赤い丸のシール
十月最後の土曜日、午前九時二十分。桂木川の河川敷にある町営ふれあい広場で、千種由岐は受付テントの列の三番目に並んでいた。
「千種さん、三班ですね」
紺のジャンパーを着た若い係が、名札を差し出した。胸の刺繍は「生涯学習課 堀田」。名札には手書きで「三班 ちぐさ」とあり、その横に小さな赤い丸シールが貼ってある。
「赤いのは、見学希望の方の印です。お手伝いは無理のない範囲で。見ていてくださるだけで、ちゃんと参加ですから」
「はい。ありがとうございます」
参加費の千八百円は、申込のときに振り込んである。米と具材と炭、軍手代込み。申込書のいちばん下にあった「□見学を希望する(調理には参加しない)」の欄に、由岐は迷わずチェックを入れた。保護者会でも、職場の研修でも、由岐はたいてい後ろの方にいる。誰かがうまく何かをする手つきを眺めて、ノートに書く。自分でやるより、そのほうがよく分かる気がするのだ。
三班のかまどは、川寄りの端から二つ目だった。コンクリートブロックを組んだ腰の高さの炉に、まだ火は入っていない。横に水を張った青いバケツがひとつ。蓋は開けてある。
先に来ていた男性が、スマートウォッチを指でつつきながら振り向いた。
「三班の方ですか。鳴海です。鳴海圭吾」
三十代半ばくらい。登山用の速乾シャツの袖を、もう肘までまくっている。
「千種です。今日は見学で」
「あ、赤いシール。了解です」
鳴海は手元のスマホを見せた。予定表が打ち込んである。十時安全説明、十時二十分炭、十時四十分米。
「配布の紙を写しておいたんです。段取りが頭に入ってないと落ち着かなくて」
その後ろから、六十代くらいの女性がゆっくり歩いてきた。生成りの布袋を両手で抱え、名札を胸の真ん中にきちんと留めている。
「葛西です。葛西文乃。よろしくお願いします」
そう言いながら、文乃はかまどから二歩離れたところで足を止めた。それ以上は近づかない。由岐はその二歩を、なんとなく目で測った。
網が離してくれるまで
十時。堀田が四つの班の前に立った。参加者は十二人、一班三人ずつ。
「炭は、私たちが熾します。網を置くのも外すのも私たち。皆さんは、長いトングや刷毛で網の上のおにぎりを扱ってください。網そのものには触らないでください」
堀田は指を一本ずつ折った。
「かまどへは正面からじゃなく、横から。袖はまくるか、留める。長い髪はまとめる。首のタオルは外して、ポケットへ。バケツの蓋は、使わなくても開けておく。困ったら手を上げて、名前を呼んでください。堀田でも、あっちの須崎でもいいです」
須崎と呼ばれた年配の係が、隣の班の脇で片手を上げた。
「それから今日の主役、焼きおにぎり」
堀田は少し笑った。
「焼きおにぎりは、裏返さない。網が離してくれるまで、です。くっついてるうちに剥がそうとすると、だいたい割れます」
何人かが笑った。鳴海はスマホに「網が離す=?」と打ち込んで、首をかしげていた。由岐はノートに同じ言葉を書いた。〈網が離してくれるまで〉。
十時二十分、係の二人が各班を回って炭に火を入れた。由岐は少し離れた場所からそれを見ていた。着火剤の小さな炎が黒い炭の角をなめ、やがて赤い線が炭の内側へ潜っていく。堀田は団扇で数回あおぐと、炭を火ばさみで寄せ、炉の片側を高く、片側を低く組んだ。
「こっちが強い側、こっちが弱い側。網を置いたら、焼くのは主に弱い側で」
文乃は、二歩の位置から動かなかった。視線は炭に向いているのに、肩がわずかに後ろへ引けている。由岐はそれを書きかけて、ペンを止めた。書くのはやめた。
蒸らしの十分
十時四十分。米は三合、飯盒二つに分けて炊く。炊事場で鳴海が手早く研いだ。水を替えるたびに、白い濁りが薄くなる。
「三回で澄みましたね」
由岐が言うと、鳴海は少し得意そうに頷いた。
水加減は文乃がした。飯盒の内側の線を見て、それから人差し指を米の表面に立て、第一関節のあたりで水面を確かめる。
「線もあるけど、つい、こうしちゃうの。うちの母のやり方」
十一時、堀田が飯盒を炉の上の吊り棒に掛けた。そこから先、三人の仕事は見ていることだった。
しばらくして、蓋の縁からふつふつと泡が噴き、白いしずくが炭に落ちてじゅっと鳴った。鳴海が一歩出かける。
「そのままで大丈夫です」堀田が先に言った。「吹いてるうちは、中で炊けてますから」
由岐は耳を澄ませた。ぐつぐつという低い音が、いつの間にか、ぱち、ぱち、という乾いた音に変わっている。湯気の匂いに、ほんの少し香ばしさが混じった。
「音が、変わりました」
由岐が言うと、堀田が振り向いて、飯盒の蓋に長い木の棒の先を当てた。
「お、いいところ。下ろしますね」
堀田は鉤のついた棒で飯盒を外し、炉の脇の台の上で逆さにした。
「十分、このまま蒸らします。開けないでくださいね」
十一時二十五分。鳴海が腕時計のタイマーを十分に合わせた。
三人で台の前に立ったまま、一分が過ぎ、三分が過ぎた。鳴海は時計を見て、飯盒を見て、また時計を見た。
六分を過ぎたところで、鳴海の手が飯盒の取っ手へ伸びた。
「もう、だいたいいい気が——」
「だめ」
文乃だった。思ったより大きな声で、言った本人が驚いた顔をしていた。
「あ、ごめんなさい。でも、うちの炊飯器だって、蒸らしの間は開けないでしょう」
鳴海は手を引っ込め、それから笑った。
「すみません。僕、待つのが本当に下手で」
「お仕事、お忙しいの」
「配送の、配車の仕事なんです。トラックをどの順でどこへ回すか決める。待ってる時間って、どこかでトラックが止まってる時間なんですよ。だから、待ってると落ち着かなくて」
鳴海は時計の画面を伏せるように、手首を返した。
「今日のこれ、姉が誕生日に申し込んだんです。あんたは待てなさすぎるから、一回、火の前で待ってこいって」
文乃が、ふふ、と笑った。由岐もつられた。
残りの四分は、三人とも黙って待った。川の方で、鴨が二羽、水面を滑っていった。タイマーが鳴る。鳴海は今度は文乃の顔を見た。堀田が飯盒を元の向きに戻してから、渡された鍋つかみで蓋を持ち上げた。

湯気が立ちのぼった。底の方から、米が焦げる手前の、いい匂いがした。
九つと、もうひとつ
十一時四十分。炊きたての米を、木のボウルに空ける。
「熱いうちに握ると、まとまりやすいの」
文乃は布袋から、手ぬぐいでくるんだものを取り出した。刷毛だった。柄の短い、毛先の少し茶色くなった料理用の刷毛。
「持ってきたけど、使うかどうか分からなくて」
「それ、醤油を塗るやつですか」と鳴海。
「そう。家では、フライパンで焼くのよ。網じゃなくて」
文乃と鳴海が握った。炊事場で手を洗って戻ると、文乃は広げたラップに塩を少し振り、しゃもじで米を乗せた。包んで、三回、四回。角のくっきりした三角がひとつ、皿に置かれる。鳴海は速い。速いが、文乃のより少し柔らかく、角が丸い。
由岐は皿を持っていた。
「千種さんも、どう」
文乃が言った。由岐は首を振った。
「見学なので。こっちで、数えてます」
文乃はそれ以上すすめなかった。かわりに、手を動かしながらゆっくり話した。
「私ね、三年前に台所で、天ぷら鍋から火を出したの。すぐ蓋をして、それで済んだんだけど。換気扇の周りが黒くなってね。それから家はIHにして、火はずっと見てなかった」
文乃は握り終えた五つめを、皿の端に置いた。
「孫が九つでね。晴っていうの。来年の夏、ばあばとキャンプ行って、マシュマロ焼きたいって言うのよ。そのとき火の前から逃げてたら、格好悪いでしょう」
「それで、今日」
「それで、今日。でも、まだ二歩までなのよ」
文乃は自分の足もとを見て、笑った。
おにぎりは九つになった。鳴海が四つ、文乃が五つ。飯盒の底には、薄い茶色のおこげが張りついたまま、少し残っていた。
割れたひとつ
十一時五十五分。堀田が網を炉に置いた。
「弱い側に並べてください。醤油は、片面が焼けてからで」
鳴海がトングで五つを網に並べた。じゅう、と小さな音。米の表面から白い湯気が上がる。
二分たったところで、鳴海のトングが動いた。
「あ」
持ち上げようとしたおにぎりの底が、網に残った。三角は真ん中から割れて、半分がトングに、半分が網に。
鳴海は固まった。須崎がちょうど通りかかり、覗きこんだ。
「ああ、割れたね。お皿に取りましょう。崩れたのは、あとで豚汁に入れると旨いよ。うちは毎回、どこかの班でひとつは割れる」
鳴海は網に残った半分を、トングで慎重にこそげて皿へ移した。焼けた粒が少しだけ網に残った。
「すみません」
「謝ることじゃないわよ」と文乃。「食べればいいんだもの」
四分。鳴海はまた、隣のおにぎりにトングを近づけた。
「まだです」
由岐の口から言葉が出た。自分でも少し驚いた。
「下から、まだ湯気が出てます。それと、縁がまだ白い」
鳴海はトングを止め、腰をかがめて、横から網の下を覗いた。おにぎりの底と網の間から、細い湯気が上がっている。
「本当だ」
由岐はノートを閉じて、網を見つめた。じゅう、という音が少しずつ高く、細くなる。ちりちり、に近づいていく。縁の白が、うすい狐色に変わる。湯気が細くなって、止まった。
「……今、だと思います」
鳴海がトングを差し入れた。おにぎりは何の抵抗もなく、網から浮いた。裏返すと、きれいな焼き色がついていた。
「離してくれた」
鳴海が言った。向こうのかまどで、堀田が親指を立てた。
残りの三つも、由岐が「今」と言うたびに、鳴海が裏返した。
醤油の番になって、文乃は刷毛を握ったまま、二歩の位置にいた。
「僕、塗りましょうか」
鳴海が刷毛を受け取って、たっぷり醤油をふくませた。ひと塗りしたとたん、垂れた醤油が炭に落ちて、白い煙がもわっと上がった。文乃が、さらに半歩下がった。
堀田が来て、網の上を見た。
「醤油は刷毛をいったん小皿の縁でしごいてから。垂れると煙が出ます。それだけです」
「すみません」
鳴海はまた謝って、それから刷毛をしごいて、残りを薄く塗った。
第一陣は、割れたのがひとつ、焼けたのが四つ。皿に並べて、アルミホイルをかぶせた。
二歩と、一歩
十二時二十分。第二陣は、文乃の握った残りの四つ。
網に並べたあと、文乃が言った。
「醤油、私が塗ってみてもいいですか」
堀田がすぐそばに来た。
「じゃあ、横からいきましょう。私、ここにいますね」
堀田は文乃の右側に立った。鳴海は何も言わずに、左側へ回った。由岐は網の正面、少し離れたところで、網と文乃の足もとを、両方見ていた。
四つの底が焼けて、由岐の「今」で鳴海が一つずつ返した。文乃は袖をもう一度まくり直し、刷毛を小皿でしごいた。二歩の位置から、一歩、出た。
そこで止まった。刷毛を持った手が、胸のあたりで止まっている。炭の熱が、ここまで来るのだろう。文乃はゆっくり息を吐いた。
「網の上、だけですからね」堀田が言った。「炭には触らない。網の上の、おにぎりの上だけ」
文乃は頷いて、手を伸ばした。刷毛の先が、焼けた面に触れる。醤油がじゅっと鳴って、香ばしい匂いが立った。
「……塗れた」
「塗れましたね」

二つめ、三つめ。四つめの頃には、文乃の手つきは家の台所のそれに近くなっていた。刷毛を寝かせて、角まで、すっと。
そのときになって、由岐は気づいた。強い側寄りに置いた一つの下から、湯気ではなく、細い煙が出ている。
「鳴海さん、端の、ひとつ」
鳴海がトングで持ち上げた。底は真っ黒だった。三人とも文乃の手を見ていて、誰も網を見ていなかったのだ。
文乃が、あら、と言った。鳴海が、あー、と言った。由岐はノートに何も書かなかった。
「どこまで焦げてるか、あとで割ってみましょう」と文乃が言い、須崎が通りすがりに「無理して食べなくていいからね」と添えた。
最後の一個
十二時三十五分。網の上が空いた。
文乃が飯盒の底を覗いた。張りついていたおこげと、そのまわりのご飯を、しゃもじでこそげると、小さな山になった。
「ちょうど、ひとつ分ね」
文乃は由岐を見た。今度はすすめる言葉を言わなかった。ただ、塩の小皿を由岐の方へ少し寄せた。
由岐は、名札の赤い丸を見下ろした。それから炊事場で手を洗い、ラップを一枚広げた。
塩をひとつまみ。しゃもじで米を乗せると、まだ湯気が上がった。包んだまま少し待ち、触れられる温かさになってから、三回、四回。文乃が隣で同じ形に手を動かしてみせた。角はうまく立たなくて、三角というより少しいびつな丸だった。茶色いおこげが、ところどころに混ざっている。
「十個目」
鳴海が言った。
ラップを外し、長いトングで、網の弱い側の真ん中に由岐は自分で置いた。じゅう、と鳴った。
三人で、網を囲んだ。
二分過ぎたところで、鳴海の手がトングを持ち上げた。同じとき、文乃の刷毛を持った手が少し前へ出た。そして由岐の手も、気づけば網の方へ伸びていた。三本の手が、ひとつの網の上で、宙に止まった。
「……まだ、ですね」
由岐が言った。自分の手を見て、ちょっと笑った。鳴海も文乃も、手を引いた。
湯気。じゅう、という音。由岐は数えなかった。数えるかわりに、見ていた。縁の色。湯気の細さ。音の高さ。
鳴海の手首で、時計が短く震えた。帰りのバスの時間に合わせたアラームらしい。鳴海は画面を見ずに、指で止めた。
湯気が、止まった。
「今」
由岐は自分でトングを取った。差し入れる。おにぎりは、するりと網から離れた。裏返すと、おこげのところが、ほかより濃い色に焼けていた。
もう片面が焼けるのを、三人でまた待った。湯気が止まって、由岐がもう一度返す。文乃が横から一歩出て、刷毛で醤油を塗った。じゅっ。その日いちばんの匂いがした。
三人の昼
十二時五十分。須崎が大鍋から豚汁をよそってくれた。三班には、椀が三つ。
割れたおにぎりは、三つに分けて、それぞれの椀に沈めた。焼けた粒が汁を吸って、ほどけていく。
真っ黒になった一つは、文乃が割り箸の先で外側の焦げを削り、三つに割った。削った黒いところは、炊事場の生ごみ袋へ。残りは三人で一切れずつ。苦いところと、香ばしいところと、甘いところが、ひと口の中にあった。
由岐のいびつな一つも、三つに割った。
「じゃあ、千種さんの分を多めに」と鳴海が言いかけて、
「いえ、三等分で」と由岐が言った。
残りのきれいな七つは、鳴海が三つ、由岐が二つ、文乃が二つ。
鳴海は、三つ目をいちばんゆっくり食べた。最後まで食べ終わらなかったのは、鳴海だった。
「なんか、もったいなくて」
「待ってるのね」と文乃が言った。鳴海は笑って、残りを口に入れた。
由岐は、自分の分のおこげのところを噛んだ。ちょっと硬くて、醤油が濃く染みていた。
春の申込書
十三時半、片付け。炭は堀田が火消し壺へ移した。堀田が網を外し、冷めたのを確かめてから、三人は炊事場でこすった。焦げついた粒は、たわしで何度もこすって、ようやく落ちた。鳴海は最後のひと粒が落ちるまで、黙って手を動かしていた。
十四時。解散前に、堀田が紙を配った。
「三月に、春の回があります。ダッチオーブンでパンを焼きます。よかったら」
申込書の下に、また「□見学を希望する」の欄があった。
由岐はペンを出して、名前と連絡先を書いた。それから、その欄をしばらく見て、何も書かずに紙を畳んだ。
隣で、文乃も書いていた。鳴海も書いていた。
「千種さん」
文乃が言った。
「そのノート、少し見せてもらえない。晴に、教えてやりたいの」
由岐はノートを開いた。午前中の、時刻と手順でびっしり埋まったページ。そのあと、十一時五十五分から先は、ほとんど何も書いていない。
由岐は新しいページを開いて、ゆっくり書いた。
〈係の人と、横から。
網には触らず、長いトングで。
今日は、湯気と色と音を見た。
網が離してくれるまで、裏返さない。
迷ったら、係の人を呼ぶ。〉
そのページを破って、文乃に渡した。文乃は二つに折り、刷毛をくるんでいた手ぬぐいに一緒に挟んだ。
バス停まで、三人で歩いた。川沿いの道に、午後の日が長く伸びていた。
停留所に着くと、ちょうど向こうの角からバスが曲がってきた。鳴海は時計を見ようとして、やめた。
「来ましたね」
「来たわね」
バスが止まって、扉が開いた。由岐の指先には、まだ醤油の匂いが少し残っていた。


