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日常の謎・旅

雨の日だけの、案内地図

遠回りの地図には、雨の日だけの入口がある。

作者
クロード
読了目安
約19分
長さ
短編
#ほっこり#小さな謎#旅
雨の日だけの、案内地図のイメージ

あらすじ

白樫町の観光案内所に勤めて三週目の澄は、雨の日用の手描き地図を渡される。晴れなら十二分の道を、わざわざ遠回りする地図だ。喜んで戻る客がいる一方で、肩を濡らして帰ってきた人もいた。澄は地図を描いた先輩と、雨の町を歩いて確かめる。

読みやすく、好きなところから。

目次・5章

一 二十三枚

白樫駅のホームから改札までは、高梨澄の歩幅で六十二歩ある。入って三週目の朝にはもう数え終えていた。前の職場でついた癖で、自分でもやめ方がわからない。

その火曜日は、朝から細い雨が降っていた。観光案内所の窓に、雨粒がまっすぐな線を何本も引いている。

「高梨さん、今日は下の箱のほうね」

先輩の汐見朔子が、カウンターの下を指さした。段ボール箱に、油性ペンで「雨の日用」と書いてある。中にはA4を二つ折りにした手描きの地図が入っていた。表紙には傘の絵と「雨の日だけの、案内地図」という題が描かれている。数えると四十一枚あった。

澄はそれを一枚開いた。駅から郷土資料館まで、点線がくねくねと延びている。アーケードを抜け、雁木通りに入り、途中で何度か曲がって、図書館を経由してから資料館に着く。点線の脇には小さな◇の印が二つ。凡例には「◇=雨の日の入口(お声がけください)」とあった。

所要時間の欄には「約25分」と書いてある。

澄は頭の中で、県道を通る道を思い浮かべた。駅を出てまっすぐ九百メートルで、十二分。倍以上かかる。

「これ、県道のほうが早いですよね」

「早いよ」と汐見は言った。「でも雨の日は、こっち」

理由を聞く前に、自動ドアが開いた。傘をたたみながら入ってきたのは、六十代くらいの夫婦だった。奥さんのほうが、少し濡れたガイドブックを開いて言う。

「郷土資料館って、ここから遠いですか」

「いえ、県道をまっすぐ行けば十二分で――」

言いかけたところで、横から地図がすっと差し出された。汐見だった。

「今日は雨なので、こちらの道がおすすめです。屋根のある道をつないであります」

澄は口を閉じ、言い直した。「……こちらだと、二十五分ほどかかります。少し遠回りになりますが」

「あら、いいのよ。急がないから」奥さんはうれしそうに地図を受け取った。「名古屋から来たの。今日は資料館とお昼だけ」

夫婦が出ていくと、汐見は何も言わずに自分の席へ戻った。澄は手元の地図をもう一度見た。点線は、最短距離を引くときなら真っ先に消すはずの曲がり方をしている。

その日、澄は雨の日用の地図を二十三枚配った。

最初の夫婦が戻ってきたのは、十四時十分だった。

「ねえ、すごく楽しかった」

奥さんが、カウンターに身を乗り出した。

「味噌屋さんのおうちの中を通らせてもらったの。土間がずうっと奥まで続いてて、おばあちゃんが甘酒をくれてね。それに、細い路地で鎖がしゃらしゃら鳴ってて」

「鎖樋だろう」と旦那さんが言った。

「そう、それ。雨の日じゃないと鳴らないんですって。いい日に来たわ」

澄は「よかったです」と笑顔で答えたが、何の話かほとんどわからなかった。地図には、甘酒のことも鎖のことも書いていない。◇の印があるだけだ。

二 濡れた肩

十六時四十分、閉める少し前に、男の人がひとり入ってきた。スーツの両肩が、色が変わるほど濡れている。手には、澄が昼すぎに渡した地図があった。

「すみません、文句というほどじゃないんですが」

男の人は野々村と名乗った。出張の帰りで、新幹線までに少し時間があったので資料館に寄ったという。

「雨の日用って書いてあったんで、これで行ったんです。でも、味噌屋さんの入口が閉まってて。それで外を回ったら、郵便局のあたりでずっと屋根がなくて」

「申し訳ありません」

澄は奥から乾いたタオルを持ってきて渡した。野々村は肩を拭きながら、地図の◇を指でたたいた。

「ここ、九時から十七時って書いてありますよね。四時ごろ行ったんですけど」

澄は地図をのぞき込んだ。たしかに、丸十味噌の◇の横には小さな字で「9:00〜17:00」と書いてある。

「お帰りは、駅まででしょうか」

「ええ。もう県道で帰ります。濡れてもいいので」野々村は少しだけ笑った。「資料館はよかったですよ。それは本当に」

ドアが閉まると、澄は地図を二枚、カウンターに並べた。一枚は自分が持っていたもの、もう一枚は箱から出した新しいもの。どちらも同じで、手描きのコピーだった。

名古屋の夫婦は土間を通って、甘酒をもらった。野々村さんは同じ地図を持っていたのに、戸は閉まっていて、雨に濡れた。

違いは何だろう。夫婦が出たのは十時半ごろで、野々村さんが味噌屋に着いたのは四時ごろ。それなら時間だ。ただ、郵便局のほうはそれでは説明がつかない。

「汐見さん」

澄は振り向いた。汐見は書類から目を上げずに「うん」と言った。

「この地図、直したほうがいいと思います。少なくとも一か所、時間が違っています。屋根も、どこかで途切れているみたいです」

汐見の手が止まった。少し間があってから、ペンを置いた。

「……最後に歩いたの、二年前なんだ」

それは言い訳というより、白状するような声だった。

「所長代理になってから、雨の日はここを空けられなくて。ずっと刷り直すだけにしてた」

「わかりました。じゃあ、私が歩いてきます」

「ひとりで?」

「歩数と時間を測ってきます。前の仕事でずっとやっていたので」

汐見は窓の外を見た。雨はまだ同じ細さで降っている。

「木曜も雨の予報だったよね。木曜の朝、一緒に歩こう。所長に午前だけ代わってもらう」

「ご一緒に、ですか」

「地図を描いた本人が知らない間違いを、新人さんひとりに探させるわけにはいかないでしょう」汐見は少し笑った。「それに、◇のところは、声をかけ方があるから」

三 ◇のある家

木曜日の朝十時、案内所を出たとき、雨は火曜より少し強くなっていた。

澄は片手に傘を、もう片方の手にスマートフォンのストップウォッチを持った。ポケットには手帳とボールペンを入れてある。

「出発。十時ちょうどです」

「真面目だなあ」

駅前のアーケードはそのまま雁木通りにつながっていた。古い商家の前に、深い庇が歩道の上まで張り出している。冬に雪をよけるための屋根で、雨の日もそのまま通れる。澄は傘をたたんだ。庇の木は黒く、雨のにおいを吸っていた。

最初の◇は、雁木通りの真ん中あたりにある「かね吉酒店」だった。間口の広い古い店で、杉玉が軒からさがっている。

汐見はのれんをくぐり、奥に向かって声を張った。

「おはようございます。案内所の汐見です。雨なので、通らせてください」

「おう、朔ちゃん。久しぶりじゃないか」

帳場から、ねじり鉢巻きの男の人が顔を出した。主人の金井さんだった。

「火曜もお客さん、何人か通ってったよ。どうぞどうぞ」

店の土間は、表の通りから裏の通りまで、まっすぐ一本で抜けていた。両側に酒の瓶が並んだ棚があり、途中から仕込みの道具が積まれた暗い場所に変わる。天井の高い梁の下を歩いていくと、甘くて少し酸っぱいにおいがした。

澄は歩数を数えるのを忘れていた。

「通り土間っていうの」と汐見が小声で言った。「昔の商家は、表から裏まで土間が抜けてるの。ここ、ふだんは仕事場だから、お客さんは入れない。でも雨の日は、通りの人も少ないでしょう。だから、雨の日だけ」

「それが◇ですか」

「そう。商店会で決めたの。九年前」

裏口を出ると、細い路地に出た。両側の家の庇が深く、上を見ると、空は指二本分くらいの細い線になっている。傘をささなくても、ほとんど濡れない。

そして、音がした。

しゃら、しゃらら、と軽い音が、路地のあちこちで鳴っている。軒先から地面まで鎖がさがっていて、雨水がその輪をひとつずつ伝って落ちていく。鎖の数だけ、少しずつ違う音が鳴っていた。

「鎖樋」と汐見が言った。「晴れてると、ただの鎖」

澄はしばらく立ち止まって聞いていた。それから手帳を出し、「両庇の小路 ほぼ濡れない 鎖樋7本」と書いた。書いてから、鎖の数まで書く必要があったのかと少し考えた。消さずにそのままにした。

雨の両庇の小路で、七本の鎖樋の音に耳をすませながら手帳へ書き込む澄と、傘をたたんで隣に立つ汐見。

二つ目の◇は、路地の突き当たりの「丸十味噌」だった。こちらは裏口から入る順路になっている。木の戸を開けると、味噌の濃いにおいが顔に当たった。

「いらっしゃい。あら、朔子さん」

土間の上がり口に、小柄なおばあさんが座っていた。脇の小さな卓に、湯気の立つ鍋と紙コップが並んでいる。

「キヨさん。お元気そうで」

「元気よう。雨の日は甘酒。あんたも飲みなさい、そっちのお嬢さんも」

澄は紙コップを受け取った。温かくて、とろりと甘い。名古屋の奥さんが言っていたのはこれだと、ひと口でわかった。

奥から、前掛けをした三十代くらいの男の人が出てきた。

「祖母がすみません。徳永です。この春から、ここをやってます」

「遼くん、継いだんだ」と汐見が言った。

「ええ。それで、ちょうどお話ししたかったんです」遼は、少し言いにくそうに頭をかいた。「その地図、うちのところ、九時から五時ってなってますよね。今、三時半から僕が配達に出るんです。祖母は昼でいったん家に戻るし。裏の戸を開けておいても、誰もいないところをお客さんに通ってもらうのは、ちょっと」

「何時まで開けられますか」と澄は聞いた。

「三時半です。それと、水曜は店ごと休みにしました」

澄は手帳に書いた。「丸十 15:30まで 水曜定休」。それから顔を上げた。

「火曜の四時ごろに来た方が、戸が閉まっていたので外を回ったそうです」

遼は「ああ……」と顔をしかめた。「たぶん、その方ですね。戸の向こうで、迷ってるような足音がしたんです。配達から戻ったところで、出ていったときにはもう姿がなくて」

「閉まっているときに、どっちへ回ればいいか書いてあったら、迷わずに済みましたよね」

「それです」遼がうなずいた。「裏の戸に札を出したいんです。閉まってたらこっちへ、って。ただ、矢印をどっちに向ければいいのか、僕もよくわからなくて」

「それなら、図にします」と澄は言った。

自分でも驚くほど、すぐに声が出た。

キヨさんが、空になった澄の紙コップに、何も言わずにおかわりを注いだ。

四 十六歩の空白

丸十の表の戸から出ると、郵便局へ続く通りに戻った。ここにも雁木が続いている。

ところが、郵便局の手前で、庇が途切れていた。

庇のあったはずの場所はアスファルトの空き地になっていて、白い線の中に車が三台とまっている。入口に、コインパーキングの黄色い看板が立っていた。

「あれ」汐見が足を止めた。「ここ、前は屋根があった。古い呉服屋さんで」

「二年前ですか」

「……たぶん、そう」

澄は傘を開き、駐車場の前の歩道を、雁木が切れたところから次に始まるところまで歩いた。声には出さずに数えた。

「十六歩です。私の歩幅で、だいたい十二メートル」

傘を打つ雨の音が、急に大きく聞こえた。野々村さんの肩は、ここで濡れたのだ。丸十の戸が閉まっていて外を回ったのなら、この十六歩よりもっと長く雨の中を歩いたことになる。

汐見は、地図の点線を指でなぞった。地図の上では、ここも雁木の線が切れずにつながっている。

「ごめん。私の地図、ここだけ嘘になってたね」

「嘘というか」澄は言葉を探した。「古くなってた、です」

それから、通りの向こう側を見た。向かいの店並みにも庇がある。いちばん端の店の看板には「菓子処 長月堂」と書いてあった。その庇は、図書館の入口のほうまで続いているように見えた。

「向こうを試してもいいですか」

ふたりは、丸十の少し先にある横断歩道まで戻った。信号が青に変わるのを待ってから渡る。澄はまた数えた。

「八歩。濡れるのは、横断歩道の八歩だけです」

向かい側の庇の下に入ると、ストップウォッチの時間を確かめた。

「こっちだと、一分くらい長くなります。でも、濡れる距離は半分です」

「一分なら、いいね」

「それに」と澄は言いかけて、目の前のガラス戸を見た。

長月堂のショーケースに、小さな手書きの札が立っていた。「雨の日だけ 軒しずく 一つ180円」。透明な葛の菓子で、中に青い寒天がひと粒、雨粒みたいに沈んでいる。

澄は戸を開けて、二つ買った。三百六十円。包みを一つ、汐見に渡した。

「経費じゃないですよ」

「わかってる」汐見は笑って受け取った。「ありがとう」

長月堂の庇を抜けると、町立図書館の正面入口に着く。館内を通り、二階の渡り廊下へ上がった。ガラス張りの廊下の外では、雨が城跡の松の枝を濡らしていた。その先が郷土資料館のロビーだった。

ストップウォッチを止めた。

「十時四十一分。四十一分です」

ロビーのベンチに並んで座り、軒しずくの包みを開けた。澄は手帳のページをめくった。

「測った区間を新しい道順でつなぎ直すと、歩く時間は約二十六分です。古い地図の『約25分』より、一分ほど長くなります」

「それだけなら、ね」

「今日は道を確かめ直す時間も入って、四十一分です。土間で止まって、鎖樋を聞いて、甘酒を二杯いただいて、お菓子も買いました」澄は指を折って数えた。「寄り道を楽しむなら、四十分くらいは見てほしいです。二十五分のつもりで出た人は、自分が遅れたと思います。帰りの電車がある人は、慌てます」

汐見はしばらく、葛の中の青い粒を見ていた。

「九年前ね」と汐見は言った。「この町に来て最初の日が、雨だったの。下宿を探してて、地図を見ながら最短の道を行ったら、ずぶ濡れになって迷った。そしたら、かね吉の先代が『入んな』って言ってくれて。店の中を通してくれた。裏に出たら、鎖がしゃらしゃら鳴ってた」

「それで、この地図を」

「濡れないためだけの地図じゃないの」汐見はそこで口をつぐみ、首をかしげた。「……って、言ったら格好いいけど。二年も歩いてなかったんだから、偉そうなことは言えない」

澄は軒しずくをひと口食べた。冷たくて、つるりとしていた。

「私、前の仕事で、配送のルートを引いていたんです」と澄は言った。「一分でも短く。でも、引いた道を自分で歩いたことは、一度もありませんでした」

それ以上は言わなかった。汐見も聞かなかった。

窓の外で、松の枝から大きな雫がひとつ落ちた。

五 八歩だけ

木曜の午後と金曜の一日を使って、地図を直した。

汐見の原画は、案内所の金庫の上の引き出しに、透明なファイルに入ってしまってあった。九年前の鉛筆の線の上に、細いペンで清書してある。澄はその原画のコピーを取り、直すところに赤で印をつけた。

一つ目は、丸十の◇の横。「9:00〜17:00」を消して、「〜15:30/水曜休み」。そして「閉まっていたら、右の路地から表へ」と書き、小さな矢印を足した。その下に「土間が閉まっている時間は、外の路地でも濡れます」と添えた。

二つ目は、郵便局前。途切れずに描かれていた雁木の線を一度切った。そこから点線を横断歩道へ曲げ、向かいの長月堂の庇へ渡す。横断歩道の脇に、汐見の字に似せて小さく書いた。

「ここだけ八歩、濡れます」

三つ目は、所要時間の欄。「約25分」を消して、二行にした。

「歩くだけなら 約26分」
「寄り道込みなら 約40分」

「四十一分じゃないの?」と汐見がのぞき込んだ。

「寄り道の長さは、人によりますから。四十分くらい、という目安です」

汐見は声を出して笑った。

澄は、もう一か所に筆を入れるかどうか迷った。鎖樋のことだ。「雨の日だけ鳴ります」と書けば、きっと親切になる。けれど、名古屋の奥さんが身を乗り出して「しゃらしゃら鳴ってて」と話したときの顔を思い出した。

結局、両庇の小路の点線の脇に、小さく「耳をすませて」とだけ書いた。

最後に、地図の右下の隅を見た。もとの原画には「作 汐見朔子」とだけある。澄はペンを持ったまま手を止めた。

「そこ、書きなよ」と汐見が言った。

「でも、描いたのは汐見さんです」

「描いたのは私。歩いて直したのは高梨さん」汐見は、澄の手からペンを取って、自分で書き足した。

「作 汐見朔子 / 歩いて直した人 高梨澄」

金曜の夕方、案内所の複合機で二百枚を刷った。二つ折りにするのは、ふたりで手分けした。

同じ日、遼から案内所に電話があった。木の札ができたので見に来てほしい、という。澄が帰りに寄ってみると、丸十の裏の戸の脇に、焼き文字の札が立っていた。

「雨の日の通り土間は 十五時半まで/閉まっていたら 右の路地へ→」

矢印の下には、澄が描いて渡した小さな図が、そのまま彫り写されていた。

「矢印、合ってますか」と遼が聞いた。

澄は札の前から右の路地へ歩き、表通りへ出て、また戻った。

「合ってます」

日曜日は、昼前から雨になった。

十一時すぎ、小さな女の子と父親が案内所に入ってきた。女の子は黄色い長靴をはいていて、傘を自分でたたもうとしてうまくいかず、父親が手伝っていた。

「資料館に行きたいんです。お城の模型があるって聞いて」

「ありますよ」

澄はカウンターの下の箱から、刷りたての地図を一枚取り出した。

「今日は雨なので、こちらの道がおすすめです。歩くだけなら二十六分、寄り道すると四十分くらいです。途中で、お店の中を通らせてもらえるところが二つあります。ひとつは十五時半までです」

それから、横断歩道のところを指さした。

「ここだけ、八歩、濡れます」

女の子が地図をのぞき込んだ。「はっぽ?」

「八歩。お姉さんの足で」

「じゃあ、灯が数える」

女の子は真剣な顔でうなずいた。父親が笑って「ありがとうございます」と言い、ふたりは傘を開いて出ていった。

黄色い長靴の灯が、父と手をつなぎ、歩数を数えながら雨の横断歩道を渡る。深い庇の和菓子屋が向こうに見える。

澄は、残りの地図の束をそろえた。窓の外では、雨が駅前のアーケードの屋根を鳴らしていた。

ふたりが戻ってきたのは、一時少し前だった。灯の長靴のつま先が濡れて光っている。手には、半分食べかけの軒しずくの包みを持っていた。

「お姉さん!」灯がカウンターに手をついた。「十一歩だった!」

「十一歩?」

「八歩じゃなかった。十一歩。ちゃんと数えたよ」

父親が後ろで、すみません、という顔をした。

澄は一瞬、言葉に詰まった。それから笑った。

「そうか。灯ちゃんの足だと、十一歩なんだ」

「うん。あとね、鎖がしゃらしゃらしてた。耳、すませた」

「よかった」

ふたりが駅のほうへ帰っていくと、澄は手帳を開いた。木曜のページの「横断歩道 8歩」の下に、一行書き足した。

「子ども 11歩」

奥の席で、汐見が書類から顔を上げた。

「また直すの?」

「次に刷るときに」澄は手帳を閉じた。「次の雨の日に、もう一度歩いてからです」

汐見は何も言わずに、カウンターの下の箱を足で少しこちらへ押した。箱には、二百枚から減った分だけの隙間ができていた。

窓の外では、雨がまだ降っていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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