二本のリボン
雨は十二時四十分に降りだして、二時を過ぎても弱まらなかった。
若葉台第二集会所の受付窓口から、戸倉杏は玄関の土間を見ていた。灰色のスチールの傘立てには穴が十二あって、いまはそのうち九つが埋まっている。黒が二本、茶と透明と緑と花柄とベージュが一本ずつ。それから紺が二本。数えかけて、杏は指を止めた。紺の二本の持ち手に、同じ青いリボンが結んであった。
幅一・五センチのサテンで、端は斜めに切ってある。八月の夏祭りのとき、自治会のテントで杏が結んだものだった。「傘に目印を——取り違え防止キャンペーン」。赤、黄、緑、白、青の五色を用意して、六十三本の傘に結んだ。いちばん出たのが青で、二十七本。
その二十七本のうちの二本が、いま並んで挿さっている。どちらも駅前のまるや金物店が三十周年セールで売った、五百円の紺の六十センチ傘だった。この町では、たいていの家に一本はある。
十四時四十五分、多目的室から男性が一人、ベビーカーを押して出てきた。リトミック教室に来ていた父親で、入館簿には宇津木誠とある。宇津木は傘立てから紺の一本を抜いて、軒下で開いた。そして開いたまま、しばらく動かなかった。
二分後、ガラス戸が開いた。
「すみません。これ、うちのじゃなかったです」
宇津木は傘をもう一度開いて、内側を見せた。紺の内側は、ただの紺だった。ベビーカーの中では、黄色い長靴の女の子が顔をくしゃくしゃにしている。
「うちのは、内側におひさまが描いてあるんです。この子が九月に、布用のペンで」
「おひさま、ないの」と女の子が言った。付き添いの欄に、日和、三歳とある。
宇津木はその傘を戻すと、もう一本の青いリボンを抜いて、軒下で開いた。そちらの内側も紺一色だった。
「こっちも違う」
杏は窓口を出て、土間に降りた。宇津木の傘を入れれば、青いリボンは三本あったはずだ。それがここには二本しかない。
「宇津木さんの傘、いつ置きました?」
「一時半ちょっと前です。ベビーカーが入らなくて、戸倉さんに傘立てを動かしてもらった、あのすぐあと」
宇津木はスマートフォンの画面をこちらへ向けた。雨雲レーダーの青い帯が、町の西側へ抜けていこうとしている。
「十五時二十五分ごろ止むみたいです」
時計は十四時五十二分だった。
「雨の日はおひさまの下で帰ろうって、約束してるんですよ」宇津木は申し訳なさそうに笑った。「止んじゃったら、ただの紺の傘ですから」
杏は傘立ての前にしゃがんだ。
一本ずつの傷
まず二本を並べて持ってみた。重さは同じで、骨はどちらも八本、一本も曲がっていない。リボンの結び方も同じ、杏の蝶結びだった。夏祭りの日は、輪の大きさをそろえることだけを考えて二十七回結んだ。
杏の本業は印刷所の校正係で、同じ版の二枚の刷りを重ねて違いを探すのが仕事だ。違いは、たいてい端にある。
杏は石突きを見た。
一本目は、先端の黒い樹脂のキャップが片側だけ斜めに削れていた。新品なら丸いはずの先が、右に傾いた平らな面になっている。その上の生地の縁にも、地面で擦った灰色の汚れが同じ側にだけ付いていた。
二本目の石突きは丸いままだった。そのかわり、持ち手から三十センチほど下の中棒に、四角い押し跡が二つ向かい合って並んでいる。塗装が細く剥げて、銀色の地がのぞいていた。
「これ、なんの跡でしょう」

宇津木は覗きこむなり言った。「自転車の傘ホルダーですね。ハンドルに付けて傘を挟むやつです。挟むところが、ちょうどこの幅なんですよ」
「詳しいですね」
「育休に入る前、物流倉庫で在庫管理をやってたんです。台車も自転車も、だいたい傷で分かるようになって」宇津木は少し照れた。「役に立ったのは初めてです」
杏は窓口に戻って入館簿を開いた。宇津木もベビーカーを窓口の前まで押してきた。
今日の利用は三組だった。二階の大和室で囲碁の会が六名、十三時に入館。一階の多目的室でリトミック教室が講師と親子四組、十三時二十五分に入館。二階の小和室で、自習の中学生が一名、十四時に入館。ほかに、民生委員の野々村さんが十三時五十分にチラシを届けに来ている。
退館の欄に時刻が入っているのは三人だった。
「野々村さんが十四時五分。囲碁の会の森さんが十四時二十分。中学生の須藤さんが十四時三十分」
「出庫は三件ですね」と宇津木は言ってから笑った。「すみません、癖で」
「いえ、分かりやすいです」
杏は一人ずつ思い出した。野々村さんは車で来て、駐車場から走ってきた。髪が濡れていて、傘は持っていなかった。須藤さんの傘は透明のビニール傘で、持ち手に猫のシールが貼ってあった。帰るときにも、杏はそのシールを見ている。
残るのは森さんだった。
受付の横の窓から駐輪場が見える。十三時に、緑の自転車が一台そこに停まったのを杏は覚えていた。ハンドルに黒い傘ホルダーが付いていた。いまは何もなく、雨が空いた白線を打っているだけだった。
「森さんは自転車で来て、自転車で帰りました。中棒にホルダーの跡がある二本目が、森さんの傘です」
「じゃあ、一本目は」
「たぶん、まだ二階にいる囲碁の会の誰かのです」
「たぶん?」
「森さんがどうして宇津木さんの傘を持っていったのか、まだ分からないので」
杏は傘立てを振り返った。十四時二十分には、あそこに青いリボンが三本あったはずだ。森さんはなぜ、自分のではない一本を選んだのだろう。
動いた傘立て
杏は十三時二十八分のことを、順番に思い出していった。
リトミックの親子が先に三組入ってきて、講師の浜口先生と二人の母親が傘を挿し、もう一人の母親は折りたたみ傘を袋にしまった。そのあとに宇津木がベビーカーで来た。土間は狭い。傘立てが左の壁際にあると、ベビーカーが下駄箱の前を通れない。
それで二人で傘立てを持ちあげて、右の壁際、下駄箱の横へ移したのだった。
「置くとき、回しましたよね」と宇津木が言った。
「回しました」
傘立ての受け皿には、片側に水抜きの口がある。左の壁際にあったときは、それが土間の排水溝のほうを向いていた。右の壁際に同じ向きで置くと、口が壁にぶつかってしまう。だから杏は、くるりと半回転させて置いたのだ。
「前の列と奥の列が入れ替わって、左と右も入れ替わったんです」
「ぼくはそのあとで、空いてた左の奥に挿しました」
杏は穴の縁を指でなぞった。いまの左奥は空いている。移す前、ここは右の手前だった。そして、いま森さんの傘が挿さっている右の手前は、移す前の左奥だ。
「森さんがいつも左の奥に挿す人だったら」
「帰りに、いつもの場所に手を伸ばしますね」と宇津木が言った。「そこに青いリボンがある。同じ紺の、同じ傘だ。疑う理由がない」
「十三時に挿したとき、傘立てはまだ左の壁際でした。帰るときには右の壁際に移っていたけど、森さんは動いたことを知らない。土間に降りて、正面の傘立てに向かって、左の奥に手を伸ばした」
「ぼくがさっき取ったのは右の手前、つまり森さんの傘ですね。左の奥が空いてたから、近くの青を取ったんです」
杏はうなずいた。それなら、筋が通る。
ただ、まだ確かめなければならないことが二つあった。森さんが本当に左の奥に挿す人なのか。そして、石突きの削れた一本目が、二階の誰のものなのか。
時計は十四時五十八分を指していた。
「二階に行ってきます。宇津木さんはここにいてもらえますか。誰か降りてきたら、傘立てに触る前に呼び止めてください」
「入出庫停止ですね」
日和ちゃんが鼻をすすって、「おひさま」と言った。
「いま探してるよ」と宇津木は言った。
左の奥
大和室の襖を細く開けると、碁石の音が雨音に混ざって聞こえた。三面の盤のうち、二面で四人が打ち、もう一人が棋譜を取っていた。いちばん奥の盤では、白髪の柏葉茂さんが対局時計を前に腕を組んでいた。囲碁の会の会長で、杏の祖母の代からこの集会所に通っている人だ。
月例の対局の最中に声をかけるわけにはいかない。杏は襖の前に正座して待った。
柏葉さんが黒石を一つ置いて、時計のボタンを押した。相手が考えはじめたのを見て、杏は小声で呼んだ。
「柏葉さん、少しだけ」
柏葉さんは膝に手をついて立ちあがり、右に少し傾きながら廊下へ出てきた。右足をかばう歩き方だった。
「雨の日は膝がきしんでな。どうした」
「森さんの傘のことなんです。森さんって、傘立てのどこに挿すか決めてますか」
柏葉さんはあっさり答えた。「左の奥だ。わしがそう言った」
「柏葉さんが?」
「あいつが初めて来た日、手前に挿そうとしたんでな。若いもんは奥に挿せ、手前は年寄りが取りやすいように空けとけ、と言ったんだ。それから三年、律儀に左の奥だよ」柏葉さんは眉を上げた。「森がどうかしたか」
杏は手短に話した。傘立てを動かして、回したこと。宇津木さんの傘が、たぶん森さんと一緒に出ていったこと。
柏葉さんは、ふん、と鼻を鳴らした。それが笑ったのだと杏が気づくまで、少しかかった。
「わしの教えが裏目に出たな」
「それで、柏葉さんの傘は」
「左の手前だ。紺で、あんたのリボンが付いとる。孫が祭りで並んでくれてな」
「石突きはどうなってます?」
「削れとるだろう。雨の日はあれを杖のかわりにつくんだ。右に寄りかかるから、右ばかり減る」
一本目の傘だった。
「森さんはいま、どこに」
「駅前の明星ゼミだ。土曜は二時半から四時まで、中学生に数学を教えとる。授業中は電話に出んぞ」
柏葉さんは部屋のほうを振り返った。相手が石を置く音がした。
「わしの番だ。戸倉さん、森の傘はそっちで好きにしてくれ。わしのは、帰りに自分で取る」
襖が閉まる前から、柏葉さんの目はもう盤に向いていた。
雨の残り
一階に戻ると、十五時三分だった。宇津木はベビーカーの前にしゃがんで、日和ちゃんに指で傘の絵を描いてみせていた。
杏は明星ゼミの番号を調べて、受付の固定電話からかけた。出たのは事務の三好という女性だった。事情を話すと、三好さんは「少々お待ちください」と言って保留にし、一分ほどで戻ってきた。
「入口の傘立てに、紺で青いリボンの傘が一本あります。開いてみたんですが……内側に、黄色い丸から線がいっぱい出ているものが」
「それです」杏の後ろで、宇津木が小さく言った。
「ただ、森先生は授業中ですので、こちらで勝手にお渡しするのは——」
「森さんの本当の傘を、持ち主の方が持っていきます。その場で取り替えて、森さんの傘はそちらの受付で預かっていただけませんか。囲碁の会の柏葉さんにも了承をいただいています」
三好さんは少し考えてから訊いた。「持ち手の内側に、何か目印はありますか」
杏が振り返ると、宇津木が答えた。
「持ち手の曲がったところの内側が、白く擦れてるはずです。ベビーカーのハンドルに引っかけて歩くので」
電話の向こうで、傘を回す気配がした。「擦れてますね。分かりました、お待ちしています」
十五時六分。
杏は受付のメモ用紙に書いた。「森さんへ。集会所の傘立てを十三時半に動かしたため、取り違えが起きました。こちらがあなたの傘です。左奥にあった傘は宇津木さんにお返ししました。戸倉(若葉台第二集会所 当番)」。それを二つ折りにして、森さんの傘のリボンに通した。
宇津木はベビーカーの日よけを深く下ろし、森さんの傘をハンドルに引っかけかけて、やめた。手に持ち直す。
「ホルダーの跡の上にベビーカーの跡まで付けたら、森さんに悪いですね」
「駅前まで、八分くらいですか」
「ベビーカーだと九分です。帰りはここの前を通ります。家が裏の団地なんで」
ガラス戸が開いて、湿った空気が流れこんだ。森さんの傘が開く。紺の内側は、やっぱりただの紺だった。日和ちゃんがそれを見上げて、口をとがらせた。
「すぐ、おひさまになるからね」宇津木はそう言って、雨の中へ出ていった。
杏は傘立ての前に戻った。
八本の傘と、空いた穴が四つ。リトミックの母親たちも囲碁の会の四人も、傘立てが回ったことを知らない。帰るときには、誰かがまた、覚えている場所へ手を伸ばすかもしれない。
杏は窓口の引き出しからマスキングテープとペンを出した。十二の穴の縁に、奥の列の左から1、2、3、4、真ん中の列に5から8、手前の列に9から12と書いて貼っていく。それから挿さっている傘を一本ずつ確かめて、入館簿の裏に書きつけた。黒、持ち手に名前シール、2番。茶、柄に籐巻き、5番。透明、骨が一本たるんでいる、7番。緑、留めボタンが取れている、9番。花柄、11番。もう一本の黒、持ち手の先が丸い、3番。ベージュ、6番。柏葉さんの紺、石突きが右に削れている、4番。八本ぶん、全部書いた。
最後に、傘立ての上の壁に紙を貼った。「傘立ての位置を移しました。お帰りの際は、受付で番号をお伝えください」
十五時十六分、電話が鳴った。
「明星ゼミの三好です。宇津木さん、いらっしゃいました」三好さんの声の後ろで、子どもの高い声がした。「お日さま、ありました。いま、娘さんが傘の下で拍手してます」
晴れ間の傘立て
十五時二十五分。雨は細い糸のようになっていた。
杏はガラス戸の内側から、集会所の前の道を見ていた。駅のほうから、紺の傘がゆっくり近づいてくる。ベビーカーの日よけは上げてあって、日和ちゃんは首をそらし、傘の内側をじっと見上げていた。宇津木は傘を少し前に傾けて、娘の頭の上に黄色い丸が来るようにしていた。
集会所の前で、宇津木が足を止めた。杏が戸を開けると、宇津木は傘をこちらへ傾けてみせた。
紺の布の、八枚のうちの一枚に黄色い丸があった。丸からは短い線が数えきれないほど飛び出していて、隣の布にまではみ出している。
「線は二十八本あるそうです」と宇津木が言った。「本人によると」
「にじゅうはち」と日和ちゃんが言った。
「数えたんですか」
「数えたのは、たぶん気持ちです」
杏は笑った。宇津木は持ち手の内側を親指でなぞった。白く擦れた跡が、そこにあった。
「森さんの傘は、ちゃんと受付に預けてきました。三好さんがメモも読んでくれて」
「ありがとうございました。わたしが傘立てを回したせいで、こんなことに」
「ぼくのベビーカーのせいでもありますよ」と宇津木は言った。「それに、在庫がちゃんと戻ったのは、戸倉さんが石突きを見たからです。ぼくは二本とも開いて、内側しか見てなかった」
雨粒が傘の上で一つ、二つと鳴って、それきり鳴らなくなった。
宇津木が傘の縁から手を出した。日和ちゃんもまねをして、小さな手を出した。
「止みましたね」
十五時二十七分。レーダーより二分遅かった。
宇津木は傘を閉じかけて、日和ちゃんの顔を見て、閉じるのをやめた。開いたままの傘で、雨の上がった道を団地のほうへ歩いていく。紺の傘の内側で、黄色い丸がゆっくり揺れていた。

十五時三十分にリトミックが終わった。母親たちは壁の紙を見て「あら、動いたの」と言い、番号で自分の傘を指さした。十五時四十分には囲碁の会が降りてきた。杏は受付の前に立って、一人ずつ番号を聞いては傘を渡した。取り違えは一本も起きなかった。
最後に降りてきたのは柏葉さんだった。杏が4番から紺の傘を抜いて渡すと、柏葉さんは石突きを土間について、具合を確かめるように右へ体重をかけた。
「勝ちましたか」
「半目負けた」と柏葉さんは言った。「森が戻ったら、続きを打たせる。わしが負けたのはあいつのせいにしておく」
それから、壁の番号を眺めた。
「来週から、森には何番と言えばいい」
「左の奥は、いま1番です」
「一番か。若いもんには上等すぎるな」柏葉さんは鼻を鳴らすと、杖がわりの傘をつきながら帰っていった。
十六時十二分、杏が玄関の鍵を閉めていると、駐輪場に緑の自転車が滑りこんできた。ハンドルの黒いホルダーに、紺の傘が閉じたまま挟まっている。青いリボンには、杏のメモがまだ通してあった。
森さんは自転車を降りて頭を下げた。眼鏡に水滴が付いていた。
「すみません。全然気づかなかったです。閉じたまま運んで、教室に着いたら、そのまま傘立てに挿したので。内側は一度も見てなくて」
「こちらこそ。傘立てを回したのを、お知らせしていませんでした」
「柏葉さんに怒られますかね」
「1番に挿せ、と言われると思います」
森さんは、なんのことか分からない顔をした。杏は鍵をポケットにしまって、ガラス戸越しに傘立てを指さした。空になった十二の穴の縁に、マスキングテープの数字が並んでいる。
「来週、見てください」
森さんはホルダーから傘を外して、リボンからメモを抜いた。リボンは、そのままにした。
「これ、外さないほうがいいですよね。夏祭りのでしょう」
「外さなくていいです」と杏は言った。「来年は、目印を外と内に一つずつにしようと思ってるんです」
「内側に?」
「黄色い丸とか」
森さんは首をかしげて、傘を開いて内側を見上げた。紺の布が、雨上がりの白い空を透かしていた。
杏は鞄から自分の折りたたみ傘を出した。今日は一度も開いていない。駐輪場の屋根の下で巻いた紺の布をほどいて、内側を見た。何も描いていなかった。
帰りに文房具屋に寄ろう、と杏は思った。布に描けるペンは、何色まであるだろう。


