一 貸出票
月庫の扉は、押すより引くほうが軽い。
二年通っても、瀬尾環はときどきそれを忘れる。肩で押してもびくともしないので手前に引き直すと、奥の机で帳面をめくっていた久我さんが鼻で笑った。
「今日くらいは間違えないと思ってたけど」
「今日くらいは間違えないつもりでした」
月見ヶ丘のてっぺんに建つ石の倉は、昼でも薄暗い。壁一面の棚に桐の箱が並び、どの箱にも月がひとつずつ眠っている。ふたの真ん中には指ほどの太さのガラス管がはめこまれていて、中では牛乳を水で割ったような光がゆっくり揺れていた。月庫ではこれを灯ガラスと呼んでいる。目盛りは六十あって、満ちた月なら一番上の線まで白い。
久我さんは棚の下段から箱を一つ引き出して、作業台に載せた。ふたの角に墨で「十七」と書いてある。
「沢渡町。三十一年ぶりの当選よ。三十一年前に行ったのも、この十七番」
「同じ月なんですか」
「月は長持ちするの。人は入れ替わるけど」
久我さんが貸出票を環の前へ滑らせた。何度も清書の練習をした書式なのに、「立会貸出係」の欄に自分の名前が印刷されているのを見ると、指先が少し冷たくなった。ひとりで町へ月を貸しに行くのは、これが初めてだった。
「読んで」
「はい」
環は声に出して読んだ。
一、月を上げるのは日没ののち、下ろすのは日の出の前。
二、一度下ろした月は、その夜はもう上げられない。
三、明るさは満・半・細の三段。満は十分で一灯、半は二十分で一灯、細は一時間で一灯を使う。
四、返す朝のために六灯を残すこと。夜明け前に箱を開ければ、月は残りの六灯で、自分の足で丘へ帰る。六灯を下回れば月は帰れず、預かり金三万円は運び賃にあてる。
五、月が空にある間は銀糸を月杭から外さず、貸出係はそばを離れないこと。帰り道に限り、糸巻きは貸出係が持つ。
「足はないですけどね」
「昔の人が書いたのよ。直すと怒る人がいるの」
久我さんは灯ガラスを指でとんとんと叩いた。
「六十灯。帰りに六。三晩で使えるのは五十四。一晩に十八ずつ使っても、満で三時間ずつは持つ。でもね、たいていの町は初日に使いすぎる」
「気をつけます」
「気をつけるのは町の人。あなたは、数字を嘘なく言う人」
環はうなずいた。うなずきながら、それは「気をつける」とどう違うのだろう、と思った。
貸出料の一万二千円は町の商店会が前払いし、預かり金も書留で届いている。月庫の帳面に受領印が押してあるのを確かめてから、環は十七番の箱をリヤカーに積んだ。月杭と、三十メートルの銀糸を巻いた糸巻きと、記録帳と、懐中時計も載せた。最後に久我さんが、魔法瓶を一本、荷台の隅に差しこんだ。
「夜は冷えるから」
「中身は」
「ほうじ茶。月とは関係ないわよ」
坂を下りるのに四十分かかった。月見ヶ丘から沢渡町へは、七回折れ曲がる坂道が一本あるだけで、町の人はそこを七曲り坂と呼んでいる。リヤカーのブレーキを握りっぱなしの手が痺れてきたころ、瓦屋根の向こうに三角の広場が見えた。
みすみ広場は、その名のとおり三本の通りがぶつかってできた三角形の石畳だった。一辺には金物屋、一辺には古本屋、もう一辺には暖簾をしまった食堂が並んでいる。真ん中に真鍮の丸いふたが埋めこまれていて、日に当たってぴかぴか光っていた。
「磨いといたよ!」
金物屋の戸口から、前掛けをした男の人が駆けてきた。六十を少し過ぎたくらいで、声が広場の端まで届く。
「商店会の戸田です。いやあ、来た来た。本物だ」
戸田さんはリヤカーの周りを一周すると、箱に伸ばしかけた手を引っこめた。
「三十一年前の杭穴がそのまま残ってたんでね。ふたを磨いて待ってた。俺はあのとき三十だった。月の下で、母親がおでんの屋台を出してたんだよ」
環は真鍮のふたを開け、月杭をねじこんだ。鉄の杭の頭には、つまみのついた輪がはまっている。輪には三つの刻みがあり、満・半・細と彫ってある。糸巻きを杭にかけ、箱を少し開けた。月の縁には小さな銀の留め輪があり、環はそこへ銀糸の端を結んだ。手順は体が覚えていたが、町の石畳の上でやると、月庫の床でやるときとは指の重さが違った。
食堂の前では、白い割烹着の女の人が折りたたみの長机に七輪とガスこんろを並べていた。こちらに気づくと、木べらを持ったまま会釈する。
「食堂うさみの宇佐美さん」と戸田さんが言った。「あの人も夜店は初めてなんだよ。昼しか開けてない店だから」
「よろしくお願いします」
「お月さまの係の人ね」宇佐美さんは鍋をのぞきこんだまま言った。「明るくしてね。あたしの商売、色が命なの」
環は懐中時計を見た。午後三時四十分。日の入りは四時五十分で、夜店は六時から九時まで。
「最初の三十分を満にして、あとは半にしようと思います」
環は記録帳を開いて戸田さんに見せた。
「満で三十分が三灯、半で二時間半が七灯半。今夜は十灯半です。そうすれば、明日とあさってに余裕が残ります」
「うん、うん」
戸田さんは二回うなずいた。うなずいただけで数字を見ていないことが、環にはわかった。
二 一夜目、満月のまま
日が落ちると、三本の通りから人が集まってきた。古本屋は店先に百円均一の箱を出し、金物屋の前では戸田さんの奥さんが大鍋で甘酒を温めている。通りの軒には提灯が吊るされ、どの光も同じ橙色をしていた。
六時ちょうどに、戸田さんが拡声器を口に当てた。
「えー、三十一年ぶりに、沢渡町に月が来ました!」
拍手が起き、子どもが口笛を吹きそこねた。環は箱の前にしゃがんで留め金を外し、ふたを持ち上げた。
月は、せかされるのを嫌うように、ゆっくり出てきた。一抱えほどの白い球が箱の縁を離れ、環の顔の前を通って上がっていく。糸巻きがからからと回った。三階の屋根くらいの高さで、環は糸巻きの留めをかけた。銀糸がぴんと張ると、月はそこで止まった。環は杭の輪を回し、満の刻みに合わせた。
広場の色が変わった。
提灯の橙色の下に、もうひとつの光が落ちてきた。石畳に人の影がくっきり伸び、古本の背表紙の紺や臙脂が見分けられるようになった。子どもの長靴は赤く、甘酒の湯気は白い。誰かが「わあ」と言い、誰かは黙って見上げていた。
いちばん早く動いたのは宇佐美さんだった。
銅の片手鍋に砂糖と水を入れ、こんろの火を強める。泡が大きくなり、やがて小さくなる。縁から色がつきはじめたところで、宇佐美さんは木べらを止めて鍋を傾けた。
「この色。ここから十秒で焦げるの」
宇佐美さんは鍋を火から下ろし、長机に並べた焼きりんごの輪切りへ蜜を細くかけていった。蜜は月の光を通して琥珀色に光り、りんごの上で固まりながら少しだけ流れた。紙の円錐に三枚ずつ詰め、木の匙を挿す。
「月見りんご、三百円!」
列はすぐにできた。
六時半、環は杭の輪に手をかけた。半に下げる時間だった。
「あ、ちょっと待って」と戸田さんが言った。「いま写真館の三好さんが来てね、集合写真を撮りたいって。月が写るように。七時まで、いい?」
環は懐中時計を見て、記録帳を見た。満でさらに三十分なら、ここまでで六灯になる。
「はい」
七時、写真は撮り終わっていた。環が輪に手をかけると、通りの向こうから黄色い帽子の列がやってきた。
「子ども会だ。子ども会が来たところだから、ね」
「……はい」
七時半には、宇佐美さんが二鍋目を始めていた。宇佐美さんは何も言わなかったが、環は鍋をのぞく横顔を見て、手を下ろした。
八時、戸田さんは拡声器を持ったまま環のそばに来て、声を落とした。
「せっかくだからさ。最後まで」
環は「あと」と言いかけた。それから、うなずいた。
一つうなずくたびに、頭の中で数字が減っていった。三灯、三灯、三灯。止める言葉はどれも、口に出す前に喉の奥でほどけてしまった。断れば戸田さんの顔が曇る。それを見たくない、というだけの理由で、環は満の刻みから指を離さなかった。
八時四十分ごろ、杭のすぐそばのベンチに若い男の人が腰を下ろした。紺色の上着の背中に「早瀬乳業」と白く刺繍してある。コンビニの袋を膝に載せ、肉まんを半分食べたところで、頭がゆっくり横に傾いた。袋が膝から滑り落ちかけ、指がそれをつかんだまま止まった。眠ったのだった。周りでは子どもが走り、拡声器が鳴っていたが、その人の肩は上下するだけだった。
九時。
「それじゃ、そろそろ」
戸田さんが言って、ようやく環は糸巻きを回した。月が降りてくる。光が箱の中へ沈み、ふたが閉まると、広場には提灯の橙色だけが残った。さっきまで見えていた色が全部、ひとつの色に戻った。
灯ガラスの白は、四十二の線で止まっていた。
環は記録帳に〈一夜目 満 十八時〜二十一時 十八灯 残四十二〉と書いた。字は震えていなかった。そのことに少し驚いた。
ベンチで、早瀬乳業の人がびくっと肩を跳ねさせた。
「うわ、暗っ」
あたりを見回し、手の中の肉まんを見て、それから環を見た。
「……俺、寝てました?」
「二十分くらい」
「十五分」
その人は、自分の膝を確かめるように見下ろした。
「寝たの、久しぶりで。半年ぶりくらいかも。あの、これ、明日も上がりますか。もっと遅くまで」
「明日の夜も上がります。何時までかは、まだ」
「そうですか」その人は立ち上がって、袋の口を縛った。「八坂です。牛乳配ってます、朝。二時五十分集合なんで、これから帰って、また寝られなくて、それで行くんですけど」
八坂さんは笑ったが、目の下の影は笑っていなかった。
片づけをしている宇佐美さんの長机には、紙の円錐が八つ残っていた。
「六十作って五十二。悪くないわ」宇佐美さんは一つを環に差し出した。「一回も焦がさなかった。家の前で試したときは、三回やって三回とも焦がしたのに」
環は礼を言って受け取った。りんごの上の蜜は冷えてかちかちになっていて、噛むと薄い板が割れるような音がした。甘くて、端だけがほんの少し苦い。
三 昼の食堂
戸田金物の二階の客間で目を覚ますと、十時四十分だった。
障子の向こうで、戸田さんが誰かと電話で話している声がする。「いやあ、すごかったよ、三時間ずっと満月で」。環は布団の中で、その声が遠ざかるのを待った。
食堂うさみは十一時半に開き、二時に閉まる。環が暖簾をくぐったのは十二時半で、カウンターは近所の人で埋まっていた。日替わりは鯖の味噌煮定食、七百五十円。味噌の甘さがしっかりしていて、白飯が進んだ。
客が引けた一時過ぎ、宇佐美さんが割烹着のまま環の隣に腰かけた。
「お願いがあるの」
「はい」
「今夜も三時間、満にしてほしい」
宇佐美さんは指を一本立てた。
「提灯の光だとね、何もかも橙に見えるのよ。砂糖の色が、焦げる前の色なのか焦げた後の色なのかわからない。昼の店ならいいの、窓があるから。夜店をやるなら、月の明るさが要る。夜店を月に一度続けられるかどうか、この三晩で確かめたいのよ」
環は記録帳を開いた。満で三時間なら十八灯。
「……はい」
言ってから、頭の中で引き算をした。四十二から十八を引くと、二十四。
戸が開いて、紺の上着が入ってきた。八坂さんだった。
「あら、八坂くん。いつもの?」
「いつもの」
八坂さんは環に気づくと、一つ席を空けて座った。
「昼の定食が、俺の晩飯なんです」八坂さんは言い訳するように言った。「三時から夜まで寝ようとして、寝られなくて、夜はうろうろして、二時五十分に配達所に行く」
宇佐美さんが定食を置くと、皿の端に、頼んでいない卵焼きが二切れ載っていた。八坂さんは何も言わずに、少しだけ頭を下げた。
「瀬尾さん、ですよね。昨日、戸田さんがそう呼んでた」
「はい」
「月、夜中までって、できますか。二時まで。暗くてもいいんです。細いので」
八坂さんは箸を持ったまま話した。
「俺、島の出身で。凪島っていう、本当に小さいとこ。ばあちゃんちに住んでたんですけど、縁側の雨戸を閉めない家で、夜は月が部屋まで入ってきた。それで寝てたんだと思うんです。こっちのアパート、前の人が遮光カーテン置いてってて、閉めると真っ暗で、開けると街灯が橙で。どっちも駄目で」
「……細で、二時まで」
環は記録帳に数字を書いた。九時から二時まで、細で五時間。五灯。
満三時間の十八と合わせて二十三。四十二から引けば十九。帰りの六を除けば、三夜目に使えるのは十三灯になる。
十三。満なら二時間と十分。
――足りなくはない。たぶん。三夜目のことは、三夜目に考えればいい。
「はい。大丈夫です」
八坂さんの顔がゆるんだ。宇佐美さんも頷いた。環はほっとした。そのほっとした感じが、昨夜の「はい」と同じ場所から湧いてくることには、気づかないふりをした。
四 二夜目、細い月の下で
土曜の夜は、人が倍に増えた。
噂が回ったのだろう。隣町から自転車で来た学生が、杭のまわりで月を見上げて写真を撮っている。古本屋の主人は均一箱を二つに増やし、戸田さんの奥さんは甘酒の鍋を二度温め直した。
月は六時に上がって、満のまま広場を照らした。今夜は誰に止められることもなかった。止める予定がなかったからだ。
宇佐美さんの鍋は休みなく動いた。蜜をかけ、詰め、渡す。三鍋目の蜜が固まりきる前に、列の後ろから「まだありますか」と声がかかるようになった。
八時十分、宇佐美さんが手を挙げた。
「ごめんなさい、今日はここまで!」
列には十人ほどが残っていた。小さな女の子が父親の袖を引いて、空になった長机を見ている。宇佐美さんは長机の向こうで深く頭を下げた。
「明日は九十作る」
宇佐美さんは鍋を洗いながら、自分に言い聞かせるように言った。
「明日は大団円だな!」戸田さんが拡声器を通さずに叫び、近くの人が笑った。
環は杭のそばで、その言葉を聞いていた。大団円。何をするつもりなのか、確かめたほうがいい、と思った。思っただけで、口は開かなかった。
九時、環は輪を細の刻みに回した。
光が引いていくのを、広場の人たちは名残惜しそうに見上げた。満月は、厚い障子越しに見る明かりのような細い月になった。それでも、提灯が一つずつ消されていくと、細い月の光だけで石畳の目地が見分けられた。人が帰り、屋台がたたまれ、十時には広場に誰もいなくなった。
いや、一人いた。九時半ごろから、八坂さんがベンチに座っていた。
今夜は座布団を持ってきていて、それをベンチに敷き、上着を脱いで丸めて枕にした。横になる前に、八坂さんは環のほうを見た。
「ほんとに、いていいんですか」
「月の下は、誰の場所でもないので」
八坂さんは少し笑って、横になった。
十時二十分、片づけを終えた宇佐美さんが、魔法瓶と包みを持ってやってきた。
「夜食。係の人、ずっと立ちっぱなしでしょう」
包みの中は焼きおにぎりが二つで、魔法瓶には豚汁が入っていた。久我さんのほうじ茶は、昨夜のうちに飲みきっていた。醤油の焦げた匂いが、冷えはじめた空気の中でふくらんだ。それから宇佐美さんはベンチのほうへ行き、八坂さんの体に、持ってきた膝掛けをばさりとかけた。
「店のよ。明日返して」
八坂さんの返事は、もう寝息になっていた。
宇佐美さんが帰っていったのは十時四十分だった。環はベンチから少し離れた杭のそばに折りたたみ椅子を開き、記録帳を膝に載せた。一時間ごとに灯ガラスを見て、数字を書く。〈二十二時 細 残二十三〉。〈二十三時 細 残二十二〉。
ペン先が紙をこする音のほかには、遠くで犬が一度鳴いたくらいだった。細い月の下で、八坂さんの膝掛けの格子柄がかろうじて見えた。
一時十分、膝掛けが動いた。
「……瀬尾さん」
「起きました?」
「起きました。トイレじゃないです。なんか、目が開いた」八坂さんは横になったまま、上を見ていた。「瀬尾さんは寝ないんですか」
「月が上がってる間は寝ません。それが仕事なので」
「ずっと?」
「ずっと」
「三晩とも?」
「三晩とも。昼に寝ます」
八坂さんはしばらく黙っていた。
「月庫って、月がいっぱいあるんですか」
「棚に百二十四。いまは一つ減って百二十三」
「全部、同じ?」
「少しずつ違います。この十七番は、満にしたとき、ほんの少し青いです。昨日、気づきました?」
「全然」
八坂さんの声がだんだん遅くなった。
「……ペンの音、もう少ししててください」
環は書くことがなくなっていたので、懐中時計の時刻を書き写した。〈一時十四分〉。〈一時十五分〉。そのうち、ベンチからまた寝息が聞こえてきた。
二時、環は糸巻きを回した。細い月が箱の中へ降り、ふたが閉まると、広場は本当の暗さになった。
ベンチで八坂さんが体を起こした。
「……四時間ちょっと、寝た」
信じられないものを見るような声だった。八坂さんは膝掛けをたたんでベンチに置き、上着に袖を通した。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
自転車のライトが通りの角を曲がっていった。環は灯ガラスを見た。白は、十九の線ちょうどで止まっていた。
五 チラシの満月
日曜の朝、十時半に階段を下りると、戸田金物のシャッターに紙が一枚貼ってあった。
〈最終夜! 三時間の満月で大団円 十八時〜二十一時 みすみ広場にて〉
赤い大きな字で、月の絵まで描いてある。
環はそれを長いあいだ見ていた。同じ紙が、通りの向かいの電柱にも、古本屋のガラス戸にも貼ってあった。
「昨日の昼に、文具店で二百枚刷ってもらってね」
背後で戸田さんが言った。両手に湯呑みを持ち、一つを環に差し出している。
「夜店で配ったら、すぐなくなったよ。今夜は隣町からも来るぞ」
環は湯呑みを受け取った。熱かった。
「電話を、お借りしてもいいですか」
月庫の黒電話は、四回鳴ってからつながった。
「はい、月庫」
「久我さん。瀬尾です」
「あら。どうしたの、朝から」
環は数字を言った。一夜目十八、二夜目二十三、残り十九。帰りの六を除くと十三。今夜、町は三時間の満月を、つまり十八灯を待っている。
電話の向こうで、久我さんは途中で口を挟まなかった。言い終えると、短い沈黙のあとで訊いてきた。
「それで、あなたはどうしたいの」
「全部、なんとかしたいです」
「月は一つで、灯は十三」久我さんの声は怒っていなかった。「なんとかはしないの。見せるの。何があって何がないか。決めるのは借りた人たち」
「でも、私が一夜目に下ろさなかったから」
「そうね。それも見せればいいわ」
電話が切れた後も、環はしばらく受話器を握っていた。
戸田さんは店の奥で、釘の箱を棚に並べていた。環が記録帳を開いて差し出すと、今度は手を止めて、のぞきこんだ。
環は、さっき電話で言ったのと同じことを、同じ順番で言った。灯ガラスの十九と、帰りの六と、規則の四番。満で三時間は、どうやってもできないこと。
戸田さんの肩が少しずつ下がっていった。
「……初日に、俺が」
「下ろさなかったのは私です。下ろしてくださいって、言わなかった」
「いや、俺が言わせなかったんだよ」
戸田さんは、二百枚のチラシの残りが入った紙袋を見た。
「どうする」
環は「私が決めます」と言いかけた。昨日までなら、そう言っていた。そして、どこかの数字を少しずつ削って、誰にも不満が出ない形を一人でこしらえて、その形が足りないことにまた一人で気づいていただろう。
「三時に、食堂に集まってもらえませんか。宇佐美さんと、八坂さんと。灯の使い方を、みんなで決めてほしいんです」
戸田さんは、少し意外そうな顔をして、それからうなずいた。今度は数字を見てからうなずいた。
六 三時の食堂
日曜の食堂うさみは二時に暖簾を下ろす。三時には、拭き終わったテーブルに四人が座っていた。八坂さんは昼の定食を食べ終えたところで、皿の脇に宇佐美さんの膝掛けがたたんで置いてあった。
環は記録帳を一枚破り、テーブルの真ん中に縦長の四角を描いた。それを六十に区切り、下から十九のところまで鉛筆で塗った。さらに一番下の六つ分を線で囲む。
「これが今の月です。下の六つは、明日の朝、月が丘へ帰るための分なので使えません。使えるのは、この十三です」
規則を一つずつ読み上げた。満は十分で一灯。半は二十分で一灯。細は一時間で一灯。一度下ろしたら、その夜はもう上げられない。
「初日に満を三時間続けたのは、私が止めなかったからです。二日目に宇佐美さんと八坂さんの両方にいいと言ったときも、今夜こうなるのはわかっていました。言わなかったのは、言いたくなかったからです」
宇佐美さんが眉を上げた。八坂さんはうつむいた。戸田さんは、テーブルの上の四角を見ていた。
「それで、今夜の使い方を、皆さんで決めてください。私は数字を言います。嘘は言いません」
最初に口を開いたのは八坂さんだった。
「俺は、いいです。昨日、四時間寝られたので。十分です。宇佐美さんの鍋と、戸田さんの大団円に使ってください」
「そういうのは無し」
宇佐美さんが、ぴしゃりと言った。
「あんたが降りたら、あたしは毎晩あんたの寝不足の顔見て鯖焼くのよ。それ、おいしくないでしょ」
八坂さんは口を開けて、閉じた。
「じゃあ、宇佐美さんは何がほしいんですか。三時間の満?」と戸田さんが訊いた。
「三時間ほしい。……でも十八でしょ。ないものはないわね」
宇佐美さんは腕を組んだ。しばらく誰も話さなかった。湯呑みの湯気がまっすぐ立っていた。
「あの」と八坂さんが言った。「関係ないかもしれないですけど。配達の自転車、ライトがローとハイの二つあって。ずっとハイにしてると、電池が朝までもたないんです。だから、七曲り坂の角のとこだけハイにする。まっすぐのとこはローでいい。角は、見えないと危ないから」
宇佐美さんが、組んでいた腕をほどいた。
「……ちょっと待って」
宇佐美さんは立ち上がって厨房へ行き、銅の片手鍋を持って戻ってきた。空の鍋を、テーブルの上で傾けてみせる。
「あたしが月を見てるのって、ずっとじゃないのよ。泡が小さくなって、縁が色づいて、焦げる手前。そこだけ。鍋一つにつき、まあ、十分あれば足りる。それより前は火加減を見てるだけで、それより後は詰めてるだけ」
「十分で一灯です」と環は言った。
「九十作るなら鍋は四つ。四灯」
「満を四回、十分ずつ」
「残りの時間は?」と戸田さんが訊いた。
「細にしておけば、提灯と合わせて屋台の手元くらいは見えます」環は鉛筆を動かした。「六時に細で上げて、八坂さんの二時まで下ろさない。細で八時間なら八灯。満にしている間は細の分は減らないので、満を四回なら細は七時間二十分で、合わせて十一灯と三分の一」
「余るの?」
「一灯と三分の二、余ります」
戸田さんが、テーブルの端を指で叩いた。
「大団円は。チラシに書いちまった」
「十分間の満月、ってのは?」宇佐美さんが言った。「三時間なんて、みんな最初の十分で見上げるのに飽きてたわよ。昨日なんか、空見てる人より鍋見てる人のほうが多かった」
戸田さんは笑いかけて、やめて、もう一度笑った。
「十分間の満月。……それ、いいな。見逃したら終わりってほうが、人は見る」
「満を五回にすると、細は七時間十分で、合わせて十二灯と六分の一です」環は言った。「六分の五灯、余ります」
「その余り、どうする?」
八坂さんが、遠慮がちに手を挙げた。
「宇佐美さんの、やり直し用。もし一鍋失敗したときの」
「失敗しないわよ」宇佐美さんは言ってから、少し考えた。「……でも、取っといて」
「やり直しを一回入れたら、ちょうど十三です」と環は言った。「朝の六灯は残ります。使わなければ、月が少しだけ明るく帰るだけです」
四人で時刻を決めた。六時に細で上げる。宇佐美さんの鍋は六時二十分、七時、七時四十分、八時二十分。合図は、宇佐美さんが木べらを高く上げること。大団円は八時五十分から九時まで。二時に下ろす。
戸田さんは、チラシの残りが入った紙袋を持って立ち上がった。
「刷り直してくる。文具店のコピー、一枚十円だから、百枚で千円。〈満月は十分間。二十時五十分。見逃すな〉」
「見逃すな、は強くない?」
「強いくらいがいいんだよ」
戸田さんが出ていくと、宇佐美さんは八坂さんの前に膝掛けを押し戻した。
「今夜も使いなさい」
環は、テーブルの上の四角を見下ろした。鉛筆の線がたくさん引かれていたが、どの線も、環一人で引いたものではなかった。
七 三夜目、十分間の満月
六時、環は箱のふたを開けた。
月は昨夜と同じように、ゆっくり上がっていった。輪は最初から細に合わせてある。屋根の高さで止まった月は、白い糸くずが空にひっかかったように見えた。広場の人たちから、少しがっかりしたような声が上がった。
けれど、新しいチラシはもう全部の電柱に貼ってあった。
〈満月は十分間。二十時五十分。見逃すな〉
その下に、戸田さんが手書きで小さく書き足していた。〈それまでにも、ときどき明るくなります〉
六時二十分、食堂の前で、宇佐美さんが木べらを高く上げた。
「環ちゃん、一鍋目!」
環は輪を満に回した。
細い月がふくらむように明るくなり、広場の色が戻った。「あ」という声があちこちで上がった。宇佐美さんの鍋の中で、泡が小さくなっていく。縁が色づき、宇佐美さんの手首が返った。蜜がりんごの上に細い糸になって落ちる。
十分。環は輪を細に戻した。広場は、提灯の橙と細い月だけになった。
「もう一回!」と子どもが叫んだ。
「次は七時!」と宇佐美さんが叫び返した。
それからは、宇佐美さんの木べらが上がるたびに、広場の人が上を見るようになった。七時に二鍋目、七時四十分に三鍋目。明るくなるたびに、子どもたちは十まで数え、十を何度も繰り返した。月見りんごの列は、暗いあいだに伸び、明るくなると少しだけ進んだ。戸田さんは拡声器を使わず、杭のそばで腕を組んで、満になるたびに小さく「よし」と言った。
八時二十分、四鍋目。
木べらが上がり、環は輪を満に回した。宇佐美さんの鍋の泡が細かくなっていく。
「おばちゃん」
長机の端から、小さな男の子が背伸びしていた。
「月って、どこから来たの?」
「月? 月はね、丘の上の――」
宇佐美さんが顔を上げて、杭のほうを指さした。環と目が合った。宇佐美さんが鍋に目を戻したとき、その横顔が固まった。
鍋の中の蜜は、琥珀を通り越して栗色になっていた。
宇佐美さんは鍋を火から外した。焦げた匂いが、顔の前まで上がってきた。
「……焦がした」
十分が終わった。環は輪を細に戻した。広場が橙色になった。
宇佐美さんは長机の向こうで、栗色の鍋を持ったまま立っていた。列の人たちは何が起きたのかわからない顔をしている。男の子は不安そうに、自分の口を押さえていた。
宇佐美さんが環を見た。
環は答えなかった。代わりに、杭のそばの戸田さんを見て、それからベンチのほうを見た。九時半に来ると言っていた八坂さんは、今夜は八時から、膝掛けを肩にかけてベンチに座っていた。
八坂さんがうなずいた。戸田さんもうなずいた。
「やり直し用、使います」と環は言った。
宇佐美さんは鍋の中身を空き缶に捨て、新しい砂糖を量りはじめた。それから、男の子のほうへ身をかがめた。
「月はね、丘の上の倉から来たの。あとで、あのお姉さんに詳しく聞きなさい」
八時三十五分、木べらがもう一度上がった。
環は輪を満に回した。今度は、宇佐美さんは鍋から目を離さなかった。男の子も、列の人たちも、鍋を見ていた。泡が細かくなり、縁が色づき、宇佐美さんの手首が返った。
琥珀色の蜜が、りんごの上に落ちた。
列から拍手が起きた。蜜をかけただけで拍手をもらう料理人を、環は初めて見た。

八時五十分。
戸田さんが、ようやく拡声器を持ち上げた。
「えー、十分間の満月です。見逃すな!」
環は輪を満に回した。
六度目の満だったのに、広場はいちばん静かになった。屋台の人も手を止めた。宇佐美さんは鍋を置き、古本屋の主人は均一箱から顔を上げた。八坂さんはベンチから立ち上がっていた。
十七番の月は、満にすると、ほんの少し青い。
戸田さんが、拡声器を下ろしたまま、誰にともなく言った。
「母親がな。三十一年前、おでんを売りながら、一回も上を見なかったんだよ。忙しくて。見ときゃよかったって、あとで何回も言ってた」
戸田さんは見上げていた。環も見上げた。
九時。輪を細に戻すと、広場から長い息が漏れた。誰かが拍手をしはじめ、それが広がった。何に対する拍手なのか、たぶん誰にもわからなかった。
月見りんごは、九十二作って、九十が売れた。宇佐美さんは残った二つを紙で包み、一つを環に、一つを八坂さんに渡した。
「環ちゃんのは、朝ごはん」
「ありがとうございます」
「あたし、新月の夜にも夜店やるわ」宇佐美さんは鍋を拭きながら言った。「月一回。昼の色の卓上灯を買って、白い琺瑯の小鍋で煮る。白い鍋なら、色が見やすいから。月は、まあ、また抽選に当たったらね」
「当たるといいですね」
「三十一年後かもね」
宇佐美さんは笑い、それから鍋を見た。
「十分あれば足りたのよ。最初から」
八 誰かが起きている夜
十時を過ぎると、広場には三人だけが残った。
宇佐美さんは長机をたたみ終え、十一時前に「じゃあね」と言って帰っていった。戸田さんは店の二階の窓を少し開けたまま、灯りを消した。残ったのは、杭のそばの環と、ベンチの八坂さんだった。
八坂さんは昨夜と同じように座布団を敷き、上着を丸め、膝掛けをかけて横になった。
けれど、眠らなかった。
十一時になっても、膝掛けの下で何度も寝返りを打っている。環は記録帳に〈二十三時 細 残九〉と書いた。いまの数字は、細で二時まで持たせればちょうど六が残るところまで来ていた。
「……今夜で、終わりだって思うと」
八坂さんが、天井の代わりに空を見たまま言った。
「寝られないもんですね」
「無理に寝なくても」
「寝ないと、配達がきついんです。七曲り坂、きついんで」八坂さんは息を吐いた。「明日からまた、真っ暗か橙かの部屋だと思うと」
環は黙ってペンを動かした。書くことはなかったので、さっき見た宇佐美さんの鍋の数を書いた。一、二、三、四、やり直し。
「その音」と八坂さんが言った。
「うるさいですか」
「いや。昨日も、それ聞いてて寝たなって」
八坂さんはしばらく、膝掛けの端をいじっていた。
「ばあちゃんの家の縁側、雨戸を閉めないって言ったじゃないですか。月が入ってきて、それで寝られたって」
「はい」
「ばあちゃん、夜、網を繕ってたんですよ。漁師の網。縁側で、電球一個つけて。俺はその横の部屋で寝てた。網の糸を引っ張る、きゅっていう音と、ばあちゃんが鼻歌うたう音と」
八坂さんは、そこで黙った。
「……月、なかった日もあったはずなんですよ。曇りの日とか、新月とか。でも俺、寝られない夜って、島じゃ思い出せない」
環はペンを止めた。
「細い月って、明るさでいえば、電球一個くらいです」と環は言った。「月庫の古い記録に、そう書いてありました」
八坂さんが、小さく笑った。
「じゃあ、月じゃなかったのかな」
「月も、少しはあったと思いますけど」
「誰かが起きてるのが、よかったのかな」
八坂さんはまた空を見た。細い月が、屋根の高さで、ほとんど動かずに浮かんでいた。
「ばあちゃん、まだ網やってるんですよ。九時から十一時くらいまで。電話、つないだまま寝てみようかな。スピーカーにして、枕元に置いて。網の音、聞こえるかな」
「聞こえると思います」
「寝られるかは、わかんないですけど」
「わかんないですね」
八坂さんは、それで満足したようだった。膝掛けを顎まで引き上げて目を閉じた。
「瀬尾さん、もうちょっと書いててください」
環は書いた。〈二十三時十八分〉。〈二十三時十九分〉。ペンの音の向こうで、八坂さんの呼吸がゆっくりになっていくのが聞こえた。〈二十三時二十六分〉のあたりで、寝息に変わった。
それから環は、ペンを置いた。
三晩、ずっと灯ガラスを見ていた。輪を回す指と、懐中時計と、記録帳の数字ばかり見ていた。十七番の月をこんなに長く見上げるのは、これが初めてだった。
細い月は、満のときより輪郭がやわらかかった。光が弱いぶん、縁がにじんで、空との境目がわからない。真ん中に、満のときには気づかなかった薄い模様が見えた。指の跡のようにも、島の形のようにも見えた。
戸田さんは三十一年前、この月の下でおでんを売る母親を見ていた。宇佐美さんは鍋の色を見て、八坂さんは眠った。自分は数字を見ていた。それも、たぶん月の使い方の一つだったのだろう。
ただ、一夜目の三時間を、もう一度やり直せたら、と思った。六時半に、半へ切り替えると言えていたら。そうしたら今夜はもう少し――
環はそこで考えるのをやめた。もう少し、何だろう。十分の満月が十五分になって、それで誰かがもっとうれしかったとは思えなかった。
二時。
環は糸巻きを回した。細い月が降りてきて、箱に入った。ふたを閉めると、灯ガラスの白は、六の線のちょうど上で止まっていた。
〈三夜目 細 十八時〜二時(うち満十分×六) 十三灯 残六〉
ベンチで八坂さんが目を覚ました。
「……時間?」
「二時です」
八坂さんは体を起こし、しばらく暗い広場を見回していた。
「二時間半くらい、寝ました。昨日より短いけど」
「昨日より、ちゃんと寝てる顔してます」
「それ、わかるんですか」
「三晩見てたので」
八坂さんは膝掛けをたたんで、今度は自分の自転車のかごに入れた。
「明日、宇佐美さんに返しに行きます。昼の定食で」
それから、少し迷ってから言った。
「カーテン、外してみます。外したら街灯がまぶしいかもしれないけど。で、火曜日の九時に、ばあちゃんに電話してみます」
「いってらっしゃい」
自転車のライトが、通りの角を曲がっていった。
九 帰り道
四時五十分、環は月杭から糸巻きを外し、両手で持った。
空はまだ黒かったが、東の端が、墨を水で薄めたような色になりかけていた。リヤカーと、月が出たあとの箱と、月杭は、昼に戸田さんが軽トラックで月庫まで届けてくれることになっている。環が持って帰るのは、月と、糸巻きと、記録帳と、懐中時計と、紙に包んだ月見りんごだけだった。
五時、箱のふたを開けた。
月は、上がらなかった。代わりに、環の頭より少し高いところまで浮かんで、そこで止まった。輪はもう外してあるから、明るさは月が自分で決める。帰り道の月は、細よりもう少し暗かった。
戸田金物の二階の窓が開いて、寝間着姿の戸田さんが手を振った。声は出さなかった。環も手を振り返した。
月が動きはじめた。
七曲り坂へ向かって、歩くくらいの速さで進んでいく。銀糸がたるまないように、環は糸巻きを少しずつ繰り出しながら後をついていった。石畳から舗装道路に変わり、坂が始まる。
一つ目の角、二つ目の角。月は角に来るたびに少し迷うように止まり、それから曲がった。三つ目の角に差しかかったとき、坂の上から自転車のライトが降りてきた。
光が急に強くなった。ハイだった。
環の足元の、縁石の欠けたところが白く浮かび上がった。自転車は環の横で止まった。荷台に、空になった牛乳瓶の箱が積んである。
「ここの角、見えないと危ないんで」
八坂さんは、配達のときと同じ顔で言った。それから上着のポケットから牛乳瓶を一本出した。
「配達所で、一本自分で買ったやつです。百八十円。売り物じゃないから、気にしないでください」
「売り物じゃなくても、ありがとうございます」
環は糸巻きを片手に持ち替えて、瓶を受け取った。冷たかった。

八坂さんは月を見上げた。頭の少し上で、月は八坂さんを待つように止まっていた。
「ちっちゃいですね、近くで見ると」
「一抱えです」
「さよなら」
八坂さんは月にそう言うと、ライトをローに戻して、坂を下りていった。
四つ目、五つ目、六つ目の角。坂の途中で、環は一度だけ振り返った。沢渡町の瓦屋根が、灰色の中から少しずつ色を取り戻しはじめていた。みすみ広場は、屋根に隠れて見えなかった。
五時四十五分、月庫の扉の前に着いた。
両手がふさがっていた。片手に糸巻き、片手に牛乳瓶、脇には記録帳。押すべきか引くべきか考える前に、扉が内側から押し開けられた。
「おかえり」
久我さんは、ほうじ茶の湯呑みを持っていた。
月は環の頭の上を越えて、するすると倉の中へ入っていった。奥の帰り棚には、ふたを開けた空の受け箱が一つ用意してある。月はその上で一度だけ止まり、それから沈んだ。受け箱の灯ガラスは、いちばん下の線までゆっくり白くなり、そこで消えた。六灯を使い切ったのだった。
「帰ってきたわね」
「帰ってきました」
環は受け箱の中の月の留め輪から銀糸を外し、糸巻きに巻き取った。それから記録帳を差し出した。
久我さんは作業台の明かりの下で、三晩分の数字を指でなぞった。一夜目の十八のところで指が止まり、何も言わずに次へ進んだ。三夜目のところで、もう一度止まった。
「十分の満を六回」
「はい」
「誰が決めたの」
「宇佐美さんと、八坂さんと、戸田さんです。私は数字を言いました」
「ぴったりね」
「ぴったりにしました。みんなで」
久我さんは記録帳を閉じた。
「預かり金は、火曜に書留で返すわ」
六時五分。月庫の東の窓が、白くなった。
環は扉の前の石段に腰を下ろし、紙の包みを開いた。月見りんごの蜜は、ひと晩たって、すっかり固まっていた。木の匙で割ると、薄い板が割れる音がした。牛乳瓶の紙のふたを親指で押し上げ、一口飲んだ。冷たさが喉を降りていった。
甘くて、端がほんの少しだけ苦い。
「沢渡町、来年も抽選に出すかしらね」
背後で、久我さんが言った。
「出すと思います」環は匙をくわえたまま答えた。「でも、満は十分でいいって、きっと言います」
久我さんは笑って、倉の奥へ戻っていった。
月庫には、宿直の人のための小さな仮眠室がある。環は毛布を出して横になり、少し考えてから起き上がって、扉を拳一つ分だけ開けた。
奥の机で、久我さんが帳面をめくる音がした。ペン先が紙をこする音がした。ちょうどいい大きさだった。
環は目を閉じた。三晩ぶりに、夜ではない時間に、ちゃんと眠った。


