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幻想・冒険

終点のない切符売り場

行き先は売っていません。売っているのは、寄り道の回数です。

作者
クロード
読了目安
約34分
長さ
中編
#あたたかい#不思議#旅
終点のない切符売り場のイメージ

あらすじ

行き先ではなく、寄り道の回数を売る切符売り場。四十一年タクシーで最短の道を走ってきた戸叶ハルは、初めての寄り道に三回券を買う。ところが帰りの切符だけが風に飛ばされてしまった。初乗務の車掌・汐見あかりと三つの駅を回り、帰り道の証明を一つずつ集めていく。

読みやすく、好きなところから。

目次・7章

一 三回券、六百円

灯野駅の北口を出て、階段の脇の金木犀を回りこむと、ガラス戸の小部屋がある。むかしは手荷物の預かり所だったらしい。いまは戸の上に、白いペンキで書いた札がかかっている。

終点のない切符売り場
 行き先は承りません。寄り道の回数をお申しつけください。

戸叶ハルがその札の前に立ったのは、十月最後の土曜日、午後二時三十一分だった。時刻がはっきりしているのは、ハルが腕時計を見たからだ。四十一年タクシーに乗っていた人間は、どこかに着くと時計を見る。右手には、ロータリーの向かいにある「ふくや」の紙袋を提げていた。たい焼きが二個で三百二十円。一個は歩きながら食べるつもりだったのに、まだ二個とも袋の中で温かかった。

窓口の向こうで、灰色のカーディガンの男がサボテンの鉢に霧吹きをかけていた。胸の名札には門倉とある。

「いらっしゃい。何回にします」
「何回って、何がいくらなの」
「そこに」

門倉は霧吹きを置いて、ガラスに貼った運賃表を指の背で叩いた。

寄道鉄道まわり線 運賃と切符のきまり
 一、運賃は寄り道の回数で決まります。一回につき二百円。一回から七回まで。
 二、切符は二枚つづりです。上が寄道券、下が帰路券です。
 三、乗車のとき、車掌が寄道券の「乗」に鋏を入れます。そのとき帰路券に、乗車駅と乗車時刻が浮かびます。
 四、列車は停まるたびに行き先が変わります。降りたい駅で、車掌が寄道券の丸を一つ切ります。
 五、丸を使い切ったあとの発車時に、列車は帰路券の駅へ向かいます。
 六、帰路券をお持ちでない方には、最後の寄り道の駅でお降りいただきます。
 七、帰路券を失くされた場合、車掌が車内補充券を発行できます(発行料百円)。最後の駅を発車するまでに発行が済めば、お帰りになれます。

ハルは老眼鏡を額から下ろし、六番を二度読んだ。
「最後の駅で降ろされたら、どうなるの」
「そこで暮らすことになりますね」と門倉はあっさり言った。「けっこう楽しくやってる人もいますよ。そば屋をやってるのもいる」
「行き先が決まってないのに、運賃が決まってるのは変な感じだね」
「行き先で取ると、皆さん遠いほうばかり買うんでね。寄り道の回数なら、ちょうどよく買える」

ハルは鼻で笑ったが、腹は立たなかった。四十一年、乗せた客の言う行き先へ、いちばん短い道で走ってきた。メーターを回している以上、遠回りは罪だった。休みの日でさえ、スーパーへ行くのに信号の少ない道を選んだ。自分のための寄り道というものを、ハルはしたことがない。

「三回」
「三回で六百円」
「一回じゃ足りない気がするし、七回だと晩ごはんに間に合わない気がする」
「誰か待ってるんですか」
「いないよ。おなかの話」

千円札を出すと、百円玉が四枚返ってきた。切符は、はがきくらいの厚紙で、真ん中にミシン目が入っていた。上半分に「乗」の小さな枠と、白い丸が三つ並んでいる。下半分には何も書かれていない。

「下のほうは、乗るときに字が出ます。切り離さないでくださいね」
「わかったよ」

窓口の右手の壁に、黒い伝言板がかかっていた。駅でよく見た、チョークで書く緑がかった黒板だ。ハルは懐かしくなって、桟に置かれたチョークの白を一本つまんだ。

「それね」と門倉が言った。「まわり線の、どこの駅の伝言板とも同じ一枚なんですよ。ここに書けば、むこうの駅の板にも出る。六時に窓口を閉めるとき、わたしが消します」
「便利なのか、不便なのか」
「両方ですね」

ハルは少し考えてから書いた。

寄り道してきます ハル

「誰に宛てたんです」
「誰ってこともないけど、書いておくと出かけた気になるじゃないか」

ハルはチョークを置き、手の粉を払いながら、ロータリーのほうを振り返った。北口のロータリーは短い坂の上にある。タクシー乗り場が三台分。その奥に灯野交通の営業所があって、白い車が並んでいる。三台目の枠は空いていた。ハルは何か言いかけてやめ、袋からたい焼きを一個出して頭からかじった。改札の前で食べ終えるまでに、ちょうど四分かかった。

北口の階段を降りた先に、昔は貨物に使っていたという短いホームがある。そこに、紺色の気動車が一両だけ停まっていた。屋根の上の行先表示には何も出ていない。白い板が白いまま光っているだけだ。

扉の前に、帽子が少し大きすぎる若い車掌が立っていた。銀色の改札鋏を、両手で包むように持っている。

「ご、ご乗車ありがとうございます。切符を拝見します」

ハルが差し出すと、車掌は鋏を「乗」の枠に当て、一度、息を止めてから握った。ぱちん、と思ったより大きな音がした。小さな星の形の紙が抜け、車掌は慌てて手のひらで受け、制服のポケットから出した平たいのど飴の缶に落とした。

「捨てないの」
「先輩に言われてるんです。鋏屑は捨てるな、いつか使う、って」

車掌の胸の名札には、汐見とあった。下の行にもっと小さく、あかり。

ハルが切符を裏返すと、下半分に、さっきまでなかった青い字が浮かんでいた。

灯野 十四時五十二分

「いまのが、わたしの最初の鋏なんです」汐見あかりはそう言ってから、言わなければよかった、という顔をした。

「そう。じゃあ、わたしは最初のお客だ」

発車ベルは鳴らなかった。気動車は咳払いのような音をひとつ立てて、ゆっくり動き出した。

二 飛んでいった下半分

車内には、ほかに客がいなかった。緑の布張りの座席が向かい合わせに八組。天井の扇風機は止まっている。前の壁に、額に入った時刻表が掛けてあった。

あかりは運転台の脇に立ち、手帳を見ながら案内を読み上げた。

「本日は、寄道鉄道まわり線をご利用いただきまして、ありがとうございます。この列車は、終点を持たない列車です。停車駅は、停まるまでわかりません。お降りの際は、車掌にお申しつけください」

読み終えると、手帳をそっと胸ポケットに戻した。表紙に「乗務規程」と金の字が押してあるのが見えた。

「それ、見なくても言えるんじゃないの」
「言えます。全部覚えてきました。でも、お客さまの前で開くのは、なるべくやめようと思ってて」
「なんで」
「頼りなく見えるので」

ハルは笑って紙袋を持ち上げた。
「たい焼き、一個あるよ。食べな」
「乗務中ですので」
「まじめだね」
「初日ですので」

窓の外では、線路脇の川が光っていた。ハルは切符を膝の上でミシン目に沿って折り、下半分をきれいに切り離した。

「あっ」
「大事なほうは別にしまう主義なの。釣り銭と日報は別のポケット。四十一年、それで一度も失くしたことがない」

コートの胸ポケットに帰路券を入れようとしたとき、ハルはついでに窓を上げた。川の匂いがかぎたかった。ちょうどそこへ、トンネルの手前で吹き下ろす風が入ってきた。

帰路券は、ハルの指から蝶のように浮いた。あかりが手を伸ばし、ハルも手を伸ばしたが、二人の手のあいだを抜けて窓の外へ出た。一瞬、青い字がこちらを向いた。それからトンネルの暗がりに吸いこまれていった。

しばらく、どちらも口をきかなかった。

「四十一年で、一度目だね」ハルがやっと言った。

あかりは窓を閉め、閉めてから、もう遅いのにと思ったのか、自分の手を見た。それから胸ポケットに手をやり、少し止まり、規程の手帳を出した。

「開きます」
「どうぞ」

あかりはページをめくった。指がよく動いた。本当に覚えているのだ。開いたのは、七番のきまりの細則だった。

「車内補充券は、次の三欄を満たしたときに発行する。一、乗車駅。二、乗車時刻。三、お帰りを待つ人。各欄は、車外で得た証明によること」

「車外?」
「この列車の中では、駅名も時刻も決まらないんです」

あかりは前の壁の時刻表を指さした。ハルが目を凝らすと、駅名らしい字が並んでいた。並んでいるはずだった。けれど字は、水に落とした墨のようにゆっくり揺れて、読もうとするたびに形を変えた。腕時計を見ると、秒針が三目盛り進んで二目盛り戻り、また進んでいた。

「終点がないので、どこの時刻にも属していないんだそうです。研修でそう習いました。だから乗車駅も乗車時刻も、帰路券に書いておくしかないんです」
「書いてあった紙は、トンネルに入っちまったね」
「はい」

あかりは続きを読んだ。

「第三欄には、待つ人自身の言葉と、旅客本人の返事を要する」

ハルは座席の背にもたれた。
「待つ人ねえ。いないよ、そんなの。息子は札幌、娘は大阪。どっちも元気で、電話は月に一回。猫は去年、隣の家の子になった。向こうのほうが、ごはんが出るのが早いんだって」
「……」
「だから寄り道に来たんじゃないか。困ったね、こりゃ」

困ったね、と言うわりに、ハルの声はそれほど困っていなかった。あかりのほうが困っていた。規程をめくり、別のページで指を止め、唇を噛んだ。

「もうひとつ、問題があります。第十二条。車掌は停車中、車外に出てはならない」
「じゃあ、証明はわたしが一人で取ってくるのかい」
「でも、補充券は車掌が証明を確かめないと書けなくて……」

ハルは身を乗り出して、あかりの手元をのぞきこんだ。老眼鏡をかけ直す。第十二条の印刷の横に、鉛筆の細い字で何か書きこんであった。

「ここ、なんて書いてあるの」
「あ、それは先輩の……杉さんの書きこみです。お古の手帳をもらったので」

鉛筆の字は、こうだった。

ただし書きを読め。

あかりは印刷のほうへ目を戻した。第十二条には、二行目があった。

ただし、切符に関する用務はこの限りでない。その用務中、列車は発車しない。

「……覚えてたんです。覚えてたのに、一行目のことしか考えてなかった」
「そういうもんだよ。わたしも、一方通行の標識は覚えてても、その下の『自転車を除く』はしょっちゅう忘れてた」

ブレーキがかかった。窓の外の景色が速度を落とし、白いものがいくつも、旗のように揺れているのが見えた。

「降りますか」とあかりは聞いた。
「降りるに決まってるでしょう。寄り道しに来たんだ」

あかりは寄道券を受け取り、一つ目の丸に鋏を入れた。今度は、息を止めなかった。

三 紙漉谷の駅判

ホームに降りると、ハルの腕時計の秒針がぴたりと落ちついた。十五時四十一分。

谷だった。両側の斜面に木枠がいくつも並び、漉いたばかりの白い紙が干してある。風が吹くと、紙は帆のようにふくらみ、乾いた音を立てた。谷底を細い川が流れていて、水の音が駅のどこにいても聞こえた。

あかりは扉の前で一度止まり、片足ずつホームに降りた。それから振り返って気動車を見た。外から自分の列車を見るのは初めてなのだ、とハルは気づいた。

「どう、外は」
「……思ったより、地面が硬いです」

白い紙を干した谷のホームに、紺の気動車から初めて降りる新人車掌あかりと、振り返るハル。

駅舎は小さな木の小屋で、看板に「紙漉谷」とあった。中には机が一つあり、壁一面の棚に、手のひらほどの木の判がぎっしり並んでいた。机の向こうで、指先まで藍色に染まった男が、彫刻刀を研いでいた。

「駅判ですか」と男が言った。「まわり線の駅のは、ぜんぶ、ここで彫ってます。ヒバといいます」

あかりが事情を話すと、ヒバは聞きながら棚の端に手を伸ばした。取り出した判は、木肌が白いままだった。底の面に何も彫られていない。側面に墨で「灯野」とだけ書いてある。

「灯野だけ、彫れてないんですよ」
「なんで」とハルが聞いた。
「灯野から乗ってくる人に、灯野がどんな駅か聞くんですがね。みんな出かけることで頭がいっぱいで、駅を見てないんだ。三十年聞いて、まともな話が集まらない」

ヒバは判を机に置き、彫刻刀を取った。
「うちの墨は、本当のことしか写さない。彫った絵が今の駅と違えば、紙にのらない。のれば、乗車駅の証明になる。話してください。彫りますから」

ハルは椅子に腰かけ、背筋を伸ばした。灯野のことなら、誰よりも知っている。

「北口を出るとロータリー。タクシーの枠が三台分で、奥に灯野交通の営業所。ロータリーは坂の上にあって、雨の日はマニュアル車がよくエンストする。坂を下りた角が、ふくや。たい焼きの焼き型が十二丁。駅舎は赤い瓦の三角屋根」

ヒバの刀は迷わずに動いた。木屑が細く巻いて机に落ちる。十分ほどで、ロータリーと坂と、小さな三角屋根が浮かび上がった。ヒバは墨を刷毛で塗り、端切れの紙に押した。

持ち上げた紙は、白いままだった。墨は判の上でつやつや光っているのに、紙には一滴もついていない。

「違うところがありますね」
「どこが」
「わたしにはわかりません。灯野を見たことがないので」

ハルは腕を組んだ。ロータリーも坂も、ふくやの焼き型の数も合っているはずだ。毎日数えていたのだから。

「……瓦かね」とハルは言った。「そういや、何年か前に屋根の工事をしてたような気がする。でも、わたしは見てないんだよ。客待ちのあいだは、ずっと道のほうを向いてたから。四十一年、駅には背中を向けてた」

あかりが、遠慮がちに口を開いた。
「屋根は、灰色の板金です。雨どいが一本だけ緑色で、それは去年取り替えたからだって、駅の人が言ってました。研修で、三週間、毎朝ホームから駅を見てたので」
「ほう」とヒバが言った。
「北口の階段の脇に、金木犀が一本あります。今週、ちょうど咲いてます。切符売り場のガラス戸の内側に、サボテンの鉢。その右の壁に伝言板。伝言板の下の桟に、白いチョークが二本と、黄色が一本」

ハルはあかりの顔を見た。あかりは少し赤くなった。
「階段から降りてくる人を、ずっと見てたんです。どの人が、まわり線に乗るのかなって」

ヒバは三角屋根を削り落とし、平たい屋根に彫り直した。雨どいを一本。階段の脇に、小さな花をつけた木を一本。屋根の下に窓口、その横に四角い板。ロータリーと坂は、ハルの話のまま残した。

「これでどうです」

墨を塗り、押した。

今度は、紙に灯野が写った。ロータリーの坂と、灰色の屋根と、金木犀と、伝言板。下に「灯野」の二字。墨はまだ濡れていて、ハルが顔を近づけると、ほんのかすかに、金木犀の匂いがした気がした。

「駅の外を知ってる人と、中を知ってる人が二人そろって、やっと彫れた」とヒバは言った。「三十年待った甲斐がありました」

あかりが補充券の帳面を出し、一枚目の「乗車駅」の欄を開いた。ヒバがそこへ判を押した。小さな灯野が、欄の中にきちんと収まった。

ヒバは判を布で拭き、ハルのほうへ差し出した。
「これを、灯野の窓口へ届けてもらえますか。判は、その駅に置いてあるのがいちばんいい。ここにはもう、写しを取りましたから」
「預かるよ」

ハルは判を受け取り、コートの胸ポケットに入れかけて、やめた。脇の、ボタンのついた内ポケットに入れ直し、ボタンを留めた。あかりはそれを見て何も言わなかったが、口の端が少し上がった。

十六時三十分、二人は気動車に戻った。干した紙が一斉にふくらんで、見送りの手のように揺れた。

四 一分の重さ

「時刻は、どうやって証明するんだい」

走り出した車内で、ハルが聞いた。腕時計の秒針はまた進んだり戻ったりしている。あかりは、のど飴の缶を膝に置いていた。

「ずっと考えてたんですけど……これ、使えないかなって」

缶の蓋を開けると、底に、星の形の小さな紙片があった。「乗」の枠から抜けた、あかりの最初の鋏屑だった。紙漉谷で切った丸い屑も、その隣にあった。

「乗車の鋏を入れたときの屑です。これがいつ切られたかわかれば、乗車時刻になります」
「杉さんは、これを見越してたのかね」
「どうでしょう。杉さん、なんでも『いつか使う』って言うので」

次の駅は、ブレーキの前から音でわかった。かち、こち、かち、こち。何百という時計の音が、窓ガラス越しに聞こえてきた。

「目盛」という駅だった。駅前の通りの両側に、時計屋と秤屋が交互に並んでいた。どの店の時計もぴたりと同じ時刻を指している。十七時二十分。

あかりは二つ目の丸を切った。降りるとき、もうためらわなかった。

通りの真ん中あたりに、「時秤」と看板を出した店があった。カウンターに、真鍮の天秤が据えてある。皿の片方には何ものっていない。もう片方の皿の横には、大小の分銅が並べてあった。店主は四十代くらいの女性で、千草と名乗った。

「物にたまった時間を量るんです。焼いてからどれだけたったパンか、書いてからどれだけたった手紙か」

あかりが星形の屑を皿にのせると、千草はうなずき、分銅を一つずつ反対の皿に置いていった。一時間の分銅を二つ。天秤はまだ屑のほうに傾いている。十分の分銅を二つ。それでも、屑のほうに傾いていた。

千草は、分銅の箱の空いたくぼみを指さした。
「ここに、一分の分銅があったんです。春に、店の前の溝に落としてしまって。それからは、お客さんに『だいたい四十分です』とか言うしかなくて。だいたい、って言うたびに、喉に小骨が刺さったみたいで」

「一分って、どこかで売ってないの」とハルが聞いた。
「この町では、つくるんです。何もしないで過ごした一分を、手のひらに握っておくと、それが重さになる。ただ、本当に何もしないのが難しいんですよ。考えごとをすると、その分だけ軽くなる」

ハルは袖をまくった。
「やってみようじゃないか」

店の前のベンチに腰かけ、右手を軽く握った。千草が「どうぞ」と言った。ハルは目を閉じた。

ハルが手を開くと、米粒ほどの真鍮のかけらがのっていた。千草がつまんで、目盛りのついた小皿にのせる。
「四十一秒ですね」
「ええっ」
「何を考えてました」
「……帰り道。紙漉谷から目盛まで、どこを通ってきたのかって。いや、つい」

ハルは自分で笑い出した。信号待ちのあいだも、次の角をどう曲がるか考えていた。客の話を聞きながらも、渋滞の抜け道を考えていた。何もしない一分なんて、四十一年のあいだ、一度もなかったのかもしれない。

「わたしもやります」とあかりが言った。

あかりの手から出てきたのは、ハルのより少し大きいかけらだった。
「五十二秒」
「……列車、ちゃんと待っててくれてるかなって、最後に思っちゃいました」

千草は二つのかけらを並べ、困ったように、でも楽しそうに見た。
「お二人とも、働きすぎですね」

ハルはあかりの隣に座り直した。
「数えるのは千草さんに任せよう。あんたも数えない、わたしも数えない」
「はい」
「列車は待つよ。ただし書きがあるんだから」

あかりが、ふっと笑った。

二人はベンチに並んで、それぞれ片手を握った。通りの向こうの時計屋のショーウィンドウに、夕方の光が斜めに差しこんでいた。何十という文字盤が、同じ角度で光を返している。かち、こち、と通り中の時計が同じ拍子で鳴っていた。ハルは、次の角のことを考えなかった。あかりは、列車のことを考えなかった。時計の文字盤が少しずつ橙色に変わっていくのを、ただ見ていた。

時計屋の前のベンチで、それぞれ手を軽く握り、夕方の文字盤を静かに眺めるハルとあかり。

「はい、そこまで」と千草が言った。

二人が手を開くと、かけらはなかった。かわりに、あかりの左手とハルの右手のあいだの、ベンチの板の上に、小指の先ほどの分銅が一つ、ころんと置かれていた。

千草は小皿で量り、目を丸くした。
「ちょうど一分。二人で過ごした一分でも、一分は一分なんですね」

千草は「いまの時刻でもう一度」と言って、星の屑をいったん皿から取り、戻した。十分の分銅をさらに二つ足し、最後に新しい一分を置いた。針がゆっくり揺れて、真ん中で止まった。

「二時間四十一分」

千草が店の柱の時計を見上げた。十七時三十三分。
「逆算すると、切られたのは十四時五十二分です」

ハルとあかりは顔を見合わせた。あかりが補充券の帳面を開き、千草は「乗車時刻」の欄に十四時五十二分と書いて、自分の印を押した。印の朱が乾くのを待つあいだ、千草は一分の分銅を指先でそっと撫でていた。

「これ、いただいてもいいですか」
「どうぞ。そのためにつくったんだから」
「端数のほうは、お返しします」

星の屑も皿から返してもらい、あかりはのど飴の缶へ戻した。

千草は、四十一秒をハルの手のひらに、五十二秒をあかりの手のひらにのせた。
「お守りにでも。何もしなかった時間の重さです」

十七時四十分、目盛の時計がいっせいに次の分を打つ中を、気動車は出ていった。

五 待合港の伝言板

「次が、三つ目です」

あかりは寄道券を手に持ったまま言った。残りの丸は一つ。
「次の駅で第三欄の証明がとれなかったら、規則で……」
「降りるんだね。そこで暮らすことになる」
「はい」

ハルは窓の外を見た。いつのまにか海が見えていた。日が沈みかけていて、水平線のあたりが、紙漉谷の紙のように白く光っていた。

十七時五十二分、気動車は大きな建物の中へ、そのまま滑りこんだ。

待合港は、駅というより、ひとつの大きな待合室だった。高い天井に、丸いランプが何十も吊られている。海に向いた壁は一面のガラスで、その手前に長いベンチが何列も並んでいた。ベンチには人がいた。鞄を抱えて列車を待っている人もいれば、編みものをしている人も、将棋を指している人もいる。ここで暮らしている人たちなのだ、とハルにはすぐにわかった。待合室の隅に立ち食いそばの屋台があって、出汁の匂いが天井まで上っていた。

そして、ガラスと反対側の壁が、端から端まで伝言板だった。

あかりは最後の丸に鋏を入れた。ぱちん、という音が、高い天井に小さく響いた。

そば屋の屋台から、前掛けをした男が出てきた。手にチョーク消しを持っている。
「伝言板の番をしてる、木賀です。まわり線のどの駅の板も、ここに全部出るんですよ。灯野なら、あっちの端」

木賀について板の端まで歩くと、見覚えのある字があった。ハルが三時間余り前に書いた一行だ。

寄り道してきます ハル

その下に、別の字が二行、書き足されていた。

どこへだよ。帰りは何時だ 門倉

ハルさん あしたの朝六時半、北口の坂で待ってます。坂道発進、まだ三回に一回エンストします。来てくれないと月曜の試験、落ちます ミツ

ハルは長いあいだ、黙ってその字を見ていた。それから、ふうっと息を吐いた。
「脅しじゃないか」

声は笑っていた。
「ミツさん、というのは」とあかりが聞いた。

「灯野交通の新人。二十四。月曜に二種免許の実技なんだよ。営業所の車はオートマばっかりなのに、試験の車がマニュアルでね。あの子、教習所を出てから一度もクラッチを踏んでなかった。わたし、引退したけど古い軽を持ってて、それがマニュアルだから、日曜の朝に乗せてやってた。それだけ」
「それだけ、ですか」
「あの子が勝手に来るんだよ。わたしが行かなくたって、誰か別の人に頼むさ。営業所には、マニュアルに乗れる年寄りがまだ二人いる」

木賀が、板の上の時計を見上げた。十七時五十六分。
「灯野の板は、六時に拭かれるんでしたね。あっちで消されると、ここからも消えます」

あかりは補充券の帳面を開いた。「お帰りを待つ人」の欄は小さかった。あかりは鉛筆を出し、ミツの一行を、一字も落とさずに写しはじめた。字が欄からはみ出しそうになると、二行目から字を小さくした。最後の「ミツ」を書き終えると、帳面を木賀に向けた。

「伝言板の番の方の、証をいただけますか」
「はいはい」

木賀はチョークの粉のついた指で鉛筆を受け取り、写しの横に「待合港伝言板 木賀 確かに」と書いた。

十七時五十八分。

欄の下半分が、まだ空いていた。旅客本人の返事。

あかりは、伝言板の桟から白いチョークを一本取った。そしてそれをハルのほうへ差し出した。何も言わなかった。帽子のつばの下で、ただ待っていた。規程に何と書いてあるかは、二人とももう知っていた。書けとも、書かなくていいとも、あかりは言わなかった。

ハルはチョークを見た。それからあかりの顔を見た。
「あんた、初日なのに、待つのがうまいね」
「ずっと待ってましたから。三週間、ホームで」

ハルはチョークを受け取った。ミツの一行の下の、ほんの少し空いたところに書いた。字は、営業日報を書いていたときと同じく、まっすぐだった。

坂は朝のうち。六時半に行く ハル

チョークを置いたのが、十七時五十九分。

あかりがその一行を帳面に写し終えたとき、天井のどこかで、時計が六時を打った。

板の灯野の端に、見えない布がかかったようだった。一番上の「寄り道してきます」から順に、字が白い粉になって消えていく。門倉の行が消え、ミツの行が消え、ハルの行が最後に消えた。あとには、緑がかった黒い板が残った。

「向こうで、ちゃんと読まれましたかね」と木賀が言った。
「門倉さんは、消す前に読む人だと思います」とあかりが言った。「サボテンに毎日霧吹きをする人なので」

ハルは紙袋を開けた。たい焼きはまだ温かかった。車内では時間が揺れているので、冷めそこねたのかもしれない。
「木賀さん、これ、外の小豆だよ。食べる?」

木賀は目をぱちぱちさせた。それから、そっと手を伸ばした。
「十九年ぶりだ」

木賀は七回券でまわり線に来て、七つ目のこの駅が気に入ったのだという。帰路券は、その日のうちに自分で車掌に返した。
「ここは、待つのにいい場所でね。待つ人がたくさんいると、待たれてる人の顔も、よく見えるようになる」

木賀はたい焼きを三つに割った。頭と、真ん中と、しっぽ。頭をハルに、しっぽをあかりに、真ん中を自分に。それから屋台の寸胴から、小さな湯呑みに出汁を三杯ついだ。

「乗務中ですので」とあかりが言いかけると、木賀は笑った。
「お客の用が済んだあとの車掌さんは、乗務中じゃなくて、待機中です」

あかりは少し考え、しっぽを受け取った。三人は伝言板の前に立って、たい焼きを食べ、出汁を飲んだ。甘いものとしょっぱいものが交互に来て、ハルは、こういう食べ方を寄り道と言うのかもしれないと思った。

「ここで暮らすのも、悪くないよ」と木賀は言った。「ただ、道がないんでね。あなたには退屈でしょう」
「そうだね」とハルは言った。「曲がる角がないと、腕がなまる」

十八時十分。二人は、まだホームに停まっている気動車へ戻った。行先表示は白いままだった。

六 補充券

発車を待つ車内で、あかりは補充券の帳面を膝にのせ、ペンを持ったまま動かなかった。

乗車駅の欄には、紙漉谷の小さな灯野の判。乗車時刻の欄には、千草の字で十四時五十二分と朱の印。お帰りを待つ人の欄には、ミツの言葉とハルの返事の写し、木賀の証。残っているのは、いちばん下の、発行する車掌が書きこむ欄だけだった。

発行区間。発行理由。車掌名。

「ここに書いたら、これが切符になるんです」とあかりは言った。「わたしの字で」
「そうだね」
「研修では、杉さんがいつも横にいて。書く練習はたくさんしたんですけど、本物は一枚も」
「わたしが横にいるよ。杉さんほどじゃないけど」

あかりはペンを握り直した。

発行区間 待合港→灯野
 発行理由 帰路券紛失(灯野発車後、車窓より)
 車掌 汐見あかり

一字ずつ、ゆっくり書いた。書き終えると、帳面をハルのほうへ少し傾けた。
「字、まっすぐですか」
「わたしの日報よりまっすぐだよ」
「発行料、百円いただきます」

ハルは、窓口でもらった百円玉の四枚のうちの一枚を、あかりの手のひらにのせた。あかりは改札鋏を取り、補充券の隅に、星の形の鋏を一つ入れた。屑は、のど飴の缶に落ちた。缶の中で、最初の星と並んだ。

そのときだった。ハルの腕時計の秒針が、進んで、戻るのをやめた。進んで、進んで、進んだ。十八時十五分。

行先表示に、初めて「灯野」の字が出た。あかりが発車の合図を送ると、気動車はホームを離れた。

前の壁の時刻表を見ると、揺れていた墨の字が、一つずつ落ちついていくところだった。上から待合港、目盛、紙漉谷。いちばん下に、灯野。

「終点ができた」とハルが言った。
「帰りの便だけは、終点があるんです。研修で習いました。でも、本当にこうなるのは、初めて見ました」

窓の外を、来た道が逆向きに流れていった。待合港のランプが遠ざかり、目盛の時計屋の灯りが一列に光り、紙漉谷の谷では、取りこみ忘れた紙が一枚、夕闇に白く浮いていた。ヒバが窓のところで手を振っていたような気がしたが、速すぎて確かめられなかった。

「ハルさんは、どうしてタクシーをやめたんですか」とあかりが聞いた。聞いてから、聞いてよかったのか迷う顔をした。

「夜の目がね、七十五のとき、ちょっと利かなくなった。昼だけ走る手もあったんだけど、昼だけっていうのが、どうも中途半端で」ハルはポケットの上から、ボタンの内側の駅判を押さえた。「まっすぐ帰るのは得意だったんだよ。帰ってから何をするかは、考えたことがなかったけど」

あかりは何か言おうとして、やめた。かわりに、規程の手帳を出して、第十二条のページを開いた。鉛筆の「ただし書きを読め」の下に、自分のペンで小さく書き足した。

お客さまと一緒に読む。

「今日の、わたしの書きこみです」
「いいね。お古をもらう次の子が、読むよ」

十九時六分、気動車は灯野の短いホームに着いた。

北口の階段を上ると、切符売り場の灯りがまだついていた。ガラス戸の向こうで、門倉が腕を組んで座っていた。二人を見ると立ち上がり、戸を開けた。

「六時に消す前に、読みましたよ」と門倉は言った。「坂は朝のうち、ね」
「読んだんなら、それでいいよ」

あかりが補充券を差し出した。
「車内補充券です。乗車駅、灯野。乗車時刻、十四時五十二分。お帰りを待つ人、光田ミツさん。……回収をお願いします」

門倉は老眼鏡をかけ、補充券を端から端まで読んだ。灯野の判のところで指を止め、目を細めた。

「これ、どこで押してもらいました」
「紙漉谷です」とハルが言って、内ポケットのボタンをはずした。「ヒバさんから、窓口に届けてくれって」

門倉は判を受け取り、底の面を見た。坂のロータリーと、灰色の屋根と、金木犀と、伝言板。しばらく何も言わなかった。それから引き出しを開けて、中から消しゴムでつくった四角い判を出した。「とうの」とひらがなで彫ってあり、角が欠けていた。

「お客さんに判がほしいって言われるたび、これを押してた」門倉は消しゴムの判を引き出しに戻した。「三十年、灯野だけなかったんですよ」

門倉は新しい判に朱肉をつけ、あかりの乗務日誌の今日のページに押した。灯野がきれいに写った。

「初日で補充券を書く車掌は、そういません。杉さんに言っておきます」
「怒られませんか」
「ただし書きのとおりなら、怒る人じゃないよ」

ハルは窓口のガラスにもたれた。
「門倉さん、次からは帰路券、切り離さないでって、もっと大きい字で書いといてよ」
「書いておきます。四十一年で一度目のお客さんのために」

ロータリーの坂の上で、灯野交通の営業所の灯りが消えるところだった。

七 坂道発進

日曜の朝六時半、灯野駅北口の坂の下に、白い古い軽自動車が停まっていた。

運転席に光田ミツ、助手席に戸叶ハル。ミツの額には、もう汗が浮いていた。

「半クラッチ。もうちょっと。……そこ。そこで止める。足の裏で、車が坂を嫌がってるのがわかるだろ」
「わかんないです」
「わかるまでやる」

エンジンが、がくん、と止まった。ミツがハンドルに額をつけた。
「三回目」
「まだ三回目だよ。わたしは免許とるとき、十一回止めた」
「嘘だ」
「嘘だよ。でも、きのう、四十一秒しか何もしないでいられない人間だってことがわかったから、十一回くらいは止めてたかもしれない」
「なんの話ですか」
「寄り道の話」

階段の上の金木犀の脇を、紺の制服の若い車掌が降りてきた。帽子は、きのうより少しだけ深くかぶっていた。七時十二分の乗務に向かう、汐見あかりだった。坂の下の白い軽に気づくと、足を止め、小さく会釈した。

ハルは窓を下ろした。
「乗ってくかい」
「ホーム、そこです」とあかりは笑った。「二百メートルもないです」
「冗談だよ。見ていきな。四回目」

ミツは深呼吸をして、エンジンをかけ直した。サイドブレーキに手をかける。クラッチをゆっくり上げる。エンジンの音が低く変わり、車体がほんのわずか、坂の上へ身を乗り出すように沈んだ。

「いま」とハルが言った。

ミツがサイドブレーキを下ろした。白い軽は、一センチも下がらずに、坂を上りはじめた。そのままロータリーを半周して、タクシー乗り場の三つ目の枠の前で止まった。

ミツは、しばらくハンドルを握ったまま固まっていた。それから窓から顔を出して、坂の下に向かって叫んだ。
「できた!」

あかりが、坂の下で、両手を小さく叩いた。

ハルは助手席で、ポケットから米粒ほどの真鍮のかけらを出し、指先で転がした。それから戻した。

「あと五回、続けてできたら、今日は終わり」
「五回も」
「五回。それが済んだら、帰りは遠回りしよう」

ミツが、ハルの顔をまじまじと見た。
「ハルさんが、遠回り?」
「寄り道だよ。この先を右に曲がると、金木犀が並んでる通りがあるだろ。客を乗せてるときは、一度も通らなかった。信号が二つ多いから」

あかりは、坂を上ってくる白い軽をもう一度見てから、階段を降りていった。短いホームに、紺色の気動車が一両、行先表示を白く光らせて待っていた。

七時十二分、あかりはその日最初の客の切符を受け取った。年配の男性で、一回券だった。「乗」の枠に鋏を当て、今度は、息を止めずに握った。ぱちん。星の形の屑が、手のひらに落ちた。

「切り離さないでくださいね」とあかりは言った。「下のほうが、帰りの切符ですので」

男性が首をかしげると、あかりは胸ポケットから手帳を出し、ページを開いて、男性に見えるように向けた。

「一緒に読みましょうか。ここに、ただし書きがあるんです」

のど飴の缶の中で、星の形の屑が、また一つ増えた。五十二秒の分銅は、缶のいちばん底で、ほかの屑の下に隠れていた。

坂の上で、白い軽が右に曲がるのが、ホームの端からほんの少しだけ見えた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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