長いスプーン
パフェは二つ、同時に来た。
「お待たせしました。いちごのパフェ、お二つです」
店員さんが細長いグラスを窓際のテーブルに並べた。胸の名札には「森」とある。二月最後の土曜、午後三時。駅前の二階にあるフルーツパーラーは、窓の外の曇り空と関係なく、店内だけが春の色をしていた。
グラスのいちばん上には、半分に切ったいちごが五切れ、花びらみたいにソフトクリームを囲んでいる。その下に赤いソース、コーンフレーク、白く揺れる杏仁ゼリー。そしていちばん下のミルクゼリーの中に、まるごとのいちごが一粒、しずんでいる。
「ほら、書いてある」
向かいの小野寺柚子が、メニュー立てを指でとんとんと叩いた。柚子はメニューの小さい字を必ず読む。保険の約款も、駅の時刻表の欄外も、全部読む。
「『グラスの底に、まるごとのいちごが一粒しずんでいます』。ね、いるでしょ、底に」
「いるね」
宇佐美環はうなずいて、長いスプーンを手に取った。まずは上のいちごから。順番は決まっている。
ところが柚子のスプーンは、上のいちごを素通りした。ソフトクリームの脇から垂直に差しこまれ、コーンフレークをざくざくと割って、ぐいぐい下へ進んでいく。
「ちょっと待って」と環は言った。「それ、なに。工事?」
「トンネル」柚子は手を止めずに答えた。「底のいちごから行く」
「底から? いきなり?」
「いきなり。今がいちばん冷えてるんだから」
環はスプーンを置いた。置かずにはいられなかった。
正の字
「あのね、柚子。底のいちごっていうのは、最後に食べるために底にいるの」
「誰が決めたの」
「パフェの構造が決めたの。上から下へ食べていったら、最後にいちごに着く。それが設計」
「設計者に聞いた?」
「聞いてないけど」
柚子のトンネルは杏仁ゼリーの層まで達していた。グラス越しに見ると、白い地層に一本、坑道が通っている。
環は紙ナプキンを一枚引き寄せ、バッグからボールペンを出した。区役所の戸籍係を十五年やっていると、話し合いになった瞬間に紙とペンが出る。
「じゃあ論点を整理します」
「出た」
「一。最後の一口は、そのパフェ全体の思い出になる。いちごで終わったら、このパフェは『いちごのパフェだった』って記憶に残る。コーンフレークで終わったら、コーンフレークの思い出になる」
環はナプキンの左側に「環」と書き、その下に一画、横線を引いた。
「自分で点数つけるの?」
「つけるよ。二。底にいちごがいるってわかってると、途中の層を食べてる間ずっと、『まだいちごがある』って思える。コーンフレークもゼリーも、希望つきで食べられる。希望の層」
二画目。
柚子は鼻を鳴らし、環の手からボールペンを抜き取った。ナプキンの右側に「柚子」と書く。
「一。底のいちごは今がいちばん冷たい。三十分たったら、上から溶けてきたソフトクリームでぬるくなる。ぬるいいちごで終わる思い出って、それ、いい思い出?」
一画。
「二。最初にいちばんいいものを食べたら、あとは全部おまけ。おまけって、全部うれしいでしょ。失うものがないから」
二画。
「三」柚子はスプーンを持ち直した。「わたしは引越し屋の配車係です。午後の予定はね、午前中に崩れるの。雨が降る、エレベーターが点検中、お客さんの冷蔵庫が想定の倍でかい。だからいいトラックは朝いちばんに押さえる。いいいちごも、先に押さえる」
三画。柚子はペンを返してよこした。
環はペンを受け取り、少し考えた。
「三。わたしは書類を、最後の一枚まで確かめてから判を押す。途中で押したら、最後の一枚に何が書いてあっても、もう押したあとだから」
「それ、いちごと関係ある?」
「ある。最後まで見届けてから、いちばんいいものを受け取る。気持ちの問題」
三画目。そこへ柚子が身を乗り出して、環の三画目の横に小さく「?」を書き足した。環はその「?」の上から一画、斜めに引いて、勝手に四画目にした。
「ずるい」
「審査中の異議は加点対象です」
「そんな規則ない」
柚子は自分の欄にも勝手に二画足した。環四、柚子五。正の字は、どちらも勝手な形に崩れていた。
二人の声は、いつのまにか少し大きくなっていたらしい。森さんがお冷やのピッチャーを持って通りかかり、グラスに水を足してくれた。
「すみません、うるさくて」と環が言うと、森さんは「いえ」と首を振った。
柚子がすかさず顔を上げた。
「あの、お店の人に聞きたいんですけど。底のいちご、最初に食べます? 最後に食べます?」
環も思わず森さんを見上げた。プロの裁定。これで決まる。
森さんはピッチャーを胸の前で抱え、ほんの少しだけ考えて言った。
「わたしは、半分まで来たら食べます」

二人とも、黙った。
「上のいちごがなくなって、ちょっとさびしくなったあたりで、下から迎えに行きます。そうすると、後半もまたいちごから始まるので」
では、ごゆっくり、と森さんは一礼して、隣のテーブルへ水を注ぎに行った。
「……半分」と柚子がつぶやいた。
「……迎えに行く」と環もつぶやいた。
「そういうのもあるんだ」
「あるんだね」
二人はしばらく、自分のグラスの「半分」がどのへんかを目で測っていた。それから柚子が、ぶるっと首を振った。
「いや、わたしは先」
「わたしは最後」
休戦、ということになった。
柚子のスプーンが、ミルクゼリーの底に届いた。カチ、とグラスの底に当たる小さな音。柚子は慎重にスプーンを傾け、まるごとのいちごを一粒すくいあげた。白いゼリーをまとって、赤がつやつやしている。
柚子はそれを、ひと口で食べた。
目をつむる。肩が下がる。しばらく何も言わない。
「……冷たい」とようやく言った。「つめたくて、あまい。勝った」
「まだ何も勝負してない」
「わたしの中では勝った」
それから柚子は、トンネルの周りに残ったソフトクリームや上のいちごに、楽しそうにとりかかった。本当に、全部おまけみたいな顔で食べている。気負いがなくて、どの層もうれしそうだった。
環は環で、上の五切れを順番に食べ終え、ソフトクリームとソースを混ぜ、コーンフレークのざくざくを味わった。グラスの向こうの底に、いちごの赤が見えている。まだいる。ちゃんといる。コーンフレークが、それだけで少しおいしい。
底は、お楽しみ
先に食べ終えたのは柚子だった。空のグラスにスプーンを立てかけ、紅茶を飲み、それから手持ちぶさたにメニュー立てをくるりと裏返した。
「あ」
「なに」
「裏にも書いてある。すごく小さい字で」柚子はメニュー立てを顔に近づけた。「『三月のパフェ 底になにがしずんでいるかは、当日のお楽しみ』」
環のスプーンが止まった。
「お楽しみ」
「お楽しみ。いちごとは限らない」
二人は顔を見合わせた。
「来月、来る?」と柚子が聞いた。
「来る。第二土曜なら空いてる」
「じゃあさ」柚子は環の手元の紙ナプキンを指さした。正の字の点数表。「それの裏に、底に何がいるか、予想を書こう。当たった方の勝ち。どっちも外れたら、近い方。負けた方が、来月のパフェを二人分」
「乗った」と環は言った。即答だった。それから、ペンを持ったまま付け足した。「ただし条件がある」
「どうぞ」
「柚子は来月も、どうせ先に掘るでしょう」
「掘るよ。トンネル開通させるよ」
「それはいい。でも、底に何がいたか、わたしが自分で底に着くまで、絶対に言わないこと。顔にも出さないこと。『あっ』て言ったら負け」
柚子の口が、への字になった。
「……それ、きつくない?」
「きついように作った」
柚子はしばらく天井を見ていたが、やがてにやりとした。
「じゃあ、こっちも条件。環は来月、待ちきれなくなって途中で底を掘ったら負け。わたしの顔をじっと見て、何がいるか推理するのも負け」
「……」
「きついように作った」
今度は環の口が、への字になった。柚子がどれだけ顔に出る人か、環はよく知っている。知っているから、柚子の顔を見たくなるに決まっている。
「乗った」と環はもう一度言った。
二人はナプキンを裏返し、互いに手で隠しながら、それぞれ予想を書いた。環は少し迷ってから一語。柚子は迷わず一語。ナプキンを二つに折ったところで、ちょうど森さんが空いたグラスを下げに来た。
「あの、これ、来月まで預かってもらえませんか」と柚子が言った。「中立の人に持っててほしくて」
森さんは折られたナプキンを見て、ちょっと笑った。
「半分派でよければ」
「半分派がいちばん中立です」と環は言った。
森さんはナプキンをエプロンのポケットにしまい、「三月は、わたしも半分のところで見てます」と言って、柚子のグラスを下げていった。
テーブルには、環のパフェだけが残った。ミルクゼリーの層まで来ている。スプーンを差し入れると、底の赤が、ゆっくりと持ちあがってきた。
柚子が頬杖をついて、それをじっと見ていた。
「見られてると食べにくい」
「見てるだけ。わたしのはもういないから」
環は最後のいちごを口に入れた。冷たさはもう少しやわらかくなっていて、そのぶん、甘さがゆっくり来た。いちごで終わった。このパフェは、いちごのパフェだった。
「どう」
「最後だった」
「感想になってない」
「なってる」
柚子は笑った。「見てたら、ちょっとおいしかった」
「わたしも、柚子が最初に食べるとこ見てたから、二回分おいしかった」
会計は三千八百六十円で、千九百三十円ずつ出した。レジの横を通るとき、柚子がエプロンのポケットのあたりにちらっと目をやり、森さんがそれに気づいて、ポケットを手でぽんと押さえてみせた。
階段を下りると、外はまだ曇っていて、風が冷たかった。駅へ向かう道すがら、柚子が急に真顔になった。眉ひとつ動かさず、まっすぐ前を見ている。
「なにそれ」
「練習。底に何がいても、この顔」

三歩も歩かないうちに、柚子の口の端がひくっと動いた。環が吹き出すと、柚子もつられて吹き出した。
「無理じゃない?」
「あと二週間ある。来月は、無言で工事する」
「わたしは、最後まで待つ」
「顔、見ないでよ」
「見ない。……たぶん」
改札の前で手を振って別れたあと、環は手帳を開き、三月第二土曜の欄に小さく書いた。午後二時五十分、パフェ。その横に、もっと小さく、「顔を見ない」。


