、天板で焼いて四角く切ったやつだった。サラミとピーマンと玉ねぎ。あれがピザだ」
「それはおじいちゃんのピザでしょ。わたしのピザはトマトとモッツァレラとバジル」
「葉っぱなんか載せたら、サラミの場所がなくなる」
「サラミなんか載せたら、バジルの香りが消える」
祖母が台所の入り口に顔を出し、二人を見比べた。
「半分ずつにしなさい」
「半分じゃ足りない」と祖父が言い、
「半分じゃ中途半端」と柚希も言った。
「じゃあ、どっちも焼かないのね」
祖母がそう言うと、二人とも黙った。祖母は満足そうにうなずいてから、柚希にだけ聞こえる声で付け足した。
「四角いのは譲ってあげて。あの人、角が好きなのよ」
丸から角へ
三時二十分、柚希は鞄から分量のメモを出した。強力粉二百五十グラム、ぬるま湯百六十ミリリットル、ドライイースト三グラム、塩四グラム、オリーブ油大さじ一。ボウルの中で粉と水がまとまっていくのを、祖父は腕組みをして眺めていた。
「店でもそうやるのか」
「店は機械でこねる。でも手でもできるよ」
台に打ちつけては折りたたむ。十分ほどで表面がなめらかになり、柚希は生地を丸めてボウルに戻すと、ラップをかけた。一時間、室温で寝かせる。
待つあいだに、柚希はトマト缶の半分を小鍋で煮詰めた。祖父はピーマンを輪切りにし、玉ねぎを半分だけ薄切りにする。ピーマンの輪は驚くほど同じ厚さにそろっていた。
「それ、測ってる?」
「目で測ってる」
四時半を過ぎると、生地は倍ほどにふくらんでいた。打ち粉をした台に移し、柚希は指先で真ん中から外へ押していく。生地を手の甲に載せて回すと、ふちが自然にそろって、きれいな円になった。
「丸い」祖父が言った。
「癖なの。ここからだから」
柚希はクッキングシートを敷いた天板に円を移し、四隅のほうへ指の腹で押し広げはじめた。丸の縁がゆっくりと天板の角に向かっていく。
「貸してみろ」
祖父が右下の角をつまみ、ぐいと引っ張った。生地は伸びずに薄くなって、ぷつりと穴が開いた。
「あっ」
「あっ、じゃないよ」
柚希は端の生地を少しちぎって穴にかぶせ、指で押さえてなじませた。
「引っ張るんじゃなくて、押すの。内側から外へ、指で寄せていく感じ」
「押す」
「そう。生地が自分で行きたがるところまで」
祖父は真剣な顔で左上の角に取りかかった。親指の腹で、少しずつ押していく。今度は破れなかった。残りの角もゆっくり広げて、最後の角を押し終えると、祖父はふうっと長い息をついた。

天板の上にできたのは、四隅がほんの少し丸い四角だった。
「角が丸い」と祖父。
「四角い丸だね」と柚希。
「角は角だ」
祖父は言い張ったが、口の端が上がっていた。
半分ずつ
祖父は引き出しから菜箸を一本出し、生地の上に短いほうの向きで渡した。長い辺のちょうど真ん中。巻尺で確かめてから、満足げにうなずく。
「こっちが俺。そっちがお前」
「国境みたいだね」
「越えたら戦争だ」
左半分に、祖父がスプーンの背でケチャップを塗る。玉ねぎを散らし、ピーマンの輪を並べ、サラミ十二枚を縦に三列、横に四列。仕上げに、ピザ用チーズを袋から豪快に振った。
右半分には、柚希が煮詰めたトマトソースを薄く伸ばした。モッツァレラは手でちぎって、ところどころに置いていく。
「すかすかだな」
「焼けば広がるの」
そのとき、祖父のチーズがひとつかみ、菜箸を越えて右側に落ちた。柚希は黙ってそれをつまみ、左側へ返した。祖父も黙って、それを受け取った。
五時、予熱が二百五十度に届いた。菜箸をそっと抜いて、天板をオーブンに入れる。タイマーは十三分。
二人並んでオーブンの窓をのぞいていると、玄関で母の真紀の声がした。ケーキ屋の箱を提げている。
「何、この匂い。喫茶店?」
「半分はな」と祖父が答えた。
五時十三分、天板を引き出すと、左半分ではチーズがふつふつと泡立っていた。サラミの縁がところどころ反り返っている。右半分では、白いモッツァレラの溶けたところに、トマトの赤がにじんでいた。柚希はバジルを八枚、右半分にだけ載せた。熱で葉がわずかにしんなりして、香りが台所に広がった。
「境目、ちゃんと残ってるね」母がのぞきこむ。
菜箸の跡は、焼けたチーズの上にうっすらと一本の線になっていた。
角の取り分
祖父は包丁を持ち、もう片方の手で巻尺を伸ばした。
「切るのも測るの?」
「誕生日だからな」
まず、菜箸の跡に沿って刃を入れ、二つに分ける。それぞれの半分を、長い向きに三つ、短い向きに二つ。十二切れの四角いピザが並んだ。
「一人三切れ」祖母が皿を四枚並べる。
祖父はまず、自分の半分の角を取った。耳が二辺ついた、いちばん焼き色の濃い一切れだ。それから少し迷って、柚希の半分の角にも手を伸ばした。
「そっちも角だからな」
「バジル、載ってるけど」
「葉っぱは除ければいい」
柚希は自分の皿を見下ろした。と、祖父がサラミ側のもう一つの角を、ひょいと柚希の皿に載せた。
「お前のぶんだ」
「角、好きなんじゃないの」
「好きだから、やるんだ」

祖母が小さく笑って、耳のない真ん中の一切れを自分の皿に取った。母はマルゲリータの残りの角を、何も言わずに取っていた。
柚希はサラミの角をかじった。ケチャップの甘さが先に来て、あとから焦げたチーズの塩気が追いかけてくる。ピーマンが少し苦くて、薄く焼けた角の耳がかりかりと鳴った。
「……甘い」
「うまいだろ」
「ケチャップもピザだね」
祖父は鼻を鳴らして、マルゲリータの角をかじった。バジルは除けなかった。しばらく黙ってかんでいたが、やがて「酸っぱい」と言った。それから、二口目をかじった。
「酸っぱいけど、悪くない」
「でしょ」
母がケーキの箱を開けながら聞いた。「で、来年はどっちにするの」
祖父は指についたトマトをなめて、天板を見た。
「来年は、丸いのを焼く」
「えっ」柚希は思わず顔を上げた。
「柚希に丸く伸ばしてもらって、天板の真ん中に置く」
「それで?」
「空いた四隅に、余った生地で小さい四角を焼く」
一瞬の間があって、母が吹き出した。祖母は「結局、角じゃないの」と言い、柚希は笑いすぎて、持っていたピザの耳を落としそうになった。
「熱がもったいないからな」
祖父は大まじめな顔で、ろうそくの数を数えはじめた。


