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旅・仕事

海の見えない、港のホテル

海は見えません。でも、始発の船には間に合います。

作者
クロード
読了目安
約37分
長さ
中編
#あたたかい#旅#仕事
海の見えない、港のホテルのイメージ

あらすじ

港から歩いて七分なのに、どの窓からも海が見えないホテルもやい。父から宿を引き継いだ姉の千景は直前割を考え、弟の陸は朝食を再開したいと言う。三連休の予約表をはさんで二人の意見がぶつかる夜、黒い箱を持った客が来て、八年前にやめた船弁のことを尋ねる。客の朝から、宿の仕事を組み直す物語。

読みやすく、好きなところから。

目次・7章

満室まであと六部屋

ホテルもやいのフロントには、父の代から置いてある真鍮の呼び鈴がある。手のひらで押すと、見た目よりずっと高い音がする。
十一月二日、月曜の夜九時すぎ。その呼び鈴が二度鳴った。
「それ、やめてって言ったよね」
真柴千景はノートパソコンから目を上げずに言った。鳴らしたのは客ではなく、厨房から出てきた弟の陸だ。人を呼ぶとき、声を出すかわりにこれを押す。子どものころからの癖だった。
「見てほしいものがある」
「こっちも見てほしいものがある」
千景は画面を弟のほうへ回した。三連休の予約表だ。十一月二十一日の土曜、全十二室のうち埋まっているのは六室。二十二日の日曜は三室。月曜が勤労感謝の日で、遠くから来る人にも近くから来る人にも都合のいい並びなのに、表の右半分は白いままだった。
土曜の六室は、サイト経由が二室、直接予約が四室。日曜の三室は、いずれも直接の予約だった。

「あと三週間で、六部屋と九部屋」
「うん」
陸はうなずいて、手に持っていた小皿をカウンターに置いた。卵焼きが三切れ。断面に、刻んだ青じそとちりめんじゃこが散っている。
「朝ごはんの話は、あとで」
「あとで、って言ってるうちに三連休が来るんだって」

ホテルもやいは、三ツ浜港から歩いて七分の場所に建っている。三階建てで、客室は二階と三階に六室ずつ。二〇一から二〇六、三〇一から三〇六。奇数の部屋は表通りに面していて、窓の正面には三ツ浜冷蔵の灰色の壁がある。港はその壁の向こう、五百五十メートル先だ。偶数の部屋は裏の路地側で、坂の上の家々と、ベランダの洗濯物と、朝の光が見える。
どの部屋からも、海は見えない。
父の修が三十一年続けたこのホテルを、今年の春、姉弟で引き継いだ。父は膝を悪くして、母と一緒に内陸にある母の実家へ移った。千景は九年勤めたビジネスホテルチェーンの本部で、客室の値段を決める仕事をしていた。陸は街の定食屋で六年、鍋を振っていた。二人とも、父に頼まれたわけではない。頼まれる前に、自分から言った。
言ってから、いろいろなことを知った。四月には給湯ボイラーが壊れ、入れ替えに百八十万円かかった。借入の返済が毎月三万円。冬が来る前に、せめて三連休くらいは満室にしておきたい。
「残りの六室、予約サイトで六千八百円にする」
千景は言った。
「直前割。日曜も同じ」
「八千八百を、六千八百?」
「空いた部屋はゼロ円。六千八百円なら、サイトの手数料の一二パーセントを引いても五千九百八十四円残る」
「安いから来る人は、安くないと来ないよ」
「来ない人よりはいい」
陸は卵焼きの皿を、姉のほうへ少し押した。
「朝ごはんを出したい。一階の『朝の間』、十四席ある。素泊まり八千八百円に、朝食を一人千百円。原価は四百円ちょっとで収まる」
朝の間は、父が若いころ喫茶店として開けていた部屋だ。八年前に朝食をやめてからは、自動販売機の横で、ときどき客が新聞を読むだけの場所になっている。
「朝食をつけたら来る、っていう根拠は?」
「……レビュー」
陸は千景のパソコンに手を伸ばして、予約サイトの口コミ欄を開いた。いちばん上にあるのは、先月の星二つだった。
――港のホテルと書いてあったので海を期待しましたが、窓の外は倉庫の壁でした。部屋は清潔で静かです。
その下に星四つが一件。駅から歩ける、静か、フロントが親切。朝食がないのが残念。
「ほら。朝食がないのが残念、って」
「星二つのほうは、海が見えないから星二つなの。卵焼きじゃ消えない」
陸は口を開けて、閉じた。言い返す言葉を探している顔だった。千景は卵焼きを一切れつまんだ。じゃこの塩気のあとで、しその匂いが鼻へ抜ける。
「おいしい」
「知ってる」
「おいしいのは、わたしも知ってる。問題は、陸が毎朝四時半に起きて、十四席を一人で回すってこと。今の人数で」
陸は黙った。今のもやいで働いているのは、姉弟のほかに清掃の河合さん一人だけだ。朝九時から昼の二時まで。フロントは千景、夜の見回りと設備と買い出しは陸。朝食を始めれば、陸の一日は朝の四時台から夜の十一時まで延びる。
「やれる」
「やれるかどうかじゃなくて、続けられるかどうか」
千景は予約管理の画面を開き、土曜と日曜の残りの部屋に六千八百円と打ち込んだ。公開のボタンの上で、矢印が止まる。
「金曜まで待つ」
千景は言った。
「六日の金曜の夜に、もう一回数字を見る。それで埋まってなかったら押す」
「金曜までに、俺が何か見つければ」
「見つければね」
陸は空になった小皿を持って厨房へ戻った。のれんが揺れて、静かになった。
キーボードの横に、一枚のメモが挟まっているのに千景は気づいた。鉛筆の、角ばった字だった。
――二十二日(日)、お休みをいただけないでしょうか。島のまつりで、孫が踊ります。河合
千景は額に手を当てた。満室になれば、日曜の朝には十二室ぶんのチェックアウトがある。掃除を一人で回せる人が、その日に限っていない。
メモを裏返して、ボールペンで小さく書いた。「考えさせてください」。書いてから二本線で消して、「相談させてください」と書き直した。

二十三時七分の客

電話が鳴ったのは、四日の水曜、夜の九時十分だった。
「今夜、一部屋、空いていますか」
落ち着いた、少しかすれた男の声だった。水曜の夜は四室しか埋まっていない。空いております、と答えると、声はほっとしたように続けた。
「ただ、着くのが遅くなります。三ツ浜駅に二十二時五十一分の電車で着いて、そこから歩くので」
駅からもやいまでは十二分かかる。着くのは十一時を過ぎる。もやいのフロントは十一時で閉めて、それ以降は予約のある客にだけ、玄関脇の鍵箱の番号を教えることにしている。初めての客に、暗い玄関で鍵箱を開けさせるのは気が進まなかった。
「お待ちしてます」
背中で声がした。陸が、厨房ののれんから顔だけ出していた。千景は受話器を手でふさいで振り返る。
「明日の仕込みもないでしょ。俺、起きてるよ」
千景は少し考えて、受話器から手を離した。
「お待ちしております。お名前をうかがえますか」
「マキノです。牧場の牧に、野原の野。それと、明日の朝はかなり早く出ます。六時五十分の、鷺ノ島行きの船に乗りたいので」
鷺ノ島は、三ツ浜港から船で三十五分の島だ。三ツ浜を出る船は、六時五十分が始発になる。

玄関の自動ドアが開いたのは、十一時七分だった。
灰色のコートの男が、黒い箱を提げて入ってきた。角に金具のついた、旅行鞄よりひとまわり小さい箱だ。肩には布の鞄をかけている。五十代の半ばくらいだろうか。夜風で耳が赤かった。
「遅くにすみません。牧野です」
「お疲れさまでした。お持ちしましょうか」
陸が手を出すと、牧野は首を振った。
「十二キロあります。慣れてますから」
牧野は箱をカウンターには載せず、自分の足もとにそっと置いた。宿泊カードの職業の欄に、ていねいな字で「ピアノ調律師」と書く。
「鷺ノ島の公民館のピアノを見に行くんです。いつも見ていた方が、この夏で引退されて。わたしが引き継ぎました。島は、初めてで」
千景は二〇二号室の鍵を出した。二階の裏側の部屋で、もやいでいちばん静かだ。説明をしかけたところで、牧野が言った。
「つかぬことをうかがいますが、船弁って、まだありますか」
千景は、鍵を持ったまま止まった。
「……せんべん」
「船の弁当、と書いてありました」
牧野はコートの内ポケットから、折りたたんだ紙を出した。古い大学ノートの一ページを写したものらしい。細い万年筆の字が並んでいる。
――鷺ノ島公民館。ヤマハU3(一九七二年製)。秋は湿気に注意。宿はもやい(船弁あり)。
「前任の田辺さんの顧客帳です。四十件ぶん、こういうメモをいただきました」
千景が答えるより先に、陸が言った。
「親父がやってた。俺が高校のころまで。始発に乗るお客さんに、おにぎり二つと卵焼きと沢庵を包んで」
千景は十八で家を出て、それから街で暮らしていた。帰省した朝、厨房で父が何かを包んでいたのを、ぼんやり覚えているだけだ。
「八年前にやめたんです。母が手首を痛めて」
陸はそう言ってから、千景のほうを見ずに続けた。
「でも、五時五十分でよければ、何か作ります。座って食べるのと、船で食べるのと、両方」
千景は弟の横顔を見た。牧野は、紙をていねいに折りなおした。
「それは、ありがたい。お代は」
一拍、間があいた。
「千百円です」
自分の声だった。どこから出てきた数字か、千景にはわかっていた。陸にもわかっていたはずだが、弟は何も言わずに、カウンターの下で小さく拳を握った。

牧野が階段を上がっていったあと、千景は呼び鈴の横に宿泊カードを揃えて置いた。
「今回だけね」
「今回だけね」
陸は同じ言葉を返して、もう厨房の冷蔵庫を開けていた。

五時五十分のカウンター

千景が起きたのは五時二十分だった。
家族の居住部分から廊下へ出ると、厨房の明かりはもうついていて、炊きあがったご飯の匂いがロビーまで流れてきていた。陸は四時五十分から起きていたらしい。流しの横に、洗い終えた鍋がひとつ伏せてある。
五時五十二分、牧野がコートを着て、黒い箱を提げて降りてきた。
朝の間のカウンターに、陸が盆を置いた。白いご飯、あおさの味噌汁、鯵の干物の半身、卵焼きが二切れ、白菜の浅漬け。盆の端に、アルミ箔の包みがひとつ。
「梅と昆布のおにぎりです。船で」
「ああ、これが」
牧野は包みを両手で持ち上げて、重さを確かめるような顔をした。それから味噌汁をひと口すすって、しばらく黙った。
千景はフロントからコーヒーを運んで、隣の席に置いた。聞くつもりはなかったのに、口が先に動いた。
「あの。どうして、うちにしてくださったんですか。丘の上なら、海の見えるホテルもありますけど」
汐見台ホテルとホテル・ベイヒル。どちらも窓いっぱいに港が広がる部屋が売りで、もやいより三千円は高い。
「調べました」
牧野は箸を置いた。
「どちらも、きれいでした。でも朝食は七時からで、港まではタクシーで十分。始発に乗るなら、朝食はあきらめて、六時過ぎにタクシーを呼ぶことになる。ここは、地図で見たら港まで歩いて七分でした」
「でも、海は」
「海は、船に乗れば三十五分、ずっと見えますから」
牧野は笑って、卵焼きを口に入れた。
「それに、海の見える部屋に泊まると、わたしはたぶん、朝、ずっと海を見てしまう。それで船に遅れる」
厨房の入口で、陸が布巾を持ったまま笑った。
「それと、田辺さんのメモは、たいてい正しいので」
「たいてい、ですか」
「ピアノのことは、ほとんど正しいです。でも書いたのは何年も前ですから、そのままじゃないこともある。わたしは昨日まで、船弁があると思ってました」
千景は、思わず弟と顔を見合わせた。
「調律も、少し似てるんです」
牧野は、湯気の立つ茶碗を手のひらで包んだ。
「前の人の記録どおりに合わせても、ピアノは前と同じ部屋に、同じ湿気でいるわけじゃない。記録を見て、それから今の音を聞く。そうしないと、合わせたつもりで、ずれる」
陸は、手の中の布巾を一度たたみなおした。

まだ暗いホテルの朝食カウンターで、牧野にコーヒーを運ぶ千景と厨房の陸。盆には朝ごはんとアルミ箔の包みがある。

食べ終えると、牧野は布の鞄をフロントに預けたいと言った。
「帰りは、鷺ノ島を十五時半に出る船で、こちらに十六時五分に着きます。十六時四十二分の電車に乗りたいので、そのあいだに取りに来ても」
「もちろんです。お預かりします」
千景は荷札に「牧野様 十六時ごろ」と書いて、鞄の持ち手に結んだ。
六時十八分。玄関の外はまだ薄暗く、表通りの街灯がぽつぽつと残っていた。牧野は黒い箱を右手に、アルミ箔の包みをコートのポケットに入れて、港のほうへ歩いていった。三ツ浜冷蔵の壁の角を曲がって、見えなくなる。
千景は千百円をレジに入れて、領収書の控えに「朝食」と書いた。初めて書く二文字だった。
フロントに戻って、宿泊カードの束を揃えていると、ガラスのドア越しに、低い音が聞こえた。
長く、一度だけ。
時計を見ると、六時五十分だった。
「……汽笛、ここまで聞こえるんだ」
厨房から陸が顔を出した。
「毎朝鳴ってるよ」
「知らなかった」
「姉ちゃん、六時五十分は、だいたいパソコン見てるから」
千景は返事をせずに、ドアのほうを見ていた。壁の向こうの、見えない港の方角を。

帳簿の中の船

その朝、千景は事務室の奥の戸棚を開けた。
父の台帳が、年ごとに大学ノートで並んでいる。三十一年ぶん。予約の受け付けがパソコンに移ったのは去年からで、それより前は全部、父の手書きだった。
名前、人数、部屋、料金。それから、備考欄。
千景はノートを一冊ずつめくった。備考欄には、同じような言葉がくり返し出てきた。
「始発」「島」「船弁2」「帰りの船待ち」「先生」「工事三名、始発」「法事」。
ページをめくるたびに、千景の頭の中で、もやいの客の姿が少しずつ変わっていった。海を見に来た人ではない。海を渡りに来た人たちだった。
パソコンのほうの記録も開いた。今年の四月から十月まで、七か月ぶんの鍵の返却時刻を一件ずつ拾っていく。七時半までに鍵を返した客は、四割を少し超えていた。土曜の夜に限ると、六割近い。
その人たちに、もやいは今、何も出していない。インスタントのコーヒーの自動販売機と、「行ってらっしゃいませ」のほかは。
「何、数えてるの」
陸が、湯気の立つ湯のみを二つ持って入ってきた。
「始発の人」
「何人いた」
「思ってたより、ずっと」
千景が画面を見せると、陸は湯のみを置いて、長いことその数字を見ていた。

九時、河合さんが来た。
六十四歳、生まれは鷺ノ島で、三ツ浜へは嫁いできた。もやいの掃除を始めて十五年になる。千景が裏返したメモを渡すと、河合さんは「相談、ね」と読んで、少し笑った。
「その前に、河合さん。船弁のこと、覚えてますか」
「覚えてるも何も」
河合さんはエプロンの紐を結びながら、目を細くした。
「あれは名物だったのよ。始発に乗る人は、みんな前の晩にもやいに泊まって、朝、旦那さんから包みをもらって船に乗った。島の人だけじゃないよ。役場の人も、学校の先生も、工事の人も、法事の人も。包むのは奥さんと、わたしも手伝った。経木でね」
「やめてから、その人たちは?」
「島の人は、汐見台に泊まるか、夜中に車で来て、港の駐車場で寝て待ってるか」
河合さんは、少しだけ声を低くした。
「二十二日の島まつりもね、島から出てった人がたくさん帰ってくるの。土曜の晩にこっちへ来て、日曜の始発で渡る。臨時の便も八時十分に一本出るけど、公民館の演奏会と踊りが十時からだから、みんな始発に乗りたがる。今年はね、ピアノを見てくれる人が代わるんだって。前の人、引退したから」
千景と陸は、また顔を見合わせた。

昼前、三〇三号室を掃除していた河合さんが、階段の上から二人を呼んだ。
「ちょっと、二人とも。いいもの見せてあげる」
三〇三は三階の北の角部屋だ。窓の正面は、ほかの奇数の部屋と同じく三ツ浜冷蔵の壁。河合さんは窓を大きく開けて、窓枠に手をついて右へ身を乗り出した。
「ほら、あそこ」
陸が代わって身を乗り出す。千景もその後ろから首を伸ばした。
倉庫の角と、港のクレーンの脚とのあいだ。灰色と灰色にはさまれて、細い青が一本、光っていた。手のひらを一枚、縦に立てたくらいの幅だった。
「海だ」
陸の声が跳ねた。
「姉ちゃん、海の見える部屋。三〇三だけ、プラス千五百円」
「三階の窓から、お客さんに身を乗り出させるの?」
陸の肩が、目に見えて落ちた。河合さんが、こらえきれずに笑い出す。
「旦那さんも、昔、おんなじこと言ってたよ。それで奥さんに、おんなじこと言われてた」
三人で笑って、窓を閉めた。細い青は、閉めたガラスの向こうでは、もう見えなかった。

牧野が戻ってきたのは、十六時十二分だった。
「いいピアノでした」
布の鞄を受け取りながら、牧野は言った。
「ただ、公民館は冬になるとストーブを焚くので、湿気がまた変わる。演奏会の朝に、もう一度見たいんです。二十一日の土曜、一部屋お願いできますか。朝食も、五時五十分で」
千景は予約表を開いた。土曜の空きは、六室のままだった。
「お取りします」
「それと」
牧野は鞄を肩にかけて、思い出したように振り返った。
「公民館の館長さんに聞かれました。三ツ浜で、朝早くから開いている宿を知らないかって。汐見台はもう満室で、島を出た人たちが、泊まるところがないと困っているそうです」
牧野が十六時四十二分の電車に向かって出ていったあと、千景はしばらく、予約表の土曜の列を見ていた。
その夜、千景は管理画面を開いて、土曜の六千八百円を消した。日曜の列には、まだ数字が残っている。
「日曜は?」
後ろから陸が聞いた。
「日曜の夜に泊まる人は、始発に乗らない。お祭りの帰りの人だから」
千景は画面を閉じた。
「まだ考える」

書き直す一行

五日の夜、二人は朝の間のテーブルを二つくっつけて、向かい合って座った。
千景の前には、方眼のノートと電卓。陸の前には、裏紙に鉛筆で書いた献立。
「先に決めること」
千景は言った。
「誰に売るか。値段。陸が何時に起きて、何時に寝るか」
「最後のは、俺が決める」
「最後のがいちばん大事なの」
陸の献立は、父の船弁とは少し違っていた。おにぎり二つは同じ。卵焼きも入れる。そこへ、冷蔵しておいた鯵の干物を朝に焼き、半身ほぐして入れ、沢庵のかわりに白菜の浅漬けを添える。座って食べる客には、それにあおさの味噌汁。どちらも千百円で、材料費は一人ぶん四百二十円ほど。
「親父のと同じにしないの?」
「同じにしても、親父のにはならないから」
陸はそう言って、鉛筆の先で「経木」と書いた。
「でも包むのは経木にしたい。アルミだと、船の上で開けたとき、ちょっと寂しい」
千景はノートに書き足した。経木、百枚で千八百円。問屋に電話。

土曜は、素泊まりの八千八百円のまま。朝ごはんか船弁を、一人千百円でつけられる。早朝の朝食は五時四十五分から六時二十五分まで。六時五十分の始発に間に合うように、六時二十五分には宿を出られる。船弁は前の晩の九時までに注文してもらう。島へ渡っているあいだは、荷物を無料で預かる。朝五時半には、フロントの黒板に船会社の運航状況を書き出す。
そこまでは、すんなり決まった。揉めたのは、予約サイトの紹介文の一行目だった。
千景がノートの端に書いた。
――海は見えません。
「最初にそれ書く?」
陸が身を乗り出した。
「わざわざ、悪いところから」
「星二つの人はね、海が見えないことに怒ったんじゃないと思う。見えると思って来たことに怒ったの」
「でも、それ読んだら、誰も来ない」
「海を見に来る人は来ない。それでいい。来て怒る人を、わざわざ呼ばなくていい」
陸は鉛筆を取って、その下に書いた。
――港まで歩いて七分。始発の船に間に合う朝ごはんがあります。
「せめて、二行目はこれにして」
千景は二行をしばらく見比べてから、うなずいた。
「いいね。二行目のほうが、強い」
陸は鉛筆を置いて、少し照れたように顔をこすった。

もうひとつ揉めたのは、そのあとだった。
千景はノートに、陸の一日を時刻で書き出した。四時四十五分起床。厨房。七時に片づけ。九時から昼まで買い出しと設備。昼に一時から三時まで仮眠。夜はフロントを交代して、十一時に終わり。
「朝ごはんを出すのは、前の晩の九時までに注文があった日だけ。一日二十食まで。それ以上は受けない。平日でも注文がなければ、陸は六時まで寝る」
「二十人来たら?」
「二十一人目には、断る」
「断りたくない」
陸の声が、少し大きくなった。
「俺の朝ごはんを、姉ちゃんの表で縛らないでよ。親父は、来た人には全員包んでた」
「お父さんには、お母さんと河合さんがいた。それで、お母さんは手首を痛めて、やめたの」
千景は、言ってから唇を噛んだ。陸は黙って、テーブルの木目を見ていた。
「縛ってるんじゃない」
千景は、声を落とした。
「続けられる数にしてるの。三連休だけ満室にして、陸が十二月に寝込んだら、わたしは一人で十二室を回すことになる。それは、困る」
長い沈黙のあとで、陸は言った。
「……二十食。注文は九時まで。昼寝は一時から三時」
「火曜は休み。朝ごはんなし」
「それ、いま足したでしょ」
「足した」
陸は鼻から息を吐いて、ノートの「火曜」に自分で丸をつけた。

翌朝、千景は河合さんに言った。
「二十二日、お休みにしてください」
「いいの? 満室になったら、日曜の掃除が」
「わたしと陸でやります。チェックアウトの部屋は一部屋二十五分を目安に、連泊の部屋はゴミとタオルの交換。フロントもあるから、掃除だけを二人で半分ずつ、とはいかないけど」
河合さんはしばらく千景の顔を見て、それから言った。
「じゃあ、その代わり、朝の五時に来る」
「それは、お休みじゃないです」
「船弁を包んで、そのまま六時五十分の船に乗るの。孫の踊りは十時からだから、ちょうどいい」
河合さんは、エプロンのポケットに手を入れて笑った。
「包むのはね、わたし好きなのよ。経木の匂い、八年ぶりだもの」
千景は、早朝に実際に働いた時間ぶんを時給で払うことと、帰りの船の時間まで荷物を預かることだけ約束した。

日曜の夜をどうするかは、六日の金曜に決めた。
日曜にもやいへ泊まる人は、祭りを終えて、十七時二十分の島の船で三ツ浜に戻ってくる。十七時五十五分に着いて、月曜の祝日に家へ帰る。夜明け前に起きる必要はない。必要なのは、港から近い宿と、熱い風呂と、静かな部屋だ。
「島まつり帰りプラン。一室七千八百円。先に予約してくれた三室は八千八百円のままで、朝食の案内も改めて送る。これからの予約は、電話と島の窓口の紹介だけ。予約サイトには出さない」
「結局、値下げはするんだ」
陸がからかうと、千景は電卓を叩きながら言った。
「誰のために下げるか決めて、下げる。手数料がかからなければ、七千八百円でも、サイトの六千八百円より二千円近く残る」

九日の月曜、千景は新しい紹介文を予約サイトに出して、刷ったばかりの貼り紙を持って港へ歩いた。
七分。三ツ浜冷蔵の壁の角を曲がると、急に視界が開けて、港が広がる。風が変わる。毎日この道を歩いているはずなのに、千景は角を曲がるたび、少しだけ息を吸いなおすことに気づいた。
フェリーターミナルの待合室には、鷺ノ島の支所の窓口があって、壁にコルクボードが掛かっている。島まつりのポスターの横に、貼り紙を留めさせてもらえないかと頼むと、窓口の年配の職員が貼り紙を手に取って、声を上げた。
「ああ、もやいさん。船弁の」
「……八年、休んでました」
「知ってる知ってる。うちの父も、始発の前によく泊まってた」
職員は自分で画鋲を四つ持ってきて、ポスターのいちばん目立つ隣に貼ってくれた。

十二日の木曜、土曜は十室、日曜は五室になった。
十八日の水曜、土曜の最後の一室が埋まった。予約表の土曜の列が、上から下まで色で塗られる。千景はしばらく画面を見て、それから厨房に向かって、呼び鈴を一度だけ鳴らしかけ、やめた。かわりに声を出した。
「陸。満室」
のれんの向こうで、鍋の蓋が鳴った。
日曜は八室。二十日の金曜に島の窓口から電話で一室入って、九室になった。そのうち三室は、土曜からの連泊だった。
経木は十九日に届いた。陸は試しに一つ包んで、千景の前に置いた。薄い木の皮から、かすかに乾いた森の匂いがした。

風の朝

二十一日の土曜は、昼過ぎから客が着きはじめた。
大きな紙袋に、島の親戚への土産を詰めた人。礼服を入れたらしい長い鞄を抱えた人。古いアルバムを持ってきたと話す年配の兄弟。
二〇四号室は、早苗さんという鷺ノ島生まれの女性と、その夫だった。
「始発は早いから、臨時便の八時十分にしようと思って。朝ごはん、ちゃんと座って食べたいし」
三〇五号室は、内陸の街から来た小野寺さんの一家だった。父親と母親と、添い寝の六歳の葵ちゃん。予約サイトから、素泊まりの八千八百円で取った客だ。チェックインのとき、父親が紹介文の画面をスマートフォンで見せて笑った。
「これ、一行目に『海は見えません』って書いてあるの、初めて見ました。正直だから、ここにしたんです」
「うみ、みえないの?」
葵ちゃんが、カウンターの縁に顎をのせて聞いた。千景はしゃがんで、目の高さを合わせた。
「このホテルからは、見えないの。明日、ごはんを食べたら、見に行こう」
牧野は、夜の八時に着いた。今度は終電ではなかった。黒い箱を足もとに置いて、宿泊カードに同じ字で「ピアノ調律師」と書く。部屋は前と同じ二〇二号室にした。

夜の九時、千景は注文の表を締めた。
土曜の客は十九人。五時四十五分からの早朝朝食が十人。船弁が四つ。七時からの朝食が五人――二〇四の二人と、三〇五の三人。八時十分の臨時便に乗る組だ。
陸はその表を厨房の壁に貼って、米を研ぎはじめた。十九人ぶんと、余分に少し。

二十二日、日曜。
四時四十五分に陸が厨房に入り、四時五十五分に河合さんが来た。玄関を開けると、思ったより強い風が、看板を鳴らしていた。
五時半、千景は船会社の運航情報を開いた。
――三ツ浜発 六時五十分 通常運航。
――臨時便 八時十分 風の状況により、七時に運航の可否を判断します。
天気予報では、八時を過ぎてから風がさらに強まる。千景は黒板に白いチョークで二行を書き写して、しばらくその前に立っていた。
八時十分の便が出なければ、次は九時二十分の定期便になる。島に着くのは十時前。祭りの演奏会には、間に合わないかもしれない。
「起こすの?」
厨房から陸が聞いた。
「起こす」
五時四十分、千景は二〇四号室に内線をかけた。三回目の呼び出しで、早苗さんの眠そうな声が出た。事情を話すと、声はすぐにはっきりした。
「始発にします。十分で降ります」
三〇五号室は、五回鳴らしてやっと父親が出た。
「六時五十分……ですか」
受話器の向こうで、少し迷う気配がした。それから、もっと小さな、はっきりした声が割りこんできた。
「ふね? ふねにのるの?」
父親が笑った。
「乗ります。三人とも」
千景は受話器を置いて、注文の表に線を引いた。七時の朝食はゼロ。早朝の朝食が十五人。
朝の間の席は、十四しかない。
陸と目が合った。陸は表をじっと見て、それから何か言いかけた。そのとき、階段から牧野が降りてきた。コートを着て、黒い箱を提げて。黒板の文字と、千景が持っている表を見比べて、牧野は穏やかに言った。
「わたしは、船弁にしてもらえますか」
「でも、牧野さんは」
「この前、船の上で食べたのがよかったので。今日も三十五分、海を見ながら」
早朝の朝食が十四人、船弁が五つ。河合さんが、経木をもう一枚広げた。

五時四十五分に朝食を始め、五時五十五分には朝の間が満席になった。
陸がご飯をよそい、千景が味噌汁を運び、河合さんが厨房の作業台で、経木を手早く折りたたんでいく。三角に包んで、紐をかけて、ひとつ、ふたつ。
土産の紙袋を椅子の背にかけた兄弟が、干物をほぐしながら、子どものころの島の話をしている。早苗さんの夫は、卵焼きをひと切れ食べて、黙ってもうひと切れ食べた。葵ちゃんは、半分眠ったまま味噌汁をすすって、あおさを箸で持ち上げて、しげしげと眺めた。
「これ、うみのやつ?」
「そう。海のやつ」
陸が答えると、葵ちゃんは満足そうにそれを口に入れた。
六時十五分、千景は黒板の前に立って、朝の間に向かって言った。
「船は、六時五十分に予定どおり出ます。港まではここから歩いて七分です。六時二十分に、玄関から一緒に出ましょう。初めての方は、ついてきてください」
言ってから、千景は陸を見た。陸は小さくうなずいた。
「フロント、お願い」
「行ってきて」

六時二十分。玄関の外では、空の端が白みはじめていた。
十九人の客と河合さんが、もやいの前に並んだ。黒い箱を提げた牧野。土産の紙袋を抱えた早苗さん夫婦。父親に手を引かれた葵ちゃん。千景は先頭に立って、表通りを港のほうへ歩きだした。
三ツ浜冷蔵の灰色の壁が、右手にずっと続く。風が、壁の角で向きを変える。誰かのキャリーケースが、アスファルトの上でごろごろと鳴る。
角を曲がった。
視界が、いっぺんに開けた。
夜明け前の港が、目の前に広がっていた。灰色だった水が、沖のほうから少しずつ青くなっていく。桟橋に、白い船が明かりをつけて停まっている。風が、潮の匂いを、正面からまともに運んできた。
「あった」
葵ちゃんが、父親の手を離さないまま、もう片方の手で指さした。
「うみ、あった」
千景は、葵ちゃんの隣で立ち止まった。港のほうから吹いてくる風が、まぶたを冷たく押した。毎日この角を曲がっているのに、この時刻に、この人数で曲がったのは初めてだった。
乗船口で、牧野が振り返って会釈した。黒い箱を持ちなおして、もう片方の手でコートのポケットを叩く。そこに、経木の包みが入っている。河合さんは、島の知り合いを見つけたらしく、甲板の上から大きく手を振っていた。
六時五十分。船が、長く一度、汽笛を鳴らした。
岸壁を離れた白い船が、少しずつ、明るくなっていく沖へ向かう。千景は、船が防波堤の先を回りこむまで、そこに立っていた。

倉庫の角を曲がった夜明け前の港で、父親の手を握った葵が海を指さす。隣で立ち止まる千景と、桟橋の白い船。

待合室で温かい缶のお茶を買って、千景はベンチに座った。
七時ちょうど。待合室のスピーカーが鳴った。
――本日八時十分発の臨時便は、風の影響により欠航といたします。
千景は缶を両手で包んだまま、しばらく動かなかった。それから立ち上がって、七分の道をもやいへ戻った。
玄関のドアを開けると、陸がフロントのカウンターにもたれていた。
「八時十分、欠航だって」
「そっか」
陸は短く言って、それから付け足した。
「汽笛、聞こえたよ。ここで」
「わたしは、見た」
千景が言うと、陸は少し悔しそうな顔をして、それから笑った。

九部屋の日曜

九時半、姉弟は掃除を始めた。
二階を千景、三階を陸。途中で入れ替える。千景はチェーンの研修で一年目に客室の清掃を習ったので、シーツの角を折るのが速い。陸は浴室が速かった。定食屋の厨房で、閉店後に毎晩、床と排水口を磨いていたからだ。
「姉ちゃん、三〇三のシャワー、カビ取りしといた」
「二〇五の枕カバー、足りない。リネン庫から五枚持ってきて」
チェックアウトの九室を整え、連泊の三室はゴミとタオルだけ替えた。フロントへ降りたり、リネンを運び直したりして、気づけば五時間余り経っていた。最後の三〇三に掃除機をかけ終えたのは、二時四十分だった。
陸は窓を開けて、右へ身を乗り出しかけて、やめた。
「乗り出さないの?」
「お客さんにやらせないことは、やらない」
千景は笑って、窓を閉めた。

「陸、三時から休んで。今日は五時まで、フロントはわたしがやる」
「一時の昼寝、守れなかった」
「だから、取り直す。次は清掃の人にも、別の日に頼めるか相談しよう」
陸はうなずいて、居住部分へ引っこんだ。

十六時十二分、牧野が帰ってきた。
「演奏会、聞いてきました」
預けていた布の鞄を受け取りながら、牧野は言った。
「子どもたちの踊りの伴奏で、あのピアノが使われたんです。ラの音が、この前よりまた少し下がっていたので、今朝もう一度合わせました。ちゃんと鳴りました」
「河合さんのお孫さん、踊ってましたか」
「赤い帯の子だと、河合さんが三回教えてくれました」
牧野は鞄を肩にかけて、コートのポケットから小さな手帳を出した。田辺さんの顧客帳を写した紙ではなく、自分のものらしい、新しい黒い手帳だった。
「来年の春も、来ます。三月の、まだ寒いうちに」
そう言って、牧野はペンを走らせた。千景からは、手帳の中は見えなかった。牧野は書き終えてから、少し照れたように言った。
「宿はもやい、と書きました。船弁あり、と」
牧野は十六時四十二分の電車に向かって、ゆっくりと駅のほうへ歩いていった。今度は、港とは反対の方角へ。

日曜の客は、十七時五十五分の船で戻ってきた。
祭りの法被を腕にかけた人。島の親戚からもらったらしい、新聞紙でくるんだ大根を抱えた人。連泊の二〇四号室の早苗さんは、頬が少し日に焼けていた。
「臨時便、欠航だったんですってね。始発にしてよかった。ありがとう」
九室の客がそれぞれ部屋に上がっていったあと、ロビーには、潮と、法被の防虫剤と、大根の土の匂いが、少しずつ混ざって残った。

二十三日、月曜の祝日。朝七時半からの朝食には、六人が座った。いつもどおりの時刻で、いつもどおりの献立。急ぐ人は、ひとりもいなかった。
チェックアウトがひと段落したころ、千景の携帯電話が鳴った。母からだった。スピーカーにすると、母の声の後ろから、父の声がした。
「船弁、何個出た」
「五個」
陸が答えると、電話の向こうで父が鼻を鳴らした。
「うちは、多い日は三十個出た」
「三十?」
「四十個の日もあった」
「お父さん、盛らないの」
母の声がして、それから二人で何か言い合う声が遠ざかっていった。最後に母が、「手首は、大事にしなさいよ」と陸に言って、電話は切れた。

昼過ぎ、二人は朝の間のテーブルで、もう一度ノートと電卓を広げた。
土曜。十二室、八千八百円で十万五千六百円。予約サイト経由の四室ぶんの手数料が、四千二百二十四円。朝ごはんと船弁が十九食で二万九百円、材料費はおよそ七千九百八十円。
「わたしの直前割で全部埋まってたとしても」
千景は電卓を叩いた。
「六室が八千八百円、六室が六千八百円。九万三千六百円から、元のサイト予約二室と直前割六室の手数料七千八円を引いて、八万六千五百九十二円。九万を切ってた」
「勝った」
陸が言った。千景は、ページをめくった。
「日曜。先に予約のあった三室が八千八百円、帰りプランの六室が七千八百円。七万三千二百円。全部直接だから、サイトの手数料はなし」
それから、少し黙って、もう一度電卓を叩いた。
「わたしの直前割で、もし日曜が十二室全部埋まってたら。三室が八千八百円で、九室が六千八百円。八万七千六百円。直前割九室の手数料七千三百四十四円を引いて、八万二百五十六円」
陸が覗きこんだ。
「……埋まってたら、姉ちゃんのほうが上だった」
「埋まってたらね」
千景は電卓を置いた。
「埋まったかどうかは、わからない。埋まったとして、その人たちが朝起きて窓を開けて、星二つを書いたかどうかも、わからない」
「じゃあ、引き分け」
「引き分け」

千景はノートの余白に、清掃と休憩、と書いた。今の計算は部屋代とサイト手数料の比較で、光熱費もリネン代も、二人が働いた時間もまだ引いていない。

そのあとで、二人はいくつか決めた。
平日も、前の晩九時までに注文があれば、早朝の朝ごはんと船弁を出す。一日二十食まで。注文がなければ、陸は六時まで寝る。火曜は休み。三ツ浜の船会社の運航情報は、毎朝五時半に黒板へ書く。予約サイトの紹介文の一行目は、「海は見えません」のまま。
それから、三〇三号室の案内の冊子に、千景が一行だけ書き足した。
――窓から身を乗り出さないでください。海は、港で見るほうがきれいです。(歩いて七分)
「それ、載せるんだ」
「載せない、とは言ってない。売らない、って言ったの」
陸は冊子を受け取って、その一行を二度読んで、黙ってうなずいた。

夜の九時。注文の表を締める時刻だった。
明日の火曜は、もやいの朝ごはんは休みだ。千景は黒板を消して、新しく書いた。
――あすの始発 六時五十分(運航状況は五時半に更新します)
――朝ごはん・船弁は水曜から 五時四十五分より(前の晩九時までにご注文ください)
チョークの粉を払っていると、背中で、呼び鈴が鳴った。
振り返ると、陸が、カウンターの上に手を置いたまま、こちらを見ていた。
「それ、やめてって」
「水曜の注文、もう二件入ってる。三〇一と、二〇六」
千景はノートに二件を書き写した。書き終えて、ペンを置いた。
それから、自分の手のひらで、真鍮の呼び鈴を一度だけ押した。
見た目よりずっと高い音が、海の見えないロビーに、短く響いた。
「……何、いまの」
「満室じゃないけど、呼びたかったの」
陸は笑って、厨房へ戻っていった。のれんが揺れて、米を量る音がしはじめた。
ガラスのドアの向こうで、港のほうから、夜の風が吹いていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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