一 潮見杭の砂
澪見の昼は白い。
港を見下ろす坂の途中に立つとよくわかる。海峡いっぱいに、帆柱の先くらいの高さまで白い靄が敷きつめられていて、その上に島々の山の頭だけが、浮かべた餅のように並んでいる。土地の人はこの靄を白凪と呼ぶ。風が吹いても流れず、陽が強くなるほど濃くなって、日が沈むと海の底へ吸いこまれるように消える。
だから澪見の船は夜に出る。白凪が退いた海に星が映る。映った星は潮の通り道に沿って細長くのびる。それを星筋と呼び、星読みと呼ばれる水先案内が読みとって、舵の向きを指示する。昼のあいだ、港は眠っている。聞こえるのは網を繕う音と、干物を裏返す音と、猫が瓦の上で寝返りを打つ音くらいだ。
灰谷朔は、その眠った港のはずれで潮見杭の目盛りを読んでいた。
午後三時。杭に刻んだ白い線の、下から四本目あたりを水がなめている。朔は手帳に「十五時〇〇分 四尺二寸」と書き、鉛筆を耳にはさんだ。
内陸の県都にある測量局から澪見へ来て、九日になる。町議会からの依頼は、一行で書けば簡単だった。――昼に船を通せる道がこの海峡にあるかどうか、調べてほしい。
星読みの手間賃は、この十年で倍になった。今は一晩六銀。港の荷が増えたのに、星読みの数が足りないのだ。昼にも船が出せればという声が議会で上がり、それが巡り巡って朔の机に来た。局が朔に渡した雇い船の費用は十二銀。星読みを二晩雇えばなくなる額だ。しかもその二晩では、朔がいちばん見たい場所、海峡の奥の欠け岬の沿岸へは行けないと、着いた初日に言われていた。
砂の上で、何かが光った。
落とした銅貨だろうと思った。しゃがんで指を伸ばすと、濡れた砂が乾いた布のように温かい。掘り出したのは小ぶりの胡桃ほどの粒で、指でつまむと、ぬるい湯のような熱が指の腹にしみた。握ると、指の隙間から白金色の光がこぼれた。陽を照り返しているのではない。手のひらで陰にしても、それ自体が光っている。
朔はそれを手帳の上に置いてみた。紙がほんのわずかに茶色く焦げ、小さな輪の跡が残った。慌ててハンカチに包み、潮見小屋へ戻った。
小屋には、底の砂を量るための小さな天秤がある。局の分銅は「粒」で刻んである。米粒一つを基準にした古い単位で、測量士の手にはいちばん馴染む。朔は皿に光る粒をのせ、分銅を一つずつ足していった。
「百二十三粒。十五時二十分」
声に出して書いた。何かわからないものを前にしたら、まず数を一つ書く。そうすると、わからなさに輪郭ができる。
それから一時間、朔は仕事に戻った。杭の目盛りを二度読み、砂の試料を三つ瓶に詰めた。その間ずっと、上着のポケットの中で粒は温かかった。四時二十分にもう一度量ると、百二十一粒だった。
「一時間で二粒」
減っている。蒸発しているのか、燃えているのか。朔はしばらく天秤を見つめてから、小屋を出て波打ち際へ下りた。
岸の近くの白凪は腰の高さほどで、足元の水が見えない。粒をつまみ、腕を伸ばして、靄の上に掲げてみた。
靄が退いた。
幕を引くように、というのがいちばん近い。朔を中心に、小舟一艘ぶんほどの丸い範囲で白凪がすっと薄くなり、足首を洗う水が見えた。水の下で、細い光の糸が何本も、砂の畝に沿って沖のほうへ走っている。糸は揺れ、ときどき寄り集まり、また分かれた。
ちり、ちり、と、手の中で小さな音がした。砂糖の粒を指でつぶしたような音だった。
朔は十五分そのまま立っていた。腕がだるくなって下ろすと、靄はすぐ元のように閉じた。小屋で量ると百十六粒だった。
「掲げると、十五分で五粒」
一時間なら二十粒になる。手帳の数字を見て、朔は少し笑った。高い買い物だ。
四時四十八分、西の山の肩に陽が落ちると、手の中の光がゆっくりしぼんでいった。熾火が灰をかぶるような消え方だった。最後に残ったのは、冷たい灰色の小石だった。四時五十五分に量ると、百十五粒と少し。ノギスで径を測ると十三分あった。
港の宿のおかみが、初日に言っていたのを思い出した。
「海で妙なもの拾ったら、星読み組合へ持っていきな。あそこは昼寝から起きたばかりで機嫌がいいから」
二 星読み組合の黄昏
日が沈むと、港が目を覚ます。
白凪が海へ引いていくのに合わせて、桟橋の灯がひとつずつ点る。船倉の戸が開き、縄が投げられ、どこかで鍋の蓋が鳴る。星読み組合の二階の窓からは、星図を巻いた筒を抱えた人たちが階段を下りていくのが見えた。
「昼星だな」
星読み頭の綾部は、朔の小石を指先で転がしてそう言った。六十八になるという、腕の長い人だった。
「ご存じなんですか」
「見たのは初めてだ。だが、話は子どもの頃にさんざん聞いた」
綾部は、カウンターの奥で星図を仕分けていた若い見習いに声をかけた。「穂波、灯をもう一つくれ」
穂波と呼ばれた娘は、ランプを持ってくる途中で机の角に腰をぶつけた。「すみません」と小さく言って、目を細めながらランプを置いた。
「欠け岬の灯台は知ってるか」と綾部が言った。
「図面だけなら」
朔は手帳を開いた。県都の局の書庫で写しておいた、古い灯台の断面図だった。塔の高さ、階段の段数、灯室の床から硝子の頂までの寸法。レンズの中心に、底のない輪形の受けが描いてあり、「星座 内径九分」と添え書きがある。
「星座か」綾部は目を細めた。「そう、そこに昼星が座ってた。六十年前まではな。レンズが陽を集めて星に食わせて、星は減らずに光る。その光が白凪を割って、海峡の昼筋を照らした。昼船ってのはそれで走ってたんだ」
「六十年前に何が」
「地震だ。岬が少し傾いて、レンズも傾いた。星は転げ落ちて海に沈んだと聞いてる。レンズは後で辻さんとこの先代が直したが、星がなけりゃ、ただのでかい硝子だ」
朔は手の中の小石を見た。「これが、その星ですか」
「さあな。海は、返すものをえり好みせん。同じ星か、よその空から落ちた別のやつか、誰にもわからん」
綾部は小石をランプにかざして、ふっと息を吐いた。
「どっちにしろ、星座に座れば同じことだ」
朔は手帳の別のページに数字を並べた。受けの内径が九分。今の星の径が十三分。星は丸いから、重さは径の三乗に比例するとして、
「九分の十三の三乗で、三分の一。今が百十五粒ですから、およそ三十八粒。それより小さくなると、輪を抜けてしまう」
「こぼれたら」
「受けに嵌まらない。レンズが抱えられない、ということだと思います。余裕を見て、四十粒を下回る前に据えたい」
「据えるって、あんた」綾部は笑いかけて、やめた。「欠け岬まで、どうやって行く」
それが問題だった。
「夜の船では行けないと聞きました」
「行けない。岬の丘が南の星を隠す。岬の下の海には星筋が出ない。真っ暗な水に船を入れるやつはいない。辻さんとこへの手紙だって、月に一度、沖の浮標まで夜便で運んで、辻さんが小舟で取りに来るんだ」
「昼なら」
「昼は白凪だ」
「この星を掲げれば晴れます。小舟一艘ぶんですが」
綾部はしばらく黙っていた。外で誰かが「三番、出るぞ」と叫び、窓の下を帆が通っていった。
「昼に舟を出せる鑑札を持ってるのは、澪見に一人しかいない」綾部は言った。「港の東の端の網小屋、籾井ハル。三十年、ほとんど誰も乗せないのに鑑札料を払い続けてる。議会でもときどき笑い話になる」
それから綾部は引き出しを開け、手のひらほどの黒い遮光板を出した。昼星の光を弱めるための、組合の星見道具だ。
「昼星をまともに見るな。目が焼ける。見るならこれ越しにしろ」
朔は礼を言って、硝子を手帳にはさんだ。
階段を下りかけたところで、後ろから声がした。
「あの」
さっきの見習いだった。暗い踊り場で、穂波は手すりを探るように握っていた。
「星を掲げたら、筋が見えたって言いましたよね」
「水の下に、糸みたいな光が」
「星がなくても」穂波は早口になった。「昼の波には、縫い目がありますよ。わたし、見えるんです。誰に言っても、陽炎だって言われるけど」
朔には何のことかわからなかった。正直にそう言うと、穂波は「ですよね」と笑い、二階へ駆けもどって、途中で一段踏みはずしかけた。
三 白湯丸の鑑札
港の東の端は、灯が少ない。
網小屋の戸を叩いたのは七時半だった。中から「開いてるよ」と声がした。入ると、床いっぱいに広げた夜船用の網の真ん中に女の人が座っていて、目も上げずに破れ目を繕っていた。
「籾井さん」
「ハルでいい。籾井は親戚にいっぱいいるから」
小屋の奥、斜路の上に、小さな舟が一艘乗っていた。白く塗った舷側に、墨で「白湯丸」とある。舳先には錆びたブリキの札が針金で留めてあり、薄れた字で「昼船 渡し賃 一人一銀」と読めた。
朔が昼星のこと、灯台のこと、四十粒のことを順に話すあいだ、ハルは網の目を一つ結び、二つ結び、三つ目で手を止めた。
「明日か」
「明日です。今日の夕方の減り方からすると、日の出には百十五粒。日の入りまでに据えないと、次の日にはまた二十粒ほど減ります」
「そうじゃない」ハルは網を膝から下ろした。「明日なんだよ、うちの期限も」
ハルは棚から木箱を出し、鑑札と帳面を並べた。鑑札は真鍮の板で、裏に細かい字の規則が彫ってある。
「昼船の鑑札は、十年のあいだに渡し賃を一つも記帳しなかったら切れる。最後に乗せたのはちょうど十年前の明日。一の瀬の藻を見たいっていう学者さんで、一の瀬まで行って帰ってきた。それっきり」
「切れたら、取り直せば」
「取り直すには、組合と議会の許しがいる。この六十年、誰も申請しなかった。わたしが切らしたら、もう誰も出さないよ」
ハルは帳面をめくった。表紙に「籾井トキ」とある。
「ばあちゃんのだよ。八十八で、山の町の叔母さんのとこにいる。毎年、柿を送ってくる。字はもう震えてるけど、手紙の最後には必ず『鑑札、払ったか』って書いてある」
帳面には、昼船の航路が細かく書いてあった。山当てだ。海の上から見える二つの目印を重ねて、自分の位置を決める。「三本松の真ん中を赤崖の肩に重ねて入る」「鯨の背、のどは潮の八分目から」「湾は午後に逆らう」。最後のページには一行だけ、
――欠け岬 着 ――
と、時刻のところが空いていた。
「この日、ばあちゃんが湾の途中まで行ったところで、岬の光が消えたんだって。それが地震の日。引き返して、それきり書き足してない。ばあちゃんは空欄を見るたびに笑うんだよ。書き忘れたみたいだねって」
朔は帳面の山当てを、自分の海図と見比べた。一の瀬の浅瀬、鯨の背と呼ばれる岩礁、その奥の霧溜まり湾、湾の口を抜けた先に欠け岬。
「潮は」とハルが聞いた。
「明日の干潮が五時半、満潮が十一時四十分、次の干潮が十七時五十分。日の出が六時十二分、日の入りが十六時四十八分」
朔は計画を書き出した。一の瀬は山当てで抜け、星は包んでおく。鯨の背は満ち潮に合わせて、狭いのどだけ星を掲げる。目印のない霧溜まり湾では掲げっぱなしで二時間。それで十三時四十分に岬に着いて、星は五十五粒ほど残る。
「湾は午後に逆らう」とハルが言った。
「満潮を過ぎると引きはじめるから、ですね。二時間の中に見込んであります」
「見込みは、見込みだよ」
ハルはそれ以上言わず、立ち上がって舟の櫓杭に椿油を差しはじめた。油の小瓶を道具袋に入れ、柄杓を入れ、縄の束を確かめた。
「渡し賃は」と朔が財布を出した。「星読みの相場が六銀と聞いたので、往復で」
「片道、一人一銀」
ハルは舳先の札を顎で指した。
「書いてあるとおり。勝手に値を変えたら鑑札違反だ。明日、出る前にもらう。記帳は出る前にするのが決まりだからね」
四 一の瀬の二本松
朝の五時五十分、桟橋はまだ暗かった。
白湯丸の舫いを解いているハルの横で、朔が星を入れた錫の箱を抱えていると、坂の上から人影が下りてきた。紙袋を胸に抱えている。
「乗せてください」
穂波だった。息を切らし、袋から湯気の立つ焼き芋を三本出した。
「屋台のおじさんを起こして買いました。十二銅。それと、これ」
握りしめていた一銀を、ハルの前に差し出した。
ハルは銀貨を見て、穂波を見て、それから朔を見た。
「乗る人の重さは、星の減りに関係あるかい」
「ありません。でも、舟足は落ちます」
「三人なら櫓は交代できる」ハルは銀貨を受け取り、帳面を開いた。「客は客だ」
鉛筆で二行書いた。「灰谷朔 一銀」「穂波 一銀」。十年ぶりの記帳だった。ハルは帳面を閉じるとき、少しだけ長く表紙に手を置いていた。
六時十二分。東の島の稜線が明るんだ瞬間、朔の膝の上の錫の箱が、合わせ目から白く光った。蓋越しに、手のひらがじんわり温まる。
「点いた」と穂波がささやいた。
六時三十分、白湯丸は桟橋を離れた。
港を出てしばらくすると、白凪が上がってきた。陽が高くなるにつれて靄は濃くなり、舷側から下が乳色に沈む。櫓の先が水を掻く感触はあるのに、水は見えない。顔を上げれば、東の山も西の山も赤崖もくっきり見えた。山の頭だけが晴れた海の上を、舟が進んでいく。
「一の瀬だ」
ハルが櫓を緩めた。帳面を膝に広げ、山を見る。
「三本松の真ん中を、赤崖の肩に重ねる」
北の丘の尾根に、松が二本立っていた。
ハルの手が止まった。
「二本しかない」
「二十年前に一本切ったんです」穂波が言った。「丘の上に物見櫓を建てるとき。組合の先輩から聞きました」
「どっちが残ったんだい。真ん中が残ってれば話は早いけど」
朔は海図を広げ、羅針儀を出した。局の書庫から写した四十年前の地図には、丘の上に松の印が三つ、等しくはないが並んで描いてある。
「ハルさん、舟を止めておけますか」
「白凪の中なら、潮はまだゆるい。少しなら」
朔は残った二本の松の方位を読んだ。左の松が北北東から四度東、右の松がそこからさらに九度東。赤崖の肩の方位も読む。地図の三本の松の間隔と比べると、残った二本の開き具合は、左と真ん中の組でも、真ん中と右の組でもない。
「左の端と、右の端が残っています。真ん中のが切られた」
「じゃあ、真ん中はどこに見えるはずなんだい」
「二本の間の、左から三分の一くらい。物見櫓の屋根の少し右です」
朔は鉛筆で、地図の上に線を一本引いた。赤崖の肩から、物見櫓の屋根の少し右を通り、舟の位置まで。
「この線上に入れば、筋に乗るはずです」
「はず、か」
ハルが櫓を押した。舟がゆっくり向きを変える。朔は物見櫓の屋根と赤崖の肩を交互に見て、「もう少し右……そこ、止めて」と言った。
「確かめたい」と朔は言った。「十五分だけ、掲げます」
八時十五分。朔は錫の箱を開けた。綾部の遮光板を目の前にかざしてから、星をつまみ出す。昨日、試料の篩の網を曲げて作った小さな籠に星を入れ、舟竿の先に結わえて、高く掲げた。
白凪が開いた。
舟を中心に、丸く水面が現れた。青緑の浅い水の底に、白い砂の畝が何本も並んでいる。そのあいだを縫うように、細い光の糸が一本、舟の真下から沖へ、まっすぐ延びていた。両側の砂の畝はすぐそこまで迫っていて、あと一間ずれていたら、舟底が乗り上げていたはずだった。
「筋の上だ」とハルが言った。声が少しかすれていた。
ちり、ちり、と竿の先で音がする。
穂波は舷側から身を乗り出して、光の円のふちを見ていた。
「続いてる」
「何が」
「筋が。丸の外まで、ずっと。薄いけど」
朔は円の外を見た。乳色の靄があるだけだった。
八時半、星を下ろして箱に戻した。ハルは同じ向きのまま櫓を漕ぎ、穂波はずっと、靄に覆われた水面を見つめていた。
五 鯨の背で待つ
九時二十分、白湯丸は鯨の背の手前に着いた。
白凪の上に、黒い岩が何本も突き出ている。水に沈んだ大きな岩礁の、背骨のところだけが見えているのだ。帳面には「のどは潮の八分目から」とある。朔がこの港の潮位表から読んだ見込みでは、八分目まで水が満ちるのは十時四十分ごろだ。
「待つよ」とハルが言った。「今入ったら、岩に舟を割られる」
大きな岩の陰に舟を寄せ、ハルが縄を岩角に回した。陽は高くなり、靄はますます白く、舟べりの外は雪原のようだった。
ハルが包みを開けると、おにぎりが四つ出てきた。梅が二つ、昆布が二つ。
「二人分しか作ってないよ」
「焼き芋があります」と穂波が言った。
三人で、おにぎりを割り、芋を割った。冷めた芋は、冷めたなりに甘かった。

「灰谷さんは、なんで測量士に」と穂波が聞いた。
朔は昆布のおにぎりの半分を飲みこんでから答えた。
「山の郡の生まれで、峠道がひどかったんです。地図がないから、行商の人がみんな自分の勘で歩いて、半分は迷う。局の測量隊が来て、地図ができて、翌年から迷う人がいなくなった。それを見ていて」
「迷わない道を書きたい?」
「誰でもたどれる道を。わたしが行けたかどうかより、次の人が行けるかどうかのほうが気になるんです」
穂波は芋の皮をむきながら、少し黙った。
「わたし、星読みの試験に二回落ちたんです。鳥目で、暗い星がにじんじゃう。六等星なんて、まったく見えない。でも昼の海を見ると、白凪の下で波の目がつながってるのがわかるんです。縫い目みたいに。組合の人は、陽炎だって」
「さっき、丸の外まで続いてるって言いましたね」
「言いました」
ハルは梅干しの種を口の中で転がしながら、黙って聞いていた。それから、ぽつりと言った。
「わたしはね、鑑札を払いつづけてるのを、意地だと思われるのがいやなんだ」
「意地じゃないんですか」と穂波。
「意地だよ」ハルは笑った。「でも意地だけじゃない。いつか、誰かが昼に舟を出したいと思ったとき、出す手段がなかったら、その人は思っただけで終わる。手段だけは置いとこうと思った。年二銀でね」
十時四十分、朔は岩の上に天秤を置いた。舟の揺れの届かない平らなところを選び、星を皿にのせる。
「百一粒」
「計画より」
「ほぼ計画どおりです」
十時五十分、水は八分目まで満ちた。ハルが縄を解く。
「のどは狭い。十五分だけ、明かりを頼むよ」
朔が竿を掲げた。白凪が開き、岩と岩のあいだに、黒くて深い水の裂け目が見えた。両側の岩肌に海藻が揺れている。光の糸が裂け目の真ん中を走っていて、ハルはそこに舳先を合わせ、櫓を短く、細かく使って舟を通した。岩肌が手の届くところを過ぎていく。穂波は息を止めていた。
十一時五分、のどを抜けた。ここから先は、岩礁の平らな背の上を越える。
「下ろしていいよ」とハルが言った。「背の上は満ちてる。帳面には、のどさえ抜ければ背は素通りって書いてある」
「もう少し掲げておきましょうか」
「星は湾で要る。ここで使ったら、あとで足りなくなる」
朔は星を箱に戻した。白凪の中を、白湯丸は背の上へ滑りこんだ。
十一時二十分、舟の底で、ごり、と鈍い音がした。
舟全体が一瞬持ち上がって、すぐ落ちた。ハルが櫓を止め、穂波が舷側にしがみつく。足元の板の継ぎ目から、細く水がにじみ出てきた。
「六十年のあいだに、背のどこかが盛り上がったんだね」ハルは板に手を当てた。「割れてはいない。継ぎ目が開いた」
「戻りますか」と朔は言った。
「戻らない」
ハルは柄杓を穂波に渡した。
「汲んでくれるかい。ゆっくりでいい、追いつかれなければ」
穂波はうなずいて、膝をついて水を汲みはじめた。
「星を下ろせと言ったのはわたしだ」とハルが言った。朔の顔を見ずに、櫓を握り直した。「勘定はわたしにつけとく」
十一時四十分、満潮。舟は鯨の背を越えて、霧溜まり湾の口に入った。
六 霧溜まり湾
湾の白凪は、外の海とは違った。
外では帆柱の先までだった靄が、ここでは山の中腹まで上がっている。見えていた岬も、赤崖も、東の山も、白の中に溶けた。上を見ても白、横を見ても白、陽だけが、すりガラス越しのように丸く滲んでいる。
「掲げます」
朔は竿を立てた。光の円が開く。その中に黒い水と、ところどころ顔を出す岩と、岩のあいだを縫う光の糸が見えた。ハルが糸に舳先を合わせる。穂波が水を汲む。柄杓が板をこする音と、竿の先の、ちり、ちり。
朔は十五分ごとに懐中時計を見て、手帳に印をつけた。一つ印をつけるたび、五粒。
十二時を過ぎたころ、舟の進みが鈍くなった。ハルの櫓を押す肩に力が入り、舳先が何度も糸から外れかける。
「引きはじめた」とハルが言った。「湾は午後に逆らう。ばあちゃんの字のとおりだ」
満潮を過ぎた湾の水が、口のほうへ、つまり舟の来た方へ流れ出しはじめていた。舟は、下りのエスカレーターを駆け上がるように進んだ。
十二時半、ハルと朔が櫓を交代した。朔の櫓は下手で、舟は糸の上で何度も蛇行した。ハルが竿を持ち、穂波が汲んだ。一時に、また交代した。
十三時四十分、湾の真ん中を少し過ぎたところで、大きな岩の陰に、流れのゆるむ淀みがあった。ハルが舟を寄せて、櫓杭に縄をかけた。
「量らせてください」
朔は星を下ろし、箱の蓋を閉めた。白凪が戻ってくる。岩に手をつき、天秤を岩の平らなところに置いた。舟が揺れないよう、ハルが縄を手で押さえる。分銅を足していく指が、少し震えた。
「五十五粒。……弱です」
ハルが聞いた。「岬まで、あと」
朔は手帳を開いた。羅針儀の記録と舟の速さから位置を割り出す。
「三分の一。掲げたまま行けば、この流れでおよそ一時間。二十粒です。三十五になります。上陸して灯室まで登るあいだに一粒は減る。三十四」
「四十を切る」
「切ります」
三人とも、しばらく黙った。舟底の継ぎ目から、ちろちろと水が入ってきて、穂波が柄杓を動かした。
「引き返したら」と朔は言った。「星は港で、毎日二十粒ずつ減って、六日で消えます」
「待ったら」
「潮が止まるのは十七時五十分の干潮。日の入りのほうが先です」
ハルは縄を握ったまま、白い湾の奥を見ていた。陽の滲みが、さっきより少し西に傾いている。
「掲げなかったら、どのくらい減る」
「一時間に二粒」
「掲げずに行ける方法は」
「ありません。目印が一つも見えない。岩だらけで」
「あります」
穂波だった。柄杓を膝に置いて、顔を上げていた。
「見えてます。ずっと。一の瀬から。星の丸の中で、筋はいちばん明るく光ってて、丸の外にも、細く続いてるんです。最初はわからなかったけど、明るいのを何度も見たから、いまは薄いのも見分けられる。どれが本物の筋で、どれがただの波の照り返しか」
「陽炎じゃなく」とハルが言った。
「陽炎は揺れるけど、筋は揺れても戻ります。同じところに」
朔は穂波の顔を見た。それから、自分の手帳の、昨日の組合での走り書きを思い出した。昼の波には縫い目がある。
「それだけじゃ方角が取れません」と朔は言った。自分に言い聞かせるような声になった。「筋は何本もある。どれが岬へ続くのか、わからない」
「わかりますよ」ハルが空を指さした。
白凪の天井の、ずっと上。すりガラスのような白の中に、細い影が一本、うっすらと立っていた。灯台の塔の頭だった。湾の白凪は山の中腹までしかなく、塔はそれより高い。
朔は羅針儀を取り出した。塔の頭の方位を読む。南南西、十二度西。
「わたしが塔の方位を言う。穂波さんが、その向きに続いてる筋を選ぶ。ハルさんが、その筋の上を漕ぐ」
「星は」
「箱の中です」
ハルは縄を外した。
十三時四十五分。白湯丸は、明かりなしで淀みを出た。
それは、さっきまでとはまるで違う航海だった。舟の外は乳色で何も見えない。穂波は舳先にうつ伏せになり、白い水面に顔を近づけていた。
「右に二つ漕いで。……そこ。いま乗りました。太い筋です」
「塔、南南西十一度西」と朔が言う。
「筋が左に曲がってる。……でも、曲がってからまた右へ戻る。たぶん岩をよけてる。そのまま」
ハルは何も言わずに漕いだ。櫓の一掻きごとに、穂波の声が返ってくる。朔は羅針儀と塔を交互に見ながら、合間に穂波から受け取った柄杓で水を汲んだ。舟は遅かった。同じ筋の上でも、ひと漕ぎごとに止まって確かめるので、時間がひどく長く感じられた。それでも、確かに前へ出ていた。
十四時二十分、陽が雲に隠れた。
白凪が灰色になった。穂波の声が止まった。
「見えない」
ハルの櫓が止まる。舟がゆっくり、流れに押されて後ろへ下がりはじめた。
「掲げますか」と朔が言った。箱に手をかけて。
「待って」穂波は動かずに言った。「待ってください。雲、薄いですよね」
朔は空を見上げた。白の向こうの雲の形は、わからなかった。
「数えます」と穂波が言った。「一、二、三……」
ハルが、舟が流されないぎりぎりの力で櫓を当てている。舟底からにじむ水の音。朔は箱の上に手を置いたまま待った。箱の中の星の温かさが、手のひらに伝わってくる。こうしている間にも、一分ごとに減っていく。
「……十八、十九」
白凪の色が、灰から白へ戻った。
「あった」穂波が言った。「同じとこ。左に半分」
ハルが漕いだ。
十四時五十分、乳色の向こうに、黒い影がせり上がってきた。岩ではない。石を積んだ段だ。古い船着き場の石段が、白凪の中から、ひとつ、またひとつと現れた。
白湯丸の舳先が、石にこつりと当たった。
朔は懐中時計を見た。十四時五十五分。石段の上に天秤を置き、星を皿にのせる。
「五十三粒。……弱」
ハルは櫓を舟の中に引き上げ、そのまま、しばらく櫓杭に額をつけていた。
穂波は舳先から起き上がって、自分の両手を見ていた。濡れて、柄杓を握りすぎて赤くなった手だった。
七 欠け岬の灯守
石段を上がりきると、干した魚の匂いがした。
崖の上の小さな平地に、家が三軒ほど寄り添って建っていた。いちばん手前の家の軒に、開いた鰆や鯵がずらりと吊ってあり、その下で、籠を抱えた女の人がこちらを見て固まっていた。
「昼に、舟が」
「籾井です。澪見の昼船の」とハルが言った。
「籾井。トキさんとこの」
「孫です」
女の人は籠を落としかけて、抱え直した。辻ゆき乃と名乗った。
朔が事情を話すと、ゆき乃は話の途中で家に駆けこみ、腰に鍵束を下げて出てきた。
「父がね、レンズの傾きを直したの。そのあと鍵を預かって、父が死んでからはわたしが預かってる。誰も来ないけど」
灯台は平地の先の、岬の突端に立っていた。白く塗った石の塔で、ところどころ塗りが剥げて、下の灰色が見えている。ゆき乃が錆びた錠に鍵を差すと、思ったよりあっさり回った。
「油、差してあるんですね」と朔が言った。
「毎月来てるから」
階段は九十八段あった。朔の図面のとおりだった。螺旋の内側に小さな窓が並び、窓の外は真っ白だった。灯室に出ると、白凪の天井より上だった。
青い。
岬の下はすべて白い靄で、その上に、海峡じゅうの山の頭が並んでいる。ずっと向こうに、澪見の裏山の頭も小さく見えた。
灯室の真ん中に、レンズが据わっていた。人の背丈ほどもある硝子の籠だった。何十枚もの環状の硝子が段々に重なり、その中心に、底のない輪形の受けがある。陽を受けて、レンズじゅうに細かい虹が散っていた。曇り一つない。
「磨いてたんですか」とハルが聞いた。
「月に一度ね」ゆき乃は少し恥ずかしそうに言った。「頼まれてないのよ。でも父が直したものが、埃をかぶってるのは見たくなくて。三十年。我ながら、なんでかしらね」
「意地ですよ」とハルが言った。ゆき乃はハルを見て、ふふ、と笑った。
朔は受けの内径をノギスで測った。九分。図面のとおりだ。
それから箱を開け、遮光板越しに星を見た。光の芯の形がはっきり見える。径を測ると十分だった。
「受けの縁にかかります」
十五時十分。朔は火鋏で星をつまみ、レンズの中心に手を伸ばした。
そのとき穂波が言った。
「レンズ、回るんですよね。本当は」
ゆき乃がうなずいた。「下に時計仕掛けがあって、重りで回すの。でも、もう何十年も止まってる。父も直せなかった」
「回らなかったら、どうなるんですか」
朔は手を止めた。図面の注記を思い出す。――レンズは回転して、光を海峡全体へ巡らせる。止まっていれば、一つの方角しか照らさない。
「一方向だけになります。澪見の方を向いているかどうか」
ゆき乃が、申し訳なさそうに首を振った。「止まったときの向きのまま。たぶん、沖の真南」
ハルが道具袋を開けた。
「椿油がある。櫓杭用だけど」
レンズの台座の下に、真鍮の歯車が並んでいた。緑青が浮いて、歯と歯のあいだに塩が白く固まっている。ハルは油を指に取り、歯車の軸受けに一滴ずつ落としていった。ゆき乃が布で塩をこすり落とす。穂波が鎖を引き、重りを少し巻き上げた。
動かない。
「もう一回」とハルが言った。油を足し、待つ。小屋で網の目を結ぶときと同じ顔をしていた。
穂波が鎖を引く。
ぎし、と台座が鳴った。
レンズが、髪の毛一本ぶんだけ回った。それから、もう一本ぶん。止まり、また回り、やがて歯車が噛み合う音が、一定の拍子になった。こ、こ、こ、と、ゆっくり。
朔は懐中時計を見た。十五時二十四分。
もう一度星をつまんだ。遮光板越しに、受けの縁と星の縁を合わせる。
十五時二十五分。星が、輪形の受けに座った。

静かだった。
最初に気がついたのは穂波だった。
「音が」
ちり、ちり、という音が、止んでいた。
レンズの何十枚もの硝子が、いっせいに白金色を帯びた。陽を集め、星へ送り、星が光り、その光をまた硝子が受け取って、外へ投げる。灯室の床に、光の環がいくつも重なって落ちた。
レンズはゆっくり回っていた。投げられた光の帯が、灯室の窓から海峡へ伸びていく。白凪の上をなでるように、帯が通ったところだけ、靄が細長く裂けた。その下の海面に、昼筋が見えた。一本ではない。何十本もの光の糸が、海峡じゅうに網の目のように張り巡らされている。一の瀬の細い糸、鯨の背ののどを抜ける太い糸、湾の中で岩をよける曲がった糸。
光の帯は一巡りするたびに、澪見の方角を通った。帯の先が、港の裏山の頭をかすめていく。
「ああ」と穂波が言った。それ以上は何も言わなかった。
朔は手帳を開いた。帯が澪見を向くたびに、見える筋を一本ずつ書き取った。一巡りで三本。二巡りで五本。手が追いつかなかったので、途中から穂波に読み上げてもらった。穂波の声は、湾で舟を導いていたときと同じ調子だった。
ハルは窓辺で、祖母の帳面を開いていた。
最後のページ。
――欠け岬 着 ――
ハルは鉛筆を出し、少しためらってから、空いているところに書いた。
午後二時五十五分
「上陸の時刻でいいのかね。灯台に着いた時刻かね」
「舟の帳面なら、上陸です」と朔が言った。
「じゃあ、これでいい」
ハルは帳面を閉じた。それから、レンズのほうを見ないまま、目元を手の甲でこすった。
「ばあちゃん、笑うだろうね。六十年かかって、三人がかりで、舟底こすって」
八 昼の灯の勘定
その夜は、ゆき乃の家に泊めてもらった。
日が沈むと、灯台の光は消えた。レンズの中の星は灰色の小石に戻り、白凪は海へ退いて、岬の下の暗い水に、星筋は一本も映らなかった。綾部の言ったとおりだった。
夕飯は、軒に吊ってあった鰆を焼いたものと、岩海苔の汁と、麦の混じった飯だった。鰆は皮が香ばしく、身は塩が内側までしみて、噛むと甘かった。
「うまい」とハルが言った。
「町で売ったら、いくらになりますか」と朔が聞いた。
ゆき乃は笑った。「売りに行けたことがないから、知らない。夜便の浮標まで運ぶと、もう脂が回っちゃうのよ。昼の舟が来るなら、話は別だけど」
朔は宿代を尋ねた。ゆき乃は少し考えて、一銀と言った。朔は払った。ゆき乃はその一銀を、レンズを磨く布と同じ引き出しにしまった。
翌朝、ハルが舟底の継ぎ目に詰め物をしていると、ゆき乃が鰆の干物を二枚、新聞にくるんで持ってきた。
「初便のお祝い。お代はいらない」
「もらいすぎだよ」
「三十年分の磨き賃だと思えば安いもんよ」
七時、白湯丸は欠け岬を離れた。
日の出とともに灯台の星が点り、レンズが回りはじめていた。光の帯が、一巡りごとに海峡をなでていく。帯が通った瞬間だけ白凪が裂け、昼筋が見える。帯が過ぎると靄は閉じるが、穂波にはもう、閉じたあとの細い糸が見えていた。
「帯が来たら確かめて、来ないあいだは、わたしが読みます」
ハルは黙って漕いだ。ときどき、穂波の声に「はいよ」と返した。
潮は昨日より五十分ほど遅れていた。干潮は六時二十分、満潮は十二時半。湾を出る舟には、満ちてくる水が向かい潮になった。光の帯で筋を確かめながら、ハルは櫓を押した。鯨の背では明かりがあっても水深は増えない。岩陰で潮を待ち、十一時四十分、水が八分目まで来たのを見て、のどの真ん中を帯の光の下で抜けた。一の瀬では、三本松の真ん中の、もう立っていない松に向かって、朔が手で方角を示した。
十三時十分、白湯丸は澪見の港に戻った。
防波堤の上に、人が並んでいた。昼寝の時間のはずの港に、二十人、いや三十人。網を抱えたままの人、子どもを肩車した人、組合の星読みたち。そのいちばん前に綾部がいて、腕組みをしていた。
「昨日の三時半ごろから」と綾部は、舟が桟橋に着く前に言った。「岬に、昼の星が出てる。港じゅう、仕事にならん」
桟橋に上がると、港の役人が書類を持って待っていた。拾得物の届けだった。
「海浜で拾得したものは、港に届け出る決まりになってましてね。で、そのものは今どこに」
「欠け岬の灯台の、レンズの中です」
役人は灯台のほうを振り返り、それから書類に目を落として、しばらく黙った。
朔は欄を埋めた。――拾得物、昼星一顆。拾得日時、一昨日十五時。現在の所在、欠け岬灯台レンズ星座。拾得者は所有を主張しない。
署名をして、ペンを返した。手のひらに、最後に温かさを感じたのがいつだったか、思い出そうとした。十五時二十五分、火鋏の先から。
その日の午後、舟大工の吉蔵が白湯丸の底をのぞきこんで言った。
「継ぎ目二枚、張り替え。ついでに、竜骨の傷も埋めとかないと次はもたない。七銀」
ハルはうなずいた。
朔は局への報告書に、修繕費のことを書いた。測量のために雇った舟の損料は、雇い船費とは別枠で、局の規則により半額まで出る。銀未満は切り捨てだから、三銀。届くのはひと月後になる。
網小屋で、ハルが帳面を開いた。祖母の帳面ではなく、自分のだ。
「収入。灰谷さん、往き一銀、帰り一銀。穂波、往き一銀。帰りは水汲みの手間賃と相殺」
「相殺?」と穂波が言った。
「柄杓でずっと汲んでたろ。あれがなかったら湾に沈んでた。客に働かせたら、渡し賃から引くのが筋だ」
ハルは鉛筆を進めた。
「局の損料、三銀。後日。支出、修繕七銀」
指で数えた。
「一銀足りない」
朔は財布に手をやった。ハルがその手を見て、首を振った。
「鯨の背で星を下ろせって言ったのはわたしだ。勘定はわたしにつけとくって言ったろ」
「でも」
「一銀の赤字で、六十年の空欄が埋まった」ハルは帳面を閉じた。「高いか安いかは、来年わかるよ」
朔は財布から手を離した。かわりに、自分の手帳に一行書き足した。雇い船費十二銀のうち、渡し賃二銀、宿一銀。残り九銀。昼の測量に充てる。
報告書の最後の項は、書くのに一晩かかった。
――昼の航路は存在する。ただし、欠け岬灯台のレンズが回転し、かつ曇りなく保たれている間に限る。レンズの保守には人手が要る。現在、辻ゆき乃氏が無償で月一回の清掃を行っているが、昼船を常に通すには週一回以上の清掃と、時計仕掛けの注油が必要と考えられる。灯守の手当として、月四銀程度を議会の予算に計上することを提案する。また、昼筋の読み手として、星読み組合見習い穂波氏の視覚は、昼間の航行に特に適している。
議会がこの四銀に何と言うかは、わからなかった。星読みを雇う一晩分にも満たない額だが、毎月出ていく。昼の海は、只では開かない。
三日後、穂波は組合の名簿の「見習い」の欄から名前を消し、港の役所で別の書類を書いた。昼船見習い。師、籾井ハル。鑑札一枚につき見習いを一人置ける、と真鍮の板の裏に彫ってあった。登録料は、半銀だった。
「払えるのかい」とハルが聞いた。
「芋、買わなきゃ払えます」
綾部は組合の二階の窓から、それを見ていたらしい。夕方、組合の星図の棚の端に、白紙の巻物が一本増えていた。表に、綾部の字で「昼筋図 未」と書いてあった。
正午。
朔は潮見杭の前に立っていた。目盛りを読み、手帳に書く。十二時〇〇分、三尺八寸。
鉛筆を耳にはさんで、顔を上げる。
海峡は白い。白凪は今日も帆柱の先まで敷きつめられ、島々の山の頭が浮いている。そのずっと奥、欠け岬の突端に、小さな星が一つ、昼の空の下で光っていた。
光の帯が一巡りして、澪見をなでていく。その一瞬、港の前の白凪が細く裂けて、水の下の光の糸が見えた。防波堤で網を繕っていた誰かが、手を止めて顔を上げた。
東の端の網小屋の前では、ハルが白湯丸の舳先のブリキ札を磨いていた。一人一銀。その下に、新しい板が一枚、針金で留めてあった。墨の字はまだ乾いていない。
――昼船 潮に合わせて出船 見習い同乗
朔は手帳に一行書いた。
十二時〇一分、昼星、見える。
それから、天秤を抱えて小屋に戻った。量るものは、まだいくらでもあった。


