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坂の上シネマ第1話
日常

ポップコーンは、塩から

映画館の売店に入ったばかりの灯は、自分の大好きな「スパイス黒糖」で人気投票に勝つつもりだった。

読了目安
20分
長さ
短編
#ほっこり#映画館#おやつ
ポップコーンは、塩からのイメージ

あらすじ

坂の上の小さな映画館で売店に入った三浦灯は、夜ごと自分の部屋で作り込んできたスパイス黒糖のポップコーンを、館の新しい味にしたい。新作の初日、キャラメルとの人気投票に挑むが、静かな場面の多い映画の暗がりで、甘く辛い匂いと黄色い指は音のようにはまぎれなかった。負けた灯が選んだのは、自分の味を薄めることではなく、売る場所と時間を変えること。そして、地味だと思っていた塩から始めることだった。

一 黄色い指

坂の上シネマは、商店街のゆるい坂をのぼりきったところにある。ガラスの扉を押して入ると、左が受付の窓口、右が売店、正面が客席へ続く両開きの扉だ。扉の右横には細い階段があって、のぼった先が映写室になっている。売店のカウンターのうしろには、流しと二口のコンロと冷蔵庫を詰めこんだ細長い作業場があり、灯はそこを「台所」と呼んでいた。

三浦灯がこの映画館の売店で働きはじめて、二週間がたつ。

三日でポップコーンの機械の癖を覚えた。釜が温まるまでの時間、油を入れる量、ふたを押し上げて白い粒があふれ出す瞬間。はじける音がまばらになったら、すぐにスイッチを切る。一呼吸遅れると底が焦げる。四日目には、受付の河合悠に「もう音で分かるようになったね」と言われた。

五日目には、自分がこの仕事をかなり好きだと分かった。

すくった粒を紙カップに入れて手渡すと、客の顔がほんの少しゆるむ。上映前のロビーに、あたたかい油と塩の匂いがただよう。カウンターの上の電球は少し黄色くて、ガラスケースの中のポップコーンを実際よりもおいしそうに見せた。前の職場は駅ビルの輸入食材店で、缶詰や瓶を棚に並べなおすのが仕事の大半だった。食べものを、食べる直前の人に手渡したことはほとんどなかった。

ただ、ここで売っているポップコーンは塩味だけだった。

「塩って、地味じゃないですか」

金曜の夜、最終回が始まって人のいなくなったロビーで、灯は言った。

店長の野崎航は受付のカウンターで伝票をめくっていた。灰色のセーターの袖を肘までまくり、短く刈った髪のこめかみに白いものが混じっている。

「地味だから毎日食えるんだよ」

「毎日食べる人、いますか」

「おれ」

野崎は顔を上げずに、カウンターの端に置いた小さな紙カップを指で叩いた。中身は半分ほど減っていた。

灯は台所に戻り、自分の鞄から蓋つきの容器を出してきた。中には、茶色がかった粒がぎっしり詰まっている。ふたを開けると、カレー粉と焦がした黒糖の匂いがロビーいっぱいに広がった。

「なんの匂い」

映写室の階段から、河合が顔を出した。背が高く、黒い縁の眼鏡をかけ、紺のカーディガンの胸に名札をつけている。上映が始まってしばらくは映写室にいて、問題がなければ受付に下りてくるのがいつもの流れだった。

「スパイス黒糖です。黒糖とバターを煮つめて、カレー粉と塩を少し。家で作ってるんです」

「家で」

「夜、パソコンで古い映画を見ながら食べるのが好きで。何回も作りなおして、この配合になりました」

河合がひとつまみ口に入れ、目を丸くした。もうひとつまみ取り、それから三つ目に手を伸ばした。

「これ、おいしい。甘いのに辛い」

「でしょう」

野崎も伝票を置いて手を伸ばした。噛んで、しばらく黙っていた。

「うまいな」

それから自分の指先を見た。親指と人差し指が、うっすら黄色くなっていた。

「指が黄色い」

「それも込みで楽しいんです。なめるところまでが、このポップコーンなので」

河合が笑って、自分の指をなめた。野崎はなめずに、ポケットからハンカチを出して拭いた。

「明日から『港の時計屋』が始まるだろ」

野崎が言った。明日からの新しい上映作品で、海沿いの町で古い時計を直す老人と、その店に通う少年の話だ。ロビーのコルクボードには、河合が描いた手書きの案内がもう貼ってある。

「前から、塩のほかにもう一つ味を増やしたかった。置けるのは一つだけだ。おれはキャラメルにするつもりでいたんだが」

灯は容器のふたを持ったまま背筋を伸ばした。

「明日、初日に試食を出す。キャラメルと、それ。見終わった客にシールを貼ってもらって、多いほうを置く。それでいいか」

「勝ちます」

言ってから、少し大きな声だったと気づいた。河合がまた笑った。

野崎は倉庫から小さな黒板を持ってきて、白いチョークで書いた。

〈映画を見ながら食べたいのは、どっち?〉

その下に線を引いて、左に「キャラメル」、右に「スパイス黒糖」。灯はその黒板の右半分ばかり見ていた。

「柴田さん、明日来るかな」と河合が言った。「土曜はいつも二回目の回なんだよ。E列の通路側」

「常連さんですか」

「この館で、たぶんいちばん長い。新しい味があったら、絶対に試す人だよ」

灯は頭の中で、明日の自分の売り場を組み立てていた。試食は各四十。小さな紙カップを八十個。スパイス黒糖は、朝いちばんに煮つめれば十一時の回に間に合う。

二 ロビーがわたしの匂いになる

土曜の朝、灯は開館の二時間前に台所に入った。

塩味の釜をまわしながら、隣のコンロで黒糖とバターを煮つめた。泡が大きくなり、小さくなり、色が深くなったところでカレー粉を入れる。ボウルにあけたポップコーンに回しかけ、木べらで手早く混ぜる。冷めて固まる前に広げておかないと、ひとかたまりになってしまう。キャラメルは、ゆうべ野崎が書き置いていった割合のとおりに作った。こちらは何度か練習していたので、手は迷わなかった。

カウンターの端に、試食の小さなカップを二列に並べた。左の列がキャラメル、右の列がスパイス黒糖。それぞれ四十個。並べ終えると、トレーの上がきれいな縞模様になった。

黒板は客席の扉の横に立てた。シールは受付で、見終わった人に一枚ずつ渡す。

十時半にガラスの扉が開いた。

最初の客は、ベビーカーを押した夫婦だった。次に、学生らしい二人組。それから、灰色のパーカーを着てリュックを背負った男の人。その人は試食のカップを両方取り、右の列の前で少し立ち止まった。

「これ、カレーですか」

「カレーと黒糖です。甘くて、あとから辛いんです」

男の人はもう一度噛んで、うなずいた。

「これの、小さいのください」

灯はガラスケースから茶色い粒をすくった。カップを渡す手が、自分でも分かるほどはずんでいた。

十一時の上映が始まるまでに、スパイス黒糖は小さいカップと大きいカップをあわせて九つ売れた。キャラメルが五つ、塩が十一。試食の右の列は、左の列よりずっと速く減っていった。

「なにこれ、癖になる」

「もう一個もらっていいですか」

そういう声を聞くたびに、灯は胸のなかで指を折った。

扉が閉まり、予告編の音がくぐもって聞こえはじめると、ロビーは急に静かになった。河合は映写室に上がり、野崎は事務室で電話をしている。灯はカウンターの内側で、空になった試食カップを片づけた。

ロビーには、まだ自分の匂いが残っていた。黒糖の焦げた甘さと、カレー粉の温かい刺激。いつもの塩の匂いの上に、それが一枚かぶさっている。

ロビーがわたしの匂いになっている。

灯はカウンターに頬杖をついて、その匂いを吸いこんだ。

上映中、扉の向こうからは時々、低い音楽や波の音がもれてきた。長いあいだ何も聞こえない時間もあった。灯はそのあいだにキャラメルを小分けにし、塩の釜のまわりを拭いた。

十二時五十分、扉が開いて人が出てきた。受付で河合がシールを渡している。黒板の前に小さな列ができた。

灯は売店から首を伸ばした。右に一枚、左に一枚、右、右、左。

「すみません」

声をかけられて振り向くと、朝の灰色のパーカーの人がカウンターの前にいた。手には、灯が渡したスパイス黒糖のカップ。中身はまだ半分ほど残っている。

「これ、ふたってありますか。持って帰りたくて」

「ふた……」

ポップコーン用のふたは、置いていなかった。灯は少し迷ってから、グッズ用の小さな紙袋を一枚取り出し、カップの中身を移した。袋の口を二回折って渡す。

「ありがとうございます。途中で食べるの、ちょっと気が引けちゃって」

男の人は袋をリュックの外ポケットに差して、ガラスの扉を出ていった。

お腹がいっぱいになったのかな、と灯は思った。小さいカップでも、朝ごはんのあとなら多いかもしれない。

黒板には、右に十一枚、左に九枚のシールが並んでいた。

三 映写室の小窓

次の回までの一時間あまりで、客席を掃除する。

赤茶色の座席が、八列、十二席ずつ並んでいる。灯はほうきとちりとりを持ち、河合はぬれ布巾とゴミ袋を持って、列のあいだに入った。

床に落ちたポップコーンを掃いていくと、白い粒の中に茶色い粒が混じっている。それはいい。どの映画館でも、どの味でも落ちる。

気になったのは肘掛けだった。

赤茶色の布の肘掛けのところどころに、うっすらと黄色い粉がついていた。前の座席の背もたれにも、指でつまんだような小さな跡がある。河合が布巾で拭くと、粉は取れた。布の目に入りこんだところは、少し時間がかかった。

「黄色いの、けっこう残るね」

河合は責める調子ではなく、ただ見たままを言った。

「拭けば取れますよね」

「取れる取れる」

河合は次の列に移った。灯はちりとりを持ったまま、ひとつの肘掛けをしばらく見ていた。そこに座っていた人が、暗い中で指をどこに置けばいいか迷った跡みたいに見えた。

二回目の客の入りは、朝より少し多かった。

開場してすぐに、柴田澄江が来た。

短い白髪に、からし色のカーディガン。布の手提げを肘にかけ、受付の河合に「今日も同じところ」と言ってから、まっすぐ売店にやってきた。

「新しい人ね。河合さんから聞いてるわよ。新しい味があるんでしょう」

「はい。キャラメルと、スパイス黒糖です」

柴田さんは試食を両方食べて、右のカップをもうひとつ取った。

「あら、これはおいしい。お酒にも合いそう」

「ありがとうございます」

「これの小さいの、ちょうだい。新しい人のを買うわ」

灯はいちばん形のいい粒を選んでカップに入れた。柴田さんはそれを両手で持ち、扉の向こうのE列に向かっていった。

右の列の試食カップは、上映が始まる前になくなった。灯は、上映が始まって映写室から下りてきた河合に売店を頼み、台所で追加を二十個作った。黒糖を煮つめながら、扉の向こうで何かが澄んだ音で鳴っているのを聞いた。時計の鐘かもしれない、と思った。

四時二十分に扉が開いた。

柴田さんは黒板の前で少し立ち止まり、左側にシールを貼った。それから売店に来て、カウンターの上に自分のカップを置いた。中身が半分残っていた。

「おいしかったのよ、ほんとうに」

柴田さんは先に言った。

「でもね、静かな場面の長い映画でしょう。時計屋さんが、何も言わずにねじを巻くところとか。カップに手を入れるとね、自分の指の匂いが、隣の人に届く気がしちゃって。隣、若い男の子だったのよ。気にしてなかったかもしれないけど」

灯は何か言おうとして、言葉が見つからなかった。

「映画が終わってから食べたかったの。ここで食べていい?」

柴田さんはロビーのベンチを指さした。灯がうなずくと、柴田さんはベンチに腰をおろし、カップの残りをひと粒ずつ食べた。最後に指をなめて、「やっぱりおいしい」と言った。それからハンカチで指を拭き、「また来週」と手を振って、坂を下りていった。

黒板のシールは、右が十九枚、左が二十枚になっていた。

最終回の六時半が近づくころ、河合が売店の前に来た。

「見に来る? 客席」

「いまですか」

「始まって二十分くらいしたら。店長に売店を見ててもらおう。上映中は、ほとんど売れないし」

事務室から出てきた野崎は、話を聞くと「十分な」とだけ言って、カウンターの内側に入った。

上映が始まって二十分後、灯は河合のあとについて、客席の扉をそっと押した。

暗い。目が慣れるまで、灯は扉の横の壁に背中をつけて立っていた。スクリーンの中では雨が降っていて、老人が小さな部品をピンセットでつまんでいる。台詞はない。時計の秒針の音と、雨の音だけが聞こえる。

その静けさの中に、さく、という音がした。

前のほうの列で、誰かがポップコーンを噛んだ。少し間があって、また、さく。それから、別の場所で紙のこすれる音。

匂いが来たのは、そのあとだった。

暗い客席の空気に、黒糖とカレー粉の匂いが細くまざっている。ロビーで嗅いだときは、うれしかった匂いだった。ここでは、スクリーンの中の雨の匂いを想像しようとするたびに、それが前に出てきた。

灯の斜め前の席で、女の人が肘掛けから手を浮かせていた。指先を宙に置いたまま、もう片方の手で膝の上を探っている。ティッシュが見つからないのか、指はしばらくそのままだった。

河合が灯の肘を軽くつついて、扉の外を指さした。

ロビーに出ると、明るさに目がしみた。河合は何も言わずに階段をのぼりはじめ、灯もついていった。

映写室は狭くて暖かかった。機械の低いうなりがずっと続いていて、壁の小さなスピーカーから、客席と同じ音が小さく流れている。客席側の壁に小さな窓があり、そこから光の帯がまっすぐ伸びていた。

「ここから、客席は全部見えるんだよ」

河合が言った。灯は窓に顔を寄せた。

光の帯の下に、並んだ頭の影が見える。スクリーンの明るさが変わるたびに、頭や肩の輪郭がぼんやり浮かぶ。笑って肩をゆらす人、うつむく人、首をかたむけたまま動かない人。

けれど、手元は見えなかった。光は頭の上を通っていくだけで、膝の上のカップも、肘掛けの指も、暗がりの中に沈んでいた。

映写室の小窓をのぞき、赤茶色の客席を見る灯と河合。

「……手元は、見えないか」

河合が小さく言った。灯にではなく、自分に向かって言ったような声だった。

しばらく眺めているうちに、灯はひとつ気づいた。スピーカーから大きな波の音が鳴ったり、音楽が高くなったりすると、あちこちで小さく頭が動く。誰かが何かを口に運んでいる。音が消えると、動きも止まる。

みんな、音にまぎれて食べている。

静かな場面が長いこの映画の中で、匂いと黄色い指は、音のようにはまぎれない。

八時二十分、最後の客が出ていったあと、野崎が黒板の前でシールを数えた。

「キャラメル三十八、スパイス黒糖二十七」

灯は黒板の上の文字を見た。昨日の夜から何度も見ていたはずの文字だった。

〈映画を見ながら食べたいのは、どっち?〉

見ながら、と書いてある。

「キャラメルにする」

野崎は言った。黒板消しで右側の名前を消しかけて、手を止め、そのままにした。

「はい」

灯は声がふるえないように、短く答えた。

台所に入り、残っていたスパイス黒糖の試食カップを数えた。四つ。三つを、ひとつずつ、立ったまま食べた。家で食べるときと同じ味がした。指が黄色くなった。なめた。

うしろで、カーテンが揺れた。河合が台所の入口に立っていた。

「ひとつ、もらっていい?」

灯は最後のカップを差しだした。河合はそれを食べて、指をなめた。

「僕は好きだよ、これ。家で、ゆっくり食べたい」

それだけ言って、河合は戸締まりに戻っていった。

家で、と灯は思った。

四 帰り道の一袋

日曜は、キャラメルを作った。

灯はキャラメルが嫌いなわけではない。むしろ、作るのは楽しかった。砂糖が溶けて色づいていくのを見ているのは気持ちがいいし、うまく仕上がると、粒のひとつひとつに薄い飴の膜がかかって、指にほとんどつかない。

指にほとんどつかない、と思ってから、灯は木べらを止めた。

昨日、パーカーの人は「途中で食べるの、気が引けて」と言った。柴田さんは「映画が終わってから食べたかった」と言った。河合は「家で、ゆっくり」と言った。

三人とも、まずいとは言わなかった。

その日、上映が終わったあとのロビーのベンチで、カップの残りを食べている人を、灯は二人見かけた。二人とも、キャラメルのカップを持っていた。

月曜は休館日だった。

灯は自分の部屋の台所で、スパイス黒糖を三回作った。ひとつは、これまでどおり。ひとつは、カレー粉を減らしたもの。もうひとつは、カレー粉を減らして黒糖を増やしたもの。三つとも、ノートパソコンで古い映画を流しながら食べた。

減らしたものは、ぼんやりしていた。匂いがおとなしくなったかわりに、自分が好きだった、甘さのあとから辛さが追いかけてくる感じが消えていた。

これじゃない、と灯は思った。

映画館の中で食べてもらうために好きな味を薄めたら、それはもう自分の好きな味ではない。けれど、暗がりで宙に浮いていた女の人の指も、もう忘れられなかった。

夜中近くになって、灯はもうひとつ気づいた。

家で作るとき、下地にしていたのは、味をつけていないポップコーンだった。スパイス黒糖の衣だけで、味を全部決めようとしていた。だから、衣が濃くなる。

火曜の朝、灯は開館前の台所で、塩味の釜をまわした。

できあがった塩のポップコーンを、ひとつ手に取った。この二週間、何百杯もすくってきたのに、ちゃんと味わったことがなかった気がした。

噛む。油の香ばしさのあとに、塩が来る。粒の割れ目に塩が入りこんでいて、噛むたびに、少しずつ違う場所でしょっぱい。

地味だから毎日食える、と野崎は言っていた。

灯はボウルに塩のポップコーンを取り分け、その上から、いつもより薄くスパイス黒糖の衣をかけた。カレー粉は減らさない。衣の量だけを減らす。ひとつ食べた。

甘さが来て、辛さが追いかけてきて、最後に、下地の塩がそれを受けとめた。

家の味より、こちらのほうがおいしかった。

昼の休憩に、灯は紙を一枚、野崎の机に置いた。

〈帰り道ポップコーン(スパイス黒糖)
・客席の中ではなく、上映が終わってから売る。持ち帰り用の小さな紙袋に入れ、シールで口を閉じる。
・ロビーのベンチで食べてもいい。
・塩味の下地に、衣を薄くかける。
・一日二十袋から。〉

その下に、黒糖とカレー粉とバターと紙袋とシールの値段を、知っている範囲で書いた。袋とシールは駅ビルの店にいたころの記憶なので、合っているかは分からない、とも書き添えた。

野崎は紙を読み、もう一度読んだ。

「残ったら」

「わたしが買います」

「それはやめろ。残ったら、まかないにする」

野崎は紙の端に何か書きこんだ。

「二週間。土日だけ。売れなかったら、やめる。袋の値段は、おれが業者に聞く」

「はい」

「ひとつ食わせろ」

灯は台所から、塩の下地にかけた試作を持ってきた。野崎はつまんで、噛んで、ハンカチで指を拭いた。

「うちの塩、うまいだろ」

「……はい」

「おれが毎日食ってる理由が分かったか」

野崎はそう言って、伝票の束の上に紙を重ねた。

五 七つ残る

次の土曜、売店のカウンターの端に、小さな札が立った。

〈帰り道ポップコーン スパイス黒糖 映画のあとに、どうぞ〉

河合が書いた字だった。札の隅に、小さな紙袋の絵が描いてある。

袋は、クラフト紙の小さなものにした。口を二回折って、丸いシールでとめる。シールには何も印刷されていないので、灯がペンで、ひとつずつ小さく「帰り道」と書いた。二十袋を、カウンターの内側のかごに並べた。

客席の中で食べてもらうのは、塩とキャラメル。ガラスケースの中は、白と、薄い琥珀色の二色になった。

十一時の回が終わったとき、売れた袋は二つだった。

一つは、子どもを連れた母親が「車で食べるから」と買っていった。もう一つは、学生らしい女の人が、ベンチに座ってその場で開けた。袋の口を開けたとたん、ロビーに黒糖とカレー粉の匂いが広がった。女の人は一粒食べて、「あ」と言って、灯のほうを見た。灯は小さく頭を下げた。

二回目の回のあとには、四つ売れた。

そのうちの一つは、柴田さんだった。柴田さんは客席の中でキャラメルを食べ、出てくるとまっすぐ売店に来た。

「これよ、これ。先週わたしが言ったのは」

柴田さんはベンチで袋を開け、ひと粒食べて、首をかしげた。

「先週と、ちょっと違う?」

「下地を、塩にしたんです」

「ふうん」

柴田さんはもうひと粒食べた。それから、もうひと粒。

「わたしは、こっちのほうが好き」

それだけ言うと、袋の口を折りなおして、手提げにしまった。

「残りは、家で」

最終回の開場のとき、受付にいた河合が、売店に向かって小さく手を挙げた。灯がそちらを見ると、河合は目だけで、入ってきた客の一人を示した。

灰色のパーカー。リュック。

「先週の土曜、朝の回の人」

あとで売店に来た河合が、小声で言った。「今日は夜の回だね」

灰色のパーカーの人は、売店の前で立ち止まってガラスケースを見ると、塩の小さいカップを買い、客席に入っていった。カウンターの端の札には、気づいていないようだった。

灯は、何も言わなかった。

上映中、ロビーは静かだった。灯はかごの中の袋を数えた。十四。袋の口のシールを、ひとつずつ押さえなおした。

八時二十分、扉が開いた。

人の流れの中に、灰色のパーカーが見えた。その人は出口のほうへ歩きかけて、売店の前で足をゆるめた。ベンチで、もう袋を開けている人がいた。黒糖とカレー粉の匂いが、ロビーにただよっていた。

その人は鼻をすこし動かして、カウンターの札を見た。

「これ、先週の、黄色いやつですか」

「はい。先週のと、少し変えましたけど」

「先週、半分残したやつ、家で食べたんです。うまかった」

その人は財布を出した。

「二つください。一つはいま、もう一つはうちの人に」

灯はかごから袋を二つ取り、シールの「帰り道」の字が上になるように揃えて渡した。

その人はベンチの端に座って一つ目の袋を開け、ひと粒食べた。それから、ゆっくり、全部食べた。指が黄色くなって、その人は少し笑い、指をなめた。隣でそれを気にする人は、誰もいなかった。

閉館後、かごの中には七つの袋が残っていた。

「七つ」

野崎が言った。

「来週は、十五にします」

「そうしろ」

灯は残った袋のうち三つを開け、一つを野崎に、一つを河合に渡した。三人はロビーのベンチに並んで座った。スクリーンも客席も暗く、売店の電球だけが黄色くともっていた。

閉館後のロビーのベンチに並び、紙袋のポップコーンを食べる河合、灯、野崎。

河合が食べて、指をなめた。野崎は食べて、少し迷ってから、指をなめた。

灯もひと粒食べた。甘さが来て、辛さが追いかけてきて、最後に、塩がそれを受けとめた。

明日は、塩の釜から始めよう。それから、キャラメル。最後に、自分の黄色い衣。

灯は指をなめた。誰にも遠慮のいらない、静かなロビーだった。