一 軒端の留め金
峠を下りきったところの宿場は、雨市の前の晩になると、軒という軒に人が詰まる。
トウゴは宿「ささべ屋」の縁台の端に陣取り、膝に広げた大屋根の裂け目を指でなぞっていた。油を引いた帆布の屋台屋根で、ひらけば大人が六人は入る。それが二日前、峠の風にあおられて、肘から先ほどの長さに裂けた。骨も一本折れている。
「継ぎ布さえ買えば、晩には直る」
声に出したのは、自分に言い聞かせるためだった。この厚手の継ぎ布は、明日の雨市の布屋にしか置いていない。値は銀貨十枚。財布には銀貨が二枚と、銅貨が七枚。銀貨一枚は、銅貨二十枚にあたる。
足りない分は、背負い箱の中身が稼いでくれる。
箱には、名刺入れほどに畳んだ小さな屋根が十二、包み紙にくるまって並んでいた。どれも予約の品で、包みには受取人の名前が書いてある。前金の二銀はもう受け取ってあり、明日の市で残りの一銀と引き換えに渡すことになっている。
ポケット屋根、とトウゴは呼んでいる。師匠の代からの売り文句は「ポケットに入る雨宿り」だ。
畳めば手のひらにのる。ひらけば幅三尺、奥行き二尺。はじめてひらいた人を持ち主と覚え、その人の頭の上一尺に浮かんで、歩けばついてくる。片流れの屋根なので、雨はいつも持ち主の背中のほうへ落ちる。大きくもならないし、小さくもならない。一人分の雨宿りを、一人分きっちり。
トウゴ自身の屋根は、いま縁台の真上に留めてあった。軒の端は雨が吹きこむからだ。棟の真鍮の留め金を下ろしておけば、持ち主が離れても屋根はその場にとどまる。ただし十歩まで。十歩の端では角が巻きはじめ、十一歩目を踏み切ると、屋根はくるくると畳まれて持ち主の手のひらへ飛んで帰ってくる。だから彼は縁台から井戸までの九歩の内側で、用を足していた。
そこへ、平たい箱を胸に抱えた女が駆けこんできた。箱には油紙が三重に巻いてある。女は軒の下でひとつ大きく息を吐き、空をにらんだ。
「雨見番さん、明日は何時から」
帳場の脇で鈴をみがいていた老人が、指を一本立てた。「九時。やむのは昼すぎ、二時半か三時」
「長い」
女は肩を落とすと、縁台の空いたところに腰をおろした。トウゴの屋根の下だった。
「そこは——」
「ちょっとだけ。軒の端、吹きこむでしょう」
言われてみれば、そのとおりだった。
女はヨシノと名乗った。海沿いの町で菓子をつくり、秋の終わりに峠のこちら側まで売りに来たのだという。箱の油紙を一枚だけめくってみせる。仕切りの中に、親指の先ほどの金色の粒が四十一並んでいた。
「晴れ砂糖。日なたの縁側の味がするの。そのかわり、雨に一滴でも当たったら、溶けておしまい」
「それを雨市で売るのか」
「雨市でいちばん売れるのは晴れの味なんだって。みんなそう言う。でも私、一度も売れたことがない」
雨市には決まりがある。品物は屋根の下で受け渡すこと。渡す手から受け取る手まで、雨を一滴も当ててはならない。番傘は屋根に数えない。
「来る途中で二回、にわか雨にやられたの。そのたびに半分ずつ溶けた。帰りの乗合は銀貨六枚。財布には銅貨が八枚」
ヨシノの目が、トウゴの背負い箱に向いた。
「それ、屋根?」
「全部予約の品だ。それに、ひとつ三銀する」
「三銀あったら、帰り賃の半分はできてる」
それからヨシノは指を折って何か数え、顔を上げた。
「明日、あなたの屋根に入れて。区画代は半分出す。銅貨六枚」
「一人用だぞ」
「お盆は二尺に一尺半。私は細い」
トウゴは頭の上の屋根を見上げた。三尺に二尺。自分と、この人と、盆と、背負い箱。届けるだけなら、箱は足もとに置いておけばいい。
「……届けるだけなら、入る」
そのとき、宿の前の通りを、背の高い男と小さな子が並んで歩いてきた。二人の頭の上に、それぞれ小さな屋根が浮いている。子の屋根が男の屋根の縁に触れた、と思ったとたん、するりと下へもぐりこんだ。縁が一寸ほど重なって、継ぎ目から雨が一滴も落ちてこない。
「あ、もぐった」
「触れると、低いほうが下にもぐるんだ。重ね代が一寸できる。師匠が、子連れのためにそう作った」
「じゃあ、二つ並べたら二人分になるじゃない」
「二つあればな」トウゴは自分の屋根を見上げた。「俺のは、ひとつだ」

ヨシノは何も言わずに、箱から晴れ砂糖を一粒つまんでトウゴの手のひらにのせた。
「場所代のおまけ。噛まないで。雨だれを百数えるくらいかけて、ゆっくり」
トウゴは言われたとおり、軒から落ちる雨だれを数えた。九十を過ぎたあたりで粒は消え、口の中には、昼過ぎの板の間に寝転んだときのようなぬくもりが残った。ヨシノは残る四十粒に油紙をかけなおした。
帳場から宿の娘のキリが顔を出した。
「トウゴさん、私のは明日の昼すぎね。帳場を抜けられるの、二時ごろだから」
「二時ごろだな」
トウゴは十二の包みのうち、「キリ」と書かれたものを箱のいちばん奥へ入れなおした。
二 一人用の売場
翌朝八時四十分に宿を出て、二十分歩いた。六辻の広場に着いたちょうどそのとき、最初の一滴が石畳に黒い点を打った。雨見番の鈴が鳴り、雨市が開いた。
市番のサワは、雨合羽の上から真鍮の札を下げた女だった。二人に東の角の一区画を割り当てた。問屋の白壁沿いの、四尺四方。
「区画代、十二銅」
トウゴが六枚、ヨシノが六枚出した。ヨシノの財布には二枚残った。
トウゴは屋根をひらいて留め金を下ろした。前に盆を脚つきの台にのせ、ヨシノがその後ろに立つ。トウゴはその横で、背負い箱を足もとへ。それだけで、ヨシノの左肩がもう屋根の縁から半分はみ出した。
九時十分、写本屋のハルが番傘をさしてやって来た。予約の一件目だ。屋根の下で渡すには、ハルにも入ってもらうしかない。ヨシノが盆ごと隅へ寄り、トウゴが体を斜めにして、ハルが傘を畳んで入りこむ。三人の肘がぶつかった。ハルが包みをほどいてひらくと、屋根は彼女の頭の上一尺にすっと浮いた。
「まあ、軽い」
一銀を受け取って、ハルを送り出した。トウゴはそこで、初めて息を吐いた。
晴れ砂糖の甘い匂いにつられて、傘の客が何人か寄ってきた。けれど傘の下から伸びてくる手には、渡せない。ヨシノは盆の上に手をかざしたまま首を振り、客は残念そうに離れていった。それが三度続いた。
九時五十分、豆腐屋の主人が二件目の包みを受け取りに来た。前から使っている古い屋根を、畳んだまま差し出す。
「ついでにこっちも見てくれ。角から漏る」
修繕の受付だった。いつもなら大屋根の下に布を広げ、預かった屋根をひらいて縫い目を一本ずつ確かめるところだ。トウゴは豆腐屋を屋根の下に入れ、古い屋根の角を確かめようとしゃがんだ。その背中に押されて、ヨシノが一歩下がった。
ヨシノの背中は、留めた屋根の背中側の縁の、ちょうど真下だった。
縁から落ちた雨だれが、盆の角に当たった。金色の粒がひとつ、ため息みたいに溶けて、仕切りの底に薄い水たまりを残した。
ヨシノは黙って蓋を閉めた。
「ごめん。私が下がったから」
「俺がしゃがんだからだ」
豆腐屋は気まずそうに一銀を置き、古い屋根を預けて帰っていった。
サワが合羽の裾を鳴らしてやって来た。
「傘の客を寄せすぎないように。それと受け渡しは屋根の下で。わかってるね」
「わかってます」
二人の声がそろった。
三 一寸の重ね代
十時二十分、粉屋のオサキが来た。小柄で、せっかちな人だった。屋根の下が満員なのを見ると、自分から包みに手を伸ばしかけた。
オサキは屋根の下へ両手を差し入れた。一銀を渡し、濡れないところで包みを受け取る。
「いいよ、ここでひらく」
トウゴが中の場所を空けるより早く、オサキは雨の中で包みをほどき、肩を濡らしながら屋根をひらいた。屋根は彼女の頭の上に浮かんだ。オサキは盆の中をのぞこうと身を寄せる。
オサキの屋根の縁が、トウゴの屋根の縁に触れた。オサキのほうが低い。屋根はするりと下へもぐり、一寸重なった。
ヨシノがその継ぎ目を見つめた。それから蓋を開けて晴れ砂糖を一粒つまみ、継ぎ目の下をくぐらせるように差し出した。オサキが手のひらで受け取る。雨は一滴も当たらなかった。
五銅が、同じ道を通って返ってきた。
オサキは粒を口に入れ、目を細めた。
「日なただ」
そう言ったきり、オサキはそこから動かなかった。雨だれを百数えるあいだは、帰る気になれないらしかった。
「今の、見た?」
「見た」
ヨシノは早口になった。「屋根を受け取った人に、ひらいたら隣に並んでもらうの。一粒なめ終わるまで。並んでいるあいだは、みんなの屋根がつながってる」
「つながっていれば、端から端まで乾いてる」トウゴは白壁沿いの石畳を目でたどった。「受け渡しも列の端でやる。新しく来た人には、いちばん端の人の屋根に入れてもらって、そこでひらいてもらう。ひらいたら一歩横へ。それで列がひとつ伸びる」
「あなたはどこにいるの」
「列の下を歩く。重なってるところをくぐって、代金をもらって、修繕の話も聞く。俺の屋根は留めておく。君と盆の上に」
「十歩」
「十歩までだ」トウゴは自分の歩幅で白壁沿いを測った。「俺の一歩は二尺ほど。俺の屋根も入れて七つなら、端で渡す手まで十歩以内に届く。八つ目は遠すぎる」
「じゃあ、留めた一つと、客の六つまで」
オサキが、口の中の粒を転がしながら言った。
「あたし、もう食べ終わるけど、どうすればいい」
「盆に近い端の人から抜けてください」ヨシノが言った。「抜けたら、残ったお客さんだけ、屋根一つぶん右へ。私たちの屋根は、ここで待ってます」
オサキを送り出してから、十時四十分、列が始まった。すでに屋根を持っている客も、菓子を買いに並びはじめた。
四 流れる軒
四件目は渡し守のゲンだった。頭ひとつ背が高い。トウゴの屋根の下へ手を入れて包みを受け取り、空いた隣でひらくと、屋根はほかの誰よりも高く浮いた。一歩横へ動くと、留めた屋根の縁がゲンの屋根の下へもぐって、また一寸重なった。
ゲンは晴れ砂糖を一粒買うと、番傘のまま列の外に立ちつくしていた婆さんに声をかけた。
「入んな。渡しは慣れてる」
三尺の幅に、大男と小さな婆さんが肩を寄せて並んだ。婆さんも一粒買った。ゲンは食べ終わると列を抜け、ほかの買い物へ行った。休憩のたびに戻っては、また一粒買っていった。
列が前へ進むたびに、誰からともなく声がかかった。
「一歩、右へ」
客の屋根だけが、重ね代を引いた二尺九寸ずつ右へずれる。トウゴの屋根は、盆の上に留まったままだ。持ち主が間隔を合わせて歩けば、継ぎ目はまた一寸ずつ重なる。
五件目の予約は、染物屋のナツメが娘のミオに買ったものだった。ナツメは、前から使っている自分の屋根で来ていた。七つになったばかりで、ミオにとっては初めての自分の屋根だという。ミオが両手で包みをひらくと、屋根はミオの頭の上一尺、ほかのどれより低いところに浮いた。一歩横へ動いて、母親の屋根の縁に触れる。
「もぐった!」
ミオの屋根は母親の屋根の下にすべりこみ、反対側ではゲンの屋根の下にももぐった。両側から縁をかぶせられて、いちばん乾いた場所ができた。ミオは晴れ砂糖を口に入れると、雨だれを声に出して数えはじめた。前の人も後ろの人も、つられて数えた。

トウゴは肩をすぼめて、継ぎ目から継ぎ目へ、列の下をくぐって歩いた。一銀を受け取り、古い屋根の具合を聞いて、帳面に書きつける。
「どこから漏ります」
「真ん中。ひらくたびに、ぽつんと」
「棟の糸が切れかけてます。預かります」
修繕の注文は、昼までに五件たまった。預かった古い屋根五つは、畳んだまま背負い箱へしまった。
正午ごろ、列はちょうど七つになっていた。そこへ八件目の受取人が、傘をさして列の端に来た。トウゴはつい、その人を迎えに一歩外へ踏み出しかけた。
「トウゴ、十一歩!」
ヨシノの声で振り返った。留めた屋根の角が、紙の端のようにくるりと丸まりかけていた。彼は足を置く前に引き戻した。屋根の角がゆっくりと平らに戻り、盆の上に雨は落ちなかった。
「屋根は七つまでだ。次の人は、一人抜けるまで待ってもらう」
トウゴは列の端から、その人に頭を下げた。待っているあいだに、ヨシノが一粒売った。番傘の下へは渡せないから、その人がゲンの屋根にちょっと入れてもらってからだった。
十二時半、サワが検分に来た。列の継ぎ目に一つずつ手のひらをかざし、それから区画の線を見た。白壁沿いに並んだ列は、四尺四方の区画をとっくにはみ出している。
「区画の広さは、地面に置く品物で決まる」
サワは、帳面にあるとおりの文言を読み上げた。それから列の足もとを見た。並んでいるのは人の足ばかりだった。
「足は品物じゃないね。壁沿いだから、通る人の邪魔にもならない」
それだけ言うと、サワは帳面を閉じた。
「終わったら、ひとつ残しておいて」
五 布屋まで四十歩
一時十分、受け渡しは十件まで進んでいた。トウゴの財布には十二銀と一銅。継ぎ布に手が届く。
布屋は広場の向こう側、西の角にある。ここからおよそ四十歩。トウゴが行けば、屋根は畳まれて手もとへ飛んできてしまう。盆の上に雨が落ちる。
「布屋が閉まるのは、雨がやんだときだよね」ヨシノが空を見上げた。雨見番は、二時半か三時と言っていた。
「残りの二件を渡してから行っても、間に合うかどうか」
「私が行く」
ヨシノは言った。顔はいかにも雨が嫌いな人の顔のままだった。
「濡れるぞ」
「濡れない行き方があるでしょう」
列の中ほどにいたゲンが、手を上げた。三粒目をなめているところだった。
「渡しは慣れてる」
トウゴは銀貨十枚を数えてヨシノの手にのせた。ヨシノは盆の蓋を少し開けたまま、トウゴの顔を見た。
「一粒五銅。百数えるまで噛まないで、って言って」
「わかった」
ヨシノはゲンの屋根の下へ入り、大男の腕に肩を押しつけるようにして、広場の雨の中へ出ていった。
トウゴは、盆の後ろに立つのは初めてだった。列の先頭の人が継ぎ目の下から手を伸ばす。彼は粒をつまんでその手にのせた。
「日なたの縁側の味がします。噛まないで、雨だれを百」
言ってから、自分の声が少し照れていることに気がついた。客は笑って、五銅を同じ道で返した。
「一歩、右へ」
列の端で、誰かが言った。
ヨシノが戻ってきたのは一時四十分だった。油紙に包んだ継ぎ布を胸に抱えている。布は乾いていた。裾は少し濡れていた。
「布屋の前でね、ゲンさんの屋根が、知らない人の屋根の下にもぐったの。向こうは向こうで、三つ四つ並んで粒もないのに雨だれを数えてた」ヨシノは継ぎ布をトウゴに渡した。「広場の真ん中にも、勝手に軒ができてた」
「真似されたか」
「あなたの師匠の真似でしょう」
二時ちょうど、宿のキリが帳場を抜けて駆けてきた。
「二時ごろって言ったでしょ」
十二件目だった。キリは列の端の人の屋根に入れてもらって、自分の屋根をひらいた。屋根が浮く。一歩横へ。列がひとつ伸びて、またひとつ、先頭から人が抜けた。
二時四十分、雨見番の鈴が鳴った。雨脚が細くなり、白壁を流れていた水が、筋になって止まった。
雨市が終わった。
六 晴れ間の前金
雲の切れ目から光が差すと、広場じゅうの屋根が、持ち主の手で一つずつ畳まれていった。あちこちでポケットがふくらんだ。
ヨシノは盆の仕切りを数えた。売場へ持ってきた晴れ砂糖四十粒のうち、とけたのが一粒、売れたのが三十六粒。残ったのは三粒。
一粒は、母親の手を引いて帰りかけたミオに。一粒は、約束どおり、帳面をしまったサワに。最後の一粒は蓋の隅に転がしておいた。
財布の中は、銀貨九枚と銅貨二枚になっていた。ヨシノは銀貨を六枚、乗合代として別の袋へ分け、残りから二枚をつまみ出して、トウゴの手のひらにのせた。
「前金。ひとつ予約」
「一人用だぞ」
「知ってる。隣にもぐる用」
トウゴは帳面をひらき、十二件の受取人の名前が並ぶ下に、新しい行を書いた。ヨシノ。前金二銀。受け渡しは、春の雨市。
夕方、宿の軒先で、トウゴは大屋根の裂け目に継ぎ布をあてた。ヨシノは縁台に腰かけて、それを見ていた。もう雨は降っていない。トウゴの小さな屋根は、畳まれてポケットの中にある。
「直ったら、もう列はいらないね」
ヨシノが言った。トウゴは糸を引きしめた。
「大屋根は、六人入る」
「うん」
「列は、七つ並んだ」
ヨシノは笑った。トウゴは糸を歯で切り、ポケットから最後の一粒を出した。蓋の隅に残っていたのを、帰りがけにヨシノが包んで寄こしたものだ。
口に入れてから、トウゴは軒を見上げた。今日はもう雨だれが落ちてこない。
「いち、に、さん」
ヨシノが、代わりに数えはじめた。
九十を過ぎたあたりで粒は消えた。昼過ぎの板の間のようなぬくもりが残り、ヨシノはそれでも、百まで数えるのをやめなかった。


