座面は四十三センチ
土曜の午後、柚木航は実家のガレージで、折畳み椅子を逆さに抱えていた。
木でできた、どこにでもある椅子だった。背もたれに横木が二本、座面には細い板が五枚並んでいる。そのうち二枚には縦の割れが走っていた。左側の軸の鋲は片方抜けかけていて、開くたびに脚がわずかにねじれた。物置の奥で、扇風機の箱と古いすだれの間に立てかけてあったのを、先週、妹の引っ越しの段取りを聞きに来たときに見つけたのだ。
午前中にホームセンターで買ってきたのは、幅の合うパイン材が一本で六百八十円。ボルトとナイロンナットの四組入りが三百二十円。紙やすりが百五十円。合わせて千百五十円だった。
抜けかけた鋲をペンチで外し、ボルトを通してナットを締める。締めすぎると脚が動かなくなり、緩いとまたねじれる。開いて、畳んで、また開く。三度目でようやく、四本の脚が同じ角度で床についた。反対側の軸も同じようにした。
「直ってる」
声がして顔を上げると、灯子がガレージの入口に立っていた。軍手をはめた手に、ガムテープを二巻ぶら下げている。部屋の荷造りは、昼の時点で段ボール十個まで進んだと聞いていた。
「座板も替える。割れてるのが二枚あるから」
「それ、どうするの」
「持ってけよ。二人暮らしなんだろ。予備の椅子が一つあると便利だぞ。人が来たときとか」
灯子は答えないで、椅子を眺めていた。それから、思いついたように言った。
「座面の高さ、何センチ?」
航は首にかけていたメジャーを伸ばした。床から座板の上まで。
「四十三」
「ふうん」
「ふうんって何だよ」
「あと、それ、片手で畳める?」
航は背もたれを持ち、座面の前の縁を片手で持ち上げてみた。直す前は脚が引っかかって両手が要ったが、今はすっと畳まれて、厚さ六センチほどの板になった。
「畳める」
「よかった」
それだけ言って、灯子は母屋へ戻っていった。少しして、ガムテープを引き出す音が二階の窓から聞こえはじめた。
航は割れた座板を外し、元と同じ厚みの新しい板を、同じ長さに二枚切った。角を落とし、紙やすりをかけて、元のねじ位置に合わせて取り付ける。平らな床で開き止まりとがたつきを確かめ、ゆっくり腰を下ろした。白っぽいパイン材は、飴色に焼けた古い板三枚の間で、そこだけ生えかわったばかりの歯のように目立った。
ニスを塗るかどうか、少し迷ってやめた。使っているうちに、色は寄ってくる。
積み付け表
夕食のあと、航は居間の座卓に方眼のノートを広げた。
文具の卸の倉庫で働いて九年になる。毎朝トラックの荷台へ段ボールを積む順番を決めるのが、仕事の半分だった。重い物は下、奥、真ん中。軽い物と割れ物は上。最後に積んだ物が、最初に降りる。
「お兄ちゃん、それ仕事のノート?」
「仕事のやり方で書いてるだけ」
自分の車は背の高い軽自動車で、後ろの座席を倒すと、奥行きがおよそ百三十センチ、高さは百二十センチほどになる。いちばん狭い所の幅も、百センチほどあった。昼のうちに測っておいた数字をノートのいちばん上に書き、その下に荷物を並べていった。
段ボール 十四(うち冬物三)
布団袋 一
衣装ケース 二
ミシン(ケース入り) 一
カラーボックス 二
姿見 一
パキラの鉢 一
折畳み椅子 一
「これで全部か」
「ミシン台」
灯子が台所から麦茶を二つ持ってきて、一つを航の前に置いた。
「ミシン台?」
「私の部屋の、窓のとこにあるやつ」
航は思い出そうとした。灯子の部屋には、高校のときから使っている学習机と本棚があって、その横に木の台が一つあった。天板が厚く、脚の間には、足踏みのペダルを外した跡が残っている古い台だ。
「あれ持ってくの? 向こうで軽いの買えばいいじゃん。折りたためるやつとか、一万円もしないだろ」
「あれじゃないとだめ」
「なんで」
「天板が揺れないから」
灯子は麦茶を一口飲んだ。
二年前に、駅の裏のリサイクルショップで三千円で買ったのだという。勤め先のクリーニング店でお直しのカウンターを任されるようになってから、家でも裾上げや袖詰めを頼まれるようになった。近所の人から、店の常連さんから、同僚の子どもの体操服まで。
「軽い台だとね、厚い布を縫うときに台ごと揺れるの。デニムとか。あれは重いから、ぜんぜん動かない」
「重いのは知ってる」
「脚、外れないよ。ネジが錆びてて」
「幅は」
「九十。奥行き四十五、高さ七十二」
灯子は、ノートを見もしないで言った。航はそれをそのまま書きとった。自分が昼のうちに測っておかなかった家具の寸法を、妹は暗記していた。
鉛筆の先で、荷室の図の中にミシン台を置いてみる。天板を下にして脚を上に向け、いちばん奥に入れる。脚の間に段ボールを詰める。その手前に衣装ケースと布団袋。それでも、図の端から荷物がはみ出した。
「入らないな、全部は」
「うん。そう思ってた」
「思ってたのかよ」
「だから、明日、積みながら決めようと思って」
航は鉛筆を置いた。椅子のことを何か言いかけて、やめた。予備の椅子なら、優先順位は下のほうだ。それくらいは自分でもわかる。
台所から母が顔を出した。
「パキラ、持っていくなら新聞で包みなさいね。鉢の土がこぼれるから」
「うん」
灯子はそう答えたが、それからしばらく、ノートのパキラの行を見ていた。
降ろす物、残す物
日曜の朝八時半、家の前の道に車を寄せて、後ろの扉を跳ね上げた。
父が出てきて、航と二人でミシン台を運んだ。持ち上げた瞬間に、灯子の言う「動かない」の意味がわかった。台は、ほとんど一個の石だった。
「腰に気をつけろよ」と言いながら、父のほうが先に「よいしょ」と声を出した。
天板を下に、脚を上に向けて、いちばん奥へ。脚の間に段ボールを四つ。その上と横に、さらに五つ。手前に衣装ケースを二つ重ね、ミシンのケースは布団袋で挟んだ。航は倉庫でやるように、隙間へ手を差し入れては、指が何本入るかで次の箱を選んだ。
九時二十分、玄関の前に、まだ積んでいない物を並べた。
段ボールが五つ。カラーボックスが二つ。姿見。パキラ。折畳み椅子。
荷室に残った空間は、どう見ても段ボール二つ分と、少しだった。
「選ぶか」と航は言った。

灯子は玄関の段差に腰を下ろして、並んだ物を端から見ていった。
「カラーボックスは置いてく。澄の家に棚がいっぱいあるし、共有の部屋には私の物を出さないって約束したから。向こうで要るってなったら、自分の部屋に合うのを買う」
澄というのは、灯子の高校の同級生で、隣の県で保育士をしている。2DKを二人で借りて、DKは共用の台所と食事の場所にし、それぞれの居室に自分の物を収めると決めたらしい。
「姿見も。澄が持ってる」
航はカラーボックス二つと姿見を、玄関の脇へ移した。
「段ボールは?」
「冬物の三つは、あとでいい。まだ十一月になったばっかりだし」
「宅配で送るか? 三つなら」
「お兄ちゃんが持ってきて」
灯子はさらりと言った。
「二十三日、祝日。仕事休みでしょう」
「休みだけど」
「じゃあ、その日」
航は油性ペンで、三つの箱の側面に「23日」と書いた。書きながら口元が少し緩んだのを、灯子に見られたかどうかはわからない。
残ったのは、段ボール二つと、パキラと、椅子だった。荷室の空きに段ボール二つを入れれば、あとは鉢か椅子か、どちらか一つしか入らない。
航は椅子を手に取った。
「これ、置いてくわ。予備だし。要るなら二十三日に一緒に持ってく」
言いながら、もっともな案だと思った。予備の椅子は、無くても暮らせる。
「だめ」
灯子は立ち上がって、航の手から椅子を取った。片手で、座面の前の縁を持ち上げる。椅子はすっと畳まれて、一枚の板になった。
「これは今日持ってく」
「じゃあ、パキラは」
二人で鉢を見た。腰の高さまで伸びたパキラは、灯子が就職した年に、職場の先輩から株分けしてもらったものだと聞いていた。受け皿には、今朝やった水がまだ少し残っていた。
母が玄関から出てきて、二人にマグカップを渡した。
「コーヒー。あんたたち、朝ごはんちゃんと食べた?」
「食べた」
「パキラ包む新聞、ここに置いとくからね」
母は鉢のそばに新聞の束を置いた。それから、いつもの癖のように、人差し指で鉢の土を押した。乾き具合を確かめる指だった。
灯子はそれを見ていた。
この半年、灯子は店の繁忙期で、帰りが遅く朝が早かった。パキラの水やりがいつの間にか母の仕事になっていたことは、航も知っていた。母は毎朝、雨戸を開けたついでに受け皿をのぞき、葉の埃をティッシュで拭いていた。
「お母さん」
「なに」
「パキラ、置いてっていい? 向こうの私の部屋、西日がきついし」
「いいけど。あんたのでしょう」
「お母さんが毎朝、見てくれてるから。お母さんの窓のほうが合ってる」
母は少し黙って、葉を一枚、裏返して見た。
「じゃあ、預かっとく」
「うん。預かってて」
新聞の束は、そのまま母が抱えて家の中へ戻っていった。
航は段ボール二つを空きに押しこみ、最後に、畳んだままの椅子を扉のすぐ内側に差しこんだ。
「最後に積んだ物が、最初に降りる」
「倉庫の決まり?」
「そう」
「じゃあ、ちょうどいい」
何がちょうどいいのか、航は聞かなかった。台と箱をベルトで固定し、窓とミラーの視界を確かめた。二人ともシートベルトを締め、十時十分、車は家を出た。
一時間四十分
高速には乗らず、県境の峠を越える国道を行くことにした。ナビの予想は一時間四十分だった。
助手席の灯子は窓を少し開けて、色づきはじめた山を見ていた。後ろの荷室で、ときどき何かが小さく鳴った。
「さっきの、二十三日」と航は言った。
「うん」
「冬物、それまでで足りるか? 向こうのほうが寒くなるの早いだろ」
「コートは一枚、衣装ケースに入れた。足りる」
それから灯子は、お直しの話をした。向こうの町にも同じ会社の支店があって、そこのお直しカウンターに空きが出たので、異動を願い出たのだという。引っ越しの理由は澄との二人暮らしだけではなかったのだと、航はそこで初めて知った。
「家でもやるのか、頼まれたやつ」
「やる。もう三件持ってきてるよ。衣装ケースの上の段」
「三件」
「酒屋の大野さんのスラックスの裾と、お母さんの友だちのワンピースの肩と、澄の職場の先生の、子どもの上履き入れ」
「上履き入れまで」
「持ち手が取れたんだって。ああいうのは、すぐ直る」
航は、倉庫で誰かが段ボールの角を潰したときのことを思い出した。潰れた角はテープで補強すれば、また積める。積めるなら、それはまだ使える箱だ。そう話そうとして、たとえが下手な気がしてやめた。
「お兄ちゃんはさ」
「うん」
「なんで、あの椅子直したの」
航はハンドルを握ったまま、少し考えた。
「物置で見つけたから」
「それだけ?」
「二人暮らしって聞いて、椅子、二つしかないんだろうなと思って」
灯子は前を向いたまま、短く笑った。
「澄の家、ダイニングの椅子は二つ」
「だろ」
「当たってたね」
峠のトンネルを抜けると、雲の切れ間から日が差した。
三階の窓辺
アパートは川沿いに建つ三階建てで、部屋は三階だった。エレベーターはない。
十一時五十分に駐車場へ車を停めると、澄が外階段を駆け下りてきた。髪をひとつに結び、エプロンのポケットに軍手を差している。
「お疲れさまです、お兄さん。灯子、ミシン台ほんとに持ってきたの」
「持ってきた」
「三階だよ」
「知ってる」
航は後ろの扉を跳ね上げた。最初に出てきたのは、畳んだ椅子だった。
灯子はそれを受け取ると階段を上がっていき、二階と三階の間の、広い踊り場の端で開いた。通り道を空け、誰かが休み終えると畳んで壁際へ寄せた。
「何してんの」
「休憩所」
最初は意味がわからなかった。わかったのは、ミシン台を三人で抱えて、二階まで上がりきったときだった。朝、父と二人で運んだときより、台はずっと重く感じられた。踊り場の壁際に台を下ろした瞬間、上から灯子が「座って」と言った。
航は椅子に座った。座面は四十三センチで、ちょうど膝が楽になる高さだった。澄は手すりにもたれて息を整えながら、「いい椅子ですね」と笑った。

それから段ボールを運ぶたびに、誰かが一度、その椅子に座った。澄が座り、灯子が座り、また航が座った。最後の段ボールが三階の部屋に入ったのは、一時を少し過ぎたころだった。
灯子の部屋は六畳で、西向きの窓があった。窓の下にミシン台を置くと、天板に午後の光がまっすぐ落ちた。灯子はミシンをケースから出して、台の上に据えた。
それから踊り場へ椅子を取りに行き、ミシン台の前に開いた。
座って、フットコントローラーを足もとに置き、天板に両肘をつく。肘の角度を確かめるように、何度か腕を前後させた。
「ちょうどいい」
航は部屋の入口で、それを見ていた。
「それ、予備じゃなかったのか」
「予備じゃないよ」と灯子は言った。「毎日使う」
実家では、学習机の椅子をミシン台の前まで引っぱってきて使っていたのだという。机の椅子は座面が四十八センチあって、台に対して高すぎた。少し前かがみになるので、長く縫っていると首が痛くなった。
「座面、何センチって聞いたでしょう」
「聞いたな」
「私には、七十二の台なら四十三くらいがいいの。店の作業台で、前に測ったことがあって」
灯子は立ち上がり、片手で座面を持ち上げた。椅子は畳まれて、壁と台の隙間にすとんと収まった。それから衣装ケースの上の段を開けて、布を一枚取り出し、床に広げた。大野さんのスラックスだった。
「裾の印をつけたり型を取ったりするときは、床を広く使うから。片手で畳めるのが大事」
「それも聞かれたな」
「聞いた」
航は笑った。自分が予備のつもりで直していた椅子に、妹は最初から、仕事の席を見ていたのだ。
「言えよ、先に」
「言ったら、ニス塗って、クッションつけて、すごい椅子にしたでしょう」
「……したかもしれない」
「座面が高くなるから、だめ」
灯子はチャコペンを取り、スラックスの裾に短い線を一本引いた。
三つめの席
夕方、澄が鍋を作った。白菜と豚肉に、灯子が実家から持ってきた柚子胡椒を添えて。
ダイニングの小さなテーブルには、椅子が二つ向かい合っていた。澄がカセットコンロを置き、取り皿を三枚並べたところで、三人は顔を見合わせた。
灯子が自分の部屋へ行き、畳んだ椅子を持って戻ってきた。テーブルの短い辺に、それを開いて置く。
「お兄ちゃん、こっち」
航は座った。ダイニングの椅子よりわずかに低くて、鍋の湯気が少しだけ顔に近かった。
「予備の椅子だ」と航は言った。
「今だけね」と灯子は言った。「食べたら、仕事の椅子に戻るから」
澄が笑いながら、航の皿に白菜をよそった。
「お兄さん、二十三日、また来るんでしょう」
「冬物を持って」
「じゃあそのときも、その椅子ですね」
航はうなずいて、鍋から豚肉を一枚取った。
七時半、駐車場で後ろの扉を閉める前に、航は荷室をのぞいた。がらんとして、来るときよりずいぶん広く見えた。座席を起こすのは家に帰ってからでいい、と思った。二十三日には、またここに段ボールを三つ積むのだ。
灯子が階段の下まで見送りに来た。
「気をつけて」
「おう。腰、大丈夫か」
「お兄ちゃんのほうが心配」
峠の手前のコンビニで缶コーヒーを買ったとき、スマートフォンに写真が一枚届いているのに気づいた。
窓辺のミシン台と、その前に開いた椅子。座板の五枚のうち、二枚だけが白い。台の上には、裾に待ち針を打ったスラックスが載っていた。
写真の下に、一行だけ。
〈二十三日。椅子はあけとく〉
航は返事を打たずに、車を出した。新しい板の色が古い板に寄っていくのは、たぶん、思っているより早い。


