十四日、十八時半
定食こみちの電話は、昼の片づけが終わったころに鳴ることが多い。
十一月十二日、木曜日。午後二時四十分。根岸ちとせは洗い終えた小鉢を布巾の上に伏せ、レジ横の黒い電話を取った。
「はい、定食こみちです」
「あ、もしもし。十四日の土曜日に、六時半から予約している高野ですが」
男の声だった。四十代くらいだろうか。少し早口で、背後を車が通る音がする。
「十四日の土曜、十八時半の高野様ですね。少々お待ちください」
ちとせは予約帳を開いた。B5の大学ノートに、店主の三輪さんが月ごとの線を引いたものだ。十一月十四日の欄には三輪さんの丸い字がある。
――11/14(土)18:30 高野誠一様 2名 奥の二人席
――10/24 ご本人来店時受付 ※奥様には内緒
高野誠一さんは月に二度ほど、土曜の昼に一人で来る常連だ。七十を少し過ぎていて、焼き魚の骨を驚くほどきれいに外す。
「はい、承っております」と言いかけたところで、ちとせはページの端に挟まった紙に気がついた。伝票の裏を切った小さなメモが、クリップで留めてある。
――11/2(月)15:10 ☎ 高野様 11/14 18:30 6名に?
――「承っております」と回答 森
六名。
ちとせは受話器を持ち直した。
「お待たせしました。念のため、ご人数を伺ってもよろしいですか」
「六名です。大人五人と、小学生が一人。前に電話したときに、そう伝えてあると思うんですけど」
「六名様……」
「それで今日は、確認ついでに伺いたいことがあって。ケーキを一つ持ち込んでもいいかどうかと、それから、デミグラスのハンバーグ、今もありますよね? 父がずっと好きで。父の分だけでもあれにしてもらえたらと思って」
こみちのハンバーグは、大根おろしと青じそをのせた和風だけだ。ちとせが勤めはじめた四年前から、デミグラスソースは一度も鍋に入ったことがない。
「あと駐車場、昔みたいに裏に停められますか」
店の裏は、隣の酒屋の倉庫になっている。
ちとせはボールペンのキャップを外した。ここで「うちにはありません」と答えるのは簡単だった。でもそれだけでは、この人の土曜日がどうなっているのか分からない。分からないまま何か言えば、二度目の取り違えになる。
「申し訳ありません。いくつか確認したいことがありますので、こちらから折り返してもよろしいでしょうか。お電話番号を伺えますか」
男は少し間を置いてから、携帯の番号を言った。ちとせは復唱して、電話メモに書きとめた。
――11/12(木)14:40 ☎ 高野様(男性・四十代くらい)
――11/14 18:30 6名(大人5・小1)の確認
――ケーキ持込? デミグラス? 裏の駐車場?
――折返し 携帯(控えあり) 受 根岸
「夕方までにはご連絡します」
「お願いします。土曜、もうすぐなんで」
電話が切れてから、ちとせは予約帳の二つの記録を見比べた。名前は高野。時刻は十四日の十八時半。そこまでは一致している。違うのは人数で、二と六。そして誠一さんの欄には「奥様には内緒」とある。奥さんに内緒の食事に、大人五人と小学生が一人加わるとは考えにくい。
それに、電話の男は「父が」と言った。
森くんのメモ
三輪さんは仕入れに出ていて、戻るのは三時半の予定だった。森くんの出勤は四時だ。
ちとせは森くんのメモをもう一度読んだ。「6名に?」の「?」だけが少し大きい。書いたときから自信がなかったのだろう。
十一月二日の月曜、三時十分。その時間、ちとせは銀行に行っていて店にいなかった。三輪さんは裏で翌日の仕込みをしていたはずだ。
予約帳の決まりは、こみちの開店から一つだけ変わっていない。本文を書き換えていいのは三輪さんだけ。ほかの者が変更を受けたときは、メモにしてその日のページに挟む。森くんはその決まりを守っていた。だから誠一さんの欄の「2名」は三輪さんの字のまま残っていて、今日の食い違いに気づけた。
ちとせは電話台の引き出しを開けた。替えのボールペン、輪ゴム、出前用の割り箸。いちばん奥に、角の丸くなったクリアファイルがある。中身は、こみちが開店したときに近所へ配った案内だった。
――ごあいさつ
――このたび、洋食カナリヤさんの跡に「定食こみち」を開店いたしました。
――お電話番号はカナリヤさんより引き継いでおります。
――カナリヤさんは、東町二丁目へ移転して営業中です。
その下に、カナリヤの新しい番号が小さく刷ってある。日付は九年前だった。

ちとせは案内を電話の横に置き、受話器のコードを指でたどった。この番号には、こみちより長い歴史がある。
三時半すぎ、三輪さんが段ボールを抱えて戻ってきた。ちとせが二枚のメモと案内を並べて見せると、三輪さんは段ボールを床に下ろして老眼鏡をかけた。
「ああ、これ。まだ入ってたんだ」
「カナリヤさん宛ての電話、今も来ますか」
「開けて二、三年は月に何本か来たね。最近はほとんどない。年に一本あるかどうか」三輪さんは森くんのメモを指で叩いた。「デミグラスって言ったの?」
「はい。それと、裏の駐車場」
「裏はね、カナリヤさんの頃は駐車場だったのよ。三台分」
ちとせはうなずいた。
「この方は、たぶんカナリヤさんに予約したつもりなんだと思います。でも、それだけだと、どうして名前と時刻が誠一さんと同じなのかが分かりません」
「高野さんって、珍しい苗字でもないしね」
「でも、十四日の十八時半まで重なるのは、偶然にしては近すぎる気がします」
三輪さんは少し考えてから、首を横に振った。
「それはあんたが考えることじゃないよ。うちが確かめなきゃいけないのは、うちが何を言ったか。それだけ」
ちとせは森くんのメモの「承っております」を見た。うちが言ったことは、ここに書いてある。
引き継いだ番号
四時ちょうどに、森くんが裏口から入ってきた。エプロンの紐を結びながら「おはようございます」と言いかけて、レジ横に並んだ紙を見て止まった。
「それ、僕のメモですよね」
「十一月二日の電話のこと、覚えてる?」
森くんは大学二年で、こみちに来て半年になる。目を閉じるようにして考えてから、口を開いた。
「三時過ぎで、三輪さんが裏で煮物をやってて、換気扇が強のままでした。電話を取ったら男の人が何か言ったんですけど、最初のほうはほとんど聞こえなかったんです。『……さんですか』っていうのだけ聞こえて」
「それで?」
「うちに決まってると思って、『はい』って」
ちとせはうなずいた。こみちでは、電話に出たら店名を名乗ることになっている。でも、受話器を取った瞬間に相手が話しはじめると、名乗る間がなくなることがある。ちとせにも覚えがあった。
「そしたら『十四日の土曜、六時半から高野で六名、お願いしたいんですが』って。予約帳を開いたら、十四日の六時半に高野様がもう入ってて。だから、人数を増やしたいって話だと思って」
「『お願いしたい』って言ってた? 新しく頼む言い方だった?」
森くんは黙った。十秒くらいして、困った顔のまま答えた。
「……言ってた、と思います。でも、そのときはもう予約帳のほうを見てたので。名前と時間が合ってたから、『高野様、十八時半ですね、承っております』って言いました。人数は三輪さんに確かめてからにしようと思って、メモに『?』をつけて」
「三輪さんには?」
「その日は閉店まで忙しくて。挟んでおけば見てもらえると思って……すみません」
ちとせは、森くんがクリップをきちんと十四日のページに留めていたことを思った。忘れたわけではない。挟んだメモが、次に誰かがそのページを開くまで眠っていただけだ。
「謝るのは、三輪さんと話してからでいいよ。先に、電話の人に折り返す」
ちとせが三輪さんを見ると、三輪さんは引き出しの奥からもう一枚、はがきを出してきた。今年の年賀状だった。差出人は洋食カナリヤで、表に東町の住所と電話番号が書いてある。九年前の案内と同じ番号だ。
「カナリヤさんとは、年賀状だけは続いてるのよ。番号は変わってない」
折り返しの電話
四時十分。ちとせは控えておいた携帯の番号を押した。今度は、呼び出し音が切れた瞬間に名乗った。
「お忙しいところ失礼いたします。定食こみちの根岸と申します。先ほどお電話をいただいた、高野様でいらっしゃいますか」
「はい、高野です。……こみち?」
「はい、定食こみちです。大変申し訳ありません。高野様がおかけになった番号は、九年前まで洋食カナリヤさんが使っていたもので、今はこみちという定食屋が使っております」
受話器の向こうで、息を吸う音がした。
「十一月二日のお電話は、うちの者が受けました。そのときの最初のお言葉を厨房の音で聞き取れず、こちらの店名を名乗らないまま『はい』とお答えしました。そのうえ、確認が足りないまま『承っております』と申し上げました。この電話は当店でお受けしたもので、カナリヤさんへのご予約をお取りできたわけではありません。こちらの間違いです。申し訳ありません」
ちとせは一息に言って、相手の言葉を待った。
「……最初に、『カナリヤさんですか』って聞いたんですよ。そしたら『はい』って」
「はい。うちの者も、『……さんですか』のところしか聞き取れなかったと申しております」
「うわあ」高野さんは、怒るより先に力の抜けた声を出した。「母の引き出しに、昔のマッチがあったんです。カナリヤの。そこに番号が書いてあって、ディナー十八時半から、って。それで、そのままかけちゃって」
時刻の出どころはそこだったのか、とちとせは思った。
「両親の結婚記念日なんです。四十五年目で。二人が初めて一緒に食事したのがカナリヤだって、昔から聞かされてて。姉の家族と僕とで、六人で。父にはまだ何も言ってなくて、前の日に、迎えに行くって言うつもりでした」
「カナリヤさんの今のお電話番号をお伝えしてもよろしいでしょうか。お店が案内に載せている番号です」
「お願いします」
ちとせは年賀状の番号を読み上げ、高野さんに復唱してもらった。
「こちらからカナリヤさんに空きだけを伺うこともできます。ただ、高野様のお名前やご連絡先は、こちらからはお伝えしません。ご予約は、高野様ご自身でお願いしてもよろしいでしょうか」
「いや、自分でかけます。二日前だから、取れるか分からないけど」
そこで、高野さんの声の調子が少し変わった。
「あの、こみちって、駅の南口から商店街を入ったところの?」
「はい」
「父がよく行ってる店だ。焼き魚の。……変なことを聞きますけど、父、その日にそちらに予約してたりしますか。高野誠一っていうんですけど」
ちとせは予約帳に目を落とした。三輪さんの丸い字と、「奥様には内緒」の一行がある。
「申し訳ありません。ほかのお客様のご予約については、お答えできないことになっています」
受話器の向こうが一瞬静かになり、それから短く笑う声がした。
「そうですよね。すみません。いや、もしかして同じ時間だったら、って思っただけで」
「お電話の取り違えはこちらの責任ですので、ほかにもご不便があれば、こちらにご連絡ください。根岸と申します」
「根岸さん。分かりました。父とは、自分で話します」
電話が切れた。受話器を置いてから、ちとせは自分の手のひらが少し湿っているのに気がついた。
「よく言わなかったね」と三輪さんが言った。
「言ったら、誠一さんの内緒がなくなります。それに、あの方が本当に誠一さんの息子さんなのか、私には確かめようがないので」
「どっちにしても言わない。そういうもんよ」
三輪さんは老眼鏡を外して厨房に戻りかけ、振り返った。
「森くん、ちょっと」
予約帳の線
森くんは、背筋を伸ばして三輪さんの前に立った。三輪さんは予約帳を開いて、十四日のページを指さした。
「ちとせ、どこまでがうちの間違いか、書き出して」
ちとせは電話メモの束から白い一枚を取り、ボールペンで線を引いて三つに分けた。
――うち(こみち):11/2、店名を名乗らず「はい」と答えた。新しい予約の依頼を、今ある予約の変更と思いこんで「承っております」と答えた。メモの内容を店主に口で伝えなかった。
――お客様(6名の高野様):旧番号におかけになった。古いマッチを頼りにされたとのこと。こちらが店名を確かめずお受けしたこととは、分けて記録する。11/12 根岸より事情を説明して謝罪。カナリヤさんの公開番号をご案内済み。ご予約はご本人が手配。
――カナリヤさん:予約状況は当店では未確認。こちらからお名前などは伝えない。
少し考えてから、ちとせは四つ目の欄を足した。
――高野誠一様(2名):ご本人からの変更依頼なし。変更しない。こちらからご連絡もしない。
三輪さんはそれを読んでうなずいた。
「森くん。これを見て、どこがあんたのせい?」
「……一番上、全部です」
「半分はうちのせい。電話の前で換気扇を強にしてたのは私だし、名乗る前に話しかけられたらどうするか、教えてなかったのも私」三輪さんは森くんのメモからクリップを外した。「でも、『?』をつけたのはよかった。あんたが勝手に2を6に直してたら、ちとせは気づけなかった」
森くんは何か言いかけて口を閉じ、もう一度開いた。
「名乗る前に相手が話しはじめたら、どうしたらいいですか」
「相手が何を言ってても、いったん止めて『こちら定食こみちです』って言いなさい。失礼じゃないから」
それから三輪さんは、ちとせのほうを向いた。
「メモの紙、作り直そうか。『相手が言った店の名前』って欄を一つ増やして」
「それと、名前と時間が合っていても人数や内容が違ったら、かけてきた人じゃなくて、最初に予約したご本人の連絡先に確かめる。それも書いておきます」
「それは大きく書いといて」
ちとせは森くんのメモを予約帳から外して、事情を書いた紙と一緒に「電話記録」のファイルに綴じた。十四日の欄には、三輪さんが自分の字で一行だけ書き足した。
――11/2の電話(6名)は他店宛と判明。誠一様のご予約は変更なし。11/12 三輪
電話の横には、九年前の案内と今年の年賀状を並べて、セロハンテープで貼った。その日、夜の営業が始まる五時半まで、森くんは何度もそこに目をやっていた。
奥の二人席
翌日、十三日の金曜日。昼の客が引けた一時半に、高野誠一さんが入ってきた。いつもは土曜にしか来ない人だ。カウンターの端に座って鯖の塩焼き定食を頼み、お茶を一口飲んでから言った。
「昨日、せがれから電話があってね」
ちとせは湯呑みを置く手を止めなかった。誠一さんが何を言おうとしているのか、まだ分からない。分からないうちは、こちらからは何も言わない。
「十四日の夜は空いてるか、って聞くんだ。こっちも内緒だったから、空いてないとは言いにくくてね。もごもごしてたら、あいつ、『父さん、もしかしてこみちに予約してない?』って。話してみたら、時間までおんなじだった。お店に迷惑をかけたって謝ってたよ。……で、白状した。こっちは家内と二人で、十八時半にここ、ってね」
誠一さんは苦笑いして、湯呑みを両手で包んだ。
「同じ時間になったのは、たぶん、あのマッチのせいだな。カナリヤは、ディナーが六時半からだったんだ。二人で初めて来たのも六時半。それで、あいつも私も同じ数字を拾った」
「カナリヤさんは、取れたんですか」
「六時からなら六名入れる、って。だから十四日はそっちに行く。それで、こっちの予約なんだけど」誠一さんはちとせを見た。「二十一日の土曜、同じ時間、同じ席に変えてもらえるかな。二人で」
「十四日の十八時半、二名様を、二十一日の土曜、十八時半、奥の二人席、二名様にご変更ですね。高野誠一様ご本人からのご変更として承ります」
ちとせが言うと、誠一さんは「本人だよ」と笑った。三輪さんが厨房から顔を出し、二十一日の空きと変更の扱いを確かめてから、予約帳の十四日の一行に線を引いて、二十一日の欄に書き直した。今回の変更に料金はかからないと、誠一さんにも伝えた。
「家内には、まだ内緒にしといてね。息子たちに先を越されたから、こっちは二回目の内緒だ」
鯖の塩焼き定食は千五十円。誠一さんはいつものように小銭までぴったり出して帰っていった。
二十一日の土曜日、十八時二十五分。高野さん夫婦は少し早めに来た。奥さんの弥生さんは小柄な人で、灰色のコートの下に明るい緑のカーディガンを着ていた。奥の二人席に案内すると、弥生さんは座る前に、壁と窓の位置をゆっくり見回した。
「やっぱり、このへんよね」
「何がですか」とちとせが聞くと、誠一さんが代わりに答えた。
「カナリヤの頃は、窓際の二人席がここだったんだ。間取りは変わったけど、窓は同じだから」
「先週はね、カナリヤに六人で行ったのよ」と弥生さんが言った。「娘のところの孫まで来て、ケーキまで持ちこんで。この人も知ってたって言うから、びっくりして。それで今日はここだって言うんだから、二回びっくり」
弥生さんは鞄から一枚のカードを出した。カナリヤの今のショップカードだった。黄色い鳥の絵と、東町の住所と、電話番号が刷ってある。
「息子が予約のときにまちがい電話の話をしたら、お店の方がね、こみちさんにこれを渡してって。昔の番号にかけてくる人が、今もときどきいるんですって」
ちとせはカードを受け取って、お礼を言った。
注文は、和風ハンバーグ定食と鯖の味噌煮定食、それに瓶ビールが一本。三輪さんはいつものように大根おろしを山にして、青じそを一枚のせた。デミグラスではない、こみちのハンバーグだ。弥生さんは一口食べて、「これはこれで、ここの味ね」と言った。

会計は二千八百円。誠一さんが払っているあいだ、弥生さんはその横で、もう一度だけ窓を見た。
二人を見送って店に戻ったとき、電話が鳴った。七時十分。森くんが布巾を置いて受話器を取った。相手がいきなり何か話しはじめたのが、ちとせの立っている所からも分かった。
「――失礼します、いったん。こちら、定食こみちです」
森くんは少し間を置いてから、新しいメモ用紙のいちばん上の欄にボールペンを走らせた。相手が言った店の名前。
「はい、カナリヤさんは移転されていて……はい、今の番号をお伝えしますね」
森くんは電話の横に目をやった。九年前の案内と年賀状の隣に、ちとせが貼ったばかりの、黄色い鳥のカードがある。森くんはその番号を、一字ずつゆっくり読み上げた。


