一 中敷きの下
コーポ岬の階段には、三階まで片側にしか手すりがない。日下部柊は畳んだ段ボールを四枚、脇に挟んで上った。百サイズが二枚、百二十サイズが二枚。三ツ木家具店の貸し箱で、預かり金は一枚百円、返せば戻る。
三〇二号室のドアは、二度目のノックで開いた。
「すみません、朝から変な電話をして」
江波るりは前髪を片手で押さえて頭を下げた。来月から隣の市の図書館で働くことになり、日曜に店の小さな引越し便で移る。柊はその担当だった。
「変じゃないです。箱から何か出てきたと聞きました」
「これなんです」
六畳の真ん中に座卓があり、手ぬぐいが一枚広げてあった。その上に、角材が一本のっている。長さは二十四、五センチ、太さは指で作った輪くらい。角は丸く擦れ、全体が飴色に沈んでいる。片方の端の近くに小さな穴があり、そこから麻紐が三センチほど垂れて、先がほつれていた。
「拍子木、ですよね。火の用心の」とるりは言った。「でも、片方だけなんです」
柊は手を伸ばしかけて、止めた。「触ってもいいですか」
「どうぞ。わたしのじゃないから、わたしが言うのも変ですけど」
持ち上げると、見た目より重い。樫だろうか。打ち合わせる面だけが、ほかよりわずかに白っぽく、平らに光っていた。何千回も、もう片方とぶつかってきた面だ。
「どの箱からですか」
るりは部屋の隅を指さした。組み立てたまま大きい順に入れ子になっていた箱が三つあり、昨夜それをばらしたのだという。いちばん小さい百サイズの箱が、口を開けて床に置いてあった。
「本を詰めようと思って。小さい箱に本、って柊さんが言ってたから。底に厚紙が敷いてあって、そこがちょっと膨らんでたんです。めくったら、これが」
「中敷きです。重い物を入れても底が抜けないように」
柊は箱の前にしゃがみ、中敷きを持ち上げた。底の折り目に沿って、角材一本ぶんの浅い凹みが残っている。ここに長い向きで横たわっていたのだ。上から厚紙に押さえられていれば、箱を振っても鳴らない。
「二十四日にお届けした十箱のうちの三つですね」
「そうです。平たいのが七枚と、組んであるのが三つ。組んであるの、得したなって思ってたんですけど」
るりは座卓の拍子木を見て、少し困ったように笑った。
「夜中に見つけて、捨てるとか、そういうのじゃないなって。誰かが今ごろ、片っぽ探してる気がして。わたし今、自分の物ぜんぶ箱に詰めてるでしょう。それで片方だけ無くしたら、たぶん、すごく探すと思うんです」
柊はうなずいて、ポケットから伝票綴りを出した。預かり証の欄に品名を書く。〈拍子木 片方 一本 麻紐付〉。日付と、九時四十二分という時刻。
「お預かりします。持ち主を探します」
「わかるんですか。お店の箱って、いろんな家をぐるぐる回ってるんでしょう」
「回ってます」と柊は言った。「でも、箱にも少し、残ってるので」
二 箱の年輪
柊は百サイズの箱を窓のほうへ向けた。
側面には店の判子で〈三ツ木家具 100〉。その下の白い枠に、油性マーカーの太い字で〈台所・グラス〉とあり、上から二本線で消してある。さらにその上に、鉛筆で小さく〈③〉。横には細長い四角が二つ並び、端どうしが曲がった線でつながった絵が描いてあった。
「お箸かと思ったんです」とるりが言った。「でも、紐でつながってるから」
「拍子木の絵、ですかね」
「やっぱり。じゃあ持ち主は、これを入れたのをわかってて」
「入れたのは、わかってたと思います。片方残ったのは、たぶん、わかってない」
柊は箱を裏返した。底の合わせ目に、手で切れるタイプの透明の梱包テープが一本まっすぐ貼ってある。両端がぎざぎざだ。カッターではなく、手で千切った跡だった。そのテープの下、合わせ目の両脇には、緑色の毛羽立ちが点々と残っている。養生テープを剥がしたあとだ。底の隅には、薄い茶色の輪じみもあった。
「コーヒーの輪っかみたい」るりがのぞきこんだ。「台所・グラスで、コーヒー。喫茶店とか、そういう人ですかね」
「そう見えますよね」
柊は箱を傾け、窓の光が側面を斜めに滑るようにした。マーカーの消し線と鉛筆の〈③〉が、一か所だけ重なっている。光が当たると、そこだけ鉛筆の粉が黒いインクの上で銀色に光った。
「鉛筆が上です。線で消したあとに、鉛筆で書いてる」
るりが顔を近づける。「ほんとだ」
「テープも同じで、緑が先、透明が後です。グラスの人が先に使って、テープを剥がして返した。そのあと鉛筆の人が組み直して、手でテープを千切って、③の絵を描いた。江波さんの前に使ったのは、鉛筆の人です」
「箱の年輪みたい」
るりがそう言ったので、柊は少し考えてから「そうですね」と答えた。言われてみると、そうだった。
それから、言わなければならないことを言った。
「すみません。うちの倉庫では、組んだまま返ってきた箱は、振って音がしなければそのまま棚に置くことがあります。中敷きの下までは見ていませんでした。本当は、倉庫で見つかるはずのものです」
「じゃあ、わたしが見つけてよかったんですね」
るりはあっさり言って、追加の四枚を受け取った。「日曜、よろしくお願いします。それまでに持ち主、見つかるといいな」
三 日報をめくる
昼の十二時十分、柊は河川敷の駐車場にトラックを停め、鮭と昆布のおにぎりを一つずつ膝に置いた。助手席には、手ぬぐいに包んだ拍子木がある。運転席の横のバインダーには、この二週間ぶんの配達日報の控えが挟んであった。
探すのは、組んだまま回収した箱の記録だけだ。指で日付をたどった。

〈10/20(火) ひなた荘201 槇様 標本棚(二十四抽斗)納品/貸し箱回収 九 組箱・入れ子 140・120・100 ×3〉
〈10/21(水) 惣菜きむら様 貸し箱回収 四 組箱 140・120 ×2〉
〈10/22(木) 柳歯科様 貸し箱回収 三 組箱・入れ子 160・140・120〉
そして、店長の字で、
〈10/24(土) コーポ岬302 江波様 貸し箱 十(平7/組3・入れ子)〉
百サイズを組んだまま返してきたのは、槇という客だけだった。惣菜屋と歯科医院の箱には、百二十より小さいものがない。
柊は火曜のことを思い出した。ひなた荘の二階、外階段。二十四の小さな引き出しがついた標本棚を、同僚の荒井と二人で運び上げた。部屋には開けかけの箱が並んでいて、どの箱にもラベルの代わりに鉛筆の小さな絵が描いてあった。傘、巻貝、鈴。それから、柊には何なのかわからない、ぎざぎざの線。
「中身に名前がつけにくいものばっかりでね」
槇は六十を少し過ぎたくらいの小柄な人で、鉛筆を耳にかけ、引き出しの一つひとつに手を入れて深さを確かめていた。
「箱、畳まないで返していい? 畳むと、わたし、何か挟んじゃうのよ。それにカッターがね、どこかの箱の底なの。テープ、全部手で千切っちゃった」
そう言って笑った。柊は九つの箱を三組の入れ子にして、外階段を下ろした。軽かった。何も鳴らなかった。
――挟まないように組んだまま返して、組んだまま挟んでいた。
柊は日報にある電話番号にかけた。呼び出し音が六回鳴り、留守番電話に切り替わった。
「三ツ木家具の日下部です。お返しいただいた箱の中から、拍子木が片方出てきました。お心当たりがあれば、店までご連絡ください」
電話を切ってから、ようやく昆布のおにぎりの包みを開けた。
四 ひなた荘の二階
最後の配達を終えたのは四時前だった。ひなた荘は帰り道の途中にある。柊はトラックを路肩に寄せて外階段を上がり、二〇一号室を二度ノックした。返事はない。ドアの横の窓に、小さな鈴が一つ吊るしてあった。
「槇さんなら、いないわよ」
下から声がした。一階の庭先で、年配の女性がじょうろを持って見上げている。大家の岩瀬だと名乗った。
「金曜はね、駅前のFM。夜、ラジオに出てるの。声じゃなくて、音で」
「音、ですか」
「雨とか、足音とか、戸の閉まる音とか。朗読の番組で、後ろで鳴ってるでしょう、あれ。夜中に砂利みたいな音がするから何かと思ったら、お盆の上で小豆を転がしてたのよ」
岩瀬はおかしそうに言ってから、声を落とした。
「でも今週はずっと元気がなかった。拍子木を片っぽ無くしたって。水曜なんか、前の家まで探しに行ったのよ。もう空っぽの家なのに。昨日は新しいのを買ってきたって言ってたけど、浮かない顔してたわね」
柊は助手席の手ぬぐいを思い浮かべた。
「番組は何時からですか」
「八時。金曜の八時から三十分。『夜の本棚』っていうの」
店に戻ったのは五時十分だった。店長の三ツ木澄江は、帳場で伝票の束を輪ゴムでまとめていた。柊が話すあいだ、澄江は手を止めずに聞き、最後に時計を見た。
「トラックは駄目よ、もう業務時間外だから。自転車で行きなさい。日報は明日でいい」
「はい」
「江波さんにはわたしから電話しとく。持ち主、見つかりそうだって」
柊は作業場へ行き、古箪笥の引き出しを運ぶときに使う真田紐の束から、紺の一本を六十センチ切った。拍子木の穴から垂れている麻紐はほつれていて短い。もう片方とつながっていたはずの紐は、たぶん、もう役に立たない。
それを見ていた澄江が言った。「お店の備品だからね。持ってっていいわよ」
五 夜の本棚
かもめ台FMは、駅前の古いビルの三階にあった。六時四十分、受付の学生ボランティアに名前と用件を告げると、奥のドアが開いて槇が出てきた。片手に、真新しい白っぽい拍子木を一組ぶら下げている。
「あら。三ツ木さんの」
「留守電、聞かれましたか」
「留守電?」槇はポケットを叩き、困った顔をした。「携帯、家の、どこかの箱の上だわ」
柊は手ぬぐいを開いた。
槇はしばらく何も言わなかった。それから拍子木を両手で受け取り、打ち合わせる面を親指でなぞった。
「どこに」
「箱の底です。中敷きの下に」
「中敷き」槇は目を丸くし、それから吹き出した。「挟まないように組んだまま返したのに。組んだまま挟んでたのね、わたし」
槇は廊下の長椅子に置いた布の道具箱から、もう片方を出した。同じ飴色、同じ擦れ方。穴からは、ちぎれた麻紐が少し長めに垂れている。二本を並べると、打ち合わせる面の白さがぴたりと揃った。
「荷ほどきの晩にね、中敷きが半分めくれたまま、手ぬぐいごと紐を持って持ち上げたの。そしたら軽くなった気がしたんだけど、暗くて。紐が切れて、一本がめくれた下へ滑ったのね。翌朝見たら一本しかないの。前の家に落としてきたと思ってた」
柊は真田紐を出した。「麻紐はもう短いので。これでよければ」
槇は紐を指でしごき、目を細めた。「真田紐。いいわね、伸びないから。でもね、拍子木って紐の長さで鳴りが変わるの。二本がまっすぐ平らに当たらないと、音が割れる。短いと手首が窮屈だし、長いとぶれる」
「どのくらいがいいですか」
「前のは、このくらい」槇は両手の間を、手のひら一つ半ほどに開いてみせた。
柊は二本の穴に紐を通して結んだ。トラックの荷台で箪笥を固定するときの結び方を、少し変えたものだ。締めれば動かず、ほどこうと思えば一度で抜ける。一本を持って吊るし、もう一本がどう垂れるかを見る。少し傾いている。結び目を半分ほどずらして、もう一度吊るす。もう一本が、ねじれずに下がった。
重い荷物を台車にのせるとき、柊はいつも重さの真ん中を探す。拍子木の真ん中は、穴のほうへ少しだけ寄っていた。
「どうぞ」
槇は受け取り、廊下の真ん中に立った。肘を軽く開き、一度だけ打った。
カン。
低くて乾いた音が廊下の奥まで届き、すっと消えた。槇は新しいほうも一度打った。キン、と高い音がして、いつまでも耳に残った。
「新しいのも、そのうちいい音になるのよ。二十年くらいしたら」槇は飴色のほうを胸の前で握った。「今夜の話はね、夜回りの晩に、引越しの荷物が届く話なの」
そこへ、ヘッドホンを首にかけた男性がスタジオから顔を出した。ディレクターの坂口だった。
「槇さん、あった? よかった。それで、例の十七分のところ、どうします。ノックは録音のやつで」
「それなんだけど」槇は柊を見た。「拍子木って両手でしょう。遠くで鳴らしながら、戸も叩かなきゃいけないの。今日は録った音で済ませるつもりだったんだけど」
槇は台本を一枚めくって柊に見せた。〈遠く、夜回りの拍子木 二つ。/戸を叩く音。/「ごめんください、お荷物をお届けにあがりました」〉
「この人のノック、聞いたことある?」と槇は坂口に言った。「ないわよね。わたしはあるの。火曜日に。二回で、ちゃんと開けようって思える音だった」
柊は自分の右手を見た。何千回も戸を叩いてきた指の節だった。
「僕でよければ」
坂口は一秒だけ考えて、笑った。「台詞は宮野さんが読むので、叩くだけです。戸板はそこにあります。あとは息を止めていてください」
六 空き箱を叩く
八時ちょうど、赤いランプがついた。
スタジオは思ったより狭かった。ガラスの向こうで坂口が手を上げ、マイクの前で宮野というアナウンサーが静かに読み始める。槇の作業台には、お盆、小豆の入った袋、古い革靴、水を張った洗面器、丸めた新聞紙が並んでいた。柊が立たされたのは、蝶番のついた戸板の前だった。古い家の玄関戸を一枚だけ切り取ってきたような、木の板だ。
物語は、古い町に引越してきた女性の話だった。荷物がまだ届かないまま、夜になる。槇がお盆の上で小豆をそっと揺らすと、それだけでガラスの向こうの坂口が、雨が降り始めたときの顔になった。革靴が床を二歩、三歩と歩く。マイクから離れて鳴らせば音はちゃんと遠くなるのだと、柊は初めて知った。
十七分。坂口が指を一本立てた。

槇はマイクからいちばん遠い壁ぎわへ下がり、拍子木を胸の前に構えた。
カン、カン。
町の外れから、夜が渡ってくるような音だった。柊は息を止め、戸板の前へ半歩出た。拳を作り、節を軽く当てる。いつも通りに。
コン、コン。
宮野が読んだ。「ごめんください、お荷物をお届けにあがりました」
物語の女性は戸を開け、届いた最後の箱から、なくしたと思っていた湯呑みを一つ見つけた。話はそこで静かに終わった。偶然だろうかと柊は思ったが、台本は先週から決まっていたのだと、あとで坂口が教えてくれた。
八時三十分、赤いランプが消えた。槇は拍子木を手ぬぐいでくるみながら、柊の伝票綴りを指さした。
「それ、預かり証でしょう。受け取りの欄、あるのよね」
柊が綴りを開くと、槇は耳にかけていた鉛筆を取り、〈確かに受け取りました 槇〉と書いた。それから横に、細長い四角を二つ小さく描き、端どうしをまっすぐな線でつないだ。
「紐代は」
「店の備品なので、店長に言ってください。たぶん要らないって言います」
「じゃあ、そのうち抽斗の取っ手でも見に行くわ。二十四個のうち、一個だけ固いのがあるの」
ビルを出ると、携帯に店からの着信が一件と、知らない番号からのメッセージが一件届いていた。
〈江波です。店長さんから聞いて、ラジオをつけてました。ノック、柊さんですよね。二回目で開けたくなる音でした〉
柊は自転車の鍵を外しながら少し迷い、それから返信した。〈日曜、八時半に伺います〉
日曜の朝、コーポ岬の三〇二号室には箱が十四個並んでいた。どの箱にも、るりが鉛筆で描いた小さな絵がついている。本、本、本、やかん、本、植木鉢、本。
「真似してみました」とるりは言った。「字で書くより楽しくて」
隣の市の新しい部屋に荷物を運び込み終えたのは、十一時過ぎだった。るりは本の箱を一つだけ開けて中身を棚に移し、空になった箱を柊に差し出した。
「これ、最初のひとつ。返却です」
柊は箱を受け取り、中敷きを持ち上げて底を見た。それから箱の側面を、拳の節で軽く二回叩いた。
コン、コン。
中で何も転がらない、軽い音がした。
「それ、何してるんですか」
「検品です」と柊は言った。「金曜から、やることにしたので」
るりは笑い、自分も残りの箱の一つをそっと二回叩いた。まだ本が詰まっていて、ずしりと重い、低い音がした。
「これは、まだ返せませんね」
「ゆっくりでいいです。預かり金は一箱百円なので」
柊は百円を返し、貸し箱の伝票に〈返却 一 残り十三〉と書き込んだ。トラックに戻り、日報に〈回収 一 中身なし(確認済)〉と書いた。少し考えてから、その横に鉛筆で小さな四角をひとつ描いた。


