一 出船
劇場ほたる倉の入口は、靴を脱ぐところから始まる。
元は米蔵だった建物で、床板は百年近く前のものを磨き直して使っている。客は土間で靴を脱ぎ、真柴ちづるが手渡す木の下足札を受け取って、一段高い板の間に上がる。靴は、土間に渡した長い簀の子の上の、札と同じ番号が書かれた白いテープの前に置く決まりだ。
開場は十八時三十分。木曜の初日、ちづるは十七時から受付の長机で当日パンフレットを折っていた。A4を二つ折りにしただけの簡素なもので、表に『ただいまの数』、裏にキャストとスタッフの名前が並ぶ。作・演出、戸川紗矢。出演、柚木航ほか三名。舞台監督、森。舞台監督助手、乙部みのり。照明、音響。最後に小さく「受付 真柴ちづる」とあって、ちづるは自分の名前のところだけ、つい強く折り目をつけてしまった。
六十部。一階席が四十、二階席が十二で五十二席。それに関係者の分を足した数だ。
「ちづ、ごめん、お釣りの千円札足りてる?」
紗矢が客席から顔を出した。大学の演劇サークルで一緒だった頃から、紗矢は本番前になると声が半音高くなる。
「二十枚。五百円玉は四十枚。二階が二千五百円だから、先になくなるのは五百円玉だと思う」
「さすが校正の人」
「数字を見る仕事なだけだよ」
ちづるは平日、印刷所で校正をしている。他人が書いた文字の中から、他人が見落とすところを見つける仕事だ。劇団「夕方の窓」の公演を手伝うのはこれで四回目になる。ただ、受付にいると芝居はほとんど見られない。開演後は遅れてくる客を待ち、休憩には下足を確かめ、終演後は靴を返す。紗矢はいつも「次は客席で見て」と言い、ちづるはいつも「次はね」と答えてきた。
開場と同時に客が来た。脱いだ靴はたいてい、つま先が建物の奥を向いたまま簀の子に残される。入ってきた向きのままだ。ちづるは客が上がったのを見届けてから、しゃがんで一足ずつ向きを変える。つま先を戸口のほうへ。帰るときにそのまま足を入れられるように。子どもの頃に祖母の家で覚えたやり方で、紗矢には「旅館みたい」と笑われた。
十八時三十一分、その人が来た。
七十代くらいの男性で、灰色の上着を着て、よく手入れされた茶色の革靴を履いていた。予約名を尋ねると、
「オトベです。二階を一枚」
と低い声で言った。予約表には紗矢の字で「音部様 二階 下手2」とある。ちづるは二千五百円をちょうどで受け取り、十四番の下足札を渡した。
男性は土間で靴を脱ぐと、くるりと振り返り、自分で靴の向きを変えた。つま先を戸口へ。両足のかかとを簀の子の縁にぴたりと揃え、紐の端を靴の中にしまう。十四番のテープの前に、最初からそこに置かれていたような一足ができあがった。
ちづるが直すところは、どこにもなかった。
開演後、遅れてくる客がいないのを確かめてから、ちづるは二階へ上がる階段の途中に立った。そこが受付係の定位置で、上がりきる手前から二階席の下手側が斜めに見える。
二階席は客席を三方から囲む回廊で、柵の手前に座布団が四つずつ並んでいる。舞台の真上近くまで張り出しているぶん、上手の奥は見切れてしまう。だから一階より五百円安い。
音部さんは下手の二番に座っていた。
舞台は下宿屋の玄関で、大家と学生が言い合っている。客席から笑いが起きた。けれど音部さんは笑わなかった。顔は役者ではなく、もっと手前の舞台の床のほうを向いていた。
暗転になると、彼は柵に指をかけて身を乗り出した。三十秒ほどの暗がりの中を、黒い服の誰かが舞台を横切っていく足音がする。明かりが戻ると、彼は小さくうなずき、また床を見た。
二 見切れ席
金曜も音部さんは同じ時刻に来て、同じ二階下手二番に座り、同じように靴を揃えた。
予約は毎回、前の晩に電話で入るのだと紗矢が言った。
「全ステージまとめてじゃないの?」
「毎日かけてくるの。『明日の二階の下手の二番は空いてますか』って。律儀な人だよね。ちづの知り合い?」
「ううん。紗矢の知り合いかと思ってた」
「知らない。でも、わざわざ二階を指定する人は珍しいんだよ。見切れますって書いてあるのに」
ちづるは当日パンフを一部手に取って、裏を眺めた。舞台監督助手、乙部みのり。暗転のたびに舞台を横切る黒い服は彼女だ。二十三歳で、劇団に入って二年目。小柄で、ちづるが差し入れのおにぎりを渡すと、必ず両手で受け取る子だった。
オトベと乙部。ちづるは一瞬その二つを並べてみて、それから予約表の「音部」という字を見た。電話で聞いた音を紗矢が書いたのだから、どちらの字なのかは分からない。
「ねえ紗矢。あの人、ずっと床を見てるの」
「床?」
「舞台の手前のほう。役者じゃなくて」
紗矢は首をかしげた。「手前って、下駄箱のあたり? あそこ、一階からは何も見えないよ。下駄箱の背中が客席を向いてるから」
『ただいまの数』の舞台は、古い下宿屋の玄関だ。奥に上がり框と廊下があり、手前が土間になっている。その土間のいちばん客席寄りに、背の高い木の下駄箱が背中を向けて置いてある。一階の客は、下駄箱越しに玄関を覗き込むような格好になる。
「土間に靴が並んでるんでしょう?」
「並んでる。住人の分が四足。大家さんの下駄と、三浦くんの運動靴と、岩瀬さんの革靴と、春日さんのサンダル。冬の場面だけはブーツ」
「その向きって、演出?」
紗矢は少し考えてから、首を振った。
「台本には『靴が並んでいる』としか書いてない。置くのはみのりちゃん。稽古場ではテープで位置だけ決めて、あとは任せた」
「稽古場では、紗矢はどこから見てたの」
「公民館の会議室。長机の後ろのパイプ椅子。下駄箱の代わりに段ボールを積んでたから、靴なんか見えなかったな。みんな同じ高さだったし」
そこで開場の時間になって、話はそれきりになった。
三 入れ替え
土曜のマチネは、二階席が十二席とも埋まった。近所の朗読サークルが十人でまとめて予約を入れ、残りの二席は祖母と孫の二人連れだった。
十三時三十二分に来た音部さんの名前は、予約表の一階席の欄にあった。前の晩に電話したとき、二階はもう埋まっていると紗矢に言われたらしい。
「一階の最後列になります。すみません」
ちづるが言うと、音部さんは「いえ」と答えて三千円を払った。靴はやはり自分で揃えた。
第一幕のあいだ、ちづるは階段から一階の最後列を見ていた。音部さんは背筋を伸ばして座っていたが、何度か二階の下手を見上げていた。
十分間の休憩に入ると、二階から祖母と孫が降りてきた。孫は八歳くらいの男の子で、下足札をお守りのように握りしめている。
「すみません、この子、柵のところが怖いみたいで。一階に空いてる席はありますか」
祖母は志津と名乗った。一階の空きは、当日来られなくなった客の一席だけだった。二人分には足りない。
ちづるが困っていると、うしろから声がした。
「私の席と替わりましょう。最後列ですが、空いているのは私の隣です。二つ並びますよ」
音部さんだった。
「よろしいんですか。二階は見切れますけど」
「上がいいんです」
志津さんが差額を出そうとすると、音部さんは手のひらを見せて断った。
「上のほうが安くて、見えるものが多い。得をしているのは私のほうです」
男の子は湊という名前だった。一階へ移る途中、湊は祖母の袖を引っぱった。
「でもね、上からだと靴がくるくる変わるんだよ。暗くなるたびに」
「靴?」
「お芝居の人の靴。さっきはみんな外を向いてたのに、次は三浦くんのだけこっちを向いてた」
志津さんは「よく見てるのね」と笑って、湊の頭を撫でた。
音部さんは何も言わずに階段を上がっていった。上がりきったところで一度だけ振り返り、ちづるに会釈をした。湊が座っていた下手の二番に腰を下ろす背中は、さっきより少し軽く見えた。
四 大判焼き
マチネとソワレのあいだは二時間ある。ちづるは差し入れを買いに、坂の下の大判焼きの店へ行った。白あんと黒あんがどちらも一個百四十円。役者とスタッフを合わせて十二人分で、千六百八十円になった。
店の前のベンチに、音部さんが座っていた。手には黒あんが一つ。
「夜もいらっしゃるんですか」
「ええ。電話したら、二階の下手が取れました」
並んで座ると、紙袋の熱が膝に伝わってきた。

「失礼かもしれないんですけど」とちづるは言った。「舞台の床を、見ていらっしゃいますよね」
音部さんは大判焼きを半分に割ってから、ゆっくり答えた。
「靴を見ています」
「靴、ですか」
「受付さんも、お客さんの靴を直していましたね。出船に」
「でふね」
「つま先が戸口を向いているのを出船、奥を向いているのを入船といいます。私は四十二年、料亭で下足番をしていました。この春に辞めましたが」
祖母に教わったあのやり方に名前があったことを、ちづるはこのとき初めて知った。
「下足番をしているとね、お客さんの顔より先に、靴で分かることがあるんです。早く帰りたいお客さんは、上がるときに靴を戸口のほうへ蹴っておく。長居したいお客さんは、脱ぎっぱなしで振り返らない。二人連れから、帰りの靴を少し離して置いてくれと頼まれることもある。そういうのを覚えておいて、こちらで向きを整えるんです」
「舞台の靴も、そういうふうに置いてあるんですか」
音部さんはしばらく黙っていた。それから、少しだけ笑った。
「うちは古い家で、階段を降りるとすぐ玄関なんです。昔から、二階から靴が見える」
答えになっていないようでいて、何かの答えのようにも聞こえた。音部さんは残りの半分を食べ、包み紙を丁寧に四つにたたんで立ち上がった。
「白あん、温かいうちにどうぞ」
劇場に戻ると、楽屋口の前で柚木航が発声練習をしていた。三浦の役を演じている。ちづるは大判焼きの袋を渡しながら尋ねた。
「ねえ、三浦くんの靴って、毎回置き方が違う?」
柚木はきょとんとしてから、「あ、違う」と言った。
「最後の場の、春のやつ。暗転が明けたら靴を履いて出ていくんだけど、たまに内側を向いてるんですよ。こう、家のほうに。履きにくいし、振り返らないと履けないから、そこで一回、家のほうを見ちゃうんですよね。台本に振り返るなんて書いてないのに」
「それ、紗矢には言った?」
「いや、なんか、そのほうが台詞がうまくいくから。『せいせいするよ、こんなボロ屋』って言うじゃないですか。振り返ったあとだと、ちゃんと嘘に聞こえるんです」
柚木は黒あんを頬張った。「置いてるの、みのりちゃんでしょう。あの子、袖でずっと芝居を見てますよ。台本も見ないで」
五 二階下手
土曜のソワレ。ちづるは開演から十分待ち、遅れてくる客がいないのを確かめてから、紗矢に目で合図した。音響卓の前で、紗矢が親指を立てた。
ちづるは階段を上がりきり、二階下手のいちばん奥、柱の陰に立った。音部さんの斜めうしろから、柵の向こうを見下ろす。
初めて見る角度だった。
下駄箱の背中の向こうに、土間がまるごと見えた。白い運動靴、黒い革靴、赤いサンダル、大家の下駄。四足が明かりの端に、本の挿絵のように並んでいる。
夏の場面の終わりに、岩瀬と春日がささいなことで言い争い、互いに口をきかなくなった。暗転。暗がりで黒い影がしゃがむ。三十秒が過ぎて明かりが戻ると、秋の場面の土間では、黒い革靴と赤いサンダルが、ほんの少しずつ互いのほうへつま先を向けていた。
台詞の上では、二人はまだ喧嘩をしている。一階の客席では、意地を張り合う二人に笑いが起きた。けれど二階から見ると、靴はもう仲直りの向きをしていた。
休憩のあいだは下足の確認のために一度降り、第二幕が始まると、ちづるはまた柱の陰に戻った。
冬の場面。居間のストーブが壊れて、住人たちが玄関の上がり框で鍋を囲んでいる。土鍋から湯気が立ち、三浦が白菜ばかり取って大家に叱られる。笑い声の中で、三浦が卒業したら遠くの町で就職すると打ち明けた。誰も引き止めない。大家はただ「春までは家賃を払いなさいよ」とだけ言った。
暗転。
ちづるは息を止めて見つめた。黒い影が土間を回っていく。蓄光テープの小さな点が四つ、緑色にぼんやり光っている。影は三浦の運動靴の前で、ほかの靴よりも少しだけ長くしゃがんでいた。
明かりが戻った。春の場面だ。
白い運動靴は、つま先を家の奥に向けていた。片方だけが、わずかに戸口のほうへ開いている。
三浦が廊下から現れて鞄を下ろし、靴を履こうとして、一瞬止まった。振り返って、誰もいない廊下を見る。それから靴の向きを直して足を入れ、言った。
「せいせいするよ、こんなボロ屋」
一階で、誰かが鼻をすする音がした。
音部さんの肩が、少しだけ下がった。うなずいたのだと、ちづるには分かった。
終演後、靴を返しながら、ちづるは考えた。
謎そのものは、もう解けていた。二階の下手からだけ見える、靴の物語がある。暗転のたびにみのりが靴の向きを変え、その向きが役者の足を止め、台詞の聞こえ方を変えている。紗矢は稽古場でみんなと同じ高さから見ていたから知らない。一階の客には下駄箱の背中しか見えない。知っているのは二階の十二人と、袖にいるみのりと、靴を履く役者の足だけだ。
分からないのは、音部さんがなぜ毎晩電話をかけてまで、それを見に来るのかということだった。
十四番の札と引き換えに茶色の革靴を指さそうとして、ちづるはやめた。靴はもう出船に揃っていた。
六 千秋楽
日曜の千秋楽は十三時開演で、一階も二階も満席だった。音部さんは十二時三十一分に来た。二階下手二番、二千五百円、十四番の札。
開演前、ちづるは楽屋口で紗矢をつかまえた。
「終演後の下足、今日は一人じゃ回らないと思う。五十二人が一度に帰るから。手伝いを一人借りたいの」
「いいよ。誰?」
「みのりちゃん。片付けが始まる前の十五分だけ」
紗矢は少し不思議そうな顔をしたが、「バラシは森さんが仕切るから大丈夫」とうなずいた。
その日も、ちづるは二階の柱の陰から最後の二場を見た。
冬の場面の柚木は、前の晩よりずっとよく笑った。白菜を取りすぎて叱られ、春菊を押しつけられて大げさに顔をしかめる。就職の話をするときも、湯気の向こうで照れくさそうに頭をかいていた。
暗転。影がしゃがむ。今度は短かった。
明かりが戻ると、白い運動靴は両方とも戸口を向き、きちんと揃っていた。その隣で、大家の下駄もつま先を戸口へ向けていた。昨日までの下駄は、ずっと家の奥を向いていたのに。
三浦は靴を見ると、振り返らずに足を入れた。
「せいせいするよ、こんなボロ屋」
今日は嘘に聞こえなかった。本当に出ていける人の、少し寂しくて明るい声だった。大家役の女優が、廊下の奥から黙って見送っていた。
昨日と今日とで、自分は違う芝居を見たのだとちづるは思った。台詞も役者も同じで、違うのは土間の靴の向きだけだった。
カーテンコールが終わり、客出しが始まった。
土間には五十二足の靴が出船に並んでいる。音部さんの一足を除き、開場のあいだにちづるが向きを直しておいたものだ。そこへ、黒い服のみのりが小走りでやってきた。
「真柴さん、手伝いって」
「札の番号を読んで、靴を出してもらえる? 私は札を受け取るから」
みのりはうなずいて、簀の子の前にしゃがんだ。一番、二番と客の札を読み上げては靴をひょいと持ち上げ、履きやすいように少しだけ外へ開いて置いていく。手が速く、迷いがなかった。
客の波が引きかけた頃、階段から音部さんが降りてきた。ちづるは札を受け取って読み上げた。
「十四番」
みのりの手が、十四番のテープの前で止まった。
茶色の革靴。つま先は戸口を向き、かかとは簀の子の縁にぴたりと揃い、紐の端は中にしまってある。ちづるが一度も直さなかった靴だ。
みのりは顔を上げなかった。しばらく靴を見つめたまま、やがて受付の机の端にあった靴べらを取り、そっと靴の横に添えた。

音部さんは土間に降り、靴べらを使ってゆっくり靴を履いた。
「今日は、外を向いてたな」
靴を見たまま、音部さんが言った。
「今日の三浦くんは、ちゃんと出ていける顔をしてたから」
みのりも靴を見たまま答えた。
「下駄まで向けたのは」
「大家さん、昨日は見送れてなかった。今日は見送ってた。袖から見てたら分かったの」
音部さんは靴べらをみのりに返した。
「夜中に、うちの玄関で練習してただろう。懐中電灯を消して、数を数えて」
みのりの耳が赤くなった。
「……見てたの」
「階段の上からな。二時過ぎに手洗いに起きたら、下でみんなの靴がくるくる回ってた。ばあさんのつっかけまで」
「来ないでって言ったのに」
「だから二階にした。うちの階段と同じくらいの高さで、同じくらいの斜めになる。下手の二番だ」
ちづるは手の中の札を数えるふりをしていた。三十八、三十九。数はとっくに合っていた。
「五回とも見たの?」とみのりが聞いた。
「見られた分は、全部違った」
音部さんはそれだけ言って戸口へ向かった。敷居の手前で一度振り返り、ちづるに頭を下げた。
「受付さん。出船、きれいでした」
戸が閉まると、みのりはしゃがんだまま膝に額をつけた。笑っているのか泣いているのか、ちづるには分からなかった。たぶん両方だった。
「真柴さん、知ってて私を呼んだんですか」
「知ってたのは、靴の向きと、名字の読みだけ」
ちづるは言った。それは本当だった。
「二階から見たの。昨日と今日。三浦くんの靴、昨日は奥を向いてた」
みのりが顔を上げた。
「……見えました?」
「見えた。柚木くんも、履くときに振り返ってた」
みのりはしばらく黙ってから、「紗矢さんに、言ったほうがいいですかね」と小さな声で言った。
「言いたいなら、自分で。次の公演では、一階の人にも見える置き方を相談してみたら」
「怒られないかな」
「紗矢は、面白がると思う」
それも本当だった。
客席のほうからバラシの音が響き始めた。みのりは楽屋へ走っていき、ちづるは空になった簀の子のテープを一本ずつ剥がしていった。
最後に、自分の靴を取りにいった。受付の机の下、土間の隅に脱いでおいた紺のスニーカーだ。
つま先が戸口を向き、かかとがきちんと揃っていた。朝ここに脱いだときは、確かに奥を向けたままだったのに。
ちづるはしゃがんで、しばらくそれを眺めていた。
「ちづ、お疲れ! 次こそ客席で見てよ」
客席から紗矢の声が飛んできた。いつもなら「次はね」と返すところだった。
「うん。二階の、下手の二番がいい」
紗矢の「なんで?」という声を背中で聞きながら、ちづるはスニーカーに足を入れ、紐を結んだ。戸口の向こうには、もう夕方の光が差していた。


