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仕事・家族

星見台の、閉館当番

雲量十。それでも、今夜の星はちゃんとそこにある。

作者
クロード
読了目安
約39分
長さ
中編
#あたたかい#家族#仕事
星見台の、閉館当番のイメージ

あらすじ

山の町立天文台で四十年働いた父の、最後の一般公開日。朝から雲は山を包み、望遠鏡の屋根も開けられない。春から受付をする娘の朔は、めくると星が現れるカードを用意していた。土星を待つ子、星の名前を知りたい運転手、四十年ぶりの夫婦。観測できない夜に、親子の仕事が初めて並ぶ。

読みやすく、好きなところから。

目次・9章

一 雲量十

十一月十四日、土曜日。朝六時五十分の台所で、父は箸を持つ前にタブレットを立てた。
「雲量十」
 誰に言うでもない声だった。母の和代はコンロの前で鮭の切り身を返しながら、「はい、雲量十」と同じ調子で返した。四十年、この家の朝はたいていこれで始まる。晴れなら「雲量ゼロ」、曖昧なら「三から七」。朔が子どものころは、その数字で父の帰りの時間がわかった。晴れなら遅い。曇りなら、少しだけ早い。
 朔はご飯をよそいながら、父の肩越しに画面を覗いた。気象衛星の画像は、県の北半分を白いもので塗りつぶしている。山の上だけでなく、平野も、海の際まで。
「下層雲だね。夜まで抜けない」
「抜けんな」
「最後なのに」
 言ってから、朔は少し後悔した。父は最後という言葉を嫌う。案の定、父はタブレットを伏せて味噌汁を啜った。
「最後じゃない。今季の一般公開が今夜で終わるだけだ。来年の四月にはまた開く」
「澄川さんにとっては最後でしょう」
「澄川さんは、ここにも一人いる」
 父は箸の先で朔を指した。母が笑った。
 町立鷲尾山天文台――地元では誰もが星見台と呼ぶ――の一般公開は、四月の第二土曜から十一月の第二土曜まで、毎週土曜の夜七時から八時半。冬は山道が凍るので閉める。父は来年の三月末で定年を迎える。冬のあいだは事務と機材の整備だけだから、一般のお客を迎える夜は、本当に今夜が最後だった。父がどう言おうと。
 朔は今年の春からその星見台で臨時職員をしている。正確には会計年度任用職員で、受付と広報と、ほか何でも。契約は今月末まで。東京で八年、デザイン事務所に勤めて、在宅でも続けられる仕事の目処がついたところで実家に戻った。戻ったらちょうど町の広報に募集が出ていて、応募したら受かった。父のコネではない、と朔は思っているし、父も「俺は面接に入ってない」と言った。それでも職場では、父を何と呼べばいいのかしばらく迷った。結局、ほかの人に合わせて「澄川さん」と呼んでいる。父も朔を「澄川さん」と呼ぶ。来館者はたいてい混乱する。
「おにぎり、六つ」と母が言った。「お父さんに二つ、朔に二つ、間宮くんに二つ。梅と昆布と鮭」
「間宮くん、梅だめだよ」
「あら」
「でも食べるよ、あの人。断れないから」
 母は少し考えて、梅のひとつを鮭と取り替えた。それから大きな魔法瓶をふたつ、テーブルに置いた。
「生姜湯。曇りでしょう」
 曇りの夜は生姜湯。それも四十年の決まりごとだった。晴れの夜はお客が望遠鏡に並ぶから飲み物どころではない。曇りの夜には、手を温めるものが要る。
 八時半、朔の軽自動車で家を出た。父は助手席で、膝に予約台帳のコピーを広げていた。山道を登るにつれて窓の外は白くなり、標高千百二十メートルの駐車場に着くころには、十メートル先のガードレールがかすんでいた。
「雲の中だ」と父が言った。
 白いドームが、霧の向こうに輪郭だけ浮かんでいた。

二 予約台帳

九時半。事務室の灯りはもうついていて、間宮拓海がストーブの前でしゃがんでいた。
「おはようございます。灯油、入れときました」
 二十八歳の間宮は、町役場の観光課から今年の十月にこちらへ異動してきた。来年度からは、父の後を継いで星見台の担当になる。天体写真が趣味で、自分の望遠鏡も持っている。ただ、人前で話すのは得意ではないらしい。異動の挨拶に来た日、彼は朔に小さな声で訊いた。曇った夜って、何を話せばいいんですかね。
 その曇った夜が、彼にとっては今夜で三回目、父の隣で立つのは最後だった。
「雲量十だ」と父が言うと、間宮は「十ですね」と神妙にうなずいた。朔は笑いをこらえた。
 予約は五組、十一名。定員は二十名だから多くはない。紅葉の盛りが過ぎて、夜の山は冷える。
「当日十五時までなら連絡ひとつで取り消しできる。曇りの日は、こっちから一度電話する」と父が間宮に言った。「取り消しを勧めるためじゃないぞ。来ても星は見えません、そのかわりこういうことをします、と伝える。それで決めてもらう」
「こういうこと、って何をするんですか」
「それを今から決める」
 父はそれ以上言わず、電話機を朔のほうへ押しやった。受付と予約の管理は朔の仕事だ。朔は台帳を開き、上から順にかけていった。
 一組目、久保田さん、三名。小学生の娘さんの誕生日に予約したという母親は、申し訳なさそうに言った。娘が星を見るのをすごく楽しみにしていて、曇りだと、たぶん泣いてしまうので……。朔は取り消しを受け付けて、来季の予約開始日を伝えた。電話を切ってから、久保田さんの住所を台帳の端に書き写した。
 二組目、小田切さん、二名。母親と、九歳の息子。
「行きます」と母親の真弓さんは即答した。「この子、土星を見るんだって、夏休みからずっと言ってて。見えないのは説明したんですけど、建物と望遠鏡だけでも見たいって」
 電話の向こうで、子どもの声がした。土星、いまどこにあるの。
 朔は受話器を手で押さえて父を見た。父は窓のほうを見たまま「今夜なら南東。八時には南の少し東」と言った。朔がそのまま伝えると、子どもの声が「雲の上?」と訊いた。
「今夜は、雲の上です」と朔は答えた。
 三組目、県立高校の地学部、三名。部長の野上さんという二年生が電話に出た。顧問の片岡先生が車で送ってきて、八時四十五分に迎えに来るという。
「曇りでも、大きい望遠鏡の操作のところとか、見せてもらえますか。うち、学校の望遠鏡が十センチしかなくて」
「見られます」と答えたのは、朔の横から身を乗り出した間宮だった。言ってから、彼は自分で驚いた顔をした。父は何も言わなかった。
 四組目、戸川さん、一名。四十六歳、男性。
「曇りなのは知ってます」と、低い、少しかすれた声が言った。「休みが今日しかないんで。行きます」
 職業欄には何も書かれていなかった。
 五組目、森永さん、二名。七十八歳と七十五歳のご夫婦。
 電話に出たのは奥さんの千代子さんで、ゆっくりした丁寧な話し方をした。
「雲でもね、行かせていただきます。主人と、決めてたことなので。バスで参ります。四時五分に着く便で」
 朔は時刻表を確かめた。町営バスの星見台停留所は、上りの最終が十六時五分着。下りの最終は十八時四十分発。公開は十九時から。
「あの、お帰りは」
「タクシーをお願いしようと思ってます」
 電話を切ってから、朔は町に一社だけあるタクシー会社に電話をかけた。土曜は山上への迎えが二十時までで、二十一時には車庫へ戻すという。公開が終わってからのお迎えは受けられなくて、と事務の女性は申し訳なさそうに言った。
 朔は受話器を置いて、父を見た。
「森永さんのお帰り、足がない」
「俺が送る」
 父の返事は早かった。考えるより先に出た声だった。
「閉館当番は?」
 星見台では、一般公開の夜、最後まで残って建物を閉める者を閉館当番と呼ぶ。望遠鏡に蓋をし、ドームを定位置に戻し、除湿機を入れ、日誌をつけて、鍵をかける。四十年、父はほとんどの夜にそれをやってきた。
「送ってから戻ってくる。往復四十分だ」
「霧の山道を、往復で」
 父は答えず、湯呑みのお茶を飲んだ。間宮が二人の顔を見比べていた。
 朔は台帳の森永さんの欄に、鉛筆で小さく「帰路?」と書いた。

三 ドームの油

昼前、三人でドームに上がった。
 直径六メートルのドームの中央に、口径六十センチの反射望遠鏡が据わっている。白く塗られた鏡筒は、霧の日の薄明かりの中で、眠っている大きな鳥のように見えた。
 父がドームの回転スイッチを入れた。モーターの唸りに混じって、きい、きい、と金属のこすれる音がする。
「先週からこれだ」
「直すんですか、今日」と間宮が訊いた。
「直す。お客の前でこれが鳴ると、話が途切れる」
 父は脚立を立て、ドームの縁を支えるローラーのひとつを指さした。間宮が工具箱を開け、グリスの缶を出す。父は手を出さなかった。どのローラーか、どこに差すか、どれだけ差すか。口だけで教えた。
「多いと垂れる。垂れたら、冬のあいだに埃を噛む」
「このくらいですか」
「その半分」
 間宮は脚立の上で、グリスを指先で削るようにして減らした。もう一度回すと、音は小さくなった。三つ目のローラーで、音は消えた。ドームはなめらかに一周し、スリットの位置が北に戻ってきた。
「定位置は北」と父が言った。「閉めるときは必ず北に戻す。ここの癖だ」
 間宮は手帳に書いた。朔も、なんとなく覚えた。
 事務室に戻ると、朔は棚の下から段ボール箱を出した。中身は、この一か月、家で少しずつ組み立ててきたものだった。
 はがきより一回り大きい厚紙の台紙に、星図が刷ってある。十一月中旬、夜八時、この星見台の真上に広がる空。ペガスス座の大きな四角形が天頂近くにあり、そのすぐ東にアンドロメダ座、南の少し東の中ほどに土星。その台紙の上に、トレーシングペーパーが一枚、上辺だけ糊づけして重ねてある。半透明の紙ごしに見ると、星々はぼんやりと白くかすんで、ほとんど見えない。紙をめくると、星が出てくる。
 曇りの夜に渡すカードだった。父は昔から、曇りの夜には来館者に手書きのカードを渡していた。今夜この雲の上にはこういう星があります、と。去年までは、父が一枚一枚、星図の略図まで手で描いていた。今年、朔は自分にやらせてほしいと頼んだ。父は「やってみろ」とだけ言った。
 三十組。台紙は町の印刷所に頼んで、トレーシングペーパーは自分で切って貼った。
 朔は一組を父の前に置いた。
 父は老眼鏡をかけ、台紙を持ち上げた。トレーシングペーパーを一度めくり、また戻した。裏返して、何も書かれていない裏面を見た。
「印刷か」
 それだけ言って、父は台紙を机に置き、ドームの点検表を持って出ていった。
 扉が閉まる音がした。
 朔は、自分の頬が熱くなるのがわかった。印刷か。四十年手で描いてきた人の、印刷か。
「あの」と間宮が言った。
「なに」
「それ、すごいと思います。めくると星が出てくるの」
「ありがとう」
 朔は段ボールに残りを戻した。間宮はそれ以上何も言わず、母のおにぎりの包みを開けた。鮭が二つ入っていた。彼は少し不思議そうな顔をして、ひとつ目にかぶりついた。
 昼食のあと、朔は事務室の奥の書架に行った。来館者に渡す資料を補充するつもりだったが、ふと、いちばん下の段に並んだ背表紙に目がとまった。同じ型の大学ノートが、年ごとに一冊ずつ、昨年までの四十冊。今年の分だけ、少し離れて立っていた。観測日誌。
 一冊目を抜いた。表紙に、角ばった若い字で「1986」とある。
 最初のページ。
 ――四月十二日(土) 開館。曇。雲量十。来館者十二名。
 その下に、少し小さい字が続いていた。
 ――観望できず。ドーム内で説明。鏡筒の動作を見せる。カードを書いて渡す(十二枚)。皆、それでも喜んで帰った。と、思いたい。
 朔はページをめくった。曇。曇。晴。雨のため休止。曇。来館者三名。カード三枚。晴、土星、来館者二十八名。曇、カード九枚。
 カードの枚数が、曇りの夜ごとに書きこまれていた。四十年分。父が手で描いた枚数が、ここに全部ある。
 一冊目の裏表紙の内側に、厚紙が一枚、挟まっていた。書き損じのカードだった。若い字で、ハレー彗星の位置を示す矢印が描かれ、途中でインクが滲んでいる。
 朔はノートを元の場所に戻した。印刷か、という父の声が、さっきとは少し違って聞こえた気がした。それが何なのかは、まだわからなかった。

四 霧の中の停留所

十六時五分。朔は傘を持って、駐車場の端のバス停まで下りた。霧は雨にならず、ただ細かく顔に貼りついてくる。
 町営バスは時刻どおりに来て、二人を降ろし、すぐに向きを変えて山を下りていった。
 森永正一さんは、背の高い、背筋のまっすぐな人だった。紺色のハンチングをかぶり、手に布の手提げを持っている。千代子さんはその腕に軽く手を添えて、ゆっくりと歩いた。
「早く着きすぎてしまって。ご迷惑でしょう」
「いいえ。事務室、暖かいですから」
 事務室に通すと、父が奥から出てきた。正一さんが帽子を取った。
「澄川さん。お変わりなく」
 父が一瞬、動きを止めた。
「――森永さん」
「覚えてらっしゃいますか」
 父は答えるかわりに、黙って二度うなずいた。朔は二人の顔を見比べた。
 千代子さんが手提げから、小さな紙の包みを出した。広げると、角の丸くなった写真が一枚と、はがきほどの大きさの厚紙が一枚、出てきた。
 写真は色褪せていた。白いドームの前に、若い夫婦と、作業着姿の痩せた青年が並んでいる。青年は笑っていない。緊張しているのか、眩しいのか、目を細めている。
「開館の日です」と千代子さんが言った。「一九八六年。ハレー彗星の年で、新聞に出てたでしょう。主人が見に行こうって。でも曇ってて」
 厚紙のほうは、カードだった。手描きの星図。低いところに、尾を引いた小さな星の絵と、矢印。その下に、角ばった字。
 ――今夜、この雲の向こう、この方角に、ハレー彗星がいます。およそ七十六年でまた巡ってきます。そのときもどうぞ、ここへ。 鷲尾山天文台 澄川
 朔は、昼に見た書き損じの、滲んだ矢印を思い出した。
「次に巡ってくるころは、さすがに無理ですけどね」と正一さんが笑った。「四十年目なら、と思いまして。家内と、決めてたんです。どっちかが言い出したんじゃなくて、なんとなく、四十年目には行こうって」
 父は長いあいだカードを見ていた。それから、ぼそりと言った。
「字が、下手だ」
「若かったから」と千代子さんが言った。
「今も変わりませんよ」と朔は言った。言ってから、父のほうを見られなかった。
 千代子さんは笑って、それからふと真顔になった。
「それで、帰りなんですけどね。タクシーが山まで来られないって、さっきバスの運転手さんにも言われて。どうしましょう」
「私が送ります」と父が言った。昼と同じ速さだった。
 千代子さんは、あら、と言って正一さんを見た。正一さんは少し首を傾げた。
「澄川さんは、今夜は最後のお勤めだと聞きました。バスの中の貼り紙に、今季最終の一般公開、と」
「最後じゃありません。今季の最後です」
「同じことじゃないですか」と千代子さんが言い、朔は思わず笑ってしまった。
 父は不機嫌そうに眼鏡を押し上げ、生姜湯の魔法瓶を取りに行った。
 朔は森永夫妻にストーブのそばの椅子を勧め、紙コップをふたつ出した。紙コップは一袋四十個入り。今夜の分には十分すぎる。
「お父さま、なんですってね」と千代子さんが小声で言った。「受付で、澄川さんが二人いるから」
「ええ。職場では、澄川さん同士です」
「あの方、四十年前もああいうふうに、怒ったみたいな顔で親切にしてくださったのよ」
 朔は、そうですか、とだけ言った。それ以上言うと、何かがこぼれそうだった。

五 生姜湯

十八時半を過ぎると、霧の向こうからヘッドライトがひとつずつ現れた。
 最初は地学部の三人だった。片岡先生は車の窓から顔を出して、八時四十五分に戻ります、と言い、すぐに引き返していった。部長の野上莉子さんは背が高く、首から赤いライトを下げている。あとの二人、佐伯さんと石丸さんは、リュックにそれぞれ星座早見盤を挿していた。
「赤いライト、えらいね」と朔が言うと、野上さんは照れくさそうに「暗いところで目が慣れるようにって」と言った。
「今夜は慣らす闇もないけどね」
「でも、持ってきたかったんで」
 次に小田切さん親子。蒼汰くんは九歳で、車を降りるなり霧を見上げて、「これが雲?」と訊いた。
「そう。いま、雲の中」
 蒼汰くんは口を開けて、霧を吸いこむようにした。真弓さんが「やめなさい」と言った。
 最後に、戸川さん。古い紺のセダンから降りてきたのは、肩幅の広い、日に焼けた男の人だった。黒いダウンジャケットのポケットに手を入れたまま、ドームを見上げて、しばらく動かなかった。
 受付の机で、朔は料金を受け取った。大人三百円、高校生以下百円。大人は小田切真弓さん、森永夫妻、戸川さんの四人で千二百円。蒼汰くんと地学部の三人で四百円。合わせて千六百円。朔は千六百円を確認して、釣り銭の箱に収めた。
「澄川さん、お願いします」と父が言い、朔が「はい」と答えたのと同時に、蒼汰くんが二人を指さして、「どっちも澄川さん?」と訊いた。
「どっちも」と父が言った。
「親子?」
「職場では違う」と父が言った。
 蒼汰くんは納得しなかったが、それ以上は訊かなかった。
 生姜湯を配るのは間宮の役目になった。父がそう決めたのだ。間宮は紙コップを並べ、魔法瓶を傾けた。湯気が立つ。森永夫妻、小田切親子、地学部の三人、戸川さん。八つのコップが手から手へ渡った。
 戸川さんはコップを両手で包んで、ひと口飲んだ。
「生姜、きついな」
「すみません、母が作るとこうなるんです」と朔が言った。
「いや、いい。夜中、運転してると、こういうのがいちばん効く」
「お仕事、夜なんですか」
「長距離。トラック」
 戸川さんはそれだけ言って、窓の外の白い闇を見た。
「星はね、毎晩見てるんだ。高速のパーキングで。二時とか三時とかに、トイレ行って、自販機でコーヒー買って、上見る。山の中のパーキングだと、ものすごい出てる。でも、名前もわかんないし、望遠鏡で見たことは一回もない。一回くらい、ちゃんと見てみたいと思って、休みの日を、ここに合わせた」
「休み、今日しか」
「今週はね。明日の朝四時に、また出る」
 朔は何と言えばいいかわからなかった。戸川さんは朔の顔を見て、少し笑った。
「いいんだよ。曇りなのは知ってたんだから」
 十八時五十五分。父が手を叩いた。
「では、ドームへどうぞ。階段が急ですから、手すりを持って」

六 雲の上の土星

ドームの中は、事務室より五度は寒かった。照明は落としてあり、望遠鏡の足もとに置いた小さな電球だけが、白い鏡筒を下から照らしている。
 八人の来館者が、望遠鏡を囲んで半円に立った。父はその前に立ち、間宮はドームの回転スイッチのそばに、朔は入口の階段の上に立った。カードの箱は、朔の足もとにある。
「ようこそ、鷲尾山天文台へ」と父は言った。いつもの声だった。朔はこの春から何度もこの挨拶を聞いた。最後だから何か変わるかと思ったが、何も変わらなかった。
「今夜は、ご覧のとおり、雲です。それも、雲の中です。皆さん、雲というと見上げるものだと思っているでしょうが、今夜は、皆さんが雲の中に立っている。この霧が、下の町から見ると、山にかかった雲です」
 蒼汰くんが、自分の手を見た。霧に濡れた手の甲が、電球の明かりで光っていた。
「雲の中では、ドームの屋根は開けません。湿気が入ると、鏡が曇る。この望遠鏡の鏡は直径六十センチ、この町で一番大きな鏡です。それが曇ると、晴れた夜にも星が見えなくなる。だから今夜は閉めたまま。そのかわり、閉めたままでできることを全部やります」
 父が間宮に目で合図した。間宮がスイッチを押した。
 ドームが回りはじめた。モーターの低い唸りだけが、静かに頭上を移っていく。きい、という音はしなかった。壁に縦に走るスリットの影が、来館者の顔を一人ずつ横切っていった。地学部の三人が、そろって天井を見上げた。
「動いてる」と佐伯さんが言った。
「家一軒ぶんの屋根が、こうやって回ります」と父は言った。「見たい星の方角に、スリットを向ける。今夜は、南の少し東です」
 ドームが止まった。スリットは閉じたまま、南東寄りの壁に向いている。
「今、あの向こう、雲の上に、土星がいます」
 蒼汰くんが、息をのむ音がした。
 父は望遠鏡の制御盤の前に立ち、間宮を手招きした。
「間宮さん、土星を入れて」
 間宮は一瞬、父を見た。それから制御盤に向かい、ゆっくりとキーを押した。画面に、土星の座標が出る。間宮が確定キーを押した。
 白い鏡筒が、動いた。重々しく、しかし思ったよりずっと静かに、首をもたげるように傾いていく。来館者の半円が、少し後ろに下がった。鏡筒はスリットの方角へ向いて止まり、それから、ほとんど目に見えない速さで、じわじわと動きつづけた。
「止まらないね」と蒼汰くんが言った。
「止まらない」と父が言った。「地球は回っている。だから空の星は、東から西へ動いて見える。望遠鏡は、それを追いかけている。今この望遠鏡は、雲の上の土星を、ずっと追いかけています。見えなくても、土星は今そこにあって、この望遠鏡はそれを知っている」
 父は蒼汰くんを手招きした。
「ここ。そっと、手のひらを当ててごらん」
 蒼汰くんは、鏡筒の下のほう、金属の枠に、両手のひらをそっと当てた。しばらく、何も言わなかった。
「……動いてる」
「それが、土星を追う速さだ」
 蒼汰くんは手を離さなかった。真弓さんが、そっとスマートフォンを構えて、それから、構えるのをやめた。
 地学部の三人は、間宮の制御盤のまわりに集まっていた。
「これ、座標入れたら自動で行くんですか」と野上さんが訊いた。
「そう。でも、最初に基準の星で位置を合わせておかないといけない。それは晴れた夜にやる。今日のは、前に晴れた夜に合わせた設定がそのまま生きてるから」
 間宮の声は、さっきより少しだけ大きかった。蒼汰くんが手を離すのを待って、石丸さんが、アンドロメダ銀河も入れられますか、と言い、間宮がキーを押した。鏡筒がゆっくりと向きを変え、高く、天頂近くへ持ち上がった。間宮がドームのスイッチを押すと、ドームもそれを追って回った。三人は口をそろえて、おお、と言った。
「二百五十万光年」と間宮が言った。「今ここで追いかけてる光は、二百五十万年くらい前に向こうを出た光です。今夜は雲で、ここまで届かずに、雲の上で止まってるけど」
「もったいない」と佐伯さんが言った。
「二百五十万年かけて来て、最後の何キロかで」と野上さんが言った。
 みんなが笑った。戸川さんも笑っていた。
 そのとき、朔はカードの箱を抱えて、階段の上から下りた。父がちらりと朔を見て、小さくうなずいた。朔は一人ずつカードを手渡した。
「今夜の八時、この真上の空です。紙が、今夜の雲です」
 森永千代子さんが、最初にトレーシングペーパーをめくった。白くかすんでいた星図が、くっきりと現れた。
「あら」
 その声に、ほかの人たちもいっせいにめくった。蒼汰くんは、めくって、戻して、まためくった。戸川さんは、カードを電球の明かりにかざして、紙ごしの星と、めくった星を、何度も見比べていた。
「これ、ペガスス座の四角」と石丸さんが言った。「今、真上にあるの、これ?」
「あります」と朔は言った。「雲の上に」
 父が、朔の横に立った。手にボールペンを持っていた。
「裏に、一言ずつ書きます」と父は言った。「今夜何を見たかったか、聞かせてください」
 朔は、父を見た。父は朔を見なかった。裏面は無地だ。朔がわざとそうした。何を書くか、わからなかったから。父の字で何か入れてもらえたら、と思いながら、それを頼む言葉を最後まで見つけられなかったのだ。
 来館者たちは、ドームの壁際の作業台の前に、一列に並んだ。父は電球を手もとに引き寄せ、老眼鏡をかけ、一人ずつ聞いて、書いた。
 蒼汰くんは、土星、と言った。父は書いた。
 ――土星は今夜、この望遠鏡が追いかけました。きみの手のひらが、その証人です。
 地学部の三人は、相談して、アンドロメダ、と言った。父は三枚に、少しずつ違うことを書いた。野上さんのには、「十センチでも、アンドロメダは見えます。次の晴れた夜に」とあった。
 真弓さんは少し迷ってから、「この子が、楽しそうな顔」と言った。父はうなずいて、
 ――見ました。 澄川
 とだけ書いた。真弓さんは、カードを胸に当てて、小さく頭を下げた。
 戸川さんは、カードを受け取ったまま、しばらく黙っていた。
「パーキングで見てる星の、名前」と、やがて言った。「どれか一つでいいから」
 父は少し考えて、カードの星図の、東の端のほうを指さした。
「この時期、夜中の二時か三時、東から南東へ高くなっていく、白く明るい星が木星です。今は、真夜中の前後に東から昇ってくる。明日の朝、出るときにも、晴れていれば見えます」
 それから、裏に書いた。
 ――夜中、東から南東へ高くなっていく白い星が木星。次のパーキングで、どうぞ。
 戸川さんは、カードを裏返して、何度も読んだ。
 最後に、森永夫妻が並んだ。
 父は正一さんの顔を見た。正一さんは、何も言わなかった。千代子さんが言った。
「同じのをお願いします。四十年前と」
 父のペンが、少し止まった。それから、ゆっくりと書いた。朔は、横からそれを見ていた。
 ――今夜、この雲の向こうに、四十年分の星がいます。次もどうぞ、ここへ。 鷲尾山天文台 澄川
 千代子さんは、二枚のカードを並べた。四十年前の、褪せた手描きの星図と、今夜の、印刷の星図と半透明の紙。裏の字は、角ばって、少し震えていて、ほとんど同じだった。
「字が、下手ね」と千代子さんが言った。
「変わりません」と父が言った。

屋根を閉じた天文台で、望遠鏡の低い金属枠にそっと手を当てる蒼汰と、隣で見守る恒夫。入口には朔とカードの箱、操作盤の前には間宮がいる。

七 送りの車

八時三十分、間宮が追尾を止め、ドームの灯りを戻した。来館者たちは、またあの急な階段を一人ずつ下りて、事務室に戻った。
 八時四十分には片岡先生の車が来た。予定より少し早かった。地学部の三人は、玄関でそろってお辞儀をした。野上さんが最後に振り返って、間宮に言った。
「来年も来ます。晴れた日に」
「晴れた日に」と間宮は言った。言い慣れない言葉を口の中で転がすような言い方だった。
 小田切さん親子も、続いて帰り支度をした。蒼汰くんは靴を履きながら、まだ自分の手のひらを見ていた。
「土星、今どこ」
 父は壁の時計を見た。
「八時四十二分。もう望遠鏡は追いかけてない。でも土星は、さっきより少し西に動いて、まだ雲の上にいる」
 蒼汰くんは、うなずいて、母親の手を引いて霧の中へ出ていった。
 事務室には、森永夫妻と戸川さんが残った。
 父がコートを取った。「では、森永さん、お送りします」
「澄川さん」と朔は言った。
「すぐ戻る」
「閉館当番は」
「間宮くんがいる」
 間宮が、ストーブの前で、えっ、という顔をした。
 そのとき、戸川さんが立ち上がった。
「あの、すいません。お二人、どちらまで」
 千代子さんが、下の町の名前を言った。駅の裏手の、と付け足した。
「通り道です」と戸川さんは言った。「俺、バイパスに出るんで。駅の裏なら、ちょうど。乗っていきませんか。ぼろい車ですけど」
 父が、何か言いかけた。来館者に来館者を送らせるのは、と朔には聞こえる気がした。何かあったら。山道だぞ。霧だぞ。
 しかし、父が言葉を選んでいるあいだに、正一さんが帽子をかぶり直していた。
「ありがたい。お願いします」
 千代子さんが、「ほんとうに、いいんですか」と戸川さんに訊いた。
「霧の山道、慣れてるんです。毎晩、もっとひどいとこ走ってるんで」と戸川さんは言った。「それに、さっきの話、もうちょっと聞きたいし。四十年前の」
 父は、コートを持ったまま、立っていた。
 朔は、父の横に行った。小声で言った。
「澄川さん。今夜は、閉館当番でしょう」
 父は朔を見た。長いあいだ、見た。それから、コートをハンガーに戻した。
「――下りのカーブ、三つ目がきついです。ガードレールの切れ目がある。ライトは下向きで」
「了解です」と戸川さんが言った。
 父は事務机の引き出しから、星見台の名刺を一枚出し、裏に電話番号を書いて、戸川さんに渡した。
「着いたら、一本ください。何時でもいいです」
「はい」
 森永夫妻は、玄関で振り返った。正一さんは、何か言おうとして、結局、帽子を軽く持ち上げただけだった。千代子さんが言った。
「四十年分、ありがとうございました」
 父は、深く頭を下げた。顔を上げたとき、何も言わなかった。
 セダンのテールライトが、霧の中で赤くにじみ、やがて見えなくなった。

八 閉館当番

九時。事務室には三人だけになった。ストーブが、かすかに鳴っていた。
 父は、壁に掛かったクリップボードを外した。閉館点検表。紙はこの春に朔がつくり直したもので、項目は父が昔から使ってきたものをそのまま移した。
 父はクリップボードを、朔に差し出した。
「読むのは俺がやる。やるのは二人」
「――はい」
 朔はクリップボードを受け取りかけて、父の手に戻した。読むのは父だ。三人でドームへ上がった。
「一。望遠鏡を格納位置へ」
 間宮が制御盤のキーを押した。鏡筒がゆっくりと起き上がり、まっすぐ天頂を向いて止まった。格納の動作が終わったことを知らせる、小さな音がした。
 朔は、蒼汰くんの手のひらのことを思った。土星はまだ雲の上を西へ動いている。でも、もうこの望遠鏡は追いかけない。
「二。鏡筒の蓋」
 朔と間宮で、脚立を挟んで蓋を受け渡した。直径六十センチの、黒い金属の蓋。思ったより重かった。朔が下から支え、間宮が上で嵌めた。
「三。ドームを定位置へ」
「北」と朔と間宮が同時に言った。
 間宮がスイッチを押した。ドームが静かに回る。昼に油を差した三つのローラーの上を、何の音もなく通り過ぎた。スリットが北の壁で止まった。
「四。除湿機、入」
 朔がスイッチを押した。緑のランプがついた。冬のあいだ、この機械だけが毎日ドームの空気を乾かしつづける。
「五。ドーム照明、切」
 電球を消すと、ドームの中は真っ暗になった。三人の息だけが聞こえた。朔は、目が慣れるのを待った。何も見えなかった。窓のない、雲の中のドーム。
 暗闇の中で、父の声がした。
「――『印刷か』と言ったな」
 朔は返事をしなかった。
「昼間。悪かった」
「……別に」
「あれは、印刷なら、間宮くんでも配れる、と思ったんだ」
 暗闇の中で、間宮が身じろぎする気配がした。
「俺の字は、俺がいなくなったら終わりだ。だから、曇りの夜のカードも、俺が辞めたら終わるんだろうと思ってた。終わってもいいと思ってた。間宮くんには間宮くんのやり方がある。――でも、あれは、残る。誰が配っても、紙をめくれば星が出る」
 朔は、手探りでドームの壁に触れた。冷たかった。
「それで、ほっとして、それをどう言えばいいかわからなかった」
「言えばいいでしょう、そのまま」
「言えなかったから、ああなった」
 間宮が、くっ、と笑いをこらえる音がした。朔もつられて、少し笑った。笑ってから、鼻の奥が痛くなった。暗くてよかった、と思った。
「裏を、白くしといたの」と朔は言った。「何を書けばいいか、わからなかったから」
「見ればわかる」と父が言った。「あれは、何か書けってことだろう」
「間宮さんが書けばいい。来年から」
「僕の字、ひどいですよ」と間宮が言った。
「俺よりはましだ」と父が言った。
 父が手探りで照明のスイッチを入れ直した。三人とも、眩しさに目を細めた。父の目が少し赤いように見えたが、朔は見なかったことにした。もう一度、消した。
「六。階段の灯り」
 事務室へ下りて、点検表は続いた。ストーブの火を消す。灯油の残量を記録する。窓の鍵。ガスの元栓。釣り銭の箱。千六百円を数えて、入金袋に入れ、金庫へ。
「十一。来館者ノート」
 朔は受付のノートを開いた。今夜、来館者が書いていったページ。蒼汰くんの字で、「どせい 手でさわった」。野上さんの字で、「来年、晴れの日に地学部全員で来ます」。戸川さんは、名前の横に、「生姜湯うまかった」とだけ書いていた。森永夫妻は、二人の名前を並べて書き、その下に千代子さんの字で「四十年目」とあった。
「十二。観測日誌」
 父が書架から、今年の分のノートを出した。二〇二六年。四十一冊目。
 父はノートを開き、ペンを取って、日付を書いた。
 ――十一月十四日(土) 今季最終公開。曇。雲量十。来館者八名。
 そこで、ペンを止めた。そして、ペンを朔に渡した。
「カードのこと、書いといてくれ」
 朔は、ペンを受け取った。父の字の下に、自分の字で書いた。父の字よりずっと丸い、と自分で思った。
 ――観望できず。ドーム内で説明。土星、アンドロメダ銀河を導入、追尾。曇天カード(新版・台紙とトレーシングペーパー)を八名に配布、裏に澄川(恒夫)が一言ずつ記入。皆、それでも喜んで帰った。
 書いてから、少し迷って、付け足した。
 ――と、思う。
 父が、それを覗きこんだ。何か言いかけて、やめた。そのかわり、間宮のほうを向いた。
「来年からは、間宮くんが書け」
「はい」
 そのとき、事務室の電話が鳴った。九時四十五分。朔が出た。
「戸川です。お二人、家の前まで送りました。問題なしです。三つ目のカーブ、ほんとにきつかった」
「ありがとうございます」
「こっちこそ。じゃ、また」
 電話が切れた。朔が伝えると、父は時計を見た。
「木星が昇るのは、真夜中の前後だ」
「戸川さん、四時に出るって言ってたね」
「下は晴れるかもしれん」と父は言った。「山の上は、朝まで雲の中だ」
 窓の外は、白いままだった。
「十三。冬季閉鎖の札」
 朔は、受付の下から看板を出した。これもこの春に朔が描き直したものだ。白い板に、紺色の文字で「今季の一般公開は終了しました。また四月に」。その下に、小さく、ドームと、その上に星を三つ。
 玄関の外の掛け金に、朔が看板を掛けた。霧が、すぐに文字の上に細かい水滴をつくった。
「十四。施錠」
 父は、鍵束を朔に渡した。
 朔は玄関の鍵をかけた。がちゃり、と古い鍵が回った。
「以上。閉館当番、完了」と父は言い、少し間をおいて付け足した。「――ご苦労さまでした、澄川さん」
「ご苦労さまでした、澄川さん」と朔も言った。
 間宮が、二人の後ろで小さく拍手した。父が振り返って睨んだので、間宮はすぐにやめた。
 三人は駐車場まで歩いた。霧は相変わらず濃く、ドームは振り返るとすぐに白い輪郭だけになった。間宮が自分の車で先に下りていった。
 朔の軽自動車の助手席で、父は膝の上に、カードを一枚持っていた。三十組のうちの一組。裏には何も書かれていない。
「それ、どうするの」
「家に置いとく」
「何も書いてないよ」
「いい。めくれば出る」
 山道を下りる。三つ目のカーブで、朔はライトを下向きにした。ガードレールの切れ目が、ヘッドライトの中を過ぎていった。
 下の町に近づくと、霧が薄くなった。フロントガラスの上のほう、雲の底が、町の灯りを映してぼんやりと橙色に光っていた。星は、見えなかった。父は何も言わなかった。朔も何も言わなかった。それで、ちょうどよかった。
 家に着くと、台所の灯りがついていて、母が鍋を温め直していた。
「どうだった」
「雲量十」と父が言った。
「はい、雲量十」と母が言った。

夜の事務机で日誌に一行を書き足す朔の手。横には曇りの紙を重ねた星図カード、紙コップと鍵束があり、窓の外は暗い霧に包まれている。

九 四月の予約客

翌年の四月十日、土曜日。
 朔は、また受付の机に座っていた。春に契約が更新されて、今年も四月から十一月まで。予約台帳は、紙からタブレットに変わった。間宮の提案で、朔が画面を作った。
 冬のあいだに、カードは残り十七組になっていた。三組は年末に久保田さんの家へ送った。裏に、間宮の字で「お誕生日おめでとう。晴れた夜に、待っています」と書いて。手紙が一通返ってきて、いまは事務室の壁に貼ってある。娘さんの字で、「めくったらほしがでました」。一組は間宮が自分の机の引き出しにしまっている。
 十二月のはじめには、戸川さんから絵はがきが一枚届いた。どこかのパーキングエリアの売店で買ったらしい、名物の饅頭の写真のはがきだった。裏に、太いボールペンの字で、こうあった。
 ――十一月十五日、四時十分、峠のパーキング。南東の高いところ、白く明るいの。木星。名前つきで見たのは初めてです。生姜湯の作り方、教えてください。
 母が喜んで、作り方を便箋に書いて送り返した。生姜の量のところに、父が横から「半分でいい」と書き足して、母に叱られた。
 今夜の予約は九組、二十名。定員いっぱい。
 その中に、「澄川 恒夫 様 二名」があった。
 十八時四十分。見慣れた家の軽トラックが駐車場に入ってきた。助手席から母が降りてきて、魔法瓶をふたつ、受付の机に置いた。
「生姜湯。曇りでしょう」
 朔は窓の外を見た。雲は、空の半分ほどを覆っていた。雲量五、と朔は思った。
 父は、母の後ろから、少し居心地悪そうに入ってきた。上着は、作業着ではなく、母が去年の暮れに買ったという紺のジャンパーだった。
「ようこそ、鷲尾山天文台へ」と朔は言った。「澄川様ですね。お二人で、六百円です」
 父は財布から百円玉を六枚出した。数えて、机に置いた。それから、受付の脇の掛け金を見た。看板は、裏返されて「本日一般公開」の面が表になっていた。
「間宮くんは」
「ドームです。お客様は、時間になったらご案内します」
「ローラー、油は」
「お客様」
 母が笑って、父の背中を叩いた。
 十九時。間宮の声が、ドームの中に響いた。
「ようこそ、鷲尾山天文台へ」
 父の声とは、まるで違った。少し高くて、少し早口で、それでも最後まで途切れなかった。今夜は、雲の切れ目から、ときどき月が出た。間宮はそのたびにスリットを開け、月を入れ、二十人を一人ずつ接眼部へ並ばせた。雲が来るとスリットを閉め、鏡筒に手を当てさせた。今、雲の上の月を、この望遠鏡が追いかけています、と。
 父は、半円のいちばん端に立って、腕を組んでいた。一度だけ、ドームの回転のときに天井を見上げ、耳を澄ますような顔をした。何の音もしなかった。父は、小さくうなずいた。
 帰りぎわ、間宮が来館者一人ずつに、カードを渡した。今季の分は、朔が春に刷り直した四月の星図だ。裏に、間宮が一言ずつ書いた。間宮の字は、本当にひどかった。
 父のカードには、こう書いてあった。
 ――澄川さんへ。ローラーは三月に差しました。半分の量で。
 父は、カードを読んで、鼻を鳴らした。それから、トレーシングペーパーをめくった。
 その夜の閉館当番は、間宮と朔だった。父と母は先に帰った。
 点検表を読み上げるのは間宮で、やるのは朔だった。ときどき間宮も脚立を上がった。鏡筒の蓋。ドームを北へ。除湿機。照明。
 最後に、朔は日誌を開いた。二〇二七年。四十二冊目の、最初のページ。
 間宮が、ペンを取った。日付を書き、天気を書いた。
 ――四月十日(土) 今季初公開。曇時々晴。雲量五。月を観望。来館者二十名。
 間宮はそこでペンを止め、朔を見た。朔は笑って、ペンを受け取り、その下に書き足した。
 ――うち、元職員一名。ローラーの音を確かめて、帰った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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