一 引き継ぎノート
姉のノートの表紙には「わたるへ」とあり、その下に小さく「※読めば分かる」と書き添えてあった。
読めば分かる、と書く人のノートが本当に読んで分かった試しはない。森下航はそう思いながら、朝九時半の「毛糸店こまどり」のカウンターでノートを開いた。
一ページ目。
「1.分からないことは『確認します』と言う。恥ではない。」
二ページ目。
「2.毛糸は棚の札どおりの値段。ラベル右下のロット番号が違うと、色がほんの少し違う。同じ作品に使う糸は必ずロットをそろえる。」
三ページ目。
「3.水曜の十一時に戸川さんが来る。奥のベンチは使ってもらってよい。お茶は自分で持ってくるので出さなくていい。出すと恐縮される。」
四ページ目。
「4.あなたは編めないので、編み方は教えなくていい。教えようとしないこと。」
五ページ目。
「5.キットの中身はばら売りしない(レシピカードがセットのため)。」
四ページ目の最後の一文にだけ、下線が二本引いてあった。
姉の千歳は今朝七時四十分の電車で、隣の県で開かれる仕入れの展示会へ出かけていた。年に一度、問屋や小さな紡績所が一つの会場にずらりと並ぶ日で、千歳はそれを「一年分の毛糸と目が合う日」と呼んでいる。いつも店番を頼んでいるパートの人が子どもの学校行事で来られなくなり、水曜が定休日の航に順番が回ってきたのだった。
「店番だけでいいから。レジを打って、袋に入れて、ありがとうございましたって言うだけ」
ゆうべの電話で、千歳はそう言った。
「編み方を聞かれたら?」
「聞かれない。たぶん」
「たぶん」
「聞かれたら、土曜の教室を案内して。それに戸川さんがいるから」
航は駅の反対側の自転車店で働いて七年になる。ブレーキワイヤーの張りなら指で弾いた音で分かるし、ホイールの振れなら回しながら目で追って一ミリ単位で拾える。だが毛糸は、中学の家庭科でマフラーを途中まで編み、途中のまま卒業した。あの半端なマフラーは今も実家の押し入れにあるはずで、千歳はときどきそれを「航の未完の大作」と呼ぶ。
十時、シャッターを上げた。
ショーウインドーでは、からし色と紺と生成りの縞のマフラーが、首だけのトルソーに二重に巻かれていた。札には姉の字で「はじめてのガーター編みマフラー キット(3玉+レシピ)2,970円」とある。
札が少し斜めだった。航はガラス越しにそれを見て、店の内側から手を伸ばし、角度をまっすぐに直した。直したところで何も変わらない。それでも、斜めのものはまっすぐにしたくなる。職業病だった。
二 ラベルの右下
最初の客は十時四十分に来た。
ベージュのコートを着た女性で、入ってくるなり棚には目もくれず、まっすぐカウンターへ来た。手には毛糸玉のラベルが一枚だけ。
「このグレー、あと二玉ほしいの。セーターの袖が足りなくなっちゃって」
「はい」
航はラベルを受け取った。色番号の下、右下の隅に小さく「LOT K-214」と印刷されている。ノートの二ページ目が頭に浮かんだ。
棚のグレーは五玉あった。一玉ずつラベルを裏返していく。K-230、K-230、K-214、K-230、K-230。
「同じロットは、こちらの一玉だけです」
「あら」
女性──宇佐美さんと名乗った──は眉を下げた。
「確認します」
航はノートをめくった。六ページ目に在庫の置き場所が書いてある。「棚にない分は奥の棚の二段目、色ごとの箱」。奥の棚の二段目に、マジックで「グレー」と書かれた箱があった。蓋を開けると、ビニール袋に三玉。裏返す。K-214、K-214、K-230。
「ありました。同じロットが、奥にあと二つ」
「よかった」宇佐美さんはほっと息をついた。「見た目じゃほとんど分からないのよ、ロットの違いって。並べても分からない。でも編んで着ると、袖だけ光の加減で違う色に見えたりするの。一度やって、ずっと悔しかったから」
「部品番号と一緒ですね。一つ違うと、見た目は同じでも付かない」
「部品?」
「本業は自転車屋なんです。今日は姉の代わりで」
宇佐美さんは、ああ、千歳さんの、と笑った。航は棚から一玉、箱から一玉を取り、ラベルをもう一度二つ並べて見せた。宇佐美さんは自分でもそれを確かめ、うなずいた。一玉九百九十円、二玉で千九百八十円。紙袋に入れながら、航は箱にK-214があと一玉残っていることをノートの余白に書き留めた。
「ロットをちゃんと見る人でよかった」
宇佐美さんはそう言って出ていった。編み方は一つも聞かれなかった。熟練の人はたぶん、聞く必要がないのだ。
三 戸川さんのベンチ
十一時ちょうどに、ドアベルが鳴った。
背の高い年配の男性で、片手に水筒、もう片方の手に布の手提げを提げている。航を見ると、ほう、という顔をした。
「千歳さんは展示会か」
「はい。弟の航です」
「聞いとる。編めない方の弟さんだな」
「編めない方です」
姉が何を話していたのかは、だいたい想像がついた。
戸川さんは奥のベンチに腰を下ろし、手提げから短い針を四本と、編みかけの靴下を取り出した。針にかかった濃い緑の編み地が輪の形につながり、その下へ靴下の筒が伸びている。元は路線バスの運転手で、退職してから靴下を編み始めて十二年になる、と戸川さんは針を動かしながら言った。
「バスの運転って、手が空かんだろう。辞めたら手が寂しくてな」
「靴下ばっかりですか」
「靴下ばっかりだ。足は二本しかないのに、もう六十足ある」
航は笑ってから、カウンターに戻った。戸川さんは水筒のお茶を蓋に注ぎ、それきり黙って編み始めた。四本の針がかちかちと触れ合う音が、店の静けさにちょうどいい拍子を刻んだ。
昼までに客は三人来た。一人はかぎ針の号数を指定してきて、航は引き出しの札を読んで渡した。一人はポンポンを作る道具を探していて、航には何のことか分からなかったので「確認します」と言い、ベンチのほうを見た。戸川さんは顔も上げずに「レジ横の吊り下げ、上から二段目」と答えた。本当にそこにあった。
四 見本の長さ
午後一時十分、店の前に自転車が止まった。
航は反射的にそちらを見た。細身のクロスバイクで、チェーンがむき出しになっている。前のかごは後付けで、ハンドルに小さなライトが二つ。毎日たくさん乗っている自転車の顔だ、と航は思った。タイヤの減り方で分かる。
降りてきたのは、短い髪にネックウォーマーもしていない女性だった。首もとが寒そうだった。
ドアを開けると、その人はまずウインドーの内側を振り返り、少し迷ってからカウンターに来た。
「あの、すみません。あのマフラー、長さはどのくらいですか」
航は札を見た。値段と玉数は書いてあるが、長さは書いていない。ノートをめくったが、見本の寸法はどこにもなかった。
「確認します」
トルソーからマフラーを外していいかどうか、一瞬迷った。姉の飾りつけだ。だが測るために外して、元どおりに巻き直すなら、怒られることはないだろう。航はそっとマフラーをほどいた。
ポケットに、仕事用のメジャーが入っていた。金属の、巻き取り式のやつだ。それを引き出しかけたところで、ベンチから声が飛んできた。
「平らに置いて、引っ張らずに測りなさい。編み物は引けば伸びる」
航はうなずき、カウンターにマフラーを広げた。端を持ち上げず、しわだけを手のひらで逃がす。金属のメジャーを沿わせると、百五十八センチだった。
「百五十八センチです」

「百五十八……」女性は自分の頭のてっぺんに手をやった。「私、百五十六なんです。私より長い」
「そうですね」
「これを、全部編むんですよね」
その言い方が少し引っかかった。楽しみにしている声ではない。山を見上げているような声だった。
女性は大庭と名乗った。駅前のパン屋で朝五時から働いていて、家から自転車で二十五分かかる。十一月に入ってから夜明け前の風が首に刺さるようになり、ウインドーのマフラーが気になって、三日続けて前を通ったのだという。
「編み物、やったことないんです。でも、あれなら作れるかなって。お手本があるし」
「首には、どんなふうに巻くつもりですか」
大庭さんは、少し照れながらマフラーを首に一周させた。残りの両端は、腿のあたりまで垂れた。
航はその端を見た。それから、ガラス越しに店の前のクロスバイクを見た。むき出しのチェーン。後輪のスポーク。
言うべきかどうか、少し考えた。ここは姉の店で、自分は今日だけの店番だ。だが、これは毛糸の話ではない。自転車の話だ。
「あの、自転車に乗るとき、これだと危ないかもしれません」
「え?」
「本業が自転車屋なんです。スカートの裾とか、マフラーの端とか、走っているあいだにひらひらして、後ろの車輪やチェーンに巻き込まれることがあって。修理に来た自転車のチェーンに、毛糸が絡まったまま切れてたこともあります。長いのが悪いわけじゃないんです。自転車に乗るときに、端が下に垂れるのが危ないので」
大庭さんは首に巻いたマフラーを見下ろし、両端をそっと持ち上げた。
「……じゃあ、私には無理ですね、これ」
「いや、無理っていうか」
「だって、見本はこの長さで、キットもこの長さの分で。短くしたら、それってもう、このキットじゃなくなりますよね? 初心者が勝手に変えたら、なんか、失敗するんじゃないかって」
航は答えられなかった。それが変えていいものなのかどうか、航にも分からなかったからだ。料理なら、レシピの半分の量で作っていい。自転車なら、サドルの高さは人に合わせて変える。でも編み物はどうなのか。
「確認します」
航はベンチを振り返った。
戸川さんの針が止まっていた。
「好きなとこでやめていいんだよ、そんなもん」
当たり前のことを言う調子だった。それから戸川さんは、しばらく何かを考えるように自分の靴下を見下ろした。
「……そうか。言われなきゃ分からんか。わしも最初は、本に載ってる靴下と同じ大きさにしなきゃいかんと思っとった。自分の足のほうが大きいのにな」
五 一玉ぶんの計算
戸川さんは編みかけの靴下を手提げに戻し、カウンターまで来た。
「自転車に乗るなら、輪にしたらいい。スヌードってやつだ。まっすぐ編んで、端と端をとじて輪っかにする。頭からかぶって首に落とせば、垂れる端がない」
「とじるのって、難しいですか」大庭さんが聞いた。
「とじ針で縫うだけだ。ガーター編みなら目も数えやすい。土曜の教室でやるだろう、千歳さんが」
「長さは、どのくらいにすれば」
「頭が通って、首でもたつかんくらい。頭まわりより少し大きめだな。人によるが、六十五から七十」
航はレジ横の引き出しから、布のメジャーを出した。金属のものより、こちらのほうが人の頭には向いている。
「測っても……いいですか、頭」
大庭さんは吹き出し、それから「どうぞ」と前髪を押さえた。眉の上を通して一周させると、五十五センチだった。
大庭さんは見本のマフラーを首の前で輪にしてみて、指でつまんで長さを探り、「このくらい」と言った。航がそのつまんだ位置を測ると、六十八センチだった。
「六十八で」
さて、と航は思った。ここからは、自分にも分かる話だ。
「幅は見本と同じでいいですか」
「同じでいい。作り目三十二目、だいたい十八センチだ」戸川さんがレシピカードを指でたたいた。
「なら、長さの比で出せますね」航はノートの余白に数字を書いた。六十八割る百五十八、およそ〇・四三。「見本は三玉使ってるから、〇・四三をかけて一・三玉くらい……」
そこでペンを止め、戸川さんを見た。
「毛糸って、この計算でいいんですか。長さに比例するって考えて」
「幅が同じなら、だいたいはな」戸川さんはうなずいた。「ただ、千歳さんの見本は三玉で少し余るように作ってある。最後に足りなくなると初心者は泣くからな。それから、とじる分の糸が要る。手加減で幅も糸の減り方も変わる。初めてなら、途中で測り直しながら編むといい」
「じゃあ、二玉あれば」
「二玉で足りる。余ったら房でもつけりゃいい」
「房はやめましょう」
航と大庭さんの声がそろった。戸川さんは一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。
「そうだった。垂れるんだったな」
二玉。色は二色になる。大庭さんは棚の前でしばらく迷い、からし色と紺を選んだ。夜明け前の暗い道で、少しでも明るい色を首もとに置きたいのだという。
ただ、問題が一つあった。航はノートの五ページ目を開いた。キットの中身はばら売りしない。からし色と紺は、店ではキットの中にしか入っていない色だった。
「すみません、これは姉に確認させてください」
電話をかけると、呼び出し音のあとに留守番電話の案内が流れた。展示会の会場は人でごった返しているのだろう。航はメッセージを打った。
〈キットの糸、ばらで二玉売っていい? 自転車通勤のお客さん。見本と同じ長さだと端が垂れて危ないので、スヌードにしたいって。戸川さんが二玉で足りると言ってる。〉
返事を待つあいだ、戸川さんがレジ横の「試し編みかご」から毛糸を一本取って、大庭さんに作り目を見せ始めた。ノートの六ページ目に「試し編みかごの糸と針は自由に使ってよい」とあった。
「親指と人差し指に、こうかけて。針をここから入れて、こっちの糸をすくう」
大庭さんの手は、最初は糸をすっぽ抜かしてばかりいた。三回目でようやく一目ができ、五回目で三目並んだ。
航もかごから毛糸を一本取った。教えようとしないこと、とは書いてあったが、習うなとは書いていない。戸川さんの手元を見ながら同じように指を動かす。十二目作り、そこから二段編んだ。
戸川さんが航の針をのぞき込んだ。
「君のは、ねじれとる」
「どこがですか」
「全部だ」
大庭さんが、こらえきれずに笑った。航の針の上で、十二の目はそれぞれ勝手な方向を向いていた。ホイールなら、振れ取り台に乗せる前に新品と交換する状態だった。
一時五十二分、電話が震えた。
〈ばら売りOK! 1玉880円。レシピカードは1枚あげて〉
〈長さ、札に書いてなかった? しまった。好きな長さでいいって伝えて〉
〈スヌード大賛成〉
少し間をあけて、もう一通届いた。
〈そういえばさっき、反射糸のブースあった。見てくる〉
航は画面を大庭さんに見せた。大庭さんは「好きな長さでいい」の一行を、声には出さずに口だけ動かして読んだ。
からし色一玉と紺一玉で千七百六十円。それに竹の八号棒針が六百六十円で、合計二千四百二十円。レシピカードを一枚、紙袋に添えた。土曜の教室は十時から、定員六名で、予約表にはすでに四人の名前があった。航は五行目に大庭さんの名前を書き、受講料千五百円は当日払いだと伝えた。
袋を受け取りながら、大庭さんは言った。
「店番さんは、編めるんですか」
「編めません」
「ですよね」大庭さんは、さっきのねじれた十二目を思い出したように笑った。「でも、編めない人に聞いてよかったです。編める人に聞いてたら、たぶん恥ずかしくて言えなかった。見本と違うの作っていいですか、なんて」
クロスバイクは、来たときより少しゆっくり走り出した。紙袋は前のかごの中で、はみ出さずに収まっていた。
六 カードの下書き
午後は静かだった。
二人の客に毛糸を売り、一人に土曜教室の場所を説明した。三時過ぎに戸川さんは靴下のつま先を仕上げ、「六十一足目」と言って帰っていった。
航は見本のマフラーをトルソーに巻き直した。朝と同じ二重巻き。それから、札をしばらく眺めた。
レジ横の白いカードを一枚取り、ボールペンで書いた。
〈長さは好きなところでやめて大丈夫です。
自転車に乗る方は、端が垂れない短めの長さか、輪にするスヌードがおすすめです。〉
書いて、読み返して、ウインドーには置かなかった。ここは姉の店で、札は姉の字だ。カードの裏に「姉ちゃん確認用」と書いて、ノートの最後のページに挟んだ。
六時に店を閉めた。レジを締めると、朝の釣り銭と売上がぴったり合った。ノートの在庫欄に、箱のK-214が残り一玉になったこと、からし色と紺がそれぞれ一玉ずつ減ったことを書き足した。
六時五十分、大きな紙袋を三つ提げた千歳が帰ってきた。
「疲れた。楽しかった。重い」
三つを一息で言い、袋をカウンターに置く。航は黙ってノートを差し出した。千歳は在庫欄を読み、売上を読み、最後のページに挟まったカードを読んだ。
しばらく何も言わなかった。
「……私ね、マフラーの長さを聞かれたこと、これまでも何回かあったの」千歳はカードを指でなぞった。「そのたびに『お好みで』って答えてた。それで足りてると思ってた。お好みで、って言われたら、普通は好きにするでしょって」
「普通は、好きにしていいかどうかを聞きたかったんだと思う」
「うん」千歳は少し笑った。「編める人には、それが見えないのよ」
千歳はカードを裏返し、ボールペンで書き直した。
〈見本は、ひとつの例です。長さは好きなところでやめて大丈夫です。〉
そして、カードをウインドーの見本の足もとに立てた。少し斜めだった。航は手を伸ばして、それをまっすぐに直した。
千歳は紙袋の一つから、小さな糸巻きを三つ取り出した。銀色がかった灰色の、細い糸だった。蛍光灯の下ではただの地味な糸に見える。千歳がスマートフォンのライトを当てると、一本の線がぱっと白く光った。
「反射糸。毛糸と一緒に編み込める太さのを、三巻だけ買ってきた。あのお客さん、土曜に来るんでしょう」
「来る。五人目」
「よし」
それから千歳は試し編みかごに目をやり、ねじれた十二目二段の切れ端を見つけて、つまみ上げた。
「これ、航の?」
「習うなとは書いてなかったから」
「……ねじれてる」
「全部ね。戸川さんにも言われた」
千歳は切れ端を光にかざし、それから航の手に押しつけた。
「持って帰りなさい。未完の大作、二作目」
七 十二月の朝
十二月最初の土曜、十時を少し過ぎたころ、航の勤める自転車店に見覚えのあるクロスバイクが入ってきた。
「チェーンガードって、後から付けられますか」
大庭さんだった。首には、からし色と紺の縞の輪が巻かれていた。端はどこにもない。ガーター編みの畝はところどころ波打っていて、からし色から紺に変わるあたりで一段だけ幅が広がっている。そして縞のあいだに、細い銀色の線が二本走っていた。
航は車体の型と取り付け部を確かめてから、うなずいた。
「この車体なら付けられます。部品が二千二百円で、工賃が千百円です」
「お願いします」
作業台に自転車を載せ、クランクの位置を確かめながら、航は聞いた。
「それ、反射糸ですか」
「土曜の教室で、千歳さんに出してもらって。紺の段の中に、二回だけ一緒に編み込んだんです」大庭さんは首もとを指でつまんだ。「この前の朝、配送のトラックのライトが当たって、ここだけ光ったって、パン屋の店長に言われました。何か付いてるよって」
「輪の長さ、六十八ですか」
「六十六です」大庭さんは少し照れた。「最後のほう、糸が足りなくなるのが怖くて、二センチ早くやめちゃいました。でも、好きなところでやめていいって書いてあったので」
二玉のうち、紺が半分ほど残ったという。今はその残りで、手首に巻く短い筒を編んでいるらしい。
チェーンガードの取り付けは二十分ほどで終わった。航は仕上げにチェーンの油をなじませ、作業台の端に掛けてあった布で余分な油を拭き取った。
大庭さんの目が、その布に留まった。
ねじれた十二目、二段。油を吸って、今はすっかり黒ずんでいる。
「それ、もしかして」
「チェーン拭きです」航は言った。「毛糸は、油をよく吸うので」
大庭さんは声を上げて笑い、それから聞いた。
「店番さんは、編めるようになりました?」
「編めません」
精算を済ませると、大庭さんはスヌードを鼻の下まで引き上げ、クロスバイクにまたがった。店の前の通りに出たところで、ちょうど配送のトラックが角を曲がってきた。ライトが一瞬、大庭さんの首もとをなでた。
紺の縞の中で、細い線が二本、白く光った。



