一 交代
土曜の午後三時、樫野家の台所には三脚が二本立っていた。一本は真上から鍋を狙うアーム付き、もう一本は斜め前から手元と顔を収める低いもの。どちらにもスマートフォンが挟まれ、千歳の手で水平が取られている。
「今日は逆ね」
千歳は修平の紺のエプロンを首にかけた。修平の背丈に合わせてあるから、裾が膝の下まで落ちる。腰の紐を後ろへ回して、手探りで結ぶ。
「結べた?」
「たぶん」
修平が後ろへ回ると、紐は片方だけ輪になって、もう片方が尻尾のように垂れていた。彼は黙って結び直し、ついでに長すぎる分を一度腰に巻きつけた。
「ありがと。で、これ」
千歳が冷蔵庫の扉からカードを外した。修平の字で〈手羽元と大根の照り煮〉と書いてある。昨夜、彼が台所の椅子に座って十分ほどで書いたものだ。
二人の動画は『樫野家の台所、二十分』という。修平が作り、千歳が撮って編集する。今日で五十一回目になる。入れ替えを言い出したのは修平だった。「たまには千歳が作るところを撮ってみたい。いつも俺ばっかり映ってるから」
千歳は不動産会社で物件写真を撮っている。狭い部屋を広く見せる角度も、生活感を画面の外へ逃がす方法も知っている。料理は、手順が紙に書いてあれば作れる。書いてなければ手が止まる。
「目分量って書かないでって言ったよね」
「書いてないよ。全部大さじ」
カードには醤油大さじ三、みりん大さじ三、砂糖大さじ一と半、水四百ミリと並んでいた。千歳は頷いて、計量スプーンを三本、大きい順に並べた。
二 画角の外
録画ボタンは修平が押した。
「はい、樫野家の台所です。今日は、いつもと人が違います」
千歳がカメラに向かって言いかけたところで、修平が「ちょっと待って」と止めた。
「頭、切れてる」
彼は三脚の脚を伸ばし、今度は伸ばしすぎて天井の換気扇まで入れた。千歳は口を開きかけて、閉じた。今日の自分は映る側だ。
大根は半分で、六百グラムほど。九十八円の値札が、まだ葉の付け根に残っている。千歳は皮を厚めにむき、二センチの輪切りにしていく。一切れごとに定規を当てるような慎重さで、まな板の上の大根が同じ高さに揃っていく。
「もうちょっと速くていいよ」
「揃ってないと火の通りが違うでしょ」
「それはそうだけど、尺が」
「尺は編集で詰めるの」
言ってから、今日は編集も修平の番だと二人とも気づいた。
皮をむき終えた千歳は、ピーラーをすぐ洗った。まな板の端の皮をビニール袋へ落とし、布巾で拭く。手羽元八本、三百九十八円のパックを開けたあとは、肉汁のついたトレーを袋へ分け、手を洗った。
「千歳、シンク映ってる」
「洗ってるから」
「泡が画面に入るんだよ。あとで洗えば」
「あとで洗ったら置く場所がなくなるの。修平いつもそうじゃない」
修平は返事をしなかった。代わりにアームのスマホを少し傾けて、シンクを画面の外へ追い出そうとした。追い出すと、今度はコンロの左半分が切れた。
いつもの撮影では、修平は使った道具を左のシンクへ積み上げていく。ボウル、ざる、菜箸、計量カップ。千歳はそれを画面に入れないために、斜めのカメラを二十度ほど右へ振っている。撮り終えたあと、積み上がったものを洗うのもだいたい千歳だ。修平は「作った方が疲れてるから」とは言わない。言わないが、ソファで編集前の素材を眺めている。
アームの画面の中で、千歳は手羽元に焼き色をつけていた。じゅう、と脂の音がする。焦げ目のつき方はむらがなく、裏返す箸の角度まで揃っている。修平はそれを撮りたいのに、どこから撮ればいいのか分からなかった。手元に寄れば千歳の顔が消え、顔を入れれば手羽元が小さくなる。千歳はいつも、どうやってこれを一つの画面に収めていたのだろう。
三 二十分
大根と手羽元を鍋に入れ、水を四百ミリ。千歳はカードを見ながら、醤油、みりん、砂糖を大さじできっちり量って入れた。すり切りにするたび、砂糖の山を、きれいな箸ですり落とす。
落とし蓋をして、弱めの中火にする。
「二十分」
千歳がタイマーを押すと、台所は急に静かになった。
いつもなら、ここで録画を止める。「二十分後」と字幕を入れて、次の場面へ飛ぶ。修平も停止ボタンに指を伸ばした。それから、伸ばしたまま、やめた。
「止めないの?」
「なんとなく」
二人は丸椅子を二つ、コンロの前へ引き寄せて座った。千歳は手を拭き、もう一度シンクを見て、洗うものがないことを確かめた。
「修平、カメラ下手だね」
「知ってる」
「頭切るし、換気扇入れるし」
「千歳はさ、いつもシンク外してくれてたんだな」
千歳は少し黙った。鍋の蓋の縁から、湯気が細く上がっていく。
「外してたよ。だって映ったら、修平が片付けない人みたいに見えるでしょ」
「片付けない人だよ」
「知ってる」
千歳が笑い、修平も笑った。斜めのカメラはそんな二人を肩から上だけ、少し傾いたまま撮り続けていた。

十二分ほどたったころ、千歳が鍋の蓋をずらし、煮汁を小皿にとった。口に運ぶと、眉が寄った。
「しょっぱい」
「え」
修平も一口すすった。確かに、いつもの味より角が立っている。甘さも重い。
「カード通りに入れたよ」
「うん、入ってると思う」
修平はカードを手に取って、しばらく眺めた。それから、ばつが悪そうに首の後ろを掻いた。
「……俺、量ったことないんだ」
「は?」
「いつも醤油は瓶から、このくらい」
彼は空中で瓶を傾ける真似をした。ほんの二呼吸ぶんほど。
「昨日、たぶんこのくらいだろうって大さじに直して書いた。多めに見積もったかも」
千歳はカードと修平の顔を交互に見た。
「目分量って書かないでって言ったから?」
「言われたから」
千歳は長く息を吐いて、立ち上がった。
四 ほどける
「水、足す?」
「百ミリ。大根はまだ硬いから、ちょうどいい」
修平が計量カップを渡し、千歳が注ぐ。今度は修平が鍋の前に立ち、煮汁を回しかけながら味を見た。千歳は横で、カードの数字に線を引き、修平が言う通りに書き直していく。次に作るときは、醤油大さじ二、みりん二、砂糖一。
「ほんとにそれでいいの?」
「たぶん」
「たぶんって書くよ」
「書いていいよ」
千歳は本当に、数字の横へ小さく〈たぶん〉と書き足した。
ゆで卵を四つ、殻をむいて鍋の隙間に沈める。千歳がむくと殻は大きな破片のまま外れ、修平がむくと白身があちこち削れた。
「下手」
「卵は苦手なんだよ」
「知らなかった」
「いつも千歳がむいてくれてたからな」
千歳が菜箸を取ろうと半歩下がったとき、腰の後ろで紐がほどけた。長い紺の紐がするりと床へ落ち、千歳の踵がそれを踏んだ。体が傾いて、修平の腕が肩をつかむ。
「危な」
「大丈夫」
修平は千歳の後ろへ回り、紐を拾った。今度は一度腰に巻きつけたうえで、輪を小さく整え、しっかり蝶結びにする。結び終えたところで、斜め前のスマホがこちらを向いていることに二人とも気づいた。画面の真ん中に、修平の手と千歳の腰、それに紺の紐の蝶結びが大きく映っていた。
「これ、今日いちばんいい画角じゃない?」
千歳が言うと、修平は少し考えてから首を振った。
「いや、俺が撮ったんじゃない。たまたま」
タイマーが鳴った。蓋を取ると、大根は飴色を帯びていて、箸がすっと通った。修平は温度計を取り出し、厚い肉の中心が七十五度以上になっているのを確かめた。そこから一分待って、火を止めた。
五 いただきます
四時十分、修平は録画を止めた。
シンクには鍋と小皿と菜箸、それに修平が出した計量カップが残っていた。千歳が手を伸ばしかけると、その手を修平が先につかんだ。
「先に食べよう。洗うのはあとで、二人で」
「あとで洗ったら置く場所が」
「今日はもう、何も置かないよ」
食卓には大皿が一枚。手羽元八本、大根八切れ、卵四つ。夕飯には早いが、どちらも腹が鳴っていた。
千歳は大根を半分に割り、湯気ごと口に入れた。熱さに目を細め、それからゆっくり噛む。
「……いつもの味だ」
「水足したからな。ちょっと薄いくらいかも」
「ううん。いつもの」
修平は手羽元を骨から外し、千歳の皿の端へ一本ぶんのせた。千歳は削れた卵を修平の皿へ移した。
「それ、修平がむいたやつ」
「知ってる」
食べ終えたのは四時四十分ごろだった。修平がスポンジを持ち、千歳が布巾を持って、シンクの前に並ぶ。洗う人と拭く人で、ちょうど二人分の幅がある。

「動画、どうする?」
千歳が皿を受け取りながら訊いた。
「二十分のとこ、切りたくない気がする」
「長いよ」
「長いな」
「頭切れてるし」
「切れてるな」
千歳は皿を拭いて棚へ戻し、最後に、調理台に置いたままだったカードを手に取った。線を引いて書き直した数字の横に、自分の字で〈たぶん〉とある。
千歳はそれを、冷蔵庫の扉のいちばん目につく位置へ貼り直した。それから、エプロンの紐を後ろ手に引いた。しっかり結び直したはずの蝶結びは、端を引くと、思ったよりあっさりほどけた。


