一 月曜日の棚
貸会議室「ひなた坂ルーム」の受付カウンターの後ろには、腰の高さのスチール棚がある。三段のうち一番下が忘れ物の段だ。八巻文乃は月曜の朝、開館から四十分が過ぎたころに、そこを必ず数えることにしていた。
ビニール傘が二本。右手だけの毛糸の手袋。白い充電ケーブルが一本。それから、ジッパー付きの透明な袋がひとつ。中には名札が三つ入っていた。
袋の口には、清掃の岩城さんの角ばった字でメモが貼ってある。
〈10/24(土)16:10 B室 窓側の椅子の上 名札3(記名なし) 岩城〉
文乃は袋をカウンターに出して、中身を一つずつ並べた。
この施設が貸し出す名札は、透明なプラスチックのケースにクリップがついた、事務用品のカタログに載っているとおりのものだ。これは違った。名刺より一回り大きな若草色のフェルトに、厚紙のカードが縫いつけてある。裏には安全ピン。カードの左側には色鉛筆で小さな絵が描いてあり、右側には鉛筆の罫線が一本引いてあるだけだった。名前を書くための線だ。三つとも、その上は白い。
絵は栗ご飯と、豚汁と、卵焼きだった。栗ご飯の栗は三粒、豚汁の椀からは湯気が二本。卵焼きは切り口が見えるように描かれていて、巻きの渦が三重になっている。
裏返すと、フェルトの隅に鉛筆で小さく数字があった。〈5/12〉〈11/12〉〈12/12〉。
「それ、土曜のB室のだよ」
モップのバケツを提げた岩城さんが、カウンターの横で足を止めた。
「椅子が輪っかに並べてあってね。窓側の三つの座面にだけ、それが残ってた。名前が書いてないから使わなかった分だと思ったけど、勝手に捨てるわけにもいかないし」
「ありがとうございます。手作りですよね、これ」
「縫い目が細かいね。私なら三つで日が暮れる」
岩城さんは笑ってエレベーターのほうへ行った。
文乃はしばらく、十二分の五、十一、十二という数字を眺めていた。
前の職場は物流倉庫で、七年間、検品の係をしていた。伝票の数と箱の数が合わないとき、合わないまま帰ることはしない。ここで受付を始めて二年になるが、その癖は抜けていない。むしろ忘れ物の段を任されてから強くなった気がする。持ち主の分からない物は、棚の上でいつまでも数を乱す。
予約台帳の画面を開いた。
十月二十四日、土曜日。B室。十三時から十六時。予約名は「ひなた坂こども食堂 新ボランティア説明会」。申込人数、十二名。
退室票の控えもすぐに見つかった。退室時刻十六時二分、実利用人数九名。代表者の欄には、戸倉という几帳面な字がある。
十二引く九は、三。
名札の数と合う。来なかった三人のぶんが、座る人のいないまま椅子の上に残ったのだ。そう考えれば、裏の数字が十二まであることも、三つとも白いことも筋が通る。忘れ物というより、持ち帰り忘れた予備だ。
十時十五分、文乃は予約の連絡先に電話をかけた。
「はい、戸倉です」
年配の、よく通る声だった。文乃が名乗って用件を伝えると、戸倉は「ああ」と明るく言った。
「名札ね。あれは本当に助かりました。そちらで用意してくださったんでしょう。椅子まで輪にしてあって。いい会議室だねって、帰りに皆で話してたんですよ」
文乃は受話器を持ったまま、カウンターの上の卵焼きを見た。
「……申し訳ありません。当方では、名札はご用意していないんです」
電話の向こうが一拍、静かになった。
「え。じゃあ、あれは誰が」
二 十二引く九の、外側
その答えを、文乃は半分知っていた。
土曜日、受付にいたのは彼女ひとりだった。十一時二十二分、紙袋を両手に提げた女性が来た。B室を十一時半から一時間、一名で予約している人だった。料金の二千四百円は現金で受け取った。十二席の部屋を一人で一時間借りる人は珍しくない。電話会議に使う人もいるし、試験勉強をする人もいる。だから文乃はそのとき、何も思わなかった。
入室記録は十一時二十四分。退室は十二時三十一分で、鍵を返しに来たその人は少し早口でこう言った。
「椅子、輪の形にしてあるんです。そのままにしておきたいんですけど、次の方が困るようなら戻しますので」
次のご予約の方に確認します、と文乃は答えた。それで十分だと思った。引継ぎメモにはこう書いた。〈B室 前利用者が椅子を円形に配置→次利用者に確認〉
十二時三十五分、岩城さんが部屋間の点検に入った。点検表には〈円形十二脚 座面に紙類あり 触らず〉とある。メモを見て、手をつけずにおいてくれたのだ。
十二時五十二分、戸倉が来た。帽子をとって会釈する、背の高い老人だった。文乃は言った。椅子が輪の形になっていますが、このままでよろしいですか。教室の形に戻すこともできます。
戸倉は顔を輝かせた。輪がいい、まさにそうしたかったんです、と。
ちょうど電話が鳴り、文乃は「では、そのままで」とだけ言って受話器を取った。前の時間の利用者がそうしていった、とは言わなかった。ほかの利用者のことは話さない。それはこの仕事でいちばん最初に教わる決まりで、彼女の口は考えるより先にそれを守った。
十三時五分、戸倉が受付に戻ってきて、油性ペンを二本借りていった。十六時二分にペン二本と鍵を返し、退室票に九と書いた。十六時十分、岩城さんが窓側の椅子から名札を三つ拾った。
記録を並べると、隙間はひとつしかなかった。
十二時三十一分から十二時五十二分までのあいだ、B室に入った利用者はいない。名札は、その前からあった。
――一名で、十二席を一時間。会議のためではなく、部屋を整えるために借りた人がいる。
「戸倉さま」と文乃は言った。「大変失礼しました。当日の受付で、私の説明が足りませんでした」
「いや、そんな。でも、不思議だなあ」戸倉の声は困っているというより、首をかしげている感じだった。「名簿は十二人でね。来なかったのが三人。新しい方が二人、前の日に都合が悪くなったと連絡をくれて。それと、うちの古株が一人、仕事が入ったと朝にメールをくれました。私は、そうか、気にしないで、と返しただけで」
仕事が入った、と文乃は胸の中で繰り返した。
「名札はこちらで責任をもってお預かりします。分かることがあれば、改めてご連絡いたします」
「お手数をかけます。あの名札、九人とも名前を書いて持って帰ったんですよ。次の食堂の日に付けるんだって」
電話を切ってから、文乃は壁の掲示を見た。受付の内側の、利用者からは見えない位置に手書きの紙が貼ってある。〈ほかのご利用者さまの情報は、お伝えできません〉。二年前、彼女自身が書いた字だった。
戸倉に前の時間の予約者の名前を教えることはできない。けれど名札がB室に残っていた以上、その予約者に「お心当たりはありませんか」と尋ねるのは、忘れ物係のまっとうな仕事だった。
十時四十分、文乃は土曜十一時半の予約の連絡先に電話をかけた。何度目かの呼び出し音のあと、揚げ物の音と、誰かが「コロッケ二十追加」と叫ぶ声が聞こえた。
「はい、小柴です。すみません、いま店で」
「ひなた坂ルームの八巻と申します。土曜日にB室をご利用いただいた件で――」
「名札?」
文乃が言うより先に、相手はそう言った。
「残っちゃった? いくつ?」
「三つです」
受話器の向こうで、小柴という人は小さく息を吐いた。溜め息なのか笑ったのか、文乃には分からなかった。
「九人来たんだ」と小柴は言った。「明日、二時から十五分だけ休憩があるの。そっちへ行ってもいい? 店から歩いて四分だから」
三 一名で十二席
火曜日の十四時四分、小柴は白い調理用の上着にカーディガンを羽織って現れた。五十代の半ばくらいに見えた。袖口から、かすかに揚げ油と出汁の匂いがした。
「十五分しかないから、立ったままで」
文乃は三つの名札をカウンターに並べた。小柴はまず栗ご飯を手に取り、それから豚汁、最後に卵焼きを取って、フェルトの縫い目を親指でなぞった。
「全部、小柴さまが作られたんですか」
「十二個ね。夜なべして二週間」小柴は少し照れたように言った。「名簿の数。私も入ってたから」
「どうして、お名前の欄を空けたままにされたんですか」
文乃がいちばん聞きたかったのはそれだった。十二個も作る人が、名前だけを書かない理由。
「書いちゃだめなのよ」小柴は即答した。「うちの食堂ではね、子どもの前で本名を名乗らなくていいことにしてるの。みんな呼び名。自分で決めて、自分で書く。新しく来る人は名簿に名前が載ってるけど、それを私が勝手に名札に書いたら、そこで決まっちゃうでしょう。何て呼ばれたいかは、その人のものだから」
「絵は」
「目印。字がまだ読めない小さい子でも、栗ご飯のひと、って呼べるから。全部、うちの食堂で出したことのある献立」
小柴は豚汁の湯気を指でたどった。
「この十一番は、たぶん来られなかった新人さんの席。五番もね。座る場所は決めてなかったけど、窓側はもう寒いから、みんなドアのほうから座ったんだと思う」
「十二番は」
小柴は卵焼きを裏返して、〈12/12〉の字を見た。
「私の。最後に作ったから十二番」

「お名前は、当日に書くおつもりだったんですね」
「食堂じゃね、私、名札なんか付けたことないの。六年台所にいて、子どもには『たまごさん』って呼ばれてる。卵焼きばっかり焼いてるから。でも今度の説明会で、新人さんと一緒に、私も一回ちゃんと書いてみようと思ってた。それが――」
金曜日の夜、惣菜店の同僚から電話があったのだという。引っ越しの立ち会いの日を、管理会社に急に動かされてしまった。土曜の十三時から代わってもらえないか、と。
「人が足りないのは分かってたから、いいよって言っちゃった。それで夜中に、ここの空いてる時間を見たの。十一時半から一時間、B室が空いてた」
「戸倉さまには、お伝えにならなかったんですね」
「言ったら、あの人、自分が十一時に来て並べるって言うに決まってるもの」小柴は笑った。「説明会の準備は、資料も献立表も全部ひとりで抱えるのよ。だから、部屋に入ったら全部できてる、っていうのを一回やってみたかった。それだけ」
文乃はカウンターの下で、指を一本ずつ折った。十二個の名札、十二脚の椅子、一名の予約、二千四百円、二十一分の空白。数は合っている。合っていないのは、ひとつだけだった。
「戸倉さまは、名札も椅子も、当方が用意したものだと思っていらっしゃいました。当日、私が前の時間の方がなさったことだとお伝えしなかったからです」
「それは、あなたのところの決まりでしょう」
「はい。ですから、小柴さまのお名前もご連絡先も、お伝えするつもりはありません。でも、当方が用意したという誤りだけは直させていただきたいんです。『前の時間に、別のご利用者が整えていかれた』とだけ。それもお嫌でしたら、言いません」
小柴は卵焼きの名札を指先でくるりと回した。調理場で考えごとをするときの癖なのかもしれなかった。
「……それくらいなら、いいわ。施設の手柄にされたままじゃ、あなたが落ち着かないものね」
「ありがとうございます」
「それと、この三つ。全部、戸倉さんに渡して。私のぶんも」
「十二番もですか。お持ち帰りにならなくて」
「私が持って帰ったら、引き出しにしまって絶対書かないもの」小柴は壁の時計を見た。十四時九分だった。「自分で持って帰らないほうがいいの。戻ってきたら、そのときは書く」
カーディガンの前を合わせながら、小柴はふと文乃の胸元を見た。
「あなたも、名札ないのね」
「土曜の朝にピンが折れてしまって。いま新しいのを頼んでいるところです」
「お名前、聞いてもいい? 電話で聞いたけど、揚げ物の音で消えちゃった」
「八巻です」
「やまきさん」小柴は一度、口の中で繰り返した。「名乗ってくれてありがとう。それじゃ、揚げ場に戻ります」
十四時十分、小柴は自動ドアの向こうへ小走りに出ていった。四分で着くなら、休憩は一分残る。
その日の夕方、文乃はもう一度戸倉に電話をかけた。お渡しできるものと、お伝えできることがあります。戸倉は、明日の三時半に伺います、と言った。
四 輪の形
水曜日の十五時半、戸倉は約束の時刻ちょうどに来た。帽子を取り、肩から提げた布の鞄から大学ノートを出して、カウンターの端に置いた。
文乃は透明な袋から三つの名札を出して並べた。
「先日は失礼いたしました。改めてご説明いたします。この名札と椅子の配置は、当方が用意したものではありません。土曜日、戸倉さまのご予約の前の時間に、別のご利用者がこの名札を置いて、椅子を並べていかれました。その方のご了承をいただいて、ここまではお伝えしています。お名前やご連絡先は、申し訳ありませんが、お伝えできません」
戸倉は黙って聞いていた。それから眼鏡を少しずらして、三つの名札に顔を近づけた。
栗ご飯、豚汁、と目が動いて、卵焼きで止まった。
戸倉はふっと笑った。
「聞きませんよ」
彼は卵焼きの名札を手に取った。
「この卵焼き、渦が三重に描いてあるでしょう。うちの食堂の献立黒板とおんなじ描き方です。毎回チョークでこれを描く人がいてね。ほかの人が真似すると、二重になるか四重になる」
文乃は何も言わなかった。認めることも、打ち消すこともしなかった。それが自分にできるいちばん正確な返事だと思った。
戸倉もそれ以上は聞かなかった。ノートを開いて何かを書きつけ、閉じた。
「土曜の朝にね」と戸倉は言った。「仕事が入った、ごめん、ってメールが来たんです。私は、そうか、気にしないで、って返した。説明会のあいだも、来てればよかったのに、ってちょっとだけ思ってました」彼はフェルトを指で撫でた。「来てたんだなあ。私より先に」
それから、窓の外の商店街のほうへ目をやった。
「それで十三時から揚げ場か」
「揚げ場とは、申し上げていません」
「ええ、聞いてません」
二人は少しのあいだ、声を出さずに笑った。
「この二つは」戸倉は栗ご飯と豚汁を鞄にしまった。「食堂の予備箱に入れます。来られなかった二人も、また来たいと言ってくれてますから。もし来なくても、次の新人さんのぶんにする」
「卵焼きは」
「明日が食堂の日です」戸倉は十二番の名札を、ノートのページのあいだに挟んだ。「台所のいつものフックに掛けておきます。ペンも一本添えて。私が書いたら、意味がないでしょう」
それから戸倉は、受付の予約票に手を伸ばした。
「十二月に、冬休み前の仕込みの会をやるんです。ボランティアが集まって、正月の献立を試しに作る段取りを決める。ここ、借りられますか。B室で、十三時から十六時」
文乃は画面を開いた。十二月五日、土曜日。空いている。
「お取りできます。申込人数は」
「十二名。それと、その前の十一時半から一時間も、B室を」
「人数は」
「二名」戸倉は言った。「準備は二人でやるほうが早いですから。誰と来るかは、当日まで内緒にしておきます」
文乃は二つの枠に予約を入れた。十一時半から十二時半、二名で二千四百円。十三時から十六時、十二名で七千二百円。合計九千六百円です、と読み上げると、戸倉は財布から一万円札を出した。
「四百円のお返しです」
戸倉は百円玉を四枚受け取って、ノートと一緒に鞄にしまった。
五 十二分の十二
十二月五日の土曜日、文乃の胸元には新しい名札が付いていた。
注文するとき、施設長に聞かれたのだった。前と同じでいいですか、フルネームで。少し考えて、彼女は〈受付 八巻〉とだけ入れてもらった。呼んでもらうのに要るのは、それで十分だった。
十一時二十二分、自動ドアが開いた。紙袋を提げた背の高い老人と、その後ろに小柴がいた。今日は調理用の上着ではなく、えんじ色のセーターを着ている。
「B室、二名の戸倉です」
「お待ちしておりました」
鍵を渡しながら、文乃は小柴の胸元を見た。若草色のフェルト。卵焼きの渦が三重。その右側の罫線の上に、丸い字でひらがなの三文字が書いてあった。
〈たまご〉
小柴は文乃の視線に気づいて、少し胸を張った。

「あのあとの木曜にね、子どもたちの前で書かされたの。新人さんたちが拍手するもんだから、揚げ物より緊張した」
「書かされた、じゃないでしょう」と戸倉が言った。「自分で書いたんだ」
「はいはい」
二人はエレベーターに乗っていった。紙袋の中で、何か硬いものがかたかたと鳴った。名札の予備を入れた箱だろう、と文乃は思った。栗ご飯と豚汁も、あの中にいるのかもしれない。
十一時二十四分、B室の入室記録が付いた。
文乃は忘れ物の台帳を開いた。十月二十四日の行には、十月のうちに返却済みの印が押してある。それでも彼女は、その行の端に鉛筆で小さく書き足した。
〈3/3 持ち主のもとへ〉
それから少し考えて、もうひとつ書いた。
〈12/12〉
十二時三十五分の点検を待たずに、十二時二十八分、戸倉と小柴がエレベーターから降りてきた。
「早く終わったので、お昼を食べてきます」と戸倉が言った。「椅子は輪の形にしてあります。十三時から同じ部屋を、同じ私たちが使いますので、そのままで」
「承知しました」
「前の時より三分早い」小柴が言った。「二人だと、やっぱり早いわね」
前の時が何分だったのか、文乃は知っている。知っているが、言わなかった。
二人が商店街のほうへ歩いていくのを見送ってから、岩城さんが点検表を手にB室へ上がっていった。戻ってきた岩城さんは、表を文乃に見せた。
〈円形十二脚 座面に献立表十二枚 触らず〉
「今度はちゃんと、全員分の名前が書いてあったよ」と岩城さんは言った。「ひらがなと、絵で」
文乃は点検表を綴じた。
その日、忘れ物の段には、何も増えなかった。


