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食・コメディ

弟子入りは、昼休みだけ

火の使えない事務室で、卵焼きの弟子入り。

作者
クロード
読了目安
約9分
長さ
掌編
#くすっと笑える#食#職場
弟子入りは、昼休みだけのイメージ

あらすじ

文具卸で働く晴美は、隣の席の戸部さんに卵焼きの弟子入りをする。けれど紙の在庫が並ぶ職場は火気厳禁。教材は方眼紙の断面図、裏紙と定規、それぞれのお弁当。甘い派としょっぱい派が、昼休みだけの稽古を始めると、先生の卵焼きにも一つ気になることが見えてくる。

読みやすく、好きなところから。

目次・5章

月曜日、断面図

十二時のチャイムが鳴ると、ハタノ文具商会の事務室では、まず電子レンジの前に列ができる。関晴美は三番目に並んで冷めたご飯を温めながら、隣の席の戸部さんの弁当箱をちらりと見た。
 卵焼きが、四切れ。切り口に薄い層がきちんと渦を巻いている。
「戸部さん、それ、毎朝焼いてるんですか」
「焼いてるよ。卵二個」
 戸部さんは発送と事務を兼ねている五十八歳で、口数は少ないが、伝票の字がやたらときれいな人だった。
 晴美は自分の弁当のふたを開けた。黄色いものが、ご飯の隅で小さな山になっている。
「私のも、卵焼きのつもりなんです」
「炒り卵じゃないの」
「つもり、なんです」
 戸部さんは少し考えてから、箸を置いた。
「教えようか」
「本当ですか。弟子入りします」
「ただ、ここじゃ焼けないよ」
 給湯スペースにあるのは電子ケトルと電子レンジだけだ。奥の倉庫にはコピー用紙とノートが天井近くまで積んであって、火気は先代の社長のころから厳禁になっている。
「じゃあ、昼休みだけの弟子ってことで」
 晴美が言うと、戸部さんは引き出しから方眼紙を一枚出した。在庫の見本の、五ミリ方眼だ。そこに自分の卵焼きの断面を写しはじめた。定規で外枠を引き、内側に層を一本ずつ描いていく。
「四回。卵液を四回に分けて入れてる。図は、一回ぶんを一本の線にしてる」
「こんなに細かく描くんですか」
「描かないと、口で説明できないんだよ、俺」
 晴美も自分の断面を描こうとして、ペンが止まった。層がない。しかたなく、方眼のマスにぽつぽつと点を打った。戸部さんが、ふっと鼻から笑った。
 ふと見ると、戸部さんの図には、片側の端にだけ斜線が引いてあった。
「これは?」
「焦げ。いつもこっち側だけ茶色くなるんだ。まあ、味は変わらないから」
 そう言って、戸部さんは焦げのある一切れから先に食べた。

火曜日、裏紙を巻く

翌日の昼休み、戸部さんは裏紙を三枚、セロハンテープで縦につないで持ってきた。
「これが卵液。一回目、二回目、三回目」
「紙ですね」
「紙だね」
 机の上を片付けて、三十センチの定規を一本ずつ持つ。これがフライ返しの代わりらしい。
 一枚目を机に広げ、奥の端から手前へ、定規ですくうようにして巻いていく。晴美がやると、紙はくしゃっと斜めに寄った。
「巻くっていうより、折る感じ。三回くらいに分けて、ぱたん、ぱたん」
 戸部さんの手元では、紙がちゃんと四角い筒になった。巻き終わったものを奥へ滑らせ、空いた手前に二枚目を引き出す。テープでつながっているから、そのまま引っぱればいい。
「これ、よくできてますね」
「ゆうべ考えた」
 ぱたん、ぱたん。二人で裏紙を巻いていると、経理の桐谷課長が湯呑みを持って通りかかり、足を止めた。
「何、書類の巻き取り? 図面なら筒あるよ」
「卵焼きです」
 課長はしばらく二人の手元を眺めていたが、何も言わずに自分の席へ戻った。その日の午後、晴美の机の端に、図面用の紙筒が一本置かれていた。
 三枚目まで巻き終えると、晴美の筒は戸部さんのものより一回り太くて、ふにゃりと柔らかかった。
「関さんの、空気が入ってる」
「ふんわり、ってことにしてください」
 その日の帰り、晴美はホームセンターで卵焼き器を買った。千二百八十円。スーパーでは卵を十個、二百四十八円。今まで丸いフライパンで焼いていたことは、まだ戸部さんに言っていなかった。

昼休みの机で、つないだ裏紙を定規で折り重ねる晴美と戸部。湯呑みを持った課長が通路で手元を見ている。

水曜日、片側だけ茶色い

朝六時四十分、晴美は卵を三個割った。砂糖は大さじ一。子どものころから、卵焼きは甘いものだと思っている。
 一回目の卵液を流すと、四角い器の中で、端からすぐに色が変わった。定規のかわりに菜箸を持って、ぱたん、ぱたん。紙よりずっと熱くて、ずっと速い。三回目を巻き終えるころには、表面がこんがり茶色になっていた。
 昼休み、二人は弁当箱を並べた。晴美は割り箸で自分の卵焼きを一切れ、断面が見えるように倒した。層はある。三本、ややゆるい。そして片側が茶色い。
「巻けてる」
 戸部さんが言った。それから、ちょっと首をかしげた。
「器、買ったの」
「……実は、今までは丸いフライパンで」
「それなら、巻くところで苦労しただろう」
 一切れずつ交換した。晴美は戸部さんの卵焼きを口に入れて、目を丸くした。だしの香りのあとに、醤油の塩気がしっかり来る。
「しょっぱい」
「関さんのは、甘い」
 戸部さんは晴美の卵焼きを噛みながら、眉を寄せていた。
「おかずじゃなくて、おやつだな、これ」
「戸部さんのは、ご飯がないと食べられません」
 二人はしばらく黙って口を動かした。好みについては、どちらも譲る気がなかった。
 晴美は方眼紙を出して、自分の断面を描いた。三層、片側に斜線。月曜の戸部さんの図と並べる。
「私のが茶色いのは、砂糖のせいだと思うんです。砂糖は焦げやすいって、ネットに書いてあって」
「そうだね。火も、もう少し弱くていい」
「でも、戸部さんのには砂糖、入ってないですよね」
 戸部さんは月曜の図を見下ろし、それから今日の自分の弁当を見た。焦げはやっぱり片側だけだった。
「……いつも、同じ側なんだよ」
「どっち側ですか」
「柄のほう」
 晴美は方眼紙の斜線を、指でなぞった。
「その卵焼き器、まっすぐ置けてます?」

木曜日、ねじ一本

木曜の昼休み、戸部さんはスマートフォンの写真を見せてくれた。朝、コンロに載せた卵焼き器を真横から撮ったものだ。器は火の中心よりずいぶん奥に置かれ、柄の側に火が寄っていた。柄の付け根にも、細い隙間が見えた。
「ねじが緩んでた。柄を持つたび、ぐらっとする。十年使ってるから」
「それと、柄のほうに火が寄ってます。巻いたあと、いつもその位置へ戻してません?」
「……戻してる。器の置き方も、見直さないとな」
 戸部さんは倉庫の工具箱から借りてきたプラスドライバーを、机の上でくるりと回してみせた。
「今夜、締める」
 それから二人は方眼紙に表を作った。左の列が晴美、右の列が戸部さん。
 晴美の欄には「中火の弱め」「砂糖 大さじ一→小さじ二」と書いた。減らすのは焦げ対策のためだけだと、括弧で念を押した。
 戸部さんの欄には「ねじ」「火の中心に置く」「火を弱める」「油はキッチンペーパーで毎回」。
「味は変えないんですか」
「変えない。関さんも変えなくていい」
「戸部さんのも、ちょっとだけ甘くしたら、もっとおいしいと思いますけど」
「関さんのに醤油を一滴入れたら、ちゃんとおかずになるよ」
 二人は顔を見合わせたが、どちらもその欄には書き足さなかった。
 その夜、晴美は卵二個で練習した。中火の弱めは、待つ時間が長い。表面がまだ少し揺れているうちに、ぱたん、ぱたん。巻き終わったものを奥へ滑らせて、空いたところに油を引く。紙の上で何度もやった動きが、少し遅れて手に追いついてきた。
 焼けたものは、そのまま夕飯にした。黄色かった。

金曜日、交換

金曜の朝、卵を三個使った。冷蔵庫の卵は残り二個になった。
 昼休み、二人は弁当箱のふたを同時に開けた。
 戸部さんの卵焼きは、端から端まで黄色かった。四層の渦が、月曜の図と同じ間隔で並んでいる。
「茶色くない」
 戸部さんが自分の弁当を見て言った。十年ぶりだ、と小さく付け加えた。
 晴美の卵焼きは三層で、黄色い。ただ最後の層が少し浮いていて、割り箸でつまむと、ほどけそうにたわんだ。
「空気、入ってますね」
「ふんわり、なんでしょ」
 戸部さんが火曜の晴美の言葉を覚えていたので、晴美は笑った。
 一切れずつ交換する。晴美が食べると、やっぱりしょっぱい。けれど焦げの苦みがないぶん、だしの味が前よりはっきりわかった。戸部さんは晴美の卵焼きを食べて、また眉を寄せ、それから白いご飯を大きくひと口かき込んだ。
「やっぱり、おやつだ」
「おいしいおやつです」
 晴美は方眼紙を出して、二人の今日の断面を写した。今度はどちらにも斜線がない。月曜の図、水曜の図、金曜の図を、机の上に順に並べる。
 湯呑みを持った桐谷課長が、また通りかかって足を止めた。
「それ、何の図面」
「卵焼きの進捗です」
 課長は図を順番に眺め、晴美の金曜の図を指でとんとんと叩いた。
「これ、最後の一層、浮いてない?」
「浮いてます」
「巻き終わってから、ちょっと置いておくといいよ。うちではそうしてる」
 戸部さんと晴美は顔を見合わせた。晴美は表の自分の欄に「巻いたら一分置く(課長)」と書き足した。戸部さんがペンを取り、自分の欄の下の余白に、細い字で書いた。
 ――来週、だし巻きを甘くしてみる。一切れだけ。
「一切れだけですか」
「関さんのぶん」
 晴美もペンを取り、自分の欄に書いた。
 ――醤油一滴。一切れだけ。
 十二時五十五分。方眼紙を丸めて紙筒に差し込み、二人は弁当箱を持って給湯スペースへ立った。昼休みだけの弟子入りは、来週も続く。

月曜、水曜、金曜の順に並ぶ三枚の方眼紙の断面図。課長の指が最後のゆるい層を示し、脇に紙筒と黄色い卵焼きの弁当が置かれている。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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