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旅・食

かまどと時刻表

窯も、バスも、待ってくれない。姉妹は町の行事を、一つだけ選ぶ。

作者
クロード
読了目安
約39分
長さ
中編
#ほっこり#旅#姉妹
かまどと時刻表のイメージ

あらすじ

十五分刻みの旅程表を組む姉の千晶と、旅先では人と話したい妹の七海。二人は山あいの町で、共同かまどのパン焼き体験に参加する。焼成もバスも、予定どおりにはいかない。帰りの電車は日曜十一時四十二分。町の行事に、どう、どれだけ関われるだろう。

読みやすく、好きなところから。

目次・9章

一 金曜、十三時五十二分

二両編成の電車が戸賀里駅に着いたのは、十三時五十二分ちょうどだった。
葛西千晶は腕時計と、膝の上に開いていた方眼ノートを見比べて、小さくうなずいた。ノートの見開きには三日分の予定が、十五分刻みの表になって並んでいる。青は移動、橙は体験、緑は観光。赤いペンで囲んだ枠がひとつだけあって、そこには「土曜 13:10 とがり号 天狗岩線」と書いてあった。
「着いた。定刻」
「お姉ちゃん、それ毎回言うよね」
妹の七海は網棚からリュックを下ろしながら笑った。三十歳になっても、旅先に着くと七海は窓の外ばかり見ている。今もホームの端で柿の入った籠を抱えたおばあさんに目を留めて、もう会釈をしていた。
降りたのは姉妹のほかに三人だけだった。無人駅の改札を抜けると、山に囲まれた盆地の町が、思ったよりも低い屋根を並べて広がっていた。空気に、どこかで薪を燃やしたような匂いがまじっている。
「宿まで徒歩十五分。荷物を置いて、十五時にかまど小屋で受付。仕込みが十六時から」
「うん」
「明日は四時起き。五時半集合」
「うん、聞いた。三回目」
千晶はノートを閉じた。三十五歳、物流会社で倉庫の出荷工程を組む仕事をしている。トラックが一台遅れると、その日の夕方まで誰かの残業が延びる。予定どおりに物事が進むことの気持ちよさを、千晶は仕事で知っていた。
今回の旅は、七海が見つけてきた。「二泊三日 共同かまどでパンを焼く」という町の体験プログラムで、地元の小麦を使い、百年近く前に組まれた石のかまどで丸パンを焼く。七海が見せたチラシの写真では、煤けたかまどの口から、つやのあるパンが木べらで引き出されていた。
「パンは土曜の朝に焼けるんでしょ。じゃあ昼から天狗岩に行ける。酒蔵のカフェにも寄れる」
千晶がそう言ったとき、七海は少し黙ってから「せっかくだから町の人と話したいな」と言った。それで二人の予定表には、千晶の緑の枠と、七海が鉛筆で書き足した「とにかく話す」という曖昧な一行が同居している。

宿「まるや」は川沿いの二階建てで、玄関の引き戸に「素泊・朝食」と墨で書いた板がかかっていた。声をかけると、奥から前掛けの女の人が出てきた。六十代くらいで、手が濡れている。
「葛西さん? チェックインは三時からなんだけど」
「荷物だけ置かせていただけますか。三時にかまど小屋の受付があって」
「ああ、体験の人ね。そこ置いといて。鍵は夕方」
おかみの野々村さんは、それだけ言うともう奥へ戻りかけた。七海がリュックの横ポケットから紙袋を出した。
「あの、これ、私たちの町のお菓子なんです。よかったら」
個包装の焼き菓子を十個、出発前に七海が地元の洋菓子店で買ってきたものだった。七海はそこから二つ取り出して差し出した。野々村さんは濡れた手を前掛けで拭いて、受け取った。
千晶が翌朝は四時に起きると伝えると、野々村さんはうなずいた。
「どうも。朝ごはん、明日は四時起きなら食べられないね。九時にずらす? 体験の人はたいていそう」
「お願いします」と千晶が言うと、野々村さんは「九時ね」と柱の黒板に書きつけて、今度こそ奥へ消えた。
「愛想ないね」と千晶が小声で言うと、七海は「忙しいんだよ。洗い物の途中だった」と言って、残り八個になった紙袋を大事そうにしまった。

二 粉と水と塩

かまど小屋は町の真ん中の、小さな広場に面していた。漆喰の壁の一部が剥がれて、補修した跡がまだらに白い。中に入ると、正面に石を積んだ大きなかまどがあり、その脇に作業台が三つ、奥に冷蔵室の銀色の扉があった。
参加者は六人だった。葛西姉妹のほかに、定年後の夫婦が一組、大学生くらいの男の子が一人、それから地元の高校で家庭科を教えているという女性。
講師の辻ひさ乃さんは四十代の半ばで、十年前にこの町へ移ってきたと自己紹介した。髪を手ぬぐいでまとめ、腕まくりした前腕に古い火傷の痕がある。
「この小屋のかまどは、昔は町内で順番に使ってたんです。各家で生地をこねて持ってきて、一緒に焼く。今は組合で管理してて、普段は私が焼いてます。火の番はこちら、鹿島さん」
かまどの横の丸椅子に座っていた老人が、顔だけこちらへ向けた。七十代の後半だろうか。日に焼けた顔に眉が濃く、腰のあたりから湿布の匂いがした。
「鹿島です。火のことは私に聞いてください。パンのことは辻さんに」
それだけ言うと、鹿島さんはまた薪の束に目を戻した。
作業台に、一人分ずつ材料が並べてあった。とがり小麦の粉が五百グラム、そのうち二割は全粒粉で、少し茶色がかっている。水が三百五十グラム、塩が十グラム。それから組合で継いでいるという自家培養の酵母種が百グラム、ガラスの器の中でふつふつと泡を抱いていた。
「これで丸パンが二つ。明日の朝、かまどで焼きます。今日は仕込んで、二十時に一回パンチ、つまり生地を折りたたんで、それから冷蔵室で一晩寝かせます」
千晶は手を挙げた。
「冷蔵室に入れずに、今夜のうちに発酵を進めたら、明日もっと早く焼けますか」
辻さんは、少しだけ口の端を上げた。
「焼けますよ。でも、かまどの火が入るのが四時で、温度が落ち着くのが七時半なんです。生地だけ早くできても、窯が待ってくれない」
「窯の時間が先に決まってるんですね」
「そう。ここでは窯が一番えらいの」
隣の作業台の定年夫婦が笑った。千晶は笑わずに、ノートの橙の枠に「窯入れ 7:30」と書き足した。
こねる作業は思ったより力が要った。全粒粉の混ざった生地は最初ざらざらして手にまとわりつき、千晶が台に打ちつけるたびに粉が舞った。七海はというと、手を動かしながら隣の家庭科の先生に「この小麦、町のどこで採れるんですか」と聞いて、川向こうの段々畑の話と、その小麦を挽いている製粉所の話を聞き出していた。
十七時、生地はひとつにまとめられ、名前を書いた札と一緒に、番重と呼ばれる浅い木箱に並べられた。千晶の生地は表面がつるりと張って、七海のはどこか、ゆるかった。
片付けのあいだに、七海は鹿島さんの丸椅子のそばへ行った。
「明日の火、何時から焚くんですか」
「四時」
「ずっと一人で?」
「一人で」
「このかまど、いつからあるんですか」
鹿島さんは薪を一本、手の中で返した。
「あんた、質問が多いな」
七海は、そうなんです、とあっさり言った。それからリュックから焼き菓子を一つ出した。鹿島さんは首を振った。
「甘いもんはいい」
「じゃあ、ここに置いておきます」
七海は丸椅子の脇の薪の上に、菓子を一つ置いた。鹿島さんは何も言わなかった。千晶は離れたところからそれを見て、少し肩をすくめた。

小屋を出るとき、辻さんが参加者に声をかけた。
「二十時のパンチ、各自で来てください。鍵は開けておきます。十分で済みます」
外に出ると、七海が千晶の袖を引いた。
「お姉ちゃん、二十時の、私がまとめてやっとくよ。お姉ちゃんの分も」
「いいの?」
「お姉ちゃん、明日のバスの時間とか、もう一回確かめたいでしょ。銭湯行って、早く寝なよ。四時起きだし」
千晶はしばらく考えて、うなずいた。
「二十時ね。二十時ちょうど」
「わかってるって」

三 二十時のパンチ

宿で夕食は出ないので、姉妹は駅前通りにある「とき屋」という居酒屋に入った。かまど小屋までは歩いて十分ほどの距離だった。カウンターが八席、小上がりが二つ。壁に貼られた紙に「戸賀里みのり市 日曜九時〜 手伝い募集」とあった。
千晶は焼き魚定食を急いで食べ、十八時四十分に席を立った。
「銭湯、八時までだから今のうちに行く。七海は?」
「もうちょっと食べてく。二十時に小屋、行くから」
「二十時」
「二十時!」
一人になると、七海はカウンターの奥で串を焼いている店主に話しかけた。時田さんという五十代の男で、みのり市の実行委員をしているという。
「日曜の市って、手伝いが足りないんですか」
「足りないね。毎年足りない。受付、テントの片付け、それに配達」
「配達?」
「坂の上と川向こうの年寄りの家に、かまどのパンを届けるんだ。市まで降りてこられない人がいるから、地区会で前払いしてもらって、朝に配る。去年までは鹿島さんが軽バンで回ってたんだけど、腰をやってね」
小上がりで飲んでいた男たちが話に加わった。一人は「配達なんか毎年遅れるんだから、やめちまえばいい」と言い、別の一人は「坂の上の吉住さんがまた文句言うぞ」と笑った。誰がどの係をやるかで、ちょっとした言い合いになりかけた。七海は気づくと、身を乗り出していた。
「私、日曜までいるので、手伝えます」
「お、ほんとに? 受付は八時半から……」
「受付、やります。片付けも」
「配達は?」
「配達も、たぶん」
時田さんは紙に「葛西(妹)受付・片付け・配達?」と書いた。小上がりから拍手が起きた。七海は照れて、焼き菓子を二つ、カウンターに置いた。
それから話は、時田さんの若い頃の東京の話になり、小上がりの人の孫が七海と同じ市に住んでいる話になり、七海が勤めている市民会館の窓口の話になった。窓口でいちばん多い問い合わせは何か、と聞かれて、七海は「駐車場の場所です」と答えて、また笑いが起きた。
ふと壁の時計を見ると、二十時二十八分だった。
七海は箸を持ったまま、一瞬動けなかった。それから勘定を頼み、店を飛び出した。歩いて十分の道を、息を切らして走った。

かまど小屋の明かりはついていた。引き戸を開けると、辻さんが作業台で番重を並べ直しているところだった。
「すみません、遅くなりました!」
二十時四十分だった。辻さんは振り向いて、七海の顔を見て、それから番重を見た。
「葛西さんの二人分、まだでしたね。ほかの人はもう済ませて帰りました」
番重の布をめくると、千晶の生地はふっくらと、仕込んだときの倍近くまで膨らんでいた。七海のは、それよりは控えめだった。
「お姉さんの、元気がいいね。こねるのがうまかったんだ」
辻さんは手早く、千晶の生地を台に出して四方から折りたたんでみせた。七海は見よう見まねで、自分の分をたたんだ。
「四十分なら大丈夫。この冷蔵室の、いちばん下の段に入れておきます。ここは下のほうが冷えるから、少し落ち着く」
「本当にすみません」
「明日、お姉さんにはちゃんと言ってね」
辻さんはそう言って、壁にかけた帳面に「葛西 20:40 パンチ 下段」と書いた。責める口調ではなかったけれど、帳面に書かれたことで、七海は胃の底が冷えた。

宿に戻ると、千晶はもう布団に入って、枕元でスマートフォンの画面を見ていた。出発前に保存しておいたバスの時刻表を、指で拡大している。
「どうだった」
「……ごめん、四十分遅れた」
千晶が起き上がった。
「二十時って、言ったよね」
「言った。とき屋で話してて、気づいたら」
「何回も確認したよね」
七海は言い訳をしかけてやめ、辻さんが下段に入れてくれたこと、たぶん大丈夫だと言っていたことを伝えた。千晶は長く息を吐いて、また横になった。
「明日、四時」
「うん」
市の手伝いを三つ引き受けたことは、言えなかった。

四 四時の火

四時、宿の窓の外はまだ真っ暗だった。二人は無言で着替え、懐中電灯をつけて川沿いの道を歩いた。吐く息が白い。
かまど小屋の煙突から、もう煙が上がっていた。中に入ると、鹿島さんがかまどの口にしゃがみこんで、薪を組み直していた。炎の音が、思っていたよりずっと大きい。ごう、と低く鳴って、かまどの天井を炎が舐めている。
「早いな」
「五時半集合ですけど、見たくて」と七海が言った。千晶はあくびをかみ殺した。七海を一人で行かせるより一緒に来たほうが、と思っただけだった。
鹿島さんは、ちらっと丸椅子の脇を見た。昨日七海が置いた焼き菓子は、もう無かった。
「薪は七時まで、三時間焚く。石が熱を吸うまで。それから熾火をかき出して、窯の中の温度をならす。七時半に入れる」
「温度計は」と千晶が聞いた。
鹿島さんは顎で、かまどの口の上の古い円盤型の計器を示した。それから、手のひらを窯の口にかざして見せた。
「これと、これ。計器は奥の温度しか言わん。手前と奥じゃ違う。それと」
鹿島さんは千晶をまっすぐ見た。
「一度入れたら、二十分は開けるな。開けたら熱が逃げて、戻らん」

五時半に参加者が揃い、冷蔵室から番重が出された。冷えた生地は、昨夜より少しだけ締まっていた。辻さんの指示で、一人分の生地を二つに分け、表面を張らせるように丸める。
千晶の手つきは速かった。台の上で生地をくるりと回し、縁を底へ巻き込んでいく。昨夜、布団に入る前に動画で予習したのだと、七海にはわかった。丸めた生地を布の上に並べ、乾かないように布をかける。
七海の生地は、丸めても丸めても、底のほうから少しずつ広がっていった。
「ゆるいね」と辻さんが言った。「水を吸う前に、こね上げちゃったのかな」
七海は千晶のほうを見なかった。千晶も、何も言わなかった。
二次発酵のあいだ、六時から七時十五分まで、参加者は小屋の隅でお茶を飲んだ。千晶は何度も時計を見た。七時十五分、鹿島さんが長い柄の鉄の掻き棒で、窯の中から赤い熾火をかき出した。火の粉が上がり、定年夫婦の奥さんが小さく声を上げた。鹿島さんは濡らした麻布を棒の先に巻き、窯の床を拭った。じゅっ、と音がして湯気が立った。
七時半、窯入れ。辻さんの手元をまねて生地に粉をふり、刃で十字の切れ目を入れた。辻さんが木の長いへらに生地を一つずつ乗せ、奥から順に並べていく。
「奥のほうが熱いの。焼き色がつきやすいから、皮をしっかりさせたい人は奥」
「奥がいいです」と千晶が言った。「早く焼けるなら」
「焼ける時間は同じ。色が濃くなるだけ」
それでも千晶の二つは奥の列に並べられた。七海の二つは手前に。最後に鉄の扉が閉められた。
窯の前で、参加者の六人と、辻さんと鹿島さんが並んで待った。中から、かすかにパチパチと音がする。千晶は腕時計を見た。七時四十五分。十五分経った。
「ちょっとだけ、見ていいですか」
千晶が革のミトン越しに扉の取っ手へ手をかけたのと、鹿島さんが「おい」と言ったのが同時だった。扉が指一本ぶん開いて、中から熱い息のような空気が吹き出し、すぐに閉じられた。
「二十分って言ったろう」
鹿島さんの声は大きくなかったが、小屋の中が静かになった。千晶は取っ手から手を離し、すみません、と言った。顔が熱かったのは、窯の熱のせいだけではなかった。
八時五分、窯出し。へらで引き出されたパンは、どれも十字の切れ目が花のように開いて、湯気を立てていた。手前の列はきつね色、奥の列は栗色。千晶の二つのうち一つは、底が黒く焦げていた。
「奥の、いちばん端だったからね」と辻さんが裏返して言った。「あの場所は床の熱が強かったんだね。扉を開けたこととは別に、置き場所も見ないと。切ったら、中の焼け具合も確かめよう」
七海の二つは、平たかった。それでも、割ると中はもっちりとして、全粒粉の香ばしい匂いがした。
小屋の外のベンチで、参加者は焼きたてのパンを少しずつ分け合った。千晶は焦げていないほうの一つを割って、七海に半分渡した。七海は自分の平たいのを割って、千晶に半分渡した。
二人は黙って食べた。おいしかった。おいしかったことが、かえって少し悔しかった。

五 土曜のダイヤ

九時、宿で朝食を食べながら、七海はやっと言った。
「あのね、昨日とき屋で、日曜の市の手伝い、引き受けちゃった」
「何を」
「受付と、片付けと……配達も、たぶん」
千晶はみそ汁の椀を置いた。
「日曜って、十一時四十二分の電車だよ。チェックアウト十時。朝は渓谷の遊歩道を歩く予定」
「わかってる」
「わかってたら引き受けないでしょ。片付けって、市が終わるの何時」
「……二時」
「無理じゃん」
「無理だった」と七海は小さく言った。「その場では、できる気がしたの」
千晶はそれ以上何も言わず、ご飯をかきこんだ。台所の野々村さんが、聞こえているのかいないのか、黙って漬物の皿を足していった。
「とにかく、午後は天狗岩。十三時十分のバス」
千晶はノートの赤い枠を指で叩いた。千晶がこの旅でいちばん楽しみにしていたものだった。標高八百メートルの岩場から、盆地と、その向こうの連山が一望できる。ガイドブックの写真を、千晶は何度も見ていた。

十三時、町役場前のバス停には誰もいなかった。十三時十分を過ぎても、バスは来なかった。十五分になって、千晶はバス停の時刻表を初めてちゃんと見た。
天狗岩線。平日、九時二十分、十三時十分、十六時。土日祝、九時二十分、十五時四十分。
千晶はノートを開いた。赤い枠の中の「13:10」を見た。それから、スマートフォンに保存してあった時刻表のスクリーンショットを開いた。画面の上のほうに小さく「平日」と書いてあった。昨夜、何度も拡大して見たはずの画面だった。
「……今日、土曜だ」
七海は横からのぞきこんで、何か言いかけて、やめた。
十五時四十分のバスでは、天狗岩に着くのが十六時過ぎで、戻りの最終が十六時五十分。岩場にいられるのは短い時間で、戻ってから酒蔵のカフェにも寄る予定には間に合わない。
千晶はしばらくバス停の柱を見ていた。昨夜、七海に「何回も確認したよね」と言った自分の声が、耳の奥で鳴っていた。
「駅前に観光案内所あったよね」と七海が言った。
「行ってくる」と千晶は言った。「私が行く」

案内所は駅舎の隣の小さなプレハブで、カウンターの中に男が一人座っていた。三十代くらいで、名札に「浅見」とある。パソコンの画面から目を上げずに、「はい」と言った。
「天狗岩に行きたいんですが、バスがなくて。タクシーは」
「町にタクシーは一台です。今日は病院の送迎で、午後いっぱい埋まってます」
「ほかに方法は」
「歩くと二時間くらいですね。上りなんで」
浅見さんは、それで説明は終わったという顔をした。千晶は自分の顔がこわばるのを感じた。仕事なら、こういう相手に何をどう聞けばいいかはわかっている。わかっているのに、旅先だと言葉が出てこなかった。
後ろから、七海がそっと紙袋を差し出してきた。焼き菓子が五個残っていた。千晶は一瞬ためらってから、一つ取り出して、カウンターに置いた。
「これ、よかったら。……レンタサイクルって、ありますか。そこの壁に貼ってあるの、見えたんですけど」
浅見さんは、菓子と千晶の顔を交互に見て、初めてパソコンから体を離した。
「電動が二台、残ってますね。一台千円、十七時返却。天狗岩まで七キロ、電動なら四十分くらい。最後の一キロはきついです。それと」
浅見さんは窓の外の山を見た。
「上、たぶん霧ですよ。朝から雲かかってるんで」
「行きます」と千晶は言った。

六 霧の天狗岩

電動自転車は、平地では驚くほど軽かった。川沿いの道を上流へ向かい、集落を抜け、杉林の中の舗装路を上っていく。七海が先に立ち、千晶が後ろについた。最後の一キロは、浅見さんの言ったとおり、電動の補助があっても太ももが焼けるようだった。
天狗岩の駐車場に着いたのは十四時十分だった。岩場まで木の階段を五分。上りきると、そこは白かった。
目の前にあるはずの連山は、一つも見えなかった。霧が厚い綿のように谷を埋めて、岩の先端の柵から先は、ただ白い。ガイドブックの写真にあった稜線は、影も形もない。
千晶は柵に両手をついて、しばらく黙っていた。
「お姉ちゃん」
「いいの。浅見さん、言ってたし」
声が平らすぎて、七海は何も言えなかった。二人は岩の上のベンチに並んで座った。七海がリュックから、朝焼いたパンの残りを出した。千晶の、焦げたほうだった。千晶はそれを受け取って、折りたたみのナイフで焦げた底を薄く削り落とした。半分に切って、片方を二人でちぎって食べ、もう片方は七海の手に戻した。
しばらくして、風が出た。
霧が、足元のほうから少しずつ剥がれていった。連山のある遠くは白いままで、けれど真下の、盆地の底だけが、まるで誰かが窓ガラスを拭いたように見えてきた。
川が見えた。川に架かる橋が二本見えた。かまど小屋の広場の、小さな四角が見えた。その上の斜面に、家々がしがみつくように並んでいる。坂の上地区だ、と七海が言った。とき屋で聞いた名前だった。
千晶は身を乗り出していた。
「あの橋、片方、狭い」
「え?」
「下流のほう。車一台分しかない。それと、坂の上の道、一本道で上まで行って、上で輪になってる。あの輪で向きを変えたら、家の前では切り返さずに、降りながら配れそう」
七海は姉の横顔を見た。千晶は景色ではなく、地図を見ていた。倉庫の通路とトラックの動線を見るときの顔だった。
「何、急に」
「別に。そう見えるってだけ」
千晶は自分でも少し可笑しくなったように、短く笑った。霧はまた戻ってきて、町は白の中へ沈んでいった。十分ほどの、眺めだった。

霧が一瞬ほどけた展望台で、柵の内側から盆地の川と二本の橋を見下ろす千晶と七海。

帰り道、下り坂の途中で、七海が自転車を止めた。道端に「沢井製粉所」と古い看板が出ていて、小屋の脇を細い水路が流れていた。
「ここ、昨日の小麦の。寄っていい?」
千晶は時計を見た。十四時五十五分。返却の十七時までは余裕がある。
「十五分」
製粉所の中は、粉の匂いで空気まで白っぽく見えた。石臼の機械が低く唸っていて、その前で、首にタオルをかけた五十代の女の人が袋詰めをしていた。沢井さんだった。
七海が昨日かまど小屋で使った粉のことを話すと、沢井さんは「ああ、辻さんとこの」と言った。
「とがり小麦の全粒、一キロ六百五十円。家で焼くなら、水は少し控えめにしなさい。この粉は水を吸うのが遅いから、最初べたついても足さないこと。こね上げる前に、少し休ませるの」
七海は自分の平たいパンを思い出して、あ、と小さく言った。
七海が一袋を、千晶ももう一袋を買った。合わせて千三百円。千晶が自分から袋を手に取ったのを見て、七海は少し驚いた。
沢井さんは袋の口を折りながら言った。
「日曜の市、行くの?」
「はい。あの、手伝いを、引き受けちゃって」と七海は言った。「受付と、片付けと、配達」
沢井さんは手を止めた。
「三つも? 欲張ったね」
「欲張りました」
「配達はね、毎年もめるの。鹿島さんが回ってたんだけど、あの人、名簿の順番どおりにしか回らないから、坂を上ったり降りたりで二時間かかる。最後の吉住さんちには十時近くになって、パンが冷めてるって毎年怒られる。で、今年は鹿島さん、腰でしょう。辻さんは窯から離れられないし」
千晶が、粉の袋を持ったまま顔を上げた。
「名簿の順番って、どういう順番ですか」
「さあ。地区会のでしょう。知らないけど」
七海は紙袋からまた焼き菓子を一つ出して、沢井さんに渡した。残り三個。沢井さんは「あら」と言って前掛けのポケットに入れ、袋詰めの台に戻った。それ以上、話を広げてくれるわけではなかった。
外に出ると、千晶が自転車のスタンドを蹴りながら言った。
「配達、何時から」
「七時半に小屋を出るって」
「十一時四十二分の電車には」
「……間に合わせたい」
千晶は返事をせずに、ペダルを踏み出した。

七 一つだけ

十五時四十分に自転車を返すと、浅見さんは「霧、どうでした」と聞いた。千晶は「下だけ見えました」と答えた。浅見さんは「ああ、下はね」と言って、少しだけ笑った。それ以上の会話はなかった。
宿に戻ると、千晶は部屋の座卓にノートを開いた。日曜のページの、緑の「渓谷遊歩道 8:00〜9:30」に、定規で一本線を引いた。
七海は、それを見ていた。
「お姉ちゃん、遊歩道」
「遊歩道は、また来ればある」
千晶は日曜の七時から十二時までを、新しく十五分刻みに区切り直した。
「七海。全部は無理。一つにして」
「うん」
「受付は八時半から市が終わるまで立ちっぱなし。片付けは二時。どっちも電車に間に合わない。配達なら、七時半から、うまくいけば九時台に終わる。チェックアウトの十時に戻れる」
「配達にする」と七海は言った。「でも、受付と片付けは、断らないと」
「断ってきな」
七海はしばらく座ったまま、膝の上で指を組んでいた。窓口の仕事では毎日断っている。予約の埋まった会議室、受け付けられない申請。それなのに、自分から手を挙げたものを取り下げるのは、まるで別のことに思えた。
「一緒に来てくれる?」
「行かない」と千晶は言った。「七海が引き受けたんだから。私は、配達のほうを考える」
七海は立ち上がった。

とき屋は、土曜の夕方で混んでいた。時田さんはカウンターの中で、七海を見るなり「おう、受付の人」と言った。
七海は頭を下げた。
「すみません。受付と片付け、できなくなりました。日曜は十一時四十二分の電車で帰るので、最初から無理でした。その場で、できるって言ってしまって」
時田さんの顔から、笑いが引いた。手に持っていた串を皿に置いた。
「……最初から言ってくれりゃ、ほかに当たったんだけどな」
「はい」
「受付は、まあ、うちのに頼むわ。片付けは高校生が何人か来る。配達は?」
「配達は、やります。姉と二人で」
時田さんは、紙の「葛西(妹)」の横の「受付・片付け」に二本線を引き、「配達?」の「?」を消した。小上がりから、昨日の男の一人が「なんだ、二つ減ったのか」と言い、別の男が「配達やってくれるんなら上等だろ」と言った。誰も拍手はしなかった。
時田さんは紙を壁に戻しながら言った。
「軽バンは組合のを使う。オートマ。運転できる?」
「姉ができます」
「じゃあ七時二十分に小屋。名簿は辻さんが持ってる」
七海はもう一度頭を下げて、紙袋から焼き菓子を出しかけて、やめた。残りは三個あった。これは今出すものではない気がした。

宿に戻ると、千晶はいなかった。座卓の上にノートが開いたままで、日曜のページに、手描きの地図があった。川、二本の橋、広場、斜面を這い上がる一本道と、その上の輪。天狗岩から見た形だった。
七海がかまど小屋へ行くと、明日の市のための生地が番重に何十も並び、辻さんと、体験の定年夫婦の奥さんが、手伝いで丸めていた。鹿島さんは丸椅子に座り、腰に手を当てていた。千晶は作業台の端で、辻さんから借りたという名簿を広げていた。
「十八軒、三十個」と千晶は言った。「一軒一個か二個。川向こうが七軒、坂の上が十一軒」
「明日、火は何時から?」と七海は辻さんに聞いた。
「市の日は三時。一窯目を七時に出して、それが配達の分」
「鹿島さんの回り方は?」と七海は続けた。
答えたのは鹿島さん本人だった。
「名簿の順だ。地区会の名簿。昔からそうしてる」
「名簿は、家の番号順ですよね」と千晶が言った。「坂の上の三番と四番の間に、川向こうの九番が入ってる。だから一回坂を降りて、狭いほうの橋を渡って、また戻ってる」
鹿島さんは黙った。辻さんが生地を丸める手を止めずに、「そうなの?」と言った。
「狭いほうの橋は、朝、向こうから農家の軽トラが来ると待たされる」と鹿島さんが低く言った。「毎年それで十分は食う」
「だったら」と千晶は名簿に鉛筆で番号を振り直した。「川向こうを先に、広いほうの橋で行って、七軒まとめて回って、広いほうの橋で戻る。それから坂の上を、輪のところまで一気に上がって、上から降りながら配る。配達のたびに、両地区を行ったり来たりしなくて済む」
「吉住さんちは」と辻さんが言った。
千晶が名簿を見た。「坂の上の、いちばん上の、輪の、ここ」
「じゃあ、毎年最後だったのが」
「坂の上の中では、最初になります」
鹿島さんは、長いこと名簿を見ていた。それから腰をかばいながら立ち上がり、千晶の地図を覗きこんだ。
「この輪、時計回りに回れ。逆だと、ゴミの集積所のとこで切り返しがいる」
「時計回り」と千晶は書き込んだ。
「それと、吉住のじいさんは、呼び鈴を二回押すと怒る。一回押して、待て」
「一回押して、待つ」
七海は横で、それを聞いていた。今朝、窯の前で千晶に「開けるな」と言ったのと同じ声で、鹿島さんは今、何かを手渡していた。

八 三十個の丸パン

日曜の朝、七時。かまど小屋の引き戸を開けると、ちょうど一窯目が出たところだった。番重に並んだ丸パンから湯気が立ち、小屋の中はむっとするほど甘く香ばしかった。辻さんは顔を真っ赤にして、二窯目の生地をへらに乗せていた。
配達用の三十個は、紙袋に家ごとの名前を書いて、二つの番重に分けられていた。七海が袋を数え、千晶が名簿の新しい順番と照らし合わせた。十八袋。三十個。
組合の軽バンは、白い車体の横に「戸賀里町かまど組合」と褪せた文字があった。千晶は車の使い方を鹿島さんに確かめてから運転席に乗り、シートを前に出し、ミラーを合わせた。七海が助手席で名簿を膝に乗せた。
七時半ちょうど、エンジンをかけた。
川向こうへは、上流の広い橋を渡った。段々畑の間の道に、家がぽつりぽつりと建っている。最初の家では、玄関先で待っていたおばあさんが「あら、今年は早い」と言って、袋を受け取った。二軒目は留守で、名簿の注意書きどおり、玄関脇の牛乳箱に入れた。三軒目では、犬に吠えられた。
四軒目の男の人は、七海が「おはようございます、かまどのパンです」と言うと、袋を受け取りながら「誰、あんた」と言った。
「体験で来てて、今日だけお手伝いを」
「ふうん。鹿島さんは」
「腰を悪くされて」
「そう」
男の人はそれだけ言って、戸を閉めた。七海は少し立ち尽くしてから、車に戻った。
「そういう人もいる」と千晶は言って、車を出した。
川向こうの七軒が終わって、広いほうの橋を戻ったのが八時五分。下流の狭い橋のたもとで、軽トラが一台、向こうからの車を待って停まっているのが見えた。千晶はハンドルを握ったまま、ちらっとそれを見た。
坂の上の一本道は、軽バンのエンジンがうなるほど急だった。上の輪に入るところで、鹿島さんの言ったとおり時計回りに曲がった。ゴミの集積所の前を、切り返しなしで抜けた。
輪のいちばん奥に、生け垣に囲まれた古い家があった。表札に「吉住」。八時十五分だった。
七海が呼び鈴を一回押した。中で音がした。それから何も起きなかった。七海がもう一度ボタンに指を伸ばしかけたとき、千晶が運転席の窓から「待って」と小さく言った。
三十秒ほどして、戸が開いた。八十代の、背の高い痩せた男の人が、杖をついて立っていた。
「かまどのパンです。二つ」
吉住さんは袋を受け取り、中に手を入れて、パンの一つを掴んだ。
「……あったかい」
「七時に窯から出たんです」
「毎年、冷めてる。毎年、言ってる」
吉住さんは、七海の後ろの軽バンと、運転席の千晶を見た。
「鹿島は」
「腰で。今年は私たちが」
「あいつは、順番を変えろと言っても変えん。三十年変えん」
吉住さんは、袋を胸に抱えた。それから、思いがけないことを言った。
「上がっていくか。茶くらいは出す」
七海は、反射的に振り向いた。千晶は腕時計を見ていた。坂の上は十一軒で、ここが一軒目。残り十軒。降りながら回れば、たぶん三十分。今は八時十五分。
七海は口を開きかけた。上がりたかった。この人がこの坂の上で、毎年冷めたパンを受け取りながら何を思っていたのか、聞いてみたかった。けれど、名簿の残り十軒のことも、十時のチェックアウトのことも、昨夜の時田さんの顔のことも、頭の中にあった。
「すみません、まだ十軒あるので」と七海は言った。「パンが冷めちゃいます」
吉住さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「それは、そうだ」
七海は、リュックのポケットから紙袋を出した。焼き菓子が三個。そこから一つを取り出した。
「これ、私の町のお菓子です。お茶のときに」
吉住さんは菓子を受け取って、裏の表示を眉を寄せて読んだ。
「甘いもんか」
「甘いです」
「鹿島は、甘いもんを食わん」
「金曜に置いておいたら、なくなってました」
吉住さんは、初めて口の端を動かした。
運転席から、千晶が声をかけた。
「七海。帰り、ここに寄れる。全部終わって、上の道を戻ってきたら、九時前になる。五分なら」
七海は千晶を見た。千晶はもう前を向いて、名簿の次の家の番号を指で押さえていた。
「五分」と七海は吉住さんに言った。「あとで、五分だけ、寄ってもいいですか」
「茶が冷める」
「冷めないうちに来ます」

坂を降りながらの十軒は、思ったより早かった。千晶は勾配に合う低いギアを選び、エンジンブレーキも使いながら、ゆっくりと坂を降りた。七海が袋を持って走り、千晶が次の家の前に車をつける。一軒の家では、玄関から出てきた若い母親が「去年は十時過ぎだったよね」と子どもに言い、子どもが袋に顔を突っ込んで匂いをかいだ。別の家では、おばあさんに「お釣りは」と聞かれ、地区会の前払いだと説明するのに少しかかった。
最後の家に袋を渡したのは八時四十分だった。
千晶は坂の途中の空き地で車を回して、もう一度、上の輪まで上がった。吉住さんの家の前に着いたのは、八時五十分。
呼び鈴を押す前に、戸が開いた。吉住さんは、湯呑みを二つ乗せた盆を持って、玄関に立っていた。
「上がらんでいい。ここで飲め」
七海と、車から降りてきた千晶は、玄関の上がり框に並んで腰かけた。湯呑みのお茶は、ちょうど飲みやすい熱さだった。吉住さんは自分も框の端に座って、パンを一つ、手で割った。中には、まだかすかに温もりが残っていた。
「うまいな」と吉住さんは言った。それ以上は何も言わなかった。七海も、何も聞かなかった。聞きたいことはたくさんあったはずなのに、パンを噛む音と、坂の下から聞こえてくる市の拡声器の試験放送を聞いていると、それで足りる気がした。
五分経った。千晶が立ち上がり、七海も立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「来年も来るのか」と吉住さんは言った。
姉妹は顔を見合わせた。
「わかりません」と千晶が言った。正直な答えだった。吉住さんは「そうか」と言って、盆を持って家の中へ戻った。

配達を終えた朝、玄関の上がり框でお茶を持つ千晶と七海。吉住が丸パンを割り、戸の外に白い軽バンが見えている。

九 十一時四十二分

九時十分、かまど小屋に軽バンを返すと、辻さんが三窯目の生地を窯へ入れているところだった。鹿島さんは丸椅子で、火掻き棒を杖のように立てていた。
「九時十分?」と辻さんが壁の時計を見て言った。「吉住さんから、もう電話あったよ。今年は早かったって」
「怒ってましたか」
「怒ってた。『鹿島に言っとけ』って」
鹿島さんが、うなった。
「何を」
「来年もこの順でやれって」
鹿島さんは、何も言わずに火掻き棒の先で床を一度叩いた。それから千晶を見た。
「あの紙、置いてけ」
千晶はノートから、手描きの地図と番号を振り直したページを、定規を当てて丁寧に破り取った。鹿島さんはそれを受け取ると二つ折りにして、作業着の胸ポケットに入れた。
七海は、紙袋に残った二個のうち一個を、辻さんに渡した。
「いっぱい迷惑かけました。金曜の夜」
「パンチのこと? 帳面に書いてあるから、来年の参考にする」と辻さんは笑った。「最後の一個は?」
「これは、取っておきます」

宿に戻って荷物をまとめ、十時にチェックアウトした。野々村さんは帳場で領収書を書きながら「市、行くの」と聞いた。
「少しだけ」
「パン、早めに買わないとなくなるよ。毎年十一時には売り切れ」
野々村さんはそう言って、領収書を渡した。三万円。一泊七千五百円、二泊、二人分。千晶は封筒からぴったりの額を出した。
広場のみのり市は、思ったより人が多かった。テントが十張りほど並び、野菜、きのこ、柿、手編みの靴下、そしてかまど小屋の前の長机に、丸パンが山になっていた。一個二百円。受付のテントには、時田さんの奥さんらしい女の人が座っていた。七海はそちらへ、少しだけ頭を下げた。女の人は事情を知っているのかいないのか、軽く手を振り返した。
パンの列に並んでいると、七海の前の人が、知った顔だった。川向こうで「誰、あんた」と言った男の人だった。男の人は七海に気づいて、少し気まずそうに顎を引いた。
「さっきの。……あれ、うちのばあさんの分なんだ。俺は市で自分の分を買う」
「そうなんですね」
「ばあさん、あったかいって言ってた」
男の人は丸パンを三つ買って、去っていった。七海はその背中を見ていた。
姉妹は丸パンを四つ買った。八百円。柿を一袋。それから、高校生たちがテントの片付けの段取りを確かめているのを横目に見ながら、十一時十五分、駅へ向かって歩き出した。徒歩十五分。ノートの予定どおりだった。

十一時四十二分の電車は、定刻に来た。行きと同じ、二両編成の車両だった。
向かい合わせの席に座ると、七海はリュックから、焦げたパンの残り半分を出した。千晶が扉を開けて叱られた朝の、奥の端の一つ。天狗岩で底を削ったあと、七海が持ち歩いていたものだった。
「これ、食べよう」
「市のパンがあるのに」
「これが先」
二人で分けて食べた。一日経って皮は少し固くなっていたけれど、噛むと全粒粉の香りが戻ってきた。削りきれなかった底の焦げが、少しだけ苦かった。
千晶は膝の上でノートを開いた。破り取ったページのあとが、綴じ目にぎざぎざと残っていた。次の見開きに、千晶は新しい表を引き始めた。
「何、もう次の旅?」
「来週の日曜」と千晶は言った。「沢井さんの粉、一キロずつあるでしょ。うちで焼く」
「うちのオーブン、二百五十度までしかいかないよ」
「だから、予熱は三十分。仕込みは土曜の夜。水は控えめにして、こね上げる前に休ませる。冷蔵庫の野菜室、空けとかないと」
千晶は十五分刻みの表に、青と橙で時刻を書き込んでいった。七海はそれを見ながら、紙袋から最後の焼き菓子を出して、千晶の前に置いた。
「何これ」
「最後の一個。お姉ちゃんの分」
「七海が買ったんでしょ」
「十個買って、九個配った。そのうち一個は、お姉ちゃんが浅見さんに渡してくれたから」
千晶は菓子を手に取って、少し考えて、包みを開けた。半分に割って、七海に渡した。
「それで」と千晶はペンを持ち直した。「焼くとき、誰か呼ぶ?」
七海は目を丸くした。
「呼んでいいの」
「呼ぶなら、来る時間を先に決めて。焼き上がりが十二時だから、十一時半。それより早く来られても、オーブンが待ってくれない」
七海は笑って、スマートフォンを取り出した。誰に連絡しようか考えながら、窓の外を見た。盆地の町はもう山の向こうに隠れて、杉の林が流れていく。どこかで薪を燃やす匂いがした気がしたけれど、それは自分の上着に残っていたものだった。
千晶のノートの、日曜十一時半の枠に、七海は鉛筆で、友だちの名前を三つ書いた。千晶はそれを見て、青いペンで、その枠の線を一本だけ太くなぞった。

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