一 五十分
カードは干し柿と一緒に届いた。
母の字の付箋が貼ってあった。「実家の押し入れを整理していたら出てきました。おばあちゃんのパンのレシピ。あなた、好きだったでしょう」。はがきより少し大きい厚紙で、角は丸くすり切れ、真ん中にうっすらと油じみがある。
土曜の朝九時、真鍋律はその厚紙を冷蔵庫の扉にマグネットで留めた。
パン(まるいの 四こ)
- きょうりきこ 250g
- さとう 15g
- しお 4g
- イースト 3g
- ぬるいお湯 170(おふろくらい)
- バター 15g
1. バターいがいをまぜて、十分こねる。バターはとちゅうで。
2. ボウルにいれて、ふきんをかける。あたたかいところで、五十分くらい。
3. お茶を飲む。
4. ゆびでさして、あながもどらなかったらよし。ガスをぬいて、四つにわける。十五分やすませる。
5. まるめて、また三十分。
6. 百九十度で、十五分。
祖母の字にしてはひらがなが多い、と律は思った。祖母の千鶴は、年賀状の挨拶も漢字だらけで書く人だ。急いで書いたのかもしれない。
材料は前の晩に揃えてあった。スケールで量り、コーヒーのドリップ用の温度計で湯を三十六度にして粉に注ぐ。こね始めると、べたつく生地が指のあいだから逃げていった。五分たったところでバターを入れると生地がいったんばらばらになり、律は少し焦った。それでもあと五分こねると、表面がつるりとまとまった。
九時四十五分、生地をボウルに入れて濡れぶきんをかけた。
「あたたかいところ」
台所の壁の温度計は十八度を指している。ワンルームでいちばん日当たりがいいのは、ベランダ側の窓際だった。律はボウルを窓際の床に置き、スマートフォンのタイマーを五十分に合わせた。
三番目の行は読み飛ばした。お茶を飲むのは工程ではない。祖母が自分用に書いたメモだろう。待ち時間があるなら、ほかのことに使えばいい。
洗濯機を回し、溜まっていた宅配の段ボールを畳み、月曜の会議資料を一枚直した。経理課の仕事は、締め日に向かって細かい作業が積み重なっていく。隙間の時間を埋めるのは得意だった。途中で二度ふきんをめくったが、生地はさっきと同じ顔をしていた。
タイマーが鳴ったのは十時三十五分だった。ふきんを取ると、生地はたしかにふくらんでいたが、ボウルの底に沈んだまま、ひと回り大きくなった程度だった。指を刺すと、穴はゆっくり戻ってきた。
「……五十分くらい、って書いてあるしな」
律はそのまま進めた。ガスを抜いて四つに分け、十五分休ませ、丸めて、また窓際で三十分。オーブンを百九十度に温めて、十五分。
十一時四十分に焼き上がったパンは、色だけはきれいだった。手に取ると思ったより重い。ちぎると中がみっしり詰まっていて、噛むと奥歯を押し返してくる。まずくはない。けれど、律が覚えているのはこれではなかった。もっと頼りなくて、湯気がたくさん出て、指で押すとゆっくり押し返してくるパンだった。
律は冷蔵庫のカードを見た。三番目の行だけ、少し濃い鉛筆で書かれているような気がした。
二 練習中
昼すぎに電話をかけると、五回目のコールで祖母が出た。後ろで、ぽろん、ぽろん、と弦が鳴っている。
「律? ごめんね、今練習中なの。手短にね」
「練習って?」
「ウクレレ。公民館の。再来週の日曜が文化祭で、同好会で二曲やるのよ。言ってなかった?」
聞いていなかった。祖母がウクレレを始めたことも知らなかった。
「パンを焼いたんだ。母さんがカードを送ってきて」
「あら」
「でも固くなった。ふくらまなくて」
「お茶は飲んだ?」
すぐにそう訊かれて、律は言葉に詰まった。
「飲んでない。あれ、工程なの?」
「工程よ」
祖母の後ろで誰かが「千鶴さん、Gセブンからもう一回いきますよ」と呼んだ。
「はあい。——律、来週の日曜の朝なら空いてる。九時から、そうね、十二時半まで。一時から練習だから」
「行く」
「粉は家にあるから手ぶらでいいわ。じゃあね」
電話は弦の音ごと切れた。
律は残っていたみっしりしたパンをトースターで温め直して食べた。温めると、少しだけましになった。
三 一杯め
祖母の家は、律のアパートから電車で二十五分、駅から坂を十分のぼったところにある。古い木造の二階建てで、台所は北向きだ。
八時五十五分に玄関を開けると、上がり框の横の椅子に、ひまわり色のウクレレのケースが立てかけてあった。
「いらっしゃい。手、洗って」
祖母はエプロンをつけ、髪を後ろでひとつにまとめていた。八十一になるが、背中はまっすぐだ。台所のテーブルには粉の袋とスケールと、器が二つ並んでいた。ひとつはいつものパン用のボウル。もうひとつはそれよりふた回り大きい、ステンレスの洗い桶だった。
量るのもこねるのも律がやった。祖母は横で見ていて、ときどき「もうちょっと手のひらの付け根で」と言うだけだった。台所の温度計は十七度で、律のアパートより一度低い。
「寒いね、ここ」
「北向きだもの。昔からよ」
九時半、生地を丸めてボウルに入れ、ふきんをかけた。律は、次に祖母がどうするのかを見ていた。
祖母はやかんに水をいっぱいに入れて火にかけた。それから急須にほうじ茶の葉を入れ、湯のみを二つ出した。やかんが鳴るまでのあいだに、洗い桶に水道の水を半分ほど張る。湯が沸くと急須に注ぎ、残りをどぼどぼと洗い桶に足した。そこへ料理用の温度計を差し入れる。
「四十度。ちょうどいい」
祖母はその湯に生地のボウルを浮かべるようにそっと置き、桶ごと乾いたふきんをもう一枚かけた。
「はい、一杯め」
湯のみが律の前に置かれた。律は湯のみと、ふきんのかかった桶を交互に見た。
「……それ、カードに書いてないよね。お湯に浸けるとか」
「書いてあるわよ。お茶を飲む、って」
「それは書いてあるって言わないよ」
祖母は笑って、自分の湯のみを両手で包んだ。
「お茶をいれたら、やかんにお湯が残るでしょう。捨てるのはもったいないもの」
ほうじ茶は熱くて香ばしかった。律はひと口飲んで、テーブルに目を落とした。檸檬柄のビニールクロスが、角のところで少し剥がれている。この柄を律は覚えていた。
十五分ほどたったころ、律の手が無意識にふきんの端へ伸びた。祖母の手のほうが早かった。ぺちん、と軽く甲を叩かれる。
「まだ一杯めでしょ」
「見るだけ」
「見ると冷えるの。あんた、昔もそうだった」
祖母は立ち上がり、玄関からウクレレのケースを持ってきた。
「ちょっと聞いてくれる? どうせ待ってるあいだは暇なんだから」
中から出てきたウクレレも、ケースと同じひまわり色だった。祖母は椅子に浅く腰かけて膝の上で構え、譜面台の代わりに急須に紙を立てかけた。C、Am、F、G7とコードの記号が並んでいる。
弾き始めは順調だった。ゆっくりで、ときどき弦がびびるけれど、ちゃんと歌になっている。それがG7のところで止まった。三本の指が弦の上で迷子になり、ようやく押さえたときには次の小節が来ていた。
「ここなのよ」
祖母はため息をついた。
「Gセブンだけ、どうしても間に合わないの。みんなは待ってくれないし、待たれても困るし」
「みんなって、何人?」
「七人。わたしがいちばん年上で、いちばん下手」
律は大学の軽音楽部で二年だけギターを触っていた。上手くはならなかったが、コードが変わる瞬間に手が固まる感覚は知っている。
「おばあちゃん、そこは曲で練習しないほうがいいよ。FからG7に変えるところだけを十回やる。ゆっくりね。僕が四つ数えるから、四で変えて」
「十回も?」
「お茶を飲みながらでいいから」
祖母は湯のみからひと口飲んで、Fを押さえた。
「いち、に、さん、し」
指が動く。遅れる。
「いち、に、さん、し」
三回目で少し速くなった。五回目で、祖母が「あ」と声をあげた。七回目に、弦がきれいに鳴った。
「それと、押さえすぎ。指先が白くなってる」
「力を入れないと鳴らない気がするのよ」
「鳴るよ。たぶん半分でいい」
祖母は疑わしそうな顔をしながら、半分の力で押さえた。G7はちゃんと鳴った。

四 二杯め
九時五十五分、祖母はまたやかんを火にかけた。
沸いた湯で二杯めのお茶をいれ、残りを洗い桶へ。ぬるくなった湯を片手鍋ですくって流しに捨て、そのぶんを熱い湯と入れ替える。温度計は四十度近くまで戻った。
「二杯めって、決まってるの?」
「決まってる。この台所だと、二杯飲むとだいたい五十分なのよ。冬はもう少しかかる。夏は一杯半」
律は自分の部屋の冷蔵庫に貼ってきたカードを思い出した。五十分くらい。お茶を飲む。あれは別々の二行ではなく、同じことを書いていたのだ。
「それにね」
祖母は二杯めのほうじ茶を律の湯のみに注いだ。
「あのカード、あんたに書いたのよ」
「僕に?」
「ひらがなばっかりだったでしょう。あんたが四年生の夏、ここに一週間泊まったとき。お母さんの仕事が忙しかった年よ」
言われて思い出した。夏休み。蝉の声と扇風機と、この檸檬柄。
「パンを焼きたいって言うから焼いたら、あんた、五分おきにふきんをめくるの。めくるたびに、まだ? まだ? って。生地が冷えてしょうがないから、お茶を飲みなさいって座らせたのよ」
「僕、お茶なんか飲んでたっけ」
「あんたは砂糖入りの牛乳。お茶はわたし。それでね、二杯飲むあいだに、あんた七の段を覚えたの」
「七の段?」
「宿題だったのよ。しちいちがしち、から、しちくろくじゅうさん、まで。ここで何回も唱えて、最後には全部言えた。それで指で刺してみたら、ちょうどよかった」
パンのことは覚えていた。焼きたての湯気と、ちぎったときのふわりとした手ごたえ。けれどその前の五十分のことは、すっかり忘れていた。忘れていたのに、この台所の椅子の高さだけは、体が覚えていた。
「家に帰っても焼けるようにって、書いて持たせたの。お茶を飲む、はあんたへの注意書き」
「……読み飛ばしたよ」
「そうでしょうね」
祖母は当然のことのように頷いて、またウクレレを構えた。
「はい、数えて」
「いち、に、さん、し」
FとG7。FとG7。二杯めのお茶が半分になるころ、祖母は一曲を通して弾いた。G7で少しだけ遅れたが、止まらなかった。
十時二十分。祖母が顎で桶を示した。
「刺してごらん」
律はふきんをめくった。生地はボウルの縁までふっくらと盛り上がり、表面がうっすらと張っている。人差し指に粉をつけて真ん中に刺し、指を抜く。穴はそのまま戻らなかった。
「よし」
と祖母が言った。カードと同じ言い方だった。
ガスを抜くと、ふう、と生地が息を吐いた。スケールにのせると、全部で四百五十グラムと少しある。ひとつ百十三グラム前後になるよう、律は几帳面にちぎっては足して四つに分けた。祖母は「そこまでしなくていいのに」と言ったが、止めはしなかった。十五分休ませるあいだに、祖母は桶の湯を全部入れ替え、オーブンを百九十度に予熱した。
丸めた四つを天板に並べ、天板ごと桶の上に渡して、ふきんをかける。三十分。そのあいだに祖母はもう一曲の譜面を出してきたが、こちらは問題なく弾けた。
「こっちは簡単なのよ。CとFしか出てこないから」
「じゃあ、こっちを一曲めにしたら? 最初の一曲がうまくいくと、二曲めは手が落ち着くから」
「あら」
祖母は譜面を二枚並べて、順番を入れ替えた。
「同好会のみんなに相談してみる。会計の人が、そういうのを決めるのが好きなの」
十一時二十五分にオーブンに入れて、十五分。焼ける匂いが北向きの台所に広がり、窓ガラスが内側から少し曇った。
祖母は焼き上がったパンを布巾の上に並べた。律がひとつ取ってちぎると、皮がぱりっと鳴り、中から湯気が上がった。白いところを指で押すと、ゆっくり押し返してくる。
「これだ」
「これよ」
二人はバターを少しだけつけて、ひとつずつ食べた。残りの二つは祖母がラップで包み、ウクレレのケースのポケットに入れた。
「練習のあとのおやつ。みんなで分けるわ」
「二つじゃ七人に足りないよ」
「ちぎるからいいのよ」
十二時半、律はウクレレのケースを持って、祖母と一緒に坂を下った。公民館の前でケースを返すと、祖母が言った。
「文化祭、二時からよ。来られるなら」
「行く」
「Gセブン、聞きにね」
祖母は手を振り、自動ドアの向こうへ入っていった。中からは、もう誰かがチューニングする音が聞こえていた。
五 八つのパン
文化祭の日曜、律のアパートの温度計は十七度だった。
前の晩、律は百円ショップで洗い桶を買い、ついでに急須もひとつ買った。カードの分量を倍にする。強力粉五百グラム、砂糖三十グラム、塩八グラム、イースト六グラム、湯三百四十、バター三十グラム。丸パンが八つ。同好会の七人ぶんと、もうひとつ。
九時十五分にこね始め、九時半に生地をいちばん大きいボウルに入れた。やかんを火にかけ、洗い桶に水を半分張る。湯が沸くと急須に注ぎ、残りを桶に足して温度計を入れた。三十九度。ボウルを浮かべてふきんをかけ、その上からもう一枚かける。
「一杯め」
声に出してみると、ワンルームでは少し間が抜けて聞こえた。
座ってほうじ茶を飲んだ。洗濯機は回さなかった。スマートフォンも裏返してテーブルに置いた。十分もすると、手が落ち着かなくなってきた。ふきんの端に目がいく。めくらない。めくったら冷える。
律はなんとなく口の中で唱えた。しちいちがしち。しちにじゅうし。九九を声に出すのは二十年ぶりで、しちしちのあたりで一度つまった。ひとりで笑った。
九時五十五分、テーブルの上のスマートフォンが一度震えた。裏返すと祖母からのメッセージだった。公民館の舞台にパイプ椅子が七つ並んだ写真に、一行だけ添えてある。
〈Gセブン、今朝は三回に二回〉
律は少し考えて返信した。
〈じゅうぶん。半分の力で〉
それから立ち上がって、やかんを火にかけた。二杯めだ。ぬるくなった湯をすくって捨て、熱い湯を足す。四十度。
二杯めは、さっきよりゆっくり飲めた。冷蔵庫からカードを外してテーブルに置き、ひらがなの多い字を眺めた。おふろくらい。あながもどらなかったらよし。十歳の自分が読めるように選んだ字だった。
十時二十五分。倍量のぶん前回より少し遅れて、律はふきんをめくった。生地はボウルの縁まで来ている。指を刺すと、穴は戻らなかった。
「よし」
八つに分けて休ませ、丸めて二次発酵に入る。天板が一枚では足りないので、焼くのは四つずつ二回に分けた。二回めの四つは桶から出して、台所のいちばん涼しいところで待たせておいた。百九十度で十五分を二回。二回めが焼き上がったのは十二時すぎだった。粗熱を取ってから紙袋に一つずつ入れて八袋にし、トートバッグの底に平らに並べた。
一時半に公民館に着くと、ロビーには子ども会の工作が並び、和室からは詩吟が聞こえていた。律はホールの後ろの席に座った。プログラムの三番目に「ウクレレ同好会」とあり、曲名が二つ書いてある。CとFだけの曲が先になっていた。
二時十分、ひまわり色のウクレレを抱えた祖母が、七つ並んだパイプ椅子の端に座った。いちばん年上で、背中はいちばんまっすぐだった。
一曲めはよく揃っていた。祖母の指は、ちゃんと半分の力で弦を押さえているように見えた。二曲めのイントロが始まると、律は膝の上で、いち、に、さん、し、と指を折った。
F。G7。
鳴った。ほかの六人より少しだけ遅れたかもしれない。けれど止まらなかった。祖母は弾きながら、ほんの一瞬、客席の後ろのほうに目をやった。
演奏が終わると、律はロビーで同好会の人たちにパンを配った。七人に一つずつ。袋から香ばしい匂いがして、みんな紙袋に入れたままパンをちぎった。
「千鶴さんのお孫さん? 先週のおやつのパンも、これでしょう」
眼鏡をかけた男の人が言った。会計係だという。
「曲順を入れ替えようって言ったの、あなたなんですってね。おかげで、みんな落ち着いて弾けました」
「言い出したのは祖母ですよ」
「千鶴さんは、孫が、って言ってましたけど」
祖母は少し離れたところで、ほかの人と話していた。やがて律のところへ来て、トートバッグをのぞきこむ。紙袋の中に、最後の一つが残っていた。
「それは?」
「おばあちゃんの」
「わたし、さっき一つもらったわよ」
「あれは同好会の千鶴さんのぶん。これは、おばあちゃんの」

祖母はふうん、と言って紙袋を受け取った。
レシピを教えてほしいと言い出したのは、会でいちばん若い四十代の女の人だった。律はプログラムの裏にボールペンで書き写した。強力粉二百五十グラム。砂糖十五グラム。おふろくらいの湯を百七十ミリリットル。
三番目の行でペンが止まった。少し考えてから、こう書いた。
3. お茶を飲む。二杯。(だれかと)
その前の行の余白には、寒い日は四十度くらいの湯を張った桶でボウルを温め、途中で湯の温度を確かめる、と書き添えた。五十分は目安で、ふくらみと指の穴を見て決める。今度の人が、お茶だけ飲んで困らないように。
祖母は横からそれを読んで、片方の眉を上げた。
「誰もいなかったら?」
「電話する」
「練習中だったら?」
「ウクレレを聞きながら飲む」
祖母は声を立てて笑い、ひまわり色のケースの留め金をぱちんと閉めた。
「来週も、日曜の朝なら空いてるわよ。九時から、十二時半まで」
律はプログラムを女の人に渡した。それから祖母のぶんのパンが入った紙袋を、ウクレレのケースのポケットにそっとしまった。


