一 最後の一本
金曜の朝礼が終わると、北浦主任がA4のコピー用紙を一枚、経理課の島の真ん中に置いた。
「鶴見さんの送別会、余興係を決めます。恨みっこなしで」
紙には縦線が五本引いてあり、下の端は折り返してセロハンテープで留めてある。ボールペンが回ってきて、小田切みのりは左から二本目に名前を書いた。北浦は真ん中、ほかの二人も手早く書いた。主役の鶴見さんはもちろん外れている。
最後にペンを受け取った千賀透は、残った右端に「千賀」と書いた。係長になって四年、余りものを引くのには慣れている。
「横線、足したい人はどうぞ」
みんなが一本ずつ、遠慮がちに線を引いた。そこへ給湯室から戻ってきた鶴見さんが、湯のみを持ったまま紙をのぞきこんだ。
「あら、あみだ。一本足すと運が変わるのよ」
三十七年この課にいる人は、出前の注文を決めるときも、席替えのときも、必ずそう言って線を一本足す。今日も右端の近くに、すっと短い線が引かれた。
北浦がテープをはがす。全員の指が、それぞれの線をたどって下りていく。千賀の指だけが、星印の上で止まった。
「……当たりました」
小さな拍手のあと、妙な静けさが来た。いくつかの視線が、課でいちばん若い小田切のほうへ流れていく。小田切は気づかないふりをして、マウスの位置を直した。
千賀は咳払いをした。
「僕がやります。ただ、十五分だけ相談に乗ってもらえませんか、小田切さん。作るのは僕です。嫌なことを教えてほしいだけで」
小田切は少しだけ目を丸くしてから、「お昼のあとなら」と答えた。
二 やってほしくないこと
十二時四十分、会議室B。千賀は黒い手帳を開き、ボールペンを構えた。
「送別会の余興で、やられて困ることを教えてください」
「前に呼ばれること」
千賀は書いた。
「歌わされること。クイズで当てられること。あと、急に泣かせにくるやつ」
「泣かせにくるやつ」
「スライドで昔の写真が流れて、BGMがかかるやつです」
千賀はそれもきちんと書き、四行の下に線を引いた。仕訳帳を締めるときと同じ引き方だった。
「じゃあ、困らないものは?」
小田切はしばらく天井を見た。
「見てるだけでもいいもの、ですかね。やりたい人だけ手を出せて、やらなくても損しないもの」
千賀はペンの尻であごを叩いた。それから、ふっと顔を上げた。
「鶴見さん、出前のときいつもあみだですよね」
「一本足すと運が変わるのよ、って」
二人は同時に、さっき鶴見さんが線を足した右端のあたりを思い出した。
「大きいあみだを作ったらどうだろう。上に鶴見さんがひとり。下に行き先がいくつか。線を足したい人だけ足す」
「それなら、わたしも一本くらい足します」
小田切がそう言ったとき、ちょうど十五分たった。千賀は手帳を閉じて、「ありがとうございました」と頭を下げた。部下に下げる頭にしては、ずいぶん深かった。
三 方眼紙の係長
翌週から、千賀の机には方眼ノートが一冊増えた。
昼休みに小田切がお茶を淹れに立つと、千賀が手招きをした。ノートには縦線が五本、そこへ横線がびっしり書きこまれている。
「小田切さん、知ってました? あみだって、横線を何本足しても、二人が同じところに着くことはないんです」
「はあ」
「横線一本は、隣どうしの入れ替えなんですよ。入れ替えを何回重ねても、必ず一人に一か所。だから誰が線を足しても、鶴見さんが行き先からあふれることはない。いや、これはよくできてる」
千賀の声はいつもより半音高かった。小田切は、決算期でもこの人がこんな顔をするのを見たことがなかった。

行き先は、千賀が二週間かけて集めた。給湯室で、エレベーターの中で、「辞めたら何をしますか」と雑談のついでに聞くのだ。鶴見さんは聞かれるたびに違う答えを返した。朝寝坊。信州でそばを食べる。家の古い電卓を磨く。孫と水族館に行く。五つめは、少し笑ってこう言った。
「もう一度くらい、あみだを引きたいわね。引くほうで」
材料は千賀が自分で買いに行った。A1の模造紙二枚で四百四十円、水性マーカー六色セットが九百六十八円、長形封筒五枚が三百三十円、マスキングテープが三百八十五円。合計二千百二十三円。北浦から預かった三千円の残り八百七十七円は、レシートと一緒に小銭まで揃えて返した。
「係長、精算伝票まで切らなくていいですよ」
「切らないと落ち着かないんです」
封筒の中身も、千賀はひとりで作った。名刺くらいのカードに行き先を一つずつ書き、右下に係長印で「承認」と押す。五枚とも、まっすぐに。
四 十一分二十秒
十月二十日、火曜の十七時四十分。会議室Bで、本番どおりにやってみることになった。小田切はスマホのタイマーを構えた。
「はい、どうぞ」
千賀は模造紙を机に広げ、まずあみだくじの起源から話しはじめた。それから横線が入れ替えであること、入れ替えの積み重ねであること、だから行き先が重ならないこと。方眼ノートの図まで持ち出した。
タイマーを止めると、十一分二十秒だった。
「係長」
「はい」
「それ、楽しいのは係長だけです」
千賀は一秒黙り、それから声を出して笑った。
「そうですね。そうだ。全部削ります」
「一個だけ残してもいいと思います。何本足しても、ってやつ」
千賀は手帳に一文だけ書いた。何本足しても、行き先はひとつずつです。
その日は二人とも、紙を壁に貼ってみることまでは思いつかなかった。
五 五分の掲示板
十月二十三日、金曜の十九時。とり松の二階座敷に十四人が集まった。乾杯から四十分ほどたって、北浦が「では余興です」と言った。
千賀は模造紙を広げ、床の間の横の砂壁にマスキングテープで貼った。上の端に「鶴見さん」、下に封筒が五つ。小田切がタイマーを押す。
「線を足したい人だけ、一本ずつどうぞ。足さなくても損はありません」
そう言い終わる前に、模造紙の右上がぺろりとはがれた。続いて左上。紙はゆっくりお辞儀をして、畳に落ちた。
座敷が静まる前に、千賀は紙を拾って両腕で頭の上に掲げた。
「僕が掲示板になります。どうぞ」

誰かが吹き出し、それが座敷じゅうに広がった。笑われているのに、千賀はいちばん楽しそうな顔をしていた。課長の堀井が一本、北浦が一本、隣の課の人たちが何本か。小田切も約束どおり一本足した。九人が足し終えたころ、千賀の腕はぷるぷる震えていた。
「最後に、どうぞ」
鶴見さんは立ち上がり、マーカーのキャップを外した。
「一本足すと運が変わるのよ」
短い線が一本増えた。鶴見さんは自分の名前のところに指を置き、横線に当たるたびに曲がりながら下りていく。指が止まったのは、右から二番目の封筒の上だった。
カードを取り出して、鶴見さんは笑った。「もう一度、あみだを引く。承認。千賀」
「何本足しても、行き先はひとつずつです」
千賀は紙を掲げたまま、それだけ言った。それから片手を下ろして、残りの封筒を四つとも鶴見さんに渡した。
「ほかの行き先も、全部承認済みです」
鶴見さんは五枚のカードを扇のように広げ、朝寝坊の承認印をしばらく眺めていた。
小田切がタイマーを止めた。四分五十秒。
六 次の一本
十一月最初の水曜、北浦がまたA4の紙を島の真ん中に置いた。
「忘年会の余興係、決めます」
その日はたまたま、鶴見さんが保険の書類を出しに来ていた。湯のみの代わりに紙袋を提げて、紙をのぞきこむ。
「あら、引くほうの出番ね」
鶴見さんは一本、ていねいに線を足した。
ボールペンが回ってくる前に、千賀が手を挙げた。
「僕から書いてもいいですか」
北浦が目を瞬かせた。小田切は湯のみで口元を隠した。
千賀は少し迷ってから、右から二本目の上に「千賀」と書いた。それから、星印がどこにあるのか透けて見えないかと、折り返した紙の端をこっそり眺めた。


