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旅・家族

くぬぎ平の値札

しおりどおりのはずだった一日。母の行方を教えてくれたのは、売場に残る見慣れた字だった。

作者
クロード
読了目安
約20分
長さ
短編
#あたたかい#旅#家族
くぬぎ平の値札のイメージ

あらすじ

退職した母・文子と、時刻入りの旅のしおりを作った娘の澄。峠の道の駅で母が戻ってこなくなり、澄は直売コーナー、試食台、ソフトクリームの窓口を訪ねていく。母の見慣れた字を追う一日は、二人がそれぞれのお願いを口にする旅へ変わっていく。

読みやすく、好きなところから。

目次・8章

十時四十分、しおりどおり

駐車場に車を入れたとき、ダッシュボードの時計は十時三十八分だった。
澄はサイドブレーキを引くと、助手席とのあいだに挟んでいたクリアファイルを抜き出した。A4を二つ折りにして作った「旅のしおり」の一行目、「10:40 道の駅くぬぎ平 着」に、ボールペンで小さく丸をつける。
「二分早い」
「それ、毎回やるの」
母の文子はシートベルトを外しながら笑った。笑うと目尻に三本、きれいに皺が寄る。三十八年、市の給食センターで朝の六時から大鍋をかき回してきた人の顔だ。九月の末にその仕事を終えて、今日でひと月になる。退職祝いに一日ちょうだい、と言い出したのは澄のほうで、行き先だけは母に選んでもらった。
母は迷わず、県境の峠にあるこの道の駅を挙げた。大根が安いのよ、と言って。
「お母さん、スマホは」
「ここで充電しとく。どうせ鳴らないもの」
母はカップホルダーに携帯電話を立てて、澄の車の充電ケーブルを差した。画面に「9%」と出ている。昨日の夜、充電し忘れたらしい。
「鳴らないって、私がかけるかもしれないじゃない」
「一緒にいるのに?」
それもそうだ、と澄は思い、車のキーを鞄の内ポケットにしまった。

外の空気は、町よりも一枚ぶん冷たかった。駐車場をぐるりと囲む山はもう半分ほど色づいていて、くぬぎの茶色のあいだに、ところどころ楓の赤が刺さっている。正面に平屋の物産館、右手にトイレ棟と食堂。物産館の裏手を指す小さな案内板には、「木の小屋(地元工房の器・木工品)」とあった。
「しおりだと、十時四十五分から展望デッキ。十一時から物産館。十二時半に出て、一時に峠のお蕎麦屋さん。予約してあるから」
「至れり尽くせりだねえ」
母は案内板の前で、少しのあいだ足を止めていた。その目が「木の小屋」の文字にとまっているのを、澄は見た。
「寄る? しおりには入れてないけど、時間あるよ」
「いいのいいの。器なんて家にいくらでもあるし」
母は手を振って、展望デッキへの階段を先に上りはじめた。

デッキからは谷が見下ろせた。澄はスマートフォンで紅葉と母を撮った。母も澄のスマートフォンを借りて澄を撮ろうとしたが、三回とも自分の指を写した。
十一時三分、デッキを降りたところで母が言った。
「お手洗い行ってくる。混んでるかもしれないから、先に中、見てて」
「ここで待ってるよ」
「いいから。見てて」
トイレ棟の入口には、観光客らしい女性たちが短い列を作っていた。母はその最後尾についた。澄はトイレ棟の前のベンチに腰を下ろし、しおりを膝に広げた。先に中を見ていて、と言われたけれど、母のいない売場を一人で歩いても、何を見ればいいのかわからなかった。

十一時二十分、鳴る場所

十五分が過ぎた。列はとうに捌けていた。
澄は立ち上がって入口を覗き、それから自分の携帯で母にかけた。呼び出し音が続く。続きながら、すぐに気がついた。鳴っている場所は、わかっている。駐車場の、カップホルダーの中だ。
いちおう車まで戻ってみた。ドアを開けると、9%から14%になった母の携帯の画面に、「澄」と自分の名前が光っていた。
澄は運転席に座りこんで、息を吐いた。心配するほどのことではない、と頭ではわかっている。母は六十五で、元気で、方向音痴でもない。トイレ棟には物産館へ抜ける通路があったから、そっちから出て、言ったとおり「中を見て」いるのだろう。
それでも、しおりの「11:00」の欄が空白のまま過ぎていくのが、妙に落ち着かなかった。
十一時二十六分。澄は母の携帯をケーブルから抜いて自分の鞄に入れ、物産館へ向かった。

物産館の入口を入ってすぐが、地元の農家の直売コーナーだった。平台に、新聞紙で包んだ里芋、袋詰めの舞茸、泥のついた大根が並んでいる。母の姿はない。
通り過ぎかけて、澄は足を止めた。
大根の箱に差してある値札が、手書きだった。白いボール紙に、黒のマジックで。

大根 一本 百五十円 ふろふき、おでんに

その「円」の字だった。一画めの縦線を短く止めて、なかの横棒を右へ跳ね上げる、少し傾いた円。
澄はこの円を、小学校の六年間、毎月見ていた。給食の献立表の下書きを、母は台所のテーブルで書いていた。「牛乳」「わかめごはん」「ぶりの照り焼き」。その下に添えた給食費の欄の、あの円だった。中学のお弁当に添えてあった「温めなくてもおいしいよ」のメモも、この字だった。
隣の箱を見る。「かぶ 三個 二百円」「里芋 一袋 三百円」。同じ字の札が、八枚並んでいた。
「あの、すみません」
平台の向こうで段ボールを潰していた小柄なおばあさんに、澄は声をかけた。日に焼けた頬に、手拭いをほっかむりにしている。胸の名札には「出荷者 鶴田」とあった。
「この値札、書いた人……」
「ああ、さっきの奥さん。あんたの知り合い?」
「母です、たぶん」
鶴田さんは目を丸くして、それから声を立てて笑った。
「あらあ。値札のシールを打つ機械をね、家に忘れてきちゃったのよ。手で書こうとしたら、あたしの字はミミズだから。そこへ通りかかった奥さんが、書きましょうかって。早いのなんの。大根に『ふろふき』って足したのも奥さんよ。そしたらもう二本売れた」
「母は、どっちへ行きました?」
「漬物のほう。若いのが試食させてたから、捕まったんじゃないかね」
礼を言って歩きだすと、背中から鶴田さんの声が追いかけてきた。
「あとで大根、取っときな。お母さんの字のぶん!」

十一時三十七分、AとB

漬物コーナーは物産館のいちばん奥、冷蔵ケースの前だった。ケースの手前に小さな折りたたみの机があり、紙皿が二枚と、楊枝立てが一つ。紙皿の前には手書きの札が立っていた。「新作 どっちが好き? A・B」。
机の後ろに、エプロン姿の若い男性がいた。名札は「筒井」。澄と目が合うと、ぱっと顔を明るくした。
「どうぞ! 野沢菜のゆず漬け、塩の加減を二通りで作ってみたんです」
「あの、六十代くらいの、紺のカーディガンの……」
「あっ、もしかして娘さんですか」
筒井さんは机の端から、小さなメモ用紙を一枚取り上げて見せた。

Aは良い。塩ひとつまみ減らすと子どもも食べる。Bは大人のお酒のおとも。

またあの字だった。円は出てこないけれど、「良」の最後の払いが、同じように跳ねている。
「お客さんにシールで投票してもらってたんですけど、理由まで書いてくれたのはお母さんだけで。給食のお仕事をされてたんですよね。子どもは酸っぱいのは食べるけど、しょっぱいのは残すって」
「……言いそうです」
澄は楊枝で、Aを一切れ、Bを一切れ食べた。Aはゆずの香りがまっすぐで、やわらかい。Bは塩が立っていて、噛むほど野沢菜のほろ苦さが出てくる。
「私はBです」
言ってから、自分で少し驚いた。母がAと書いた紙の横で、反対のほうを選ぶ。子どもの頃の澄なら、たぶん、できなかったことだ。
筒井さんは嬉しそうに、B側の厚紙に丸いシールを一枚貼った。
「割れましたね。どっちも出すかもしれません。……お母さんなら、ソフトクリームのほうへ。双子ちゃんのお父さんが困ってて」
「困ってて?」
「行けばわかると思います」

十一時四十二分、木のおうち

ソフトクリームの売店は物産館の外にあって、軒下に窓口を開けていた。ちょうど観光バスが一台、駐車場に入ってきたところで、窓口の前にはもう十人ほど並んでいた。
その列から少し離れたベンチに、五歳くらいの男の子が二人、同じ黄色い帽子をかぶって座っていた。二人とも白いソフトクリームを両手で握っている。隣で父親らしい男性が、ウェットティッシュで片方の子の袖を拭いていた。
「すみません」と澄は言った。「紺のカーディガンの女の人、見ませんでしたか。六十五くらいの」
父親が顔を上げた。
「ああ! さっき、助けてもらって。二本頼んだら、こいつらが同時に手を出して、片方落としかけて。僕は財布と一本とこいつとで、手がふさがってて。そしたら、持ってましょうかって。一本持っててくれて、こっちが袖を拭いてるあいだに、ついでに二人の帽子も直してくれて」
「おばちゃん、木のおうち行った」
片方の男の子が、ソフトクリームの先を舐めながら言った。
「木のおうち?」
「あっち。ぼくらも行きたいって言ったら、ソフトクリーム持って入っちゃだめなとこだよって」
小さな指の先、物産館の裏に、さっき案内板で見た「木の小屋」の三角屋根がのぞいていた。
「ありがとう」
澄は男の子に言い、父親にも頭を下げて、歩きだした。歩きながら、鞄のなかで母の携帯が自分の携帯とぶつかる、こつこつという音を聞いていた。

鶴田さんには値札を。筒井さんには試食の感想を。双子のお父さんには、ソフトクリーム一本ぶんの両手を。
三十分足らずのあいだに、母は三人の困りごとや呼びかけに足を止め、三つとも手を貸していた。母にとっては、たぶん何でもないことだ。三十八年、毎朝何百人分もの頼まれごとを引き受けてきた人なのだから。
でも、と澄は思った。
私は、お母さんに何か頼まれたことが、あっただろうか。
大学の入学手続きも、一人暮らしの引っ越しも、祖母の家の片付けも、母は全部ひとりで段取りをつけて、終わってから「済んだよ」と教えてくれた。澄が手伝うと言うと、「あんたは自分のことしな」と笑った。それを澄は、ずっと優しさだと思ってきた。今もそう思っている。けれど今日のしおりを三日もかけて作ったのは、たぶん、それだけでは足りなかったからだ。
澄は、手のなかのクリアファイルを二つに折って、鞄に押しこんだ。

十一時五十分、それは私が

木の小屋は、物産館の半分もない小さな建物だった。引き戸が開け放してあって、なかから木の匂いが流れてくる。棚には、まな板、バターナイフ、木べら、それから汁椀と飯椀が、木目の色ごとに並んでいた。
入口から一歩入ったところで、澄は立ち止まった。
レジ台の内側に、母がいた。
紺のカーディガンの上に、誰かのものらしい生成りの前掛けをつけている。レジ台の前には、澄と同じ年頃の女性客が一人、飯椀を一つ手に持って立っていた。淡い黄色に、細かく縮れたような木目が光る椀だった。
「これ、お願いします」
女性が椀をレジ台に置いた。値札が見えた。「栃 飯椀 4,800円」。
母の手が、レジのキーの上で止まった。
ほんの二、三秒だった。けれど澄には、母の肩がいつもより少し上がったのがわかった。献立が急に変わったとき、配送のトラックが遅れたとき、台所で電話を受けながら、母はこういう肩をしていた。
「……すみません」
母が言った。
「それ、私が買うつもりで、取っておいたつもりだったんです。棚に戻しておいただけで、取っておいたことにはなってないんですけど」
女性客がきょとんとした顔をした。母は前掛けの端を握って、続けた。
「私、ここの者じゃなくて。作家さんが搬入に行くあいだ、レジを見ててって頼まれた、ただの客なんです。だから本当は、売らなきゃいけないんですけど。でも、その椀だけは、どうしても」
澄は息を詰めて聞いていた。母が自分のために何かを「どうしても」と言うのを、初めて聞いた気がした。
女性客は手のなかの椀と母の顔を見比べて、それから、ふっと笑った。
「わかります。これ、いちばんいい木目ですもんね」
「そうなんです。ここの、縁のところの」
「渦みたいになってる」
「そう、そこ」
二人はレジ台の上の椀に顔を寄せて、同じ一点を覗きこんだ。それから女性客は棚へ戻り、隣にあった欅の汁椀を手に取った。
「じゃあ、私はこっちにします。主人のぶんと、二つ」
「ありがとうございます。……ええと、欅の汁椀が五千五百円で、二つ」
母はレジのキーを、一つずつ確かめるように押した。「一万一千円です」。女性客が一万円札と千円札を出し、母は新聞紙で椀を一つずつ包んで、紙袋に入れた。給食センターで冷凍みかんを箱に詰めていたときの手つきに似ていた。
出ていくとき、女性客は入口に立っていた澄と目が合って、会釈をした。澄も会釈を返した。
「お母さん」
母が顔を上げた。それから壁の時計を見て、口を押さえた。
「あら、やだ。もうこんな時間」
「十一時五十二分」
「ごめん。携帯、車に置いてきちゃって」
「知ってる」
澄は鞄から母の携帯を出して、レジ台の上に置いた。画面の着信履歴には、「澄」が一件残っていた。

木工品の小屋で、前掛け姿の文子と女性客が栃の飯椀の木目を一緒に覗き、澄が入口で見守る。

十一時五十八分、五千円の封筒

秋葉さんは、六十過ぎの、腕の太い男の人だった。台車に段ボールを三つ積んで戻ってくると、レジの内側の母を見るなり何度も頭を下げた。
「すみません、すみません。十五分って言って、二十三分。事務所で売上の報告をしてたら、補充の箱がなかなか見つからなくて」
「いいえ。欅の汁椀が二つ売れました。一万一千円。これ、控えです」
母はレジの横のメモ帳を一枚破って渡した。「欅汁椀×2 11,000円 現金 11:51」。またあの字だった。秋葉さんはメモを見て、母の顔を見て、もう一度頭を下げた。
母は前掛けを外して、きちんと畳んで秋葉さんに返した。それから棚の前へ行き、栃の飯椀を両手で取った。
レジ台の上に置く。今度は、客の側から。
「これ、ください」
「ああ、それ。さっき、長いこと見てましたもんね」
澄は鞄から財布を出しかけた。今日のぶんは全部払う、と決めて家を出てきた。ガソリン代も、お昼の蕎麦も、母が欲しがるものは何でも。
「私が」
「いいの」
母は澄の手の上に、自分の手を置いた。それからカーディガンのポケットから、白い封筒を出した。郵便局の、何の飾りもない封筒だった。表にボールペンで、小さく書いてある。
 自分の
母は封筒から、五千円札を一枚抜いた。
「最後のお給料からね、抜いといたの。家のことにも、あんたのことにも使わない五千円。三十八年で初めて」
秋葉さんが二百円のお釣りを渡し、椀を新聞紙で包みはじめた。母はそれを、自分が包むときと同じくらい真剣な顔で見ていた。
「ここにしたいって言ったの、大根じゃなかったんだ」
澄が言うと、母は封筒の奥から、四つに畳んだ新聞の切り抜きを取り出した。地方面の小さな記事で、「峠の工房、栃の器」という見出しの下に、この小屋と秋葉さんの写真が載っている。飯椀の値段に、ボールペンで丸がついていた。
「八月にね、センターの休憩室で読んだの。いいなあって思って。うちのお茶碗、私のだけ縁が欠けてるでしょう。いつか替えようって、二十年くらい思ってた」
「言ってくれれば、私が買ったのに」
「それじゃ、あんたがくれたお茶碗になっちゃう」
母は笑った。目尻に、三本の皺。
「さっき、ちゃんと言えてたじゃん」と澄は言った。「あの人に。それは私が買うつもりで、って」
「聞いてたの」
「入口で」
母は少し赤くなった。
「どうしようかと思った。頼まれてレジに立ってるのに、売りたくないなんて。本当は言っちゃいけないのに」
「言っていいよ」
澄は言った。それから、しおりを押しこんだ鞄の口を、指で押さえた。
「私もね、言っていい?」

十二時十五分、頼まれごと

物産館の軒下のベンチに、二人で座った。ソフトクリームの列はまだ続いていて、黄色い帽子はもう見えなかった。
「今日、しおり作ったでしょう」
「作ったねえ。三日かかったって」
「お母さん、さっきから、値札書いて、漬物の感想書いて、ソフトクリーム持って、レジやって」
「なんで全部知ってるの」
「探したから。値札にも、試食のメモにも、お母さんの字があった」
母は困ったような顔で笑った。
「知らない人の頼みは、すぐ引き受けるのに」と澄は言った。「私は、お母さんに頼まれたことがないんだよ。引っ越しのときも、おばあちゃんの家のときも。全部終わってから、済んだよって」
母は黙っていた。
「今日のしおりは、何にも頼まれないから作ったの。頼まれないなら、先に全部用意しておこうと思って。でも、本当は」
言いかけて、澄は少し言葉を探した。
「本当は、何か一個でいいから、頼まれたかった」
軒下を風が通った。くぬぎの葉が一枚、二人の足もとに落ちた。
母は、膝の上の紙袋を両手で持ち直した。新聞紙にくるまれた椀の、丸い重み。それから、さっき澄が返した携帯をポケットから出した。電池は十四%のまま止まっていた。
「じゃあ、頼んでいい?」
「うん」
「これの使い方、教えて。地図と、バスの時刻の」
澄はまばたきをした。
「バス?」
「町の駅前から、ここまでバスが出てるの。切り抜きの端っこに書いてあった。この椀と同じ栃で、お箸もあるんだって。今日は五千円しかないから、我慢した」
母は少し胸を張った。
「今度は一人で来たいの。あんたの車じゃなくて、私が時刻表を見て、私が乗って。大根も鶴田さんのところで買って、筒井くんの漬物、どっちが出たか見て」
「一人で」
「一人で。迷っても平気なように、地図の見方は覚えたいの。今日みたいに、あんたに電話させないように」
澄は母の携帯を受け取った。ホーム画面には、天気と電卓とカメラのアイコンしか並んでいなかった。
「……地図のアプリ、入ってはいるね。奥のほうに」
「入ってるんだ」
「入ってる。まず、行き先を入れるところ」
澄は母の指をとって、検索欄に触れさせた。母は一文字ずつ、ゆっくりと「くぬぎ平」と打った。献立表を書くときと同じ速さだった。
「出た」
「出た。で、ここを押すと行き方。電車とバスのマーク、これ」
「ほんとだ。九時十二分。駅前から」
母は画面を見つめて、それから、ぽつりと言った。
「それでね、もう一個、頼んでいい?」
「何」
「帰りに乗れそうなのが、夕方の一本だけなのよ。それを逃したら、迎えに来て」
澄はしばらく母の顔を見ていた。それから、笑った。
「来る。逃さなくても来る」
「逃さなかったら来なくていいの。一人で来たいんだから」
「じゃあ、逃したら」
「逃したら」
二人は、それを約束にした。

秋の道の駅のベンチで、澄が母の文子にスマートフォンの地図を教える。横には新聞紙包みの入った紙袋。

十二時三十分、しおりの余白

駐車場へ戻る前に、直売コーナーに寄った。
鶴田さんは大根を一本、新聞紙に包んで取っておいてくれていた。澄は自分の財布から百五十円を出した。
「お母さんの字のやつ、これ、もらっていいですか」
澄が大根の箱の値札を指さすと、鶴田さんは「売れたら用なしだもの」と言って、ボール紙を抜いて渡してくれた。「大根 一本 百五十円 ふろふき、おでんに」。跳ねた円の字。
母はお釣りの二百円で、ソフトクリームの窓口の隣の焼き団子屋から、みたらし団子を二本買ってきた。一本百円。
「はい。これは私のおごり」
「五千円の残りで?」
「自分のお金だから、自分の好きに使うの」
車に乗りこむと、時計は十二時三十四分だった。澄は鞄から折れたしおりを出して、「12:30 出発」の行を見た。四分遅れ。ボールペンを持ったまま少し考えて、丸はつけなかった。かわりに、いちばん下の余白に小さく書いた。

十一月 母 バスで くぬぎ平(迎え・逃したら)

助手席で、母は団子を食べながら、膝の紙袋を覗いていた。新聞紙の隙間から、栃の木目が淡く光っている。
「お蕎麦屋さん、一時だっけ」
「一時。ここから二十分」
「間に合う?」
「間に合う」
澄はエンジンをかけた。カップホルダーに、もう母の携帯はなかった。母はそれを自分の膝の上に置いて、地図を開いたまま、画面を指で少しずつ動かしていた。
「あ、ここ、峠のお蕎麦屋さんでしょう」
「そう」
「私が道案内しようか」
澄はハンドルを握る手を少し止めて、それから言った。
「お願い」
母は、画面を澄に見えないように、少し自分のほうへ傾けた。
「じゃあ、そこ、出て右」
車は、くぬぎの色づいた峠道へ、ゆっくりと出ていった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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