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幻想・仕事

夜明けを測る、ものさし屋

正しい時刻は売っていない。測ることなら売っている。

作者
クロード
読了目安
約18分
長さ
短編
#ほっこり#不思議#仕事
夜明けを測る、ものさし屋のイメージ

あらすじ

三つの谷では、夜は底に溜まり、朝になると低いほうへ引いていく。市場係のニノが打つ鐘を、パン屋は遅いと言い、豆腐屋は早いと言う。二十二年前の開市札を持って訪ねたものさし屋で、ニノは正しい時刻ではなく、同じ夜を一緒に測る仕事を買う。

読みやすく、好きなところから。

目次・5章

鐘は早いか遅いか

三つの谷が落ち合う寄せ場では、夜は空から降りてこない。谷の底から引いていく。
日が沈むと、山の影から滲み出した夜が谷を満たし、川筋に沿ってゆっくり溜まっていく。朝になると、溜まった夜は低いほうへ、低いほうへと抜けていき、最後には寄せ場の河原から海の方角へ流れ去る。浅い谷ほど早く空になり、深い谷ほど遅くまで夜を抱えている。
だからこの土地では、夜明けを「来る」とは言わない。「引く」と言う。

市場係になって三か月目の千草ニノは、寄せ場の明け杭の前に立ち、杭に刻まれた目盛りを見下ろしていた。白く塗った杭の根もとで、灰色の水たまりのような夜が揺れている。水面と呼んでいいのかどうか、ニノにはいまだに分からない。手を入れても濡れはしないのに、指先が少し冷えて、見えにくくなる。
夜の縁が、三寸の刻みを切った。
ニノは鐘の綱を引いた。
カン、カン、カン。三つ打つのが開市の合図だ。河原に並んだ屋台で灯が一つずつ消され、代わりに日除けの布が上がっていく。

「やっとだよ」
真っ先に声をあげたのは、朝谷から来るパン屋の麦島ユラだった。籠を抱えて、首巻きを鼻の上まで引き上げている。
「待ちくたびれたよ、あたし。パンが石みたいに冷えちゃった。ニノくん、鐘、遅くなってない?」
「札のとおりに打ってます。明け杭が三寸を切ったら、って」
「去年まではもっと早かった気がするんだけどなあ」

そこへ、河原の上手から荷車の軋む音が聞こえてきた。深谷の豆腐屋、石臼ロクだ。七十を過ぎた背中を丸めて、桶を四つ積んだ車を押してくる。いつもの場所の川べりの柳の下は、とっくに中谷の干し柿売りが使っていた。
「鐘が早いんだ」
ロクは車を止めるなり言った。怒鳴りはしない。そのかわり、言葉をひとつずつ置いていくように話した。
「わしが喉の橋を出たときには、もう鳴っとった。豆腐は湯気のあるうちに売るもんだ。これじゃ冷や奴しか売れん」
「早い、ですか」
ユラは「遅い」と言い、ロクは「早い」と言う。干し柿売りは場所を譲るべきか迷っているのか、柿を数えなおしていた。

昼過ぎ、市頭の大鍋マサが帳場に来て、ニノの机に湯呑みを置いた。
「朝の騒ぎ、聞いたよ」
「すみません」
「謝らなくていい。鐘を打ったのはあんただけど、札を決めたのはあんたじゃない」マサは顎で壁の開市札を指した。「ただ、次の寄り合いでは必ず出る話だ。次の市日の昼までに、何か持ってきな」
「何か、って」
「答えか、答えの代わりになるものか」
マサが出ていくと、ニノは椅子に乗って開市札を外した。煤けた板に墨で「明け杭三寸をもって開市とす」とある。左下に小さく、測った者の名と年が書いてあった。
灰野。二十二年前。

灰野ものさし店

灰野ものさし店は中谷の入口、川が二股に分かれるところの石段の上にあった。
戸を開けると、天井から何十本もの細長い木の尺がぶら下がっていて、ニノは思わず首をすくめた。どの尺も下のほうに灰色の帯がにじんでいる。帯の上端の高さは、一本ずつちがった。
「頭、ぶつけないで。乾かしてる途中だから」
奥の作業台から声がした。白髪まじりの髪を手ぬぐいでまとめた女が、小刀で尺に刻みを入れている。五十をいくつか過ぎたくらいに見えた。
「灰野さんですか。寄せ場の市場係の千草です。開市札のことで来ました」
「札?」
ニノが抱えてきた板を差し出すと、女――灰野アガタは小刀を置き、板の左下を指でこすった。
「ああ、これ。わたしの字だ」
「灰野さんが測ったんですか。お師匠さんじゃなくて」
「弟子入りして二年目のときにね。師匠が腰を痛めて、代わりに寄せ場に座った。一晩だけ」アガタは少し笑った。「一晩で決めた札が、二十二年もぶら下がってたのか」

灰色の帯がにじむ木の尺を吊った店で、首をすくめて入るニノと、作業台で尺に刻みを入れるアガタ。

ニノは今朝のことを話した。ユラの冷えたパンのこと、ロクの冷えた豆腐のこと、「遅い」と「早い」のこと。
「正しい時刻を測り直してほしいんです。寄り合いまでに、新しい数字がほしくて」
「正しい時刻は売ってない」アガタはあっさり言った。「測ることなら売ってる。一晩一か所で、銀二枚」
ニノは懐の財布を思い浮かべた。市の雑費は、今月の残りが銀三枚だ。
「寄せ場の明け杭だけなら払えます」
「明け杭だけ測っても、たぶん二十二年前と同じ間違いをするよ」
アガタは立ち上がり、棚から分厚い帳面を下ろした。表紙には「三谷帳」とある。開くと、どの頁も縦に三つに区切られていて、上に朝谷、深谷、寄せ場と書いてあった。中谷は浅くて寄せ場に近いから、寄せ場の欄にまとめているのだという。
けれど、どの頁も書き込みがあるのは一つの欄だけだった。
「夜は谷から谷へ流れる。寄せ場の夜は、谷の夜の寄せ集めなんだよ。同じ夜に何か所も測らないと、寄せ場で何が起きてるのか本当には分からない。でも、わたしは一人しかいない」
「……同時に、三か所」
「師匠もわたしも、ずっとそれがやりたかった」アガタは帳面を閉じた。「取引しよう。銀一枚でいい。そのかわり、尺を持って谷に立ってくれる人を連れてきて。わたしは寄せ場に座る」

ニノはしばらく黙って、天井の尺を見上げた。灰色の帯の高さが、一本ずつちがう。
「朝谷にはユラさんがいます。深谷には、ロクさんが」
「怒ってる二人?」
「怒ってる二人です。自分の谷のことなら、たぶんいちばん本気で見てくれます」
アガタは目を細め、それから作業台の引き出しを開けた。
出てきたのは、同じ長さの尺が三本と、手のひらに乗るくらいの砂時計が三つ。
「これは三人に貸すぶん。わたしは自分の尺と砂時計を使う」
「どれも四半刻で落ちきる。丑の刻に、寄せ場の夜番が太鼓を打つでしょう。あれはどの谷にも届く。太鼓が聞こえたら返して、落ちきるたびにまた返して、そのたびに尺を差して読みを書く。数えるのは回数だけ。時刻はいらない」
「時計じゃないんですね」
「時計だよ。ただ、三つとも同じ嘘をつく時計」
ニノは笑っていいのかどうか分からないまま、砂時計を受け取った。

朝谷のパン屋の裏口で話をすると、ユラは粉だらけの手を前掛けで拭いて、尺を受け取った。
「いいよ。どうせその時分は窯の前にいるし。四半刻ごとに裏の小川に差せばいいんでしょ」
深谷へは、翌日の昼に登った。ロクは豆を水に浸けながら話を聞き、しばらく黙っていた。
「夜の深さなんぞ、豆を挽く手で分かる」
「その手で分かることを、字にしてほしいんです」
ロクは鼻を鳴らした。それから桶の縁を叩いて言った。
「今夜はうちに泊まれ。橋まではわしの足で四半刻だ」

深谷の喉

深谷は、名のとおり深い。両側の崖が空を細く切り取っていて、日が落ちるより先に、谷底にはもう夜が溜まりはじめていた。
谷の出口、崖がいちばん迫った「喉」には、この夏に架けたばかりの屋根付きの橋がある。杉の匂いがまだ新しい。両側の壁には蔀戸が並んでいて、今はどれもきっちり下ろされていた。
「冬の風よけだ。村で決めた」とロクは言った。「おかげで荷が濡れん」

ロクが家で豆を挽き、ニノは橋で夜を明かす。そう決めて、ニノは日暮れのうちに毛布と灯と帳面を抱えて橋へ下りた。
夜は足もとから来た。最初は踝のあたりで冷たいだけだったのが、灯の油を一度足すころには膝を越え、腰に届いた。灯の周りだけ、夜は薄く透けて見える。尺を差すときは、ロクに教わったとおりにした。まっすぐ立てて底に当て、三つ数えて抜く。白い木に、灰色の帯がくっきり残った。

蔀戸を閉めた杉の屋根付き橋で、灰色の夜を木の尺と灯で測るニノ。脇の腰掛けには砂時計と帳面がある。

遠くで太鼓が鳴った。
ドン、ドン。寄せ場の夜番の丑の太鼓だ。思っていたよりずっとはっきり聞こえる。ニノは砂時計を返した。
今ごろ、朝谷でもユラが返している。深谷の家ではロクが、寄せ場ではアガタが。同じ音を聞いて、同じ砂が落ちはじめている。そう思うと、夜の底で一人で座っているのに、肘のあたりを誰かに軽くつつかれているような気がした。

一回目、三尺八寸。二回目、三尺六寸。
三回目を測ったあと、ニノはふと思い立って、灯を持って橋の外に出てみた。屋根のない喉の岩場に尺を差す。
帯は、橋の中より明らかに低かった。
戻ってもう一度、中で測る。外で測る。中で測る。
「……一尺ちがう」
声に出すと、白い息が灯の中でほどけた。屋根の下では、夜がうまく抜けていかない。下ろした蔀戸の内側で淀んで、少しずつしか流れ出ていかない。ニノは帳面の欄を二つに分けて、「橋の中」と「橋の外」を書き分けた。

六回目のころ、空の細い切れ目が白みはじめた。外の岩場は膝下まで浅くなったのに、橋の中はまだ腰のあたりまで灰色が残っている。
七回目を書きつけたところで、上手から荷車の軋む音が下りてきた。ロクだ。車の前に灯を吊るし、桶から湯気を立てて、ゆっくりと橋に入ってくる。
入ったとたんに、その足がさらに遅くなった。
「ロクさん」
「この橋ができてから、ここで夜が足にからむ」ロクは車の柄に体重をかけながら言った。「年のせいだと思っとった」
「年のせいじゃないです」ニノは帳面を見せた。「外は一尺二寸なのに、中は二尺二寸あります」
ロクは灯を上げて、下ろされた蔀戸の列をじっと眺めた。何か言いかけてやめ、車を押した。
二人で車を押して喉を抜けた。崖の外に出ると、夜は急に浅くなった。ロクを見送ると、ニノは橋へ戻り、八回目の外の読みと、十一回目までの中の読みを記録した。ニノの袖は肘まで灰色に染まっていた。

四つの測り場

翌朝は市日ではなかった。寄せ場の帳場に、アガタとユラとロクとニノの四人が集まった。机の上に帳面を並べる。ニノのものは欄を足したので、ほかの帳面より字がぎっしり詰まっていた。
アガタは大きな紙を広げ、丑の太鼓からの回数を横に、夜の深さを縦にとって、炭で線を引いていった。
朝谷は四回目に三寸を切っている。深谷のロクの家は、六回目に二尺を切り、八回目に三寸を切った。橋の外も八回目に三寸を切ったが、橋の中は十一回目まで切らなかった。
寄せ場は七回目。
「二十二年前、わたしがここに座った晩は五回目だった」アガタは紙の端に小さく五と書いた。「季節は今と同じ、秋の終わり。橋はまだなかった」
「寄せ場が二回遅くなってるのは、橋のせいですか」
「たぶん。深谷の夜が、喉で少しずつしか出てこない。だから寄せ場が長いこと浸かってる」
ユラが紙を覗きこんだ。
「あたしは四回目に明けて、半刻歩いて六回目に着く。鐘は七回目。待つわけだ」
「わしは六回目に出て、喉でもたついて、着くのは十回目だ」とロクが言った。「鐘を聞くのは橋の中だ」

ニノは筆を取った。
「じゃあ、新しい札は『七回目』ではなくて、もっと――」
「冬になれば、たぶん九回目」アガタが静かに言った。「雨が続けば変わる。橋の戸を開ければ、また変わる。札を一枚書き直したって、二十二年後に誰かが同じ顔をして、ここへ板を抱えてくるよ」
ニノは筆を置いた。
「じゃあ、寄り合いには何を持っていけばいいんですか」
誰も答えなかった。ユラが籠からパンを出して、四つに割った。昨日の売れ残りで、固くなっている。
「あたしはさ」ユラは自分のぶんをかじりながら言った。「待つのは別にいいの。待ってるあいだに冷めるのが嫌なだけ」
ニノは窓の外の、河原の端にある共同かまどを見た。石を積んだ大きなかまどで、昼に汁を炊くときにしか火が入らない。
「ユラさん。生地のまま持ってきて、あそこで焼いたら」
ユラはパンをくわえたまま目を丸くした。
「……そしたら、うちで三時に起きなくていいじゃない」

ロクは黙って、足もとに置いた豆腐箱を縛り直していた。藁紐に、等間隔に結び目がある。持ち手にするための結び目だ。
ニノはその紐を見て、それから自分の袖の灰色の染みを見た。
「ロクさん。その紐、一本もらえますか」

ニノが言い出したことは、こうだった。
毎朝、谷を出るとき――深谷なら喉の橋を通るとき――そこで尺を差して読む。紐の片端を尺の零に合わせ、読んだ寸のところに結び目をひとつ作る。その紐を持って市に来て、帳場の札に掛ける。
鐘は、深谷の紐が着いたら打つ。着かなくても、明け杭が一寸を切ったら打つ。どちらか早いほうで。
「一寸を切っても来ないなら、それは誰かの都合じゃなくて、谷に何か起きてるってことです。それは見に行かなきゃいけない」
アガタは長いあいだ、紐を指先でしごいていた。
「それは、毎朝何か所も測るってことだ」
「はい」
「わたしが一人では一度もできなかったことを、毎朝、市がやる」
「紐はアガタさんに読んでもらって、帳面に写したら持ち主に返します」
アガタは笑わなかった。三谷帳を開いて、まだ何も書かれていない頁を一枚、指で撫でた。

ロクは結び目の紐を手のひらに巻きつけて、窓の外の川上のほうを見た。
「戸のことは、村に話す」
「開けてくれって、お願いしてもいいんですか」
「開けるかどうかは村が決める」ロクはぶっきらぼうに言った。「ただ、わしの豆腐が冷めとるわけは、わしから話す」

明け紐

次の市日、ニノは丑の太鼓が鳴る前から明け杭の横に立っていた。手にはアガタから「持っておきな」と渡された尺と、砂時計がひとつある。
太鼓が鳴った。砂を返す。
六回目に、朝谷の側から灯が下りてきた。ユラだ。籠には、布をかけた丸い生地がぎっしり並んでいる。腰に下げた紐には、二寸のところに結び目がひとつ。
「出るとき二寸だった」ユラは紐をニノに渡すと、まっすぐ共同かまどへ歩いていった。昨夜のうちにニノが薪を運んでおいたかまどに、火打ち石の音がする。ほどなく、煙突から白い煙が上がった。
続いて、中谷の干し柿売りが紐を持ってきた。結び目は一寸のところにあった。ニノは帳場の札の釘に、紐を一本ずつ掛けた。

七回目。明け杭の夜は四寸まで引いていた。もう少しだ、とニノが思ったときだった。
杭の根もとの灰色が、ふくらんだ。
四寸、五寸、六寸。引いていたはずの夜が、川上から押し寄せてきて、また深くなっていく。河原の灯がいっせいに揺れ、屋台の人たちが顔を上げた。
「戻ってきた」
いつのまにか、アガタが隣に立っていた。肩に自分の尺を担いでいる。
「深谷が、戸を開けたんだろうね」
川筋を、黒い帯が下ってきた。水よりも静かに、煙よりも重たげに、喉に溜まっていた夜がひとかたまりになって寄せ場を通り抜けていく。足首が冷たくなり、すぐにぬるくなった。帯は河原を越え、海の方角へ細くなって消えていった。
あとに残った明け杭の夜は、さっきよりずっと浅かった。

八回目。かまどの前で、ユラが鉄の板を引き出した。こんがり色づいたパンが十二個並んでいて、湯気が朝の空気に溶けていく。
そして、夜の帯が抜けた道を追いかけるように、上手から荷車の軋む音が聞こえてきた。
いつもより、軋みの間隔が短い。
ロクは桶から湯気を立てて河原に下りてきた。車の柄に、結び目がひとつある紐が結わえてある。結び目は一尺のところだった。
「喉で一尺」ロクは紐をほどいてニノに渡した。「戸を開けたら、膝より下だった」
ニノは紐を受け取り、札の釘に掛けた。三本の紐が並ぶ。結び目の高さは、それぞれちがう。
明け杭を見ると、三寸の刻みはまだ夜の下にあった。けれど灯の下では、足もとと屋台の間の通り道が見えていた。
ニノは鐘の綱を引いた。
カン、カン、カン。

柳の下には、干し柿売りが場所を空けていた。ロクの車がそこに収まると、すぐに人だかりができた。誰かがユラの屋台から焼きたてのパンを買ってきて、ロクの熱い豆腐を割ってのせ、塩を振ってかぶりつく。それを見て、隣の人も同じことをする。いつのまにか、パンと豆腐の両方の列に並ぶ人が増えていた。
ニノも丸パンを一つ銅三枚で買い、豆腐を一丁銅五枚で買った。アガタと半分ずつ分ける。パンの皮が音を立てて割れ、豆腐の湯気が指を温めた。
アガタは食べながら、札の釘から三本の紐を外し、三谷帳に読みを書き写していった。朝谷、二寸。深谷の喉、一尺。寄せ場の欄には、中谷の一寸と自分の尺の読みを、分けて書いた。
三つの欄が埋まった頁を、アガタはしばらく閉じずにいた。
それから紐を一本ずつ持ち主に返した。ユラは自分の紐を首巻きに結び、ロクは結び目をほどいて、豆腐箱の持ち手に戻した。

昼の寄り合いで、マサは腕を組んで言った。
「で、何時に開ける」
ニノは立ち上がった。
「深谷の紐が着いたら開けます。着かなかったら、明け杭が一寸を切ったときに開けます。どちらか早いほうで」
「時刻はないのかい」
ニノは帳場から持ってきた三谷帳を開いて、今朝の頁を見せた。
「毎朝、ここに書いてあります。三つの谷のぶん」
寄り合いの面々が頁を回して覗きこんだ。誰かが「パンが焼きたてだったのは、これのおかげか」と言い、誰かが「豆腐が熱かった」と言った。マサは最後に帳面を受け取り、ぱらぱらとめくって、ニノに返した。
「答えの代わりになるもの、だな」

その日の午後、ニノは新しい板に墨で札を書いた。
「深谷の明け紐の着到、または明け杭一寸、早きをもって開市とす」
左下に、測った者の名を書く。灰野アガタ、麦島ユラ、石臼ロク。少し迷ってから、その隣に、千草ニノ。

帳場を閉めるとき、ニノは自分の袖を見た。肘まであった灰色は、もうどこにも残っていない。
アガタに銀一枚を渡すと、アガタはそれを財布にしまい、天井から尺を一本下ろして、ニノの尺の隣に並べた。
「冬至の前に、もう一回、喉で測ろう。戸を開けた橋の中と外で」
「今度は僕が橋の外に立ちます」
「じゃあ、わたしが中だ」

夜は今日も、谷から引いていった。三本の紐の、結び目ひとつぶんずつ。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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