一 十三時五分の締め
雲底郵便局の仕分け台は、いつも少しだけ湿っている。
綿貫チグサは封筒の角を親指と人差し指でつまみ、軽くこすってから棚へ差した。角が指に沿ってしなれば、中の墨は落ち着いている。かさりと乾いた音がすれば、どこかで水が抜けかけている。洗い張り屋で五年、反物の湿り具合を指先で読んできた癖は、郵便局へ移って一か月たっても抜けなかった。抜く必要もなかった。雲の上で書かれる手紙は、どれも湿りでできているのだから。
棚雲町の人々は、雲紙に雲墨で手紙を書く。雲紙は霧を漉いて薄く延ばしたもので、雲墨は雲の水を煮詰めて黒くしたものだ。どちらも雲の中にあるあいだは丈夫だが、乾いた空気にむき出しで触れると、墨は紙から浮き上がり、細かな霧になって空へ帰ってしまう。宛名の人が自分の手で封を切れば、墨はそこで紙に根を下ろし、あとは何年たっても消えない。役場や店宛てなら、そこで受け取りを任された人の手でいい。封のない手紙を気付人宛ての外包みにまとめた便は、その人が外包みを開ければ、中の墨も根を下ろす。だから雲底郵便局の仕事は、手紙が宛名の人の手に届くまで、雲の湿りを持たせておくことでもあった。
壁の時計は十二時五十分を指していた。午後便の締めは十三時五分、降下籠の発車は十三時半。
「すみません、まだ間に合いますか」
窓口に若い男が飛びこんできた。息が上がって、前髪が額に張りついている。差し出した封筒は厚手の雲紙で、宛名は地上の麦原町、瀬尾染工。左上には赤い「期限付」の判が、少し斜めに押してあった。
「間に合います。期限付は本日中の手渡しになりますので、追加で銅貨三枚です」
男は銅貨を数えて置き、それから小さな布包みをカウンターに載せた。「これも同じ宛先に。小包で。見本の布なんです」
量りにのせると、針は四百グラムちょうどで止まった。チグサは小包の札を書きながら差出人の欄を見た。ルカ、棚雲町染め通り十二番。
「瀬尾染工が、見習いの返事を今日の十八時まで待ってくれることになってて」ルカは聞かれてもいないのに話した。「行きますって書きました。来月から地上で暮らします。地上に降りたこと、一度もないんですけど」
「わたしもです」とチグサは言った。言ってから、窓口で言うことではなかったかと思った。
ルカは少し笑った。それから封筒に目を落とした。「地上の人が読むまで、ちゃんと残りますか。墨」
「宛名の方が封を切ったら、墨は根を下ろします。それまでは雲に帰りたがりますけど、そうならないように運ぶのが、こちらの仕事です」
ルカは頷き、窓口を離れる前にもう一度封筒を振り返ってから出ていった。チグサは封筒の角をこすった。しなる。大丈夫。期限付の仕切りに差すと、そこには五通が並んだ。
十三時五分、チグサは午後便を締めた。
普通便が三十六通。期限付が五通。小包が二つ――麦原小学校の戸川先生気付で送られる文通の束が八百五十グラム、瀬尾染工宛ての見本布が四百グラム。合わせて一キロと八百七十グラム。帳面に数字を書きこみ、仕分け籠に布をかけたところで、局の天井から鐘が鳴った。
短く、短く、長く。
奥の机で書類を見ていた局長の大庭ミツヨが顔を上げた。配達員の控え室から、椅子の倒れる音がした。
「白乾だ」と誰かが言った。
二 白乾の鐘
白乾は、秋の終わりに山を越えてくる乾いた風だ。雲の上には届かない。雲の下だけを、薄い刃物のように横へ吹き抜けていく。棚雲町に長く暮らす人なら誰でも知っている風だが、チグサが鐘の音で聞くのは初めてだった。
十三時十五分、底甲板の観測係から伝声管で報告が来た。雲の底から地上までの空気が、湿り二割を切った。霧索が乾いて滑る。降下籠は安全のため運休。風は夜半まで続く見込み。上りも下りも、再開は明朝七時の籠から。
「午後便は止めます」と局長は言った。「止めるのは簡単。問題はその先」
局長の机のまわりに、チグサと、配達員が二人集まった。
鷺沼ゲンは配達歴三十年の古参で、降り傘の扱いなら局で一番だと聞いていた。五十六歳、背は高くないが肩が厚く、右膝に布のサポーターを巻いている。もう一人の早瀬ナギは十九歳で、配達員になって二年目。降下の記録ではいつも上位にいて、控え室の黒板には彼女の名前の横に「単独 九」と白墨で書かれていた。規定どおりの単独降下を十回こなせば、一人で地上便を任される免許がもらえる。
「期限のあるものだけ教えて」と局長が言った。
チグサは帳面をめくった。「期限付が五通です。麦原町役場への届出が、窓口の閉まる十七時まで。室井製粉所への注文書は、差出人の棚雲ベーカリーさんから十七時必着と。瀬尾染工への見習い受諾の返事が十八時まで。それから葉山時計店と、渡し場の舟木さん宛てが、今日中」
「小包は」
「小学校の文通の束は、明日の朝の授業で読むものだそうです。瀬尾染工の見本布は、受諾の返事と一緒に見てほしいと、差出人の方が」
「それと、日没が十八時四分」とゲンが言った。「日が沈んだら地上配達はしない。それが規定だ」
「どれも今日のうちってことね」局長は指先で机を叩いた。「降り傘で運ぶのはいい。でも雲の下は白乾。むき出しで運べば墨が飛ぶ」
「霧袋を借りれば」とナギが言った。
霧袋は中に霧を閉じこめておける郵便用の袋で、上層の本局が管理している。局長は首を振った。「一枚、銀貨十二枚。二枚で二十四枚。今日の臨時費は銀貨十枚しかないの。浮き石だって一個銀貨二枚する」
「じゃあ全部わたしが持って、一回で降ります」ナギは身を乗り出した。「浮き石一個ですむ。ゲンさんは膝、休めてください。墨が飛ぶ前に走って配ればいい」
「走って配って、何分かかる」とゲンが言った。
「町を全部回ったら……二時間」
「むき出しの雲墨は、白乾の中なら十分もたない」ゲンは淡々と言った。「それに一人傘の荷は三キロまでだ。郵便だけで一キロ八百七十。そこに霧の代わりになるものを足せば、すぐ超える。三キロを超えた降下は単独の回数に数えられない。それどころか、免許の審査を頭からやり直しだ」
ナギは口を結んだ。黒板の「九」が、チグサの立っている場所からも見えた。
「乾かさずに運ぶ方法があればいいんですよね」とチグサは言った。
三人がこちらを見た。自分の声が少し上ずったのがわかったが、チグサは続けた。
「洗い張り屋では、乾きすぎた反物に霧打ちをしてから雲綿に挟んで、蝋引きの布で巻いておきます。そうすると次の日まで、ちょうどいい湿りのまま置いておけるんです。雲綿は雲の水を抱えこむので。手紙でも同じことができるかもしれません」
「どのくらいもつの」と局長が聞いた。
「雲の中なら一晩。白乾の中は……わかりません。試させてください」
局長は時計を見た。十三時三十五分。
「二十分あげる」
三 濡れたままの包み方
チグサは仕分け台の引き出しから書き損じの雲紙を二枚取り出し、雲墨で同じ文句を書いた。「試し 十三時三十八分」。一枚はそのまま。もう一枚は、自分の弁当を包んでいた蝋引き布に、湿らせた手ぬぐいと一緒に巻いた。昼にはいつも、弁当箱ごと湿った布で包んでくるのだ。局に雲綿はない。手ぬぐいで代わりになるかどうかはわからないが、何もしないよりはましだった。
底甲板の観測口は、局の床から階段を二十段下りたところにある。分厚い硝子の蓋を開けると、下から風が吹き上がってきた。乾いた、干し草のような匂いの風。チグサは顔を背け、観測口の脇の金具に二枚を結びつけた。下は見なかった。見なくても、そこに何もないことは足の裏でわかった。
「下、見ないのか」
いつのまにか、ゲンが階段の途中に立っていた。
「見ると、膝が笑うので」
「俺の膝はもう笑わん。泣くだけだ」ゲンは右膝をさすった。冗談なのかどうか、チグサには判断がつかなかった。
十三時四十八分、むき出しの紙の文字が縁からほどけはじめた。墨が細い糸になって紙を離れ、白い靄になって風に流れていく。十三時五十分には「試」の字が半分になり、十三時五十二分には、紙の上に薄い灰色の染みしか残っていなかった。
蝋引き布の方を開くと、文字はまだそこにあった。ただ、手ぬぐいの縁はもう乾いてこわばっていた。
「手ぬぐいじゃ持ちません」とチグサは言った。「雲綿が要ります。梅乃屋に――前の職場に、あります」
「行け」とゲンが言った。「走って片道何分だ」
「八分です」
「ナギ、一緒に行ってやれ。荷を持つ手がいる」
ナギは一瞬何か言いたそうな顔をしたが、黙ってチグサの後ろについてきた。
棚雲町の道は雲の上に板を渡したもので、踏むとかすかに沈む。チグサは走るのが得意ではなかったが、ナギが足の速さを合わせてくれた。染め通りの角を曲がると、軒先に濡れた反物をずらりと下げた梅乃屋が見えた。藍、茜、雲鼠。風にふくらんでは、しぼむ。
店主の梅さんは事情を半分聞いたところで奥へ引っこみ、白い綿を抱えて出てきた。座布団ほどの大きさの雲綿が八枚。それに、蝋引きの布袋を三つ。
「霧打ちはこっちでしとく。たっぷりでいいんだろう」梅さんは霧吹きを手に取った。「一枚、濡らせば百五十グラムはある。重いよ」
「重いです」とチグサは言った。
「お代は」とナギが聞いた。
「いらないよ。三日後に洗って返しな。あんたが」梅さんはチグサを顎で指した。「ついでに火のし、一日手伝ってもらう」
「手伝います」
帰り道、ナギは雲綿の包みを胸に抱えて黙って歩いていたが、局の看板が見えたところで口を開いた。
「さっきの。全部わたしが持つって言ったやつ」
「はい」
「ゲンさんの膝のこと、ほんとに思ったんだよ。でも、九の次が欲しかったのも、ほんと」
チグサは何と返せばいいかわからず、「どっちもほんとなら、いいんじゃないですか」と言った。ナギは鼻を鳴らしたが、怒った顔ではなかった。
十四時十分、局に戻ると、チグサは梅さんの雲綿で二つ目の試しを作り、観測口の金具に結んだ。十分待って開けた。文字はくっきりと残っていて、雲綿の芯はまだしっとりと冷たかった。指で押すと、押した跡がゆっくり戻った。
「どのくらいもつの」と局長がまた聞いた。
「この厚みで、白乾の中なら四十分くらいだと思います。洗い張りの感覚ですけど」チグサは指先の感触を言葉に置き換えようとした。「四十分は目安です。風が強く当たるところから先に乾くので、途中でも指で確かめます。雲の水で濡らし直す場所があれば、先へ運べます」
「井戸水じゃ、雲墨はにじむ。雲の水は、地上にはないわよ」
「小瓶に入れて持っていけば」
「重い」と、ゲンとナギが同時に言った。
四 傘の骨は十六本
局長の机に量りと帳面が並び、紙が一枚広げられた。チグサが重さを書き、ナギが読み上げ、ゲンが降り傘の積載表と照らし合わせた。
郵便が一キロ八百七十グラム。濡れた雲綿が八枚で一キロ二百。蝋引き袋が三つで百五十。地上で濡らし直すための雲水を一リットル、瓶ごとで一キロ二百。合わせて四キロ四百二十グラム。
「一人傘は三キロまで」とナギが言った。「二人で一人傘を一本ずつ使えば六キロ。足ります」
「俺とお前で降りたら、地上で雲綿の湿りを誰が見る」とゲンが言った。「俺の指じゃわからん。お前の指でもわからん。わかるのはこの人だけだ」
三人の視線が、チグサの指に集まった。
「二人傘を出す」とゲンが言った。「同乗指導用のやつだ。俺とチグサで乗る」
チグサは顔を上げた。
「わたしが、ですか」
「四十分ごとに濡らし直すなら、いつ濡らすか決める人間が要る」
二人傘は、人がふたりに荷が一キロまで。浮き石が二個要る。ナギの一人傘に一個。合わせて三個で銀貨六枚。臨時費の十枚から出せる。
ただ、荷が収まらない。ナギに三キロ、二人傘に一キロで、四キロ。四キロ四百二十グラムからは、四百二十グラムがはみ出す。
チグサは紙の上の「一キロ二百」を指でなぞった。「瓶を小さくします。三百ミリリットルなら、瓶と合わせて四百グラム」
「それで地上で何回濡らせる」とゲンが聞いた。
「一回です。小さい袋一つ分なら」
「ナギの袋は」
チグサは黙った。ナギの袋には雲綿を六枚入れることになる。小学校の束と見本布、それに普通便の三十六通。いちばん長く地上を回るのは、ナギの袋だった。
ゲンが上着の内ポケットから、平たい錫の缶を取り出した。蓋を開けると、中に濃い緑の苔が詰まっていた。チグサが指先で触れると、指が濡れた。冷たい。井戸の水でも雨の水でもない、雲の水の冷たさだった。
「麦原の丘を下りたところに、窪地がある」とゲンは言った。「昔の製粉所の溜め池の跡だ。朝のうちは雲の裾があそこまで垂れてくる。北側の石垣にこういう苔がびっしり生えてて、昼を過ぎても雲の水を抱えてる。俺が若い頃は、霧索が止まった日にはみんなあそこで袋を濡らし直した。雲溜まりって呼んでた」
「帳面にありません」とチグサは言った。局の手順書は、着任した週に全部読んでいた。
「書いたやつがいないからな」ゲンは缶の蓋を閉めた。「こいつも量って、俺たちの荷に足しとけ。霧袋ができてからは誰も使わなくなった。白乾の日に雲溜まりがどれだけもつかは、俺にもわからん。今日みたいな日は、溜まりも干上がってるかもしれん」
局長は時計を見て、紙の上の数字を見て、三人の顔を順に見た。十四時二十五分。
「浮き石三個、臨時費から出します。霧袋は借りない。雲溜まりがだめだったら、その時点で期限付だけを優先して、残りは明朝の籠で送る。それでいい?」
ゲンが頷き、ナギが頷いた。チグサも頷いた。頷きながら、二人傘に乗るということの意味が、ようやく足の裏から這い上がってきた。
荷造りは十分で終えた。チグサは雲綿を一枚ずつ指で押し、湿りのむらがないものを確かめて手紙を挟んでいった。普通便には二枚を使い、それぞれを三つの折り目に分け、各六通ずつを包んだ。期限付は別の二枚に一通ずつ、折り目を分けて挟んだ。文通の束には二枚、見本布には二枚。八枚を使い切った。文通の束は外包みだけが封をされ、中は封のない手紙だと荷札にあった。先生の手で外包みを開ければ、中の手紙も消えなくなる。見本布の包みに触れると、布の向こうがひんやりしていた。雲藍で染めた布は乾くと色が抜けて灰色に戻る、と梅乃屋で聞いたことがある。これも乾かしてはいけない荷だった。
量りの針は、ナギの二つの袋を合わせて二キロ七百九十グラム。二人傘の袋が、小瓶込みで八百三十グラム。そこへ苔の缶七十グラムを加え、二人傘側は九百グラムになった。ゲンが積載表に数字を書き入れ、局長が判を押した。
十四時四十五分、底甲板。
観測口の隣に、降り傘の発着口がある。床に丸く切られた穴で、ふだんは木の蓋が閉まっている。ゲンが蓋をずらすと、白乾が吹き上がってきて、チグサの前髪を持ち上げた。
ナギが先に一人傘を開いた。柄の根元の小さな籠に浮き石を入れると、傘はふわりと持ち上がり、ナギの体を軽く引いた。袋を胸の前に括りつけたナギはこちらを振り返って親指を立て、それから穴の縁を蹴った。白い傘が、すとんと下へ消えた。
チグサは穴の縁まで行けなかった。二歩手前で足が止まった。
ゲンが二人傘を開いた。一人傘より一回り大きく、骨は濃い茶色の竹でできている。浮き石を二つ入れると、傘はゆっくりと二人の頭の上へ持ち上がった。ゲンは自分とチグサの胴に革帯をかけ、二本の帯を金具でつないだ。
「下は見なくていい」とゲンは言った。「上を見てろ。傘の骨を数えてろ」
チグサは顔を上げた。茶色の骨が、傘の真ん中から放射状に広がっていた。
「いち、に」
「声に出さなくていい」
「出さないと、数えられません」
「なら出せ」
十四時五十分、ゲンが穴の縁を蹴った。
床が消えた。胃が喉元までせり上がり、チグサは「さん、し、ご」と叫んだ。風が服の中に入りこんで、背中がふくらんだ。「ろく、しち、はち」まわりの白がだんだん薄くなる。「く、じゅう」ゲンの腕が帯を引いて、傘の傾きを直した。「じゅういち、じゅうに、じゅうさん」
ふいに白が途切れた。十四時五十五分、雲の底を抜けたのだと、ゲンの腕時計を見なくてもわかった。乾いた空気が頬に当たり、まぶしさに目が痛んだ。少し先では、雲の中で待っていたナギの白い傘も、同じ時刻に底を抜けていた。
「何本だった」とゲンが聞いた。
「……じゅうろく」
「正解だ。もう一回数えろ」
チグサは数えた。十六本。もう一回数えた。十六本。三回目の途中で、胃が元の場所に戻ってきているのに気づいた。
風の音の中で、ゲンが言った。「下、見てもいいぞ。見なくてもいい」
チグサは見なかった。かわりに胸の前の袋に手を当てた。蝋引き布の向こうで、雲綿はまだ冷たかった。ここから四十分。指の腹で、それを覚えておこうとした。
五 風見の丘と雲溜まり
十五時十五分、二人傘は麦原の丘の草の上に降りた。
足が地面に着いても、チグサはしばらく、自分が地上に立っているのだとわからなかった。地面は沈まなかった。踏んでも踏んでも、同じ硬さで押し返してくる。板の下に雲があるときの、あの小さなたわみがどこにもない。思わずしゃがんで、手のひらを土に当てた。乾いていて、少し温かかった。
丘のてっぺんに、錆びた鉄の風見鶏が立っていた。白乾を受けて、首を小刻みに振っている。そのそばで、先に降りたナギが一人傘を畳んでいた。
「十五時十分着。五分早かった」ナギは言ってから、しゃがんでいるチグサを見た。「どうしたの」
「地面が、硬くて」
ナギは一拍置いて笑った。「そりゃそうだよ」
チグサは立ち上がって、まず自分たちの袋を開けずに外から押した。冷たさはまだ芯にある。次にナギの袋を押した。外側の二枚の角が、もうかすかに乾いた音を立てていた。ナギの袋は胸の前で、降りるあいだずっと白乾を正面から受けていたのだ。
「急ぎましょう」とチグサは言った。
ゲンが先に立って、丘の東側の細い道を下りた。右膝をかばうような歩き方だったが、速さは落ちなかった。道の脇の草は白っぽく乾き、踏むと乾いた音がした。眼下に麦原の町が広がっていた。灰色の瓦屋根、川、川にかかる石の橋、その向こうの坂道を上った先で、大きな水車がゆっくり回っている。
チグサは、それを見た。見たというより、目に入ってきてしまった。帳面の上で何百回も書いた「麦原、川向こう」が、本当に川の向こうにあった。
十五時二十五分、雲溜まりに着いた。
窪地は思っていたよりも小さく、底には水がなかった。昔の溜め池の跡だというのは、まわりを囲む石垣でわかった。ゲンが北側の石垣の前で立ち止まり、黙った。
苔は、茶色かった。日の当たる上の段の苔は、白乾にあぶられて縮れ、指で触れるとぱりぱりと崩れそうに見えた。
「……干上がってるか」ゲンが低く言った。
チグサは返事をせずに、石垣の前にしゃがんだ。上の段から、一段ずつ指を当てて下りていく。乾いている。乾いている。少しだけ、ましになる。いちばん下の段、張り出した木の根の影になっているところに指を当てたとき、指先がひやりとした。押すと、苔の奥から水がにじんだ。雲の水の冷たさだった。
「ここ、生きてます。この下の段だけ。それと、根の影の、右の方」
「剥がすなよ」とゲンが言った。「押すだけだ。剥がしたら次の人が使えん」
チグサは袋から雲綿を一枚取り出し、手紙を抜いて蝋引き布の上に重ね、綿だけを苔に押し当てた。手のひらで、ゆっくり、体重をかけすぎないように。綿が苔の水を吸い上げていくのが、指の下でわかった。一枚に、一分ほどかかった。
「わたしもやる」ナギが隣にしゃがんだ。「どこ押せばいい」
「この根の右から、ここまで。上の段はだめです。強く押さないで、手のひら全体で」
ナギは言われたとおりにした。最初の一枚は力が入りすぎて、苔の上で綿がよれた。二枚目からはうまくなった。ゲンは二人の後ろで袋を開け、手紙が乾いた風に触れないよう、蝋引き布をかぶせて押さえていた。

八枚を濡らし直し終えたのは、十五時三十七分だった。
「ここで分かれる」とゲンが言った。「ナギは小学校と普通便。俺たちは役場、時計店、渡し場。十六時十分にまたここだ。袋が乾く前に、余裕を持って戻れ」
「了解」ナギは袋を背負い直した。それから、乾いた苔の上の段を見て言った。「十六時十分に、まだここ、生きてるかな」
「生きてるうちに来い」とゲンは言った。
ナギは窪地の縁を駆け上がり、町の方へ見えなくなった。
六 消えかけた宛名
十五時五十分、麦原町役場の窓口で、眼鏡をかけた係の人が期限付の封筒を受け取った。棚雲町に住む夫婦が、地上に借りている畑の契約を更新するための届出だった。
係の人がペーパーナイフで封を切った瞬間、チグサは息を止めた。
何も起きなかったように見えた。けれど、係の人が引き出した雲紙をよく見ると、墨の色がほんのわずかに沈んでいた。濃くなったというより、紙の中へ一歩、下がったような色だった。チグサは無意識に、手を伸ばしかけていた。
「どうかしました?」
「いえ。……ちゃんと届いたので」
係の人は不思議そうに首をかしげ、受付の判を押した。
十六時、葉山時計店。店主は小柄な女の人で、雲の上の客から預かっている懐中時計の修理について、問い合わせの手紙を待っていたのだと言った。封を切ると、やはり墨が紙に沈んだ。店主はそれを見慣れているらしく、「あら、根が下りた」と軽く言って読みはじめた。チグサはその言い方が気に入った。
十六時八分、渡し場。川べりの小屋で、日焼けした船頭の舟木さんが、兄からの手紙を受け取った。棚雲町に住む兄は、毎年この時期に、雲の上で採れる干し果物を送る相談をしてくるのだという。舟木さんは封を切り、ざっと目を通して笑った。「今年は梨か」
三通を配り終えると、二人傘の袋に残ったのは、室井製粉所宛ての注文書と瀬尾染工宛ての返事の二通になった。窪地へ戻る坂を上りながら、ゲンは何度か右膝に手を当てた。チグサが見ていることに気づくと、手を離した。
十六時十分、雲溜まり。ナギはまだ来ていなかった。
チグサは石垣の下の段に手を当てた。さっきより、ほんの少し湿りが浅い。日が傾いて、根の影が右へずれていた。影についていくように指を動かすと、新しく冷たい場所が見つかった。
十六時十五分になっても、ナギは来なかった。ゲンは窪地の縁に立って町の方を見ていた。チグサは自分の袋の雲綿を一枚だけ濡らし直し、ナギの分の場所を、指で覚えておいた。
十六時二十二分、ナギが窪地の縁から転がるように駆け下りてきた。額に汗が光っていた。
「ごめん、遅れた。先生が」
「袋」とチグサは言った。
ナギは袋を下ろした。チグサが押すと、外側の雲綿は、はっきりと乾いた音を立てた。最後の一枚を濡らしてからでも四十五分。チグサは蝋引き布を手早く開き、残っている手紙を確かめた。
普通便は残り三通。そのうちの一通、袋のいちばん外側、雲綿と雲綿の継ぎ目にはさまっていた封筒の宛名が、半分消えかけていた。「麦原」の二文字と、「様」の一文字だけがかろうじて読める。そのあいだの番地と名前は、灰色の靄のような染みになっていた。
ナギの顔から、血の気が引いた。
「……わたしのせいだ。袋を下ろして、ずっと先生と話してたから」
「何があったんですか」とチグサは聞いた。手は止めなかった。雲綿を一枚ずつ苔に押し当てながら。
ナギは隣にしゃがんで、同じように綿を押しはじめた。
「戸川先生がね、文通の束、明日の朝、子どもたちと一緒に開けたいって。雲の子からの返事、みんなすごく待ってたから、最初に見るのは子どもたちにしたいって。でも明日の朝まで置いといたら、墨、飛ぶでしょ。それ言ったら、先生、すごくがっかりして」
「それで」
「だから、先生に目、つぶってもらって、窓閉めた教室で今、外包みを開けてもらった。中の手紙は読まないで、全部裏返して机に伏せておいてくださいって。そしたら明日の朝、子どもたちがめくるときに、初めて読むのは子どもたちだって」ナギは苔を押す手に力をこめすぎて、慌ててゆるめた。「先生、目つぶったまま封切って、笑ってた。笑いながら一枚ずつ裏返すから、時間かかって」
チグサは、そのやり方を自分では思いつかなかっただろうと思った。
「いいやり方だと思います」
「でも、これ」ナギは消えかけた封筒を見た。「誰宛てかわかんなくなったら、届けられない。わたしが開けたら、墨が根を下ろさないで全部飛ぶし」
チグサは封筒を手に取った。薄い青灰色の雲紙。指でこすると、かさりと鳴った。差出人の欄はまだ読めた。棚雲町、鳩舎通り、浜田。
覚えていた。十二時四十分ごろ、この封筒を仕分けた。宛名の横に、小さな水車の絵が描いてあったのだ。墨の線で、羽根が八枚。差出人がいつも書き添える印なのだろうと思って、そのとき、指で少しなぞった。宛名は――
「麦原、川向こう、粉挽き坂、二ノ七。浜田さま」チグサは言った。「粉挽き坂って、きれいな名前だなと思ったんです。それで、覚えてて」
ゲンが振り向いた。「粉挽き坂なら、製粉所へ上る坂だ。二ノ七は坂の下の方だな」
「それなら、わたしたちの道の途中です」
ナギはしばらくチグサの顔を見ていた。それから、ゆっくり息を吐いた。
「仕分け係って、そういうの全部覚えてるの」
「全部じゃないです。気になったのだけ」
二回目の濡らし直しは、一回目よりも時間がかかった。苔の湿りが浅くなっていたので、チグサは一枚ごとに場所をずらし、同じ苔を二度押さないようにした。十六時三十二分、すべての雲綿が冷たさを取り戻した。浜田さん宛ての封筒は、二人傘の袋に移した。ナギの袋には、普通便が二通と、見本布の包み。
「瀬尾染工で会おう」とナギは言った。「十七時十分までには行く。そこで、小瓶を使わせて」
「袋の角から先に乾く。待たせないように行きます」とチグサは答えた。
七 十七時の水車
窪地から町へ下りて石の橋を渡るまでは、順調だった。
橋の向こうから、粉挽き坂が始まる。石畳の坂で、両側に低い家が並び、坂の上のほうに水車の音がしている。十六時四十五分、坂の一段目に足をかけたところで、ゲンが立ち止まった。
右膝を、両手でつかんでいた。
「ゲンさん」
「大丈夫だ。……大丈夫じゃないな」ゲンは歯の間から息を吐いた。「この速さで上るのは、だめだ。俺は休み休み行く」
チグサは坂の上を見た。水車までは、まだずいぶんある。十七時まで、十五分。
「浜田さんのところは坂の下だ」とゲンは言った。「二ノ七なら、ほら、あの青い戸の家だろう。そっちは俺が届ける。製粉所の注文書は、あんたが持って走れ。この坂をまっすぐ上りきったところだ。水車が見えたら、その脇の戸口」
「わたし一人で」
「地面は硬い。走りやすいぞ」
チグサは袋から、室井製粉所宛ての封筒を雲綿ごと取り出した。蝋引き布で包み直し、胸に抱えた。浜田さん宛てと瀬尾染工宛ての二通が入った袋を、ゲンに渡した。
「瀬尾染工宛ては、ゲンさんが持っていてください。わたしが戻るまで。乾いてきたら――」
「乾いてきたら、あんたが戻るまでに乾ききらんようにする。小瓶もこっちだ。行け」
チグサは走った。
石畳は硬く、靴の底がぱたぱたと鳴った。坂は思ったよりきつく、すぐに息が上がった。途中の家の軒下で、猫が一匹、白乾に毛を逆立てながらこちらを見ていた。荷車を引いていた男の人が、走ってくるチグサに道を空けてくれた。「すみません」と言うと、「郵便かい」と聞かれた。「郵便です」と答えると、男の人は「雲のかい」と目を丸くした。
水車が、大きくなった。
羽根が八枚。チグサは走りながら、それを数えた。浜田さんの封筒の、あの小さな絵と同じ数だった。
十六時五十四分、水車の脇の戸口に飛びこんだ。
粉の匂いがした。土間に麻袋が積まれ、奥の壁に大きな黒板がかかっている。黒板の前に、腕まくりをした女の人が白墨を持って立っていた。黒板には来週の日付が並び、水車の割当てが書きこまれている。その一番下の空いた欄に、女の人がちょうど「地上小麦」と書きかけていた。
「すみません」チグサは息を切らしながら言った。「雲底郵便局です。室井製粉所の、室井さまに、期限付の――」
女の人は白墨を持ったまま振り返った。チグサの顔を見て、胸に抱えた包みを見て、それから土間の柱時計を見た。
「十六時五十五分」と女の人は言った。「来ないかと思った。籠が止まってるって、昼過ぎに聞いたから」
「傘で、降りてきました」
チグサが包みを開いて差し出すと、室井トモエは白墨を置き、粉のついた手を前掛けでぬぐってから封筒を受け取った。封を切る。墨が、紙の中へ一歩、沈んだ。
室井さんは手紙を読み、短く笑った。それから黒板に向き直り、書きかけの「地上小麦」を手のひらで消して、かわりに「雲麦 二袋 棚雲ベーカリー」と書いた。
「雲麦はね、水車を遅く回さないと挽けないの。だから一週間のうち、どこかに丸一日空けておかないといけない」室井さんは白墨の粉を払いながら言った。「十七時までに注文が来なかったら、その日は地上の小麦に回すって、ベーカリーさんとは決めてたのよ。地上のパン屋さんも待ってるから」
チグサは、黒板の一番下の欄を見た。そこにあった文字が消えて、別の文字に変わったのを見た。
「地上のパン屋さんは、大丈夫なんですか」
「来週の別の日に入れる。もともと急ぎじゃないって言ってたから」室井さんはチグサの顔をまじまじと見た。「あなた、雲の人? 地上は初めて?」
「初めてです」
「そう」室井さんは何か言いかけて、やめて、土間の隅の茶釜の方を見た。「お茶、飲んでいく時間は――」
「ないです。もう一通、瀬尾染工さんに十八時までに」
「瀬尾さんとこ? 町の真ん中よ。坂を下りて、橋を渡って、歩いたら十五分」室井さんは戸口の外を見た。「それで、上りの籠は明日の朝でしょう。今夜はどこに泊まるの」
チグサは、そこまで考えていなかったことに気づいた。
十七時五分、戸口にゲンが現れた。右膝を引きずり、手すりのない坂を一人で上ってきたらしく、額に汗をかいていた。
「浜田さん、届けた」とゲンは言った。「青い戸で合ってた。封を切ったら、『あら、兄さん、また水車描いてる』だとさ」
チグサは思わず笑った。笑ったら、膝から力が抜けて、麻袋の山に手をついた。
室井さんは二人を見比べ、ため息をついて、土間の奥から粉運びの三輪車を引き出してきた。後ろの大きな荷台には、客送り用の腰掛けと足台がついている。
「ちょっと、その前に」とチグサは言い、残った手紙の綿を押した。冷たさが浅い。小瓶から百ミリリットルほどを使い、瀬尾宛ての手紙を挟んだ綿を濡らし直した。二人で瓶を光に透かした。雲水は、あと二百ほど。
「乗りなさい。瀬尾さんとこまで送る。それで、今夜はうちの二階。空いてるから。お代はいらない。そのかわり、ベーカリーさんに、雲麦のパンが焼けたら一つこっちへ回してって伝えて」
「伝えます」とチグサは言った。
八 雲藍と明礬
三輪車の荷台は、粉の匂いがした。坂を下るとき、室井さんはほとんど足を使わずに走り、橋の上では白乾に帽子を飛ばされかけた。ゲンは荷台に取り付けられた客送り用の腰掛けに座り、足台に脚を載せて、遠くを見ていた。
十七時二十五分、瀬尾染工の前で三輪車が止まった。
店の軒先には、川で洗ったばかりの布が何枚も干されていた。その前に、ナギが見本布の包みを抱えて立っていた。
「親方、留守」ナギは言った。「川で布洗ってるって。十八時までには戻るって、店の子が。わたし、十七時十分に着いて、普通便の二通は来る途中で届けた。あとはこれだけ。角を押して待ってた。さっきから、冷たさが抜けてきてる」
チグサはナギの胸の包みに手を当てた。蝋引き布の上からでも、角のところだけが、かすかに乾いた音を立てた。窪地を出てから五十分余り。
「外側の蝋引き布だけ、開けます」
チグサは言い、見本の内包みをほどかないよう、袋の口を広げた。
蝋引き布を開くと、雲綿にくるまれた布包みが出てきた。包みの端から、見本布の端がのぞいていた。深い、夜明け前の空のような青。けれどその角の、指の爪ほどの部分だけが、灰色に褪せかけていた。
「雲藍は乾くと色が抜けるんです」
チグサはゲンを振り返った。ゲンは黙って、袋から小瓶を取り出して渡した。さっき使って、残り二百ミリリットルほどの雲水。
チグサは栓を抜き、瓶の口を指で半分ふさいで、雲綿にだけ、少しずつ振りかけた。布には直接かけない。雲綿が水を抱え、冷たさが布へ移っていくのを、指で確かめた。褪せかけた角の灰色が、ゆっくりと青へ戻っていった。
雲綿が水を抱え直したところで、止めた。瓶の底には五十ミリリットルほど残った。チグサは栓をして、雲綿ごと包みを蝋引き布でくるみ直した。
十七時四十分、通りの向こうから、肩に濡れた布をかけた大柄な男が歩いてきた。腕は手首まで藍色に染まっていた。
「瀬尾さんですか」とナギが言った。
男は軒先の三人と、三輪車に寄りかかった室井さんを見て、眉を上げた。「室井さん、何やってるんだ」
「郵便屋さんの送り。雲から来たんだって。傘で」
瀬尾は布を物干しにかけ、前掛けで手を拭いてから、チグサの差し出した封筒を受け取った。封を切る。墨が、紙の中へ沈む。瀬尾はそれを読み、ひとつ頷いた。
「来るのか」
それだけ言って、手紙を胸のポケットにしまった。
「宮下んとこの倅にも、十八時まで待つって言ってあったんだ。あっちは今朝、やっぱり家の畑を継ぐって言いに来た。だから、この返事が来なかったら、今年は見習いなしでやるつもりだった」瀬尾はナギの抱えた包みを見た。「それは」
「同じ差出人からの見本布です」とナギが言った。
瀬尾は包みを受け取り、店の土間に入った。三人は後について入った。土間の奥に、いくつもの甕が並んでいた。瀬尾は包みを開き、雲綿の中から青い布を取り出して、窓の光にかざした。
「雲藍か」
「はい。乾くと色が抜けるので、乾かさずに運んできました」とチグサは言った。
「知ってる」瀬尾は短く言い、甕の一つの蓋を取った。中には、澄んだ水が入っていた。「明礬だ。地上の水で、色を止める。雲の人は知らんだろうが、雲藍は地上の明礬水にくぐらせると、乾かしても色が抜けなくなる。雲の上には明礬の出る土がないからな」
瀬尾は布を甕に沈め、ゆっくりと三度、上下させた。引き上げた布を軽く絞り、軒先の白乾の中にかざした。
布は乾いていった。風の中で、端からみるみる水気が抜けていく。チグサは息をのんだ。けれど青は、青のままだった。乾ききった布は、少し明るい、晴れた昼の空のような色になって、白乾にはためいていた。

「知りませんでした」とチグサは言った。
「だろうな」瀬尾は布を畳んだ。「染めは悪くない。止め方はこっちで教える。……あいつに、そう伝えといてくれ。返事は手紙で書くが、雲の郵便屋に言っておけば早い」
「伝えます。明日の朝、局に戻ったら」
十七時五十分、瀬尾染工を出た。
午後便、普通便三十六通、期限付五通、小包二つ。全部、宛名の人の手に渡った。
軒先で、ゲンが積載表を取り出し、ナギの欄の数字を指でなぞった。二キロ七百九十グラム。上限三キロ。
「規定内」とゲンは言った。「単独降下、十回目。局長には俺から言う」
ナギは何か言おうとして、言えずに、黙って頷いた。
ゲンは上着の内ポケットから錫の缶を出し、ナギの手に載せた。
「雲溜まりの苔だ。中の苔は、たまに窪地で入れ替えろ。剥がすんじゃなくて、自分で落ちたやつを拾え」
「ゲンさんのでしょ」
「俺はたぶん、来年は傘を持たん。膝がな」ゲンは右膝を軽く叩いた。それから、チグサの方を見た。「あんたは、帳面に書いとけ。雲溜まりの場所と、北側の下の段と、根の影が動くことと。書いたやつがいないから、なくなるんだ」
「書きます」とチグサは言った。
十八時四分、麦原の西の山の向こうに、日が沈んだ。
九 下から見る雲
室井製粉所の二階は、粉の匂いのする小さな部屋だった。布団が三組、窓が一つ。夕食は室井さんが焼いた地上小麦の平たいパンと、豆の煮込みだった。ナギはパンを三枚食べ、ゲンは膝に濡れ手ぬぐいを当てて、二枚食べた。チグサは一枚食べて、窓辺へ行った。
窓を開けると、白乾はまだ吹いていた。けれど昼よりずっと弱く、ときどき途切れた。
空を見上げると、雲があった。
麦原の町の上を、大きな灰色の天井のように覆っている。その底が、西の空の名残りの光を受けて、縁だけ薄い橙色に光っていた。光が消えていくと、雲の底の一か所に、小さな灯りがぽつぽつと並んでいるのが見えた。横一列に、七つ。
「あれ、局の底甲板の灯りだよ」いつのまにか隣に来ていたナギが言った。「下から見ると、あんなに小さいんだよね」
チグサは灯りを数えた。七つ。あの灯りのすぐ上に、仕分け台がある。今朝、自分が封筒の角をこすっていた台が。
「毎日、あの下に向けて、仕分けてたんですね」
「うん」
「知らなかった」
ナギは窓枠に頬杖をついた。「わたし、最初に降りたとき、上見る余裕なかった。降りるのに必死で。だから、下から雲見たの、たぶん三回目くらいのとき」
「何回目に見ても、いいと思います」
「チグサ、そればっかりだね」ナギは笑った。「どっちでもいいとか、何回目でもいいとか」
「そうですか」
「そうだよ」
奥の布団から、ゲンのいびきが聞こえてきた。
翌朝七時、麦原の丘の籠駅から、上りの籠が出た。
白乾は夜半に止み、雲の裾が丘のあたりまで、わずかに垂れてきていた。霧索は湿りを取り戻し、籠は滑らずに、ゆっくりと上っていった。籠には三人のほかに、地上から雲へ送られる朝便の郵袋が積まれていた。
窓の外で、麦原の町が小さくなっていく。
チグサは窓に額を寄せて、下を見た。
自分で、見た。
川と、石の橋と、粉挽き坂。坂の下の青い戸の家。坂の上の水車が、八枚の羽根をゆっくり回している。町の真ん中の瀬尾染工の軒先には、もう布が干してあって、そのうちの一枚が、晴れた昼の空のような青だった。丘のふもとの窪地は、朝の雲の裾に包まれて、白くかすんでいた。あの石垣の下の段の苔は、今ごろ水を抱え直しているだろう。
膝は、少しだけ笑った。チグサは窓から目を離さなかった。
隣でナギが、「見てる」と小声で言った。ゲンは向かいの席で目をつぶっていたが、口の端が少し上がっていた。
七時二十五分、籠は雲の中へ入った。窓の外が白くなり、頬に触れる空気が、いつもの湿りに戻った。
八時、チグサは仕分け台の前に立ち、局の手順書の最後の頁を開いた。白紙の頁に、雲墨で書いた。
白乾の日の包み方。普通便は雲綿一枚を三つの折り目に分け、各六通まで。期限付は一通ずつ、別の折り目へ。小包は上下二枚で包む。蝋引き袋に入れ、三十分を目安に湿りを確かめ、四十分を待たずに雲の水で濡らし直す。強い風に当たった角は、もっと早く確かめる。苔の水を当てにしすぎず、持参の水と合流の時刻も決めておく。麦原の丘の東の道を下りた窪地、北側石垣の下の段に、雲の水を抱えた苔がある。日の当たる上の段は乾く。木の根の影が湿っている。影は午後、右へ動く。苔は剥がさず、手のひらで押す。
書き終えて、頁の端に、小さく付け足した。教えてくれた人、鷺沼ゲン。
局長がやってきて、肩越しにそれを読んだ。「昨日試したのは一便だけ。ほかの風の日も確かめましょう」と言い、頁に「試用」と書き添えて判を押した。
九時、窓口にルカが現れた。昨日と同じように前髪が額に張りついていたが、今日は息を切らしていなかった。かわりに、手をどこに置けばいいのかわからないような顔をしていた。
「あの、昨日の。籠が止まったって聞いて――」
「届きました」とチグサは言った。「十七時四十分に、瀬尾さんご本人が封を切りました」
ルカの肩から、目に見えるほど力が抜けた。
「瀬尾さんから伝言です」チグサは、昨日聞いたとおりの言葉を、なるべくそのまま言った。「染めは悪くない。止め方はこっちで教える」
「止め方?」
「明礬です。地上の水で、色を止めるんです。雲藍を明礬の水に三回くぐらせたら、白乾の中で乾かしても、青いままでした」チグサは少し考えて、付け足した。「晴れた昼の空みたいな色になりました。見本の布」
ルカは何か言おうとして、口を開けたまま、しばらく止まっていた。それから「見たんですか」と言った。
「見ました。地上で」
「どうでしたか。地上」
チグサは考えた。たくさんのことが浮かんだ。硬い地面。水車の羽根。粉の匂い。目をつぶって笑いながら封を切った、会ったことのない先生のこと。
「地面が、硬いです」とチグサは言った。「走りやすいですよ」
ルカは笑った。笑って、礼を言って、窓口を離れていった。今日は、振り返らなかった。
チグサは仕分け台に戻った。地上から上ってきた朝便の郵袋の口を開ける。いちばん上に、室井製粉所からの封筒が載っていた。宛名は棚雲ベーカリー。その下に、小さな封筒がもう一通。宛名は、雲底郵便局、仕分け係さま。
開けると、地上の普通の墨で、短く書いてあった。
雲麦、来週挽きます。焼けたら一つ、こちらへ回してもらうよう、ベーカリーさんへの手紙にも書きました。三人でどうぞ。地面は硬いけれど、また来てください。室井。
チグサはそれを手帳に挟み、残りの封筒を一通ずつ手に取った。くせで、角をこする。
かさり、と鳴った。
地上の紙は、乾いていても平気だった。チグサは、その音を少しだけ楽しんでから、棚に差した。


