片足の朝
土曜の朝九時十分。七緒は右足にだけスリッパを履いて、廊下を行ったり来たりしていた。左足は灰色の靴下のままで、床に着くたびに少し爪先立ちになる。
「左、見なかった?」
「スリッパ?」
「スリッパ。左だけ」
透は軍手をはめた手で、玄関脇に積んだ段ボールを指さした。西側の小部屋から出した物を、昨夜のうちに三箱に分けてある。リサイクルショップ行き、実家へ送る物、迷い中。
「迷い中に入ってたら笑うけど」
「笑わないで探して」
七緒は迷い中の箱を開けた。古いアイロン、使わなくなった加湿器のフィルター、透が学生時代に使っていた辞書。順に出しては、また順に戻していく。透は腕時計を見た。今日のうちに本棚を小部屋から居間へ移し、床を拭いて、あの四畳半を何に使うか決めてしまいたかった。もう二年も、あの部屋は「とりあえず置く部屋」のままだ。
「とりあえず、本棚から動かさない? スリッパは動いてるうちに出てくるよ」
「出てこない気がする」
「なんで」
「昨日、ちゃんと置いたから」
置いた場所を覚えているなら探す必要はない。そう言いかけて、透はやめた。七緒の顔が、校正紙の誤植を三度見直すときの顔になっていたからだ。
窓の取り合い
小部屋には本棚が一つ残っているだけで、がらんとしていた。床には何も敷いていない。昨夜まで敷いてあった生成りのラグは、透が寝る前に巻いて廊下に立てかけておいた。朝のうちに床を拭きたかったのだ。
南西向きの窓から、秋の光が斜めに差しこんでいる。七緒は窓の前でいったんしゃがみ、床を手のひらでなでてから立ち上がった。
「ここにもない」
「そこに置いたの?」
「この辺」
七緒が「この辺」と指したのは、窓から一メートルほど離れた、何もない床だった。
透は軍手を外して尻ポケットに押しこんだ。先に言ってしまおう、と思った。スリッパが出てくる前に。
「あのさ。この部屋の窓、ひと月だけ貸してほしい」
「ひと月?」
「柿、買ってきたんだ。昨日、直売所で」
台所の床に置いた紙袋には、渋柿が二十四個入っている。十二個で六百五十円の袋が二つ。ヘタの枝をT字に残したものを、店のおばあさんが選んでくれた。
「干し柿にしたい。居間の窓だとエアコンの風が当たるし、ベランダには鳩が来る。室内用の物干し台をここの窓ぎわに置いて、二個ずつ紐で吊るしたら十二本。ちょうど並ぶ」
「いつから計算してたの」
「直売所のレジで」
七緒は少し笑って、それから笑うのをやめた。
「私もこの窓がほしい」
「うん」
「ゲラを読む椅子を置きたいの。食卓だと、夕方になると自分の頭の影が紙に落ちるでしょう。ここなら午後のあいだずっと、横から光が来る」
透は窓を見た。窓ぎわの物干し台に柿が並べば、光の半分は柿の色になる。皮をむいたばかりの柿は、乾くまでに汁を落とすこともある。その下でゲラを読ませるのはどうなのか。
「柿の下だと、紙が汚れるかもしれない」
「椅子を窓にくっつけるつもりはないの」
「じゃあ、どこ」
「だから、それを測ってあったの。スリッパで」
巻かれたもの
透は廊下へ出て、立てかけてあったラグを抱えてきた。直径三十センチほどの筒は、思っていたより重い。床に広げてみれば、椅子の位置も柿の位置も考えやすいはずだ。
「拭いてからにするんじゃなかったの」
「床は後。先に決めたい」
窓側の壁に端を合わせて、透は筒を足で押した。ラグは軽い音を立てて転がりながらほどけていく。最後のひと巻きのところで、何かがこつんと床に落ちた。
灰色の、ふかふかした、左のスリッパだった。
七緒はそれを拾い、右足から脱いだスリッパと並べて床に置いた。透は、ほどけたラグの端と自分の手のひらを交互に見た。
「巻いたの、俺だ」
「知ってる。今わかった」
「昨日、風呂に入る前に巻いた。端に何か乗ってるの、全然見てなかった」
「私は、お風呂から出たら続きを測るつもりだった」
七緒は左のスリッパを手に持ち、窓の下の壁にかかとを当てた。爪先の位置に指を置き、スリッパを持ち上げて、指の先にかかとを合わせる。一足、二足、三足、四足、五足。
「二十五センチが五つで、百二十五センチ。昨日はここで、お風呂が沸いたって音が鳴ったの」
「だから、そこに置いた」
「目印にね。ここから後ろに椅子を置けば、窓とのあいだが空くでしょう。何か置けるくらいに」
透は、窓とスリッパのあいだの床を見た。百二十五センチ。柿を吊るしても、その真下に新聞紙を広げられる幅だ。
「柿のこと、話してたっけ」
「話してない。でも冬になると、あなた毎年なにか窓で干したがるでしょう。去年は大根。その前はみかんの皮」
「みかんの皮は干したがったわけじゃない。七味を作ろうとしたんだ」
「同じよ」
二段の柿
それでも、と七緒は言った。
「柿が十二本並んだら、さすがに暗いかもしれない」
「そうか」
「紙に白い光が当たるのが大事なの。全部オレンジ色になったら、赤字と区別がつかない」
校正者らしい心配だった。透は窓の幅を両手で測った。端から端まで、およそ百六十センチ。
「じゃあ、椅子に近い側の三分の一は空ける。そこには吊るさない」
「入りきる?」
「紐を長くして、二段にする。上の段と下の段で互い違いに」
十一時から十二時半まで、二人は台所で柿をむいた。透がピーラーで皮をむき、七緒が枝に麻紐を結ぶ。紐は百円ショップで買った、百十円の麻紐一巻きだ。鍋に湯を沸かし、二個一組にした柿を五秒ずつくぐらせた。
「これ、なんのため」
「下ごしらえ。直売所のおばあさんが言ってた。あとは風を通して、毎日様子を見るんだって」
「五秒は、おばあさんの五秒?」
「俺の五秒」
七緒が声に出して数を数えた。透は自分の数え方のほうが少し速いことに気づいたが、黙っていた。

午後一時を回ったころ、透は物干し台の表示と柿の重さを確かめてから、窓ぎわへ置いた。網戸越しに風が入るよう窓を少し開ける。窓の三分の二に、柿が二段に並んだ。十二本、二十四個。真下には新聞紙を二枚重ねて広げ、窓から百二十五センチのところには、スリッパの代わりにマスキングテープを貼った。椅子はテープの線の後ろ、空けておいた三分の一の正面に置いた。
七緒が腰を下ろし、膝にゲラの束をのせた。柿のない窓から、まっすぐな光が紙に落ちる。隣からは、柿を透かした少し甘い色の光が、床と七緒の足もとに落ちていた。

「どう」
「読める。赤字も赤い」
「よかった」
床をまだ拭いていなかったことを思い出して、透は雑巾を取りに行こうとした。七緒がゲラから目を上げずに言った。
「透の場所は?」
「柿の場所があるよ」
「柿じゃなくて、あなたの」
透は立ち止まって部屋を見回した。最後の本棚を居間へ移せば、壁際が空く。柿の真下でもなく、ゲラに当たる光もさえぎらない場所だ。
「本棚をどけたら、そこに丸椅子を置く。で、柿を揉む」
「揉むの?」
「一週間くらいして表面が乾いてきたら、ときどき揉むと柔らかくなるんだって」
「それも、おばあさん」
「おばあさん」
七緒は笑って、足をぶらぶらさせた。今度は左にも、ちゃんとスリッパが履かれていた。


