一 くじ引きの係
杉浦朋が柳坂三丁目第四班の回覧係になったのは、四月の班の集まりでくじを引いたからだった。十二本の割り箸のうち一本だけ、先に赤い丸が描いてあった。
「おめでとう」
隣の岡部さんは、本当にめでたそうな顔でそう言った。
仕事は簡単だと聞いていた。町内会長の家から茶封筒が届いたら、中の紙をバインダーに挟む。表紙の回覧順の表に日付を書いて判を押し、二番の岡部さんの郵便受けに入れる。あとは十二番の吉住さんから戻ってくるのを待つだけ。月に二度か三度のことだ。
朋は地図会社の校正を家でしている。道の名前の誤字や、消えた橋、移った交番を一日じゅう探す仕事だ。紙の上の町には詳しくなったが、柳坂に越してきて一年たっても、本物の町の知り合いはほとんどいなかった。朝、窓の外を通る犬の名前なら、いくつか言える。飼い主の名前は、その半分も知らない。
十一月二日、月曜の朝に届いた封筒には紙が三枚入っていた。資源回収の日程、防災訓練の案内、水道局のお知らせ。
《配水管切替工事に伴う断水のお知らせ 十一月七日(土)午前三時〜午前六時 対象:柳坂三丁目一番〜十八番 ※本件は町内会のご協力により、回覧および公園掲示板にてお知らせしています》
朋は三枚目を二回読んだ。夜中の三時から六時。寝ている時間だ。みんなが困らない時間を選んでくれたのだな、と少し感心して、バインダーを閉じた。表紙の表に「11/2 杉浦」と書いて三文判を押す。
郵便受けに入れようと玄関を出たところで、坂の下から上がってくる柴犬と目が合った。
大福だ。四番の小田切さんの犬で、名前のとおり白くて丸い。大福は朋の足もとのにおいを丁寧にかぎ、何かを確かめ終えたように鼻を鳴らした。
「おう、おはよう。それ、回覧板か」
小田切さんは七十二歳。昔は鉄道の保線をしていたそうで、今でも線路の継ぎ目を見るような目つきで道を歩く。
「おはようございます。はい、今から回します」
「何か大事なことあった?」
朋は少し迷ってから、断水のことを話した。土曜の夜中、三時から六時。
「夜中なら寝てるな」小田切さんは大福のリードを短く持ち直した。「ありがとさん。ポストの角で言っとくよ」
ポストの角で何を、と朋が訊く前に、大福はもう歩き出していた。
二 角ごとの伝言
ポストの角で何が起きるのか、朋は翌日に知った。
十一月三日は祝日で、朋はいつもより早く起き、坂の上の自販機まで缶コーヒーを買いに出た。自販機の前では、三番の宇田川さんがダックスのちくわを抱いて、知らない女性と話していた。
「土曜にね、夜中に水道屋さんが来るんですって。だから犬が吠えても怒らないでって、回覧に」
朋は缶を取り出しかけた手を止めた。そんなことは一行も書いていない。
「あの、それ、断水のお知らせで」
「あら、杉浦さん。そう、断水。夜中だから関係ないけど、工事の音で吠えるでしょう、うちの子」
ちくわは宇田川さんの腕の中で、吠えるつもりなどまったくなさそうな顔をしていた。
水曜の朝には、岡部さんが玄関先でトイプードルのマロンにハーネスをつけながら言った。
「水曜に止まるんだっけ? 今日?」
「土曜です。土曜の夜中の三時から」
「あ、水道の『水』で水曜って覚えちゃった」岡部さんは笑い、「夜中ならいっか」とマロンを連れて出ていった。
朋は表紙の回覧順の表を思い浮かべた。月曜の朝に岡部さんへ渡し、その日のうちに宇田川さん、火曜には小田切さん。そこまでは順調だった。五番の三ツ木先生の欄が、まだ空いているはずだ。
水曜の夕方、朋は三ツ木先生の家を訪ねた。元校長で、犬はいない。玄関に出てきた先生は、片手に赤ペンを持っていた。
「ああ、回覧係さん。ちょうどいい。これをご覧なさい」
居間のちゃぶ台に、防災訓練の案内が広げてあった。余白に赤い字がびっしりと並んでいる。
「避難経路の『経路』が、二段落目で『径路』になっている。どちらでも間違いではないが、一枚の中では揃えるべきだ。それから集合時刻が『九時』と『9時』。訓練の紙が揺れていては、本番の足も揺れる」
朋は思わずうなずいた。仕事なら、自分も同じところに赤を入れる。
「あの、断水の紙は」
「あれは良い文書だ。直すところがない」先生は少し残念そうだった。「明日の朝には回しますよ。会長さんへの意見書を清書してからね」
帰り道、ポストの角の前を通ると、小田切さんが大福と立ち話をしていた。相手は七番の平野さんと、平野さんのコーギーだ。
「――だから土曜は夜中に水が止まるけど、寝てりゃ関係ない。な?」
「そうそう。うちはお風呂、金曜のうちに入っちゃうから」
紙はまだ五番で止まっている。それなのに、中身はもう班の向こう端まで届いているらしかった。少し形を変えて。
三 チラシの裏の地図
木曜の夜、朋はスーパーのチラシを裏返して、ちゃぶ台に広げた。
仕事のときと同じ手つきだった。まず道を引く。坂、ポストの角、公園の水飲み場、自販機、川沿いの遊歩道。その上に、第四班の十二軒を四角で置いていく。一番は自分の家。二番は岡部さん、三番は宇田川さん、四番は小田切さん、五番は三ツ木先生。六番の田所さんから九番の久保さんまでは坂の中ほどに並び、十番は坂の途中のパン屋「麦と坂」。十一番の森さんと十二番の吉住さんは、坂を下りきった角にある。
次に色鉛筆で、聞いた話を線にした。大福の朝の道は赤、マロンは青、ちくわは緑。平野さんのコーギーは黄色で、森さんの年寄りの柴犬、小梅は茶色。線が交わる角では、飼い主たちが立ち話をする。そこで話が渡っていく。
翌朝、朋は六時二十分に起き、犬を連れずに散歩の輪へ出た。
「犬はどうした」と小田切さんが言った。
「いないんです、最初から」
「そりゃ身軽だ」
朋は一人ずつ、断水のことを知っているか確かめた。田所さんは平野さんから聞いていた。石井さんは宇田川さんから。九番の久保さんは、なぜか「水道屋さんに犬が吠えたら謝る」という形で知っていた。森さんと吉住さんは小梅の散歩の途中に、坂の下で岡部さんから聞いていた。
家に戻ってチラシの地図に丸をつけると、十一の四角が埋まった。
十番だけが、白いまま残っていた。

朋は鉛筆の先で麦と坂の四角をつついた。あの店のパンは、何度か買ったことがある。七時に開いて、昼過ぎには売り切れる。店主の顔は覚えているが、名前は表紙の表に書いてある「根岸」の二文字でしか知らない。その人が朝、ポストの角に立っているのを見たことがない。
もう一度外へ出ると、ポストの角に小田切さんがまだいた。大福は郵便ポストの根元で、念入りに何かを読んでいた。
「麦と坂の根岸さん、犬を飼ってますか」
「ヨルだろ。黒い雑種の」小田切さんはすぐ答えた。「朝は見ないよ。あれは夜の犬だ。俺がまだ夜勤してた頃、明けで帰ってくると、川っぺりで会った。二時前だったな。首輪に反射板つけて、パン屋さんと二人で、真っ暗な中をとことこ歩いてた」
「二時前」
「パン屋ってのは、俺らが寝てる時間に起きてるからな」
言ってから、小田切さんは口を閉じた。大福が顔を上げて飼い主を見た。
「……夜中だから関係ないって、俺が言ったな」
「わたしも思いました。寝てる時間で良かったって」
二人はしばらく、ポストの赤い胴を見ていた。
午後三時、朋は麦と坂へ行った。シャッターは半分下りていて、ガラス戸に「本日完売 ありがとうございました」の札が下がっている。呼び鈴の横に、もう一枚の札があった。
《夜間・早朝は休んでおります。ご用の方は営業時間(火〜土 7時〜13時)にお願いします》
朋は呼び鈴へ伸ばしかけた指を引っこめた。根岸さんは今、眠っているのだ。夜中に起きる人の午後三時は、たぶん誰かの夜の十一時くらいにあたる。
手帳を一枚破り、「明日(土)午前3時〜6時、このあたりは断水です。第四班回覧係・杉浦」と書いて、ガラス戸の内側から見える高さにテープで貼った。
夕方六時半、もう一度坂を下りたところで久保さんに会った。
「回覧板、さっき来たわよ。パン屋さんの郵便受けに入れといた。六時十分ごろ」
朋は振り返った。麦と坂の郵便受けは店の正面、ガラス戸の横にある。開店のときにしか開けない場所だ。
紙はとうとう十番に届いた。届いた先で、朝まで眠ることになる。
夜八時、小田切さんがわざわざ朋の家まで来た。手に、ゴムバンドのついた小さなライトを持っている。
「保線のときのヘッドライトだ。電池は替えといた」
「行ってくださるんですか」
「俺が行くと大福が起きて鳴く。あいつは夜中に俺がいないと鳴くんだ」小田切さんはライトを朋の手に押しつけた。「川沿いの、遊歩道の入口。階段の下だ。一時四十五分。俺が会ってたのはその辺だった」
朋は押し入れの奥から、引っ越したときに買って一度も使っていない防災用のポリタンクを二つ出した。十リットル入り、折りたためるもの。空のまま、肩にかけられるように紐を結んだ。
四 午前一時四十五分
十一月の一時半は、思っていたより冷たかった。
ヘッドライトは額で白い輪をつくり、その輪の中にだけ道があった。坂を下りる途中、平野さんの家の窓の奥で、コーギーが短く二度吠えた。朋は首をすくめて、足を速めた。
遊歩道の入口の階段の下で、朋は待った。川の音がする。風が、空のポリタンクを肩の後ろでかさかさ鳴らした。
一時四十七分、上流のほうから小さな光が二つ、揺れながら近づいてきた。低いところの光は首輪の反射板で、高いところの光は人の持つ懐中電灯だった。
黒い犬が先に朋に気づいて、止まった。吠えはしなかった。においを確かめるように首を伸ばし、それから飼い主の脚の後ろへ半歩下がった。
「……どなた?」
懐中電灯の光が、朋の顔とポリタンクを順に照らした。根岸さんは、店で見るときより小さく見えた。毛糸の帽子をかぶっている。
「第四班の回覧係の、杉浦です。夜中にすみません。今夜の三時から六時まで、このあたりが断水になります」
根岸さんはしばらく黙っていた。それから、左手首の時計に光を当てた。
「一時四十九分」
「はい」
「三時まで、一時間十一分」根岸さんはリードを短く持ち直した。「ヨル、帰ろう。ごめん、今日は短い」
ヨルは文句も言わずに向きを変えた。歩きながら、根岸さんが訊いた。
「お店の戸に、何か貼った?」
「はい、三時ごろに」
「わたし、裏の勝手口からしか出入りしないの。表は朝にならないと見ない」
「郵便受けに回覧板も入ってます」
「それも朝」根岸さんは小さく笑った。「この時間のわたしには、町が全部、朝のほうにあるのよね」
一時五十五分、二人と一匹は麦と坂の勝手口に着いた。ヨルは厨房の手前にある事務室へ入り、机の下の毛布で丸くなった。根岸さんは厨房との間の引き戸を閉め、手を洗いながら、壁の予定表を見上げた。
「土曜はね、灯台さんの角食が十二斤。七時五十分に取りに来るの。あとは店のぶん」
喫茶「灯台」は、駅前の古い喫茶店だ。朋も一度だけ入ったことがある。トーストの厚い店だった。
「いつもは二時半から仕込みを始めて、こねるのに水道の水を使う。洗い物もずっと流しながら」根岸さんは寸胴鍋を二つ、流しの下から引き出した。「順番を変える。角食の生地を先に、三時前にこね上げる。こねる水は蛇口から直接。そのあいだに、ためられる器に全部ためる」
「何をしましょう」
「ポリタンク、それ?」
朋は肩から二つ下ろした。根岸さんは店の二十リットルのポリタンクも出してきて、流しの横に並べた。
三つのタンクを飲み水用に洗ってすすぐと、根岸さんは流しの脇の床に並べ、清潔な短いホースを蛇口につないだ。
「蛇口は二つ。こっちで寸胴、そっちでポリタンク。タンクは床に置いたまま、口から水があふれる前に教えて」
朋は言われたとおりにした。寸胴鍋に水が落ちる音が、厨房の白い壁に跳ね返る。根岸さんは粉を量り始めた。大きなはかりの上で、袋から粉が流れ落ちていく。
「杉浦さん、そこの紙、読んでくれる? 角食十二斤のぶん。わたしの字、汚いけど」
壁に配合表が貼ってあった。粉、水、塩、砂糖、バター、酵母。数字の横に、鉛筆で何度も書き直した跡がある。
朋は一行ずつ読み上げた。根岸さんがはかりに載せ、朋がはかりの数字を見て、紙の数字ともう一度照らし合わせる。仕事と同じだった。道の名前を一字ずつ確かめるのと同じ速さで、塩の量を確かめた。
「塩、合ってます」
「ありがとう。夜中に人に数字を読んでもらうの、初めて」
二時二十分、ミキサーが低くうなり始めた。朋はバケツ三つに水をため、二階の浴槽の栓をしに上がり、蛇口をひねってまた下りてきた。ポリタンクが三つ満ちて、床に並んだ。
二時四十分、ミキサーの音が変わった。根岸さんは生地を手に取り、薄く伸ばして明かりに透かした。
「いける」
二時五十八分、根岸さんは最後の寸胴鍋のふちまで水を張り、蛇口を少しだけ開けたままにした。
二人は黙って、細い水の筋を見ていた。
三時を過ぎても、水は落ち続けた。三時四分、筋が細くなった。三時六分、蛇口がこほんと咳をして、空気を吐き、止まった。
「止まった」と根岸さんが言った。
「止まりましたね」と朋が言った。
なぜか二人とも笑ってしまった。ガラス戸の向こうの事務室で、ヨルが片目だけ開けて、また閉じた。

それからの一時間、厨房は静かに忙しかった。根岸さんは、ためた水をひしゃくで少しずつ使った。洗い物はまとめて洗剤で洗い、ためたきれいな水を注いですすぐ。手を洗うときも、石けんを使ったあと、もう一人がタンクから水を注いだ。流れた水は小さなたらいで受け、洗う水には戻さない。朋は天板を拭き、使い終わった道具を流しの端に揃えた。
「町の人のこと、わたし、犬の名前でしか知らないの」生地を切り分けながら、根岸さんが言った。「大福くんのお宅は角食の六枚切り。マロンちゃんのところは、土曜だけクリームパンが三つ。ちくわちゃんの人は、耳を犬用にって持っていく。でも、その人たちが朝の角で何を話してるかは知らない。回覧板は日曜に、いちばん最後にまとめて読む」
「わたしは犬の名前を先に覚えて、人の名前を後から覚えました」
「同じね」
「でも、わたしには犬がいないので、角でも少し外側にいます」
根岸さんは手を止めずに、ちらりと朋を見た。
「今夜は、角よりずっと内側にいるわよ」
四時二十分、角食の生地が型に収まって、発酵器の扉が閉まった。根岸さんは朋にエプロンを外すよう手で示した。
「もう大丈夫。帰って寝て。七時に来て」
「ポリタンクは」
「七時に返す。中身は使わせてもらう」
勝手口を出ると、空はまだ真っ暗だった。坂を上る途中、平野さんの家のコーギーが、また短く二度吠えた。
五 土曜七時の回覧板
七時二分、麦と坂の前には列ができていた。
列の横、店先の柵には、犬のリードを掛けるフックが四つある。大福とマロンとちくわが並んでつながれ、飼い主たちは代わる代わる店に入っていった。
小田切さんが朋を見つけて、片手を上げた。
「間に合ったか」
「間に合いました」
朋がヘッドライトを返すと、小田切さんは受け取って、黙ってうなずいた。大福が朋の靴のにおいをかいで、パンのにおいがしたのか、尻尾を二度振った。
「杉浦さん、夜中にパン屋さんに入っていったんでしょう」
宇田川さんが、フックから抱き上げたちくわを腕にのせて言った。
「どうして」
「平野さんちのコーギーが、真っ暗な坂を光が下りていくのに吠えたんですって。それで平野さんが窓から見たら、回覧係さんだったって」
「四時過ぎにまた吠えたって」と岡部さんが付け足した。「帰りね」
朋は顔が熱くなるのを感じた。ゆうべのことは、紙より早く、もう坂じゅうを回っている。
店に入ると、ショーケースの角食が湯気の名残をまとって並んでいた。カウンターの奥の作業台には、紙袋に入った十二斤が積んである。根岸さんが朋に気づいて、目だけで笑った。
「灯台さんのは七時五十分。予定どおり。水も六時過ぎには戻ったわ」
朋は角食一斤とクリームパンを一つ選んだ。四百二十円と二百円で、六百二十円。千円札を出すと、根岸さんはおつりの三百八十円と一緒に、パンの耳がぎっしり詰まった袋を差し出した。
「これはポリタンクの代」
それから足もとから、空になった十リットルのポリタンクを二つ出してきた。たたまれて、紐もきちんと巻いてある。
朋の後ろに並んでいたのは、十一番の森さんだった。小梅は外のフックで、日なたに伏せている。根岸さんはレジの横に置いてあったバインダーを手に取った。今朝、郵便受けから出したばかりの回覧板だ。表紙を開き、三枚に目を通し、断水の紙のところで少し笑った。それから三文判を押して、パンの袋と一緒に森さんへ差し出した。
「森さん、回覧板です。断水はもう終わりました」
「あら、ありがとう。先に知ってたけどね、小梅の散歩で」
根岸さんは朋のほうを見た。
「ねえ。うちの番、もっと早くできない? わたし、夜中に読めるの。一時半に起きるから、その前に郵便受けに入ってれば、勝手口から表へ回って、出かける前に確かめられる。それで朝、ここで次の人に渡す。みんなどうせ、犬の帰りにパンを買いに来るんだから」
朋は頭の中で、表紙の表を書き直した。一番は自分。二番に麦と坂。三番は、いつも開店すぐに来る岡部さん。
「それなら、五番も動かしたいです」
その日の午後、朋は三ツ木先生の家を訪ねて、回覧順の書き換えの案を見せた。先生は老眼鏡を額に上げ、紙を遠ざけたり近づけたりして読んだ。
「わたしが十二番」
「はい。最後です。全部の家が見たあとの紙を、先生に読んでいただきたいんです。直すところがあれば、会長さんに返す前に」
先生はしばらく黙っていた。それから、赤ペンのキャップを外した。
「赤というのは、本来、最後に入れるものです」
先生は案の余白に、小さく丸をつけた。
十一月十六日、月曜の夜九時。朋は次の封筒の中身をバインダーに挟んだ。年末の夜警の当番表と、資源回収の縛り方のお知らせ。表紙には、新しい回覧順の表を貼った。一番、杉浦。二番、根岸。
坂を下りて麦と坂の郵便受けに入れると、店の二階の窓はもう暗かった。勝手口の横で、ヨルの反射板つきの首輪が、フックに掛かってかすかに光っていた。
翌朝の七時十分、玄関を出ると、岡部さんがマロンを連れて坂を上ってくるところだった。片手にクリームパンの袋、片手に回覧板。
「もう来たよ、これ。パンと一緒に」
「早いですね」
「早いでしょう」
ポストの角まで行くと、小田切さんが大福と立っていた。朋の顔を見るなり言った。
「今度の資源回収、新聞は十字に縛るんだってな」
朋は思わず、岡部さんの手にある回覧板を振り返った。紙はまだ四番にも届いていない。
「どうして知ってるんですか」
「パン屋の前でな、岡部さんが読みながら並んでたから」
大福が、朋の足もとで得意そうに鼻を鳴らした。
犬は、まだ少し早い。それでも紙はもう、そのすぐ後ろまで来ていた。朋はポケットの中で三文判を握り、明日は少し早起きして、ポストの角で立ち話をしてみようと思った。犬はいないけれど、話すことはある。


