一番目のベンチ
キッチンカーの窓口で、ちさは両手を差し出した。
「ほうじ茶ラテの方、熱いのでお気をつけてください」
紙コップを受け取ったとたん、かじかんでいた指先にじんと感覚が戻った。十月の終わりの土曜日、十時二十分。公園の池を渡ってくる風は、もう冬の手前の匂いがしていた。
後ろで、しおりがはちみつレモンを受け取って小銭入れを開けた。
「四百二十円ね。はい、百円が四枚と、十円が二枚」
「あとでいいのに」
「あとにすると忘れるの、ちさのほうだから」
手のひらに落ちた硬貨はひやりと冷たかった。ちさは急いでコートのポケットに押しこんだ。
月に一度の「公園の日」は、高校の写真部を卒業してから十六年、なんとなく続いている。今もカメラを持ってくるのはしおりだけで、ちさは毎回、飲物と座る場所のことしか考えていない。
池のまわりにはベンチが四つある。ちさは迷わず一番目に向かった。池に向いていて、日をさえぎるものが何もない席だ。
「ここ。ここしかない」
腰を下ろして、ちさは顔を空に向けた。背中から肩へ、日の光がゆっくり染みてくる。
しおりは座らなかった。立ったまま、片手を額にかざしている。
「……池が、光ってる」
言われて見ると、水面で日の光が砕けて、白い粒があたり一面に跳ねていた。ちさにはきれいな景色にしか見えない。けれど、しおりは目を細めるどころか、ほとんど閉じかけていた。
「サングラスは?」
「先週、踏んだ」
「自分で?」
「自分で」
しおりはコップのふたの飲み口に、ふうっと息を吹きかけた。飲まずに、もう一度吹く。
「ごめん、ここは無理。目の奥が痛くなる」

二番目と三番目
二番目のベンチは藤棚の下にあった。夏ならいちばん人気の席だろう。葉はもう黄色くなってまばらだったが、それでも頭上の格子が光をほとんど受け止めていて、足もとには濃い影が溜まっていた。
しおりはそこに座ると、肩の力を抜いた。
「ああ、これ。これがいい」
ちさは隣に座り、三秒で立ち上がった。
「お尻が冷たい」
「座面が冷えてるだけだって。すぐ温まるよ」
「温めるのは私なんだよ、それ」
もう一度座ってみる。影の中は、日なたよりはっきり何度か低かった。風が藤棚の隙間を抜けて、首すじに入りこんでくる。ちさはコートの襟を立てて、ラテのコップを両手で包んだ。指に伝わる熱が、さっきより少し弱い気がした。
「ちさ、マフラーは?」
「玄関に置いてきた。今日は暖かいって天気予報が言ってたから」
「信じたんだ」
「信じたの」
しおりは笑って、また飲み口に息を吹きかけた。
十時三十八分、二人は三番目のベンチを試した。遊具の横にあって、背中に日が当たる席だ。今度こそと思ったのに、座面がしっとり濡れていた。朝露がまだ乾いていない。ちさがハンカチで拭いてみたが、木の板が水を吸っていて、湿ったのはハンカチのほうだった。
四番目のベンチの前では、子どもが三人しゃがんで、座面にどんぐりを一列に並べていた。どう見ても先客だった。
結局ちさとしおりは、池のほとりに立ったまま、それぞれのコップを持っていた。
「これ、どこにも座らないうちに冷めちゃうね」
ちさがふたを少しずらすと、湯気はもう細い糸くらいしか立っていなかった。
「冷めるね」と、しおりも言った。困っている声ではなかった。

雲の行方
そのとき、空が急に暗くなった。
見上げると、西のほうから厚い雲がひとつ、大きな船のように流れてきて、太陽をすっぽり覆っていた。池の光がふっと消えて、水面はただの灰色の鏡になった。
「あ」と、しおりが言った。「今なら一番目、いける」
「今なら?」
二人は小走りで一番目のベンチに戻った。座面にまだ日のぬくもりが残っているのを確かめて、ちさはほっとした。目を開けたまま池を眺められることに、しおりもほっとしていた。
それは三十秒ほどしか続かなかった。
雲の端がほどけて、日が戻ってきた。しかも、さっきより強く感じられた。濡れた木の葉も、池の縁の石も、いっせいに光を返してくる。しおりは「うっ」とうなって、カメラバッグを顔の前に掲げた。
そこへ風が吹いてきた。雲を運んできたのと同じ、冷たい西風だった。日なたにいるのに、ちさの耳たぶがきんと痛んだ。
雲は次々に流れてきては、去っていった。陰って、光って、また陰って、また光る。そのたびにしおりは目を開けたり閉じたりし、ちさは肩をすくめたりゆるめたりした。
「天気、ぜんぜん決めてくれないね」
「決めてくれたら楽だったのにね」
二人はしばらく、明るくなったり暗くなったりする空の下に座っていた。どちらも、いい案は思いつかなかった。
やがてしおりが立ち上がって、藤棚のほうを振り返った。
「ねえ、二番目のベンチ。影が動いてる」
日が高くなるにつれて、藤棚の影が少しずれていた。ベンチの右半分はまだ格子の影の中にあったが、左半分には日が差しはじめている。座面の真ん中を、影と光の境目が斜めに横切っていた。
「半分だけ日陰なんて、全部日陰と同じだと思ってた」と、ちさが言った。
「思ってたね。顔に書いてあった」
「顔に書いてあったか」
ちさは左の日なたに座った。膝に日が乗る。風は藤棚の柱に少しさえぎられて、さっきほど冷たくない。しおりは右の日陰に座った。格子の影が、ちょうど目のあたりを覆っている。
二人のあいだには、手のひら二枚ぶんほどのすきまがあった。影の境目は、そのすきまを通っていた。
ちさはラテを一口飲んだ。
「ぬるい」
しおりもやっと、はちみつレモンを口に運んだ。ずっと息を吹きかけていた飲み口から、ゆっくりと一口。
「ちょうどいい」
ちさは、しおりの横顔を見た。
「……猫舌なの、忘れてた」
「十六年、毎回こうだよ。ちさが冷める冷めるって言ってるあいだ、私は待ってるの」
また雲が日を隠して、ベンチの右も左も同じ色になった。ちさは身を縮め、しおりは目を開けて池を見た。雲が流れていくと、ちさは顔を上げ、しおりは目を伏せた。
「影、そのうちこっちに来るよ」と、しおりが言った。
「来たら私、左にずれる」
「ベンチの端、あと三十センチくらいしかないけど」
「三十センチあれば、お昼までもつよ」
しおりは笑って、バッグからカメラを取り出した。ファインダーをのぞいて、ちさの膝の日なたと、自分の膝の影と、そのあいだの細い境目を一枚に収めた。
「何撮ったの」
「席の写真」
ちさは、ぬるいラテを両手で包み直した。熱はもう残っていなかったが、日の光が手の甲を温めていた。ポケットの中では、さっきの四百二十円も、いつのまにか体温と同じくらいになっていた。
十時五十分。影の境目が、ほんの少しだけ、ちさのほうへ寄ってきた。ちさはお尻ひとつぶん、左へずれた。しおりはそのまま影の中に残って、はちみつレモンの二口目を、ゆっくり飲んだ。


