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坂の上シネマ第2話
ミステリー

最前列に、だれも座らない

予約帳には親子の名前。映写室の窓から見下ろす最前列には、だれもいない。

読了目安
19分
長さ
短編
#謎解き#映画館#親子
最前列に、だれも座らないのイメージ

あらすじ

坂の上の小さな映画館で受付と映写を担当する河合悠は、映写室の小窓から客席の頭の動きを見るのが好きだった。ある土曜の最終回、いちばん前の席を予約した親子が確かに入ったはずなのに、窓から見る最前列には頭ひとつない。数えると、売れた券より二人足りない。もぐりこんだ客か、それとも自分の目か。翌朝、同僚と客席を試した河合は、窓からは見えない場所と、そこで起きていた小さな迷惑を知る。

一 いちばん前を、ふたつ

映写室の小窓から客席を見るのが、河合悠は好きだった。

上映が始まって目が暗さに慣れると、光の帯の下に、赤茶色の座席の背からいくつもの頭がのぞいて見える。はじめはばらばらに揺れていた頭が、ある場面でそろって前へ傾く。笑いの起きる場面では肩が小さく跳ね、静かな場面になると、どの影も動かなくなる。手元までは見えない。それは『港の時計屋』の初日の夜、売店の三浦灯とこの窓に顔を寄せたときに知った。それでも頭と肩の影があれば、客席がいま映画のどのあたりにいるのかはわかる。河合はそう思っていた。

坂の上シネマの客席には、十二席の列が八つ並んでいる。スクリーンに近いほうからA列、B列と数えて、いちばんうしろがH列。一列の十二席は切れ目なくつながっていて、通路は左右の壁ぎわに一本ずつある。ロビーからの両開きの扉は客席のうしろの真ん中にあり、入るとH列の背もたれとの間に横向きの通路が走っている。映写室は、その扉の真上の二階だ。

木曜の夕方、受付の電話に出たのは河合だった。

「土曜の、最後の回なんですが。いちばん前の列って、取れますか」

少しかすれた男の人の声で、うしろで子どもが何か言っていた。

「A列ですね。空いております。ただ、スクリーンにかなり近いお席ですが」
「子どもが、どうしても一番前がいいって言うので。真ん中より、ちょっと左のふたつ」
「では、A5とA6をお取りします」

名前は戸川といった。上映の十五分前までに受付で受け取ってほしいと伝えて電話を切ると、河合は予約帳の土曜の欄に書いた。

〈18:30 A5・A6 戸川様 2名(大人1・子ども1)〉

それから余白に、小さく〈親子〉と足した。顔を見たらすぐに結びつけられるように。

土曜は、『港の時計屋』の三週目だった。海沿いの町で古い時計を直す老人と、その店に通う少年の話で、台詞の少ない場面が長い。二回目の回には、いつものように柴田澄江がからし色のカーディガンでやって来て、E列の通路側に座った。売店では灯が、二週目に入った帰り道ポップコーンの袋をカウンターの端に並べていた。今週は一日十五袋だと、灯は朝から三回くらい言った。

最終回の開場は十八時。戸川親子が来たのは、十八時を少し過ぎたころだった。

父親は四十をいくつか過ぎたくらいで、紺の作業着の上着をはおっていた。目の下が少し暗い。その横から、小学校の中学年くらいの男の子が受付の窓口に顔を出した。左の手首に、子どもには大きすぎる銀色の腕時計を巻いている。ベルトの穴が足りないのか、手首の上でくるりと回った。

「戸川です。予約した」
「お待ちしておりました。A5とA6ですね」

河合が券を二枚出すと、男の子のほうが先に受け取った。券の〈A〉の字を、指でなぞる。

「お子さま用のクッションもお貸ししていますよ。前のお席でも、少し高く座れます」

窓口の横に重ねてある水色のクッションを示すと、男の子は首を横に振った。

「いらないです」
「借りとけよ、律。見えなかったら困るだろ」
「見えるよ。いちばん前だもん。四年生だよ」

律と呼ばれた男の子は、券を胸のポケットにしまった。

「その時計、動いてるの?」と河合は聞いた。

律は手首を窓口の台にのせた。秒針がちゃんと進んでいる。

「おじいちゃんの。予告で、時計の裏のふたを開けるとこがあったでしょ。歯車がいっぱい動いてるとこ。あれを、いちばん大きいとこで見たいの」
「いちばん前なら、歯車が律くんより大きく見えるよ」
「知ってる」

父親が少し笑って、すみません、と河合に頭を下げた。

二人は売店に寄った。灯の声が受付まで届く。父親は紙コップのホットコーヒーを、律はオレンジジュースを頼み、塩の小をひとつ二人で分けることになった。

「帰りに、こちらもどうぞ。映画のあとに食べる味なんです」

灯がカウンターの端の袋を示すと、父親は「帰りは、たぶん眠くて」と言って、あいまいに笑った。

客席の扉の前で、河合は二人の半券をちぎった。A5、A6。律は扉を抜けると横の通路を左へ走り、壁ぎわの通路をスクリーンのほうへ下りていった。父親はコーヒーをこぼさないように、そのあとをゆっくり追う。小さな背中が最前列の端から席に入っていくのを、河合は扉のところから見届けた。

十八時二十五分、河合は受付を店長の野崎航に任せて、扉の右横の階段をのぼった。

二 二十と、二十二

場内の明かりが落ちて、スクリーンに光が入った。

映写機が落ち着いたのを確かめてから、河合は小窓に顔を寄せた。十八時四十分。映画は、少年が初めて時計屋の戸を押す場面に入っていた。歯車の場面はまだ先だ。それでも、律がいまどんなふうに座っているのか、頭の影だけでも見ておきたかった。

最前列の背もたれは、スクリーンの光を背にして、黒い一本の線になっていた。

その線の上に、何もなかった。

眼鏡の縁がガラスに当たった。A列の左寄り、四つ目、五つ目、六つ目のあたり。背もたれの線はなめらかで、頭の丸みも肩の角もない。最前列はスクリーンにいちばん近い。頭があれば、いちばんはっきり影になるはずだった。

始まる前に移ったのだろうか。近すぎて、首が痛くなって。

河合はB列から順に頭を数えた。まばらな列はひとつずつ、詰まった列は指でなぞるようにして。G列まで数えて、二十だった。H列は、両端のほうにだれもいないのが見えた。

受付の控えでは、この回の券は二十二枚売れている。のぼる直前に見たから、まちがいない。

二つ足りない。足りないのは、よりによって、さっき顔を覚えたばかりの二人だった。

数えなおしても二十だった。子どもの頭は小さいから、どこかの大人の陰に入っているのかもしれない。それでも、父親の頭まで消える理由は思いつかなかった。

映写に問題がないのを確かめて、十八時五十分すぎに河合は階段を下りた。受付では野崎が、ラミネートの座席表に鉛筆で印をつけていた。売れた席を塗っていく表だ。

「一人、遅れて来た。仕事が長引いたって。うしろの真ん中が空いてたから、H6に入れた」
「H6」
「あと、事務室に電話が来て、五分くらい外した。扉の前は空けてた」

河合はうなずいて、売店へ行った。灯はポップコーン機のまわりを拭いていた。

「三浦さん、上映が始まってから、客席から出てきた人っている?」
「始まってすぐ、お手洗いの女の人がひとり。すぐ戻りました。それだけです。どうしたんですか」
「いや。あとで話す」

扉を開けて、懐中電灯で最前列まで下りてみようか、と河合は思った。けれどもいまは、雨の音と秒針の音だけが続く場面のはずだった。あの静けさのなかで、通路を照らして歩けば、客席のだれもがそれに気づく。河合は扉の取っ手から手を離した。終われば出てくる。

二十時二十分、扉が開いた。

最初に出てきた何人かのなかに、紺の作業着があった。戸川の父親はあくびを手の甲で押さえながら、ロビーのベンチのそばで立ち止まった。早いな、と河合は思った。最前列からなら、いちばん最後になるはずだった。

律が出てきたのは、本当に最後だった。手首の時計を見ながら、父親に駆け寄った。

「お父さん、裏ぶた開けるとこ見た? 歯車が、ばーって」
「見た見た。すごかったな」
「どこがすごかった?」
「……ぜんぶ」

律は何か言いかけて、やめた。二人はそのまま、ガラス扉から商店街へ出ていった。

帰り道ポップコーンの前には、灰色のパーカーの男性客が来ていた。この回の常連で、リュックをカウンターに下ろすと、袋をひとつ選んだ。会計をしながら灯に小声で話すのが、受付まで聞こえた。

「今日、遅れて入ったら、ぼくの席に知らない人が寝てて。うしろの真ん中の。起こすのも悪くて、隣にずれました」
「えっ。すみません、それは」
「いえ、暗かったし。……よく寝てました」

客席の掃除は、河合と野崎でした。最前列のA5の足もとに、空のオレンジジュースのカップと、塩の小の空き容器があった。A6には何もなかった。うしろに回ると、H6の足もとに飲み終えた紙コップがひとつ転がっていて、コーヒーの匂いが残っていた。うしろでコーヒーか、と河合は思っただけで、それをごみ袋に入れた。

閉館後、ロビーのベンチで、河合は二人に話した。予約帳、半券、窓から見た最前列、二十と二十二。

「取り置きのまま、来なかったんじゃないのか」と野崎が言った。
「半券は自分でちぎったんです。最前列に入るところも見たし、出てくるところも見た」
「最前列に座ると、消えちゃうとか」と灯が言った。言ってから、自分で笑った。「すみません。じゃあ、前が近すぎて、どこかに移ったんじゃないですか。首が痛くて」
「移っても、頭は残る。二十のなかにいないとおかしい」

河合は、パーカーの客の話を思い出していた。H6で寝ていた人。野崎が扉の前を空けていた五分。

「店長が事務室にいた間に、券を持ってないだれかが入って、空いてたH6で寝ていたのかもしれない」

野崎の眉が寄った。

「もぐりか。それは困るな。来週から、上映中に扉の前は空けない」
「でも」と灯が言った。「もぐりの人がいたら、頭は増えるんじゃないですか。河合さんが数えたのは二十で、券より少ないんですよね」

河合は答えられなかった。もぐりがいたとしても、戸川親子が見えなかったことは変わらない。足りない数によけいなだれかを足せば、もっと合わなくなる。

合っていないのは、券のほうではないのかもしれない。

「明日の朝、客席を試させてください」と河合は言った。「窓から、どこまで見えるのか」

野崎は少し考えて、「開館の三十分前までな」と言った。

三 窓の下

日曜の朝、河合は映写室で『港の時計屋』を途中から映した。客席の明かりは消したまま、スクリーンの光だけで見るためだ。

灯の携帯に電話をかけ、つないだまま窓辺に置いた。小さなスピーカーの向こうで、灯が左の通路を下りていく足音がした。

「A5に座りました」
「まっすぐ座ってみて」

最前列の背もたれの線の上に、丸い頭と、うしろで一つに結んだ髪の先がのった。はっきり見える。

「見えてる。じゃあ今度は、映画を見るつもりで見て。お客さんとして」
「はい」

スクリーンでは、老人が少年にピンセットの持ち方を見せていた。窓から見ればただの大きな手だが、最前列からなら、指一本が人の背丈ほどあるだろう。

背もたれの上の頭が、少しずつ沈んでいった。髪の先が線の下に消え、頭のてっぺんが消えた。最前列の線は、また何もないなめらかな一本に戻った。

「三浦さん、いまどこを見てる?」
「上です。見上げてます。首が疲れるから、お尻が勝手に前に……あ、ずり下がってます、わたし」
「こっちからは、もう見えない」
「え、ほんとですか」

線の上に、手がひらひらと出た。それから頭が戻ってきた。

開館前の最前列で体を低くして座り、片手を上げて見え方を試す灯。

灯は大人で、律よりずっと背が高い。律はクッションを断っていた。最前列の律は、座ったときから背もたれの陰にいたのかもしれない。

「じゃあ次。うしろに行って、H6」

灯の足音が通路をのぼってきて、携帯から「座りました」と聞こえた。

河合は窓の下をのぞいた。見えるのは、扉の上の壁と、H列の背もたれの端のほうだけだった。真ん中は、窓の下の縁に切られていた。窓は小さく、壁は厚い。眼鏡をガラスにつけても、真下の暗がりは縁の内側に隠れている。

「手、振ってみて」
「振ってます。すごく」
「見えない」

灯にH列の席をひとつずつ動いてもらった。H3は斜めに見えた。H4は肩の端だけ。H5からH8までは、何も見えなかった。H9からまた見えた。ひとつ前のG列に移ってもらうと、真ん中でも頭の上半分がのぞいた。

ここから客席は全部見える。初日の夜、灯にそう言ったのを河合は思い出した。言ったあとで、手元は見えないと気づいたのだった。頭も同じだった。見えているのは、見えるところにある頭だけだ。

昨日の二十に、見えない二つを足せば二十二になる。最前列で背もたれの陰に沈んだ律と、窓の下の暗がりにいただれか。

「河合さん」と携帯から灯が言った。「交代しませんか。河合さんも、前に座ってみたら」

河合は映像を少し戻した。予告にもあった、裏ぶたを開ける場面の手前まで。それから階段を下りて、左の通路を最前列まで歩いた。灯は途中ですれちがうとき親指を立てて、階段をのぼっていった。

A5に座った。

スクリーンは、壁というより空だった。老人の爪が裏ぶたの縁にかかり、ふたが外れる。真鍮の歯車がいくつも、それぞれの速さで回っていた。いちばん大きい歯車は、河合が両腕を広げたより大きい。小さな歯車がそれを押し、大きな歯車がもっと小さな歯車を回す。秒針の音がスピーカーからではなく、歯車の奥から聞こえてくる気がした。

全体を見ようとすると首が上がる。首が上がると、背中が勝手に背もたれをすべっていく。河合は、自分がどんな格好になっているのか、場面が変わるまで気づかなかった。

うしろで扉の開く音がして、灯が通路を下りてきた。

「消えてました。河合さん、背が高いのに。窓からだと、最前列にだれも座ってないみたいでした」

河合は座りなおした。座面の端に、昨日の律の重さが残っているような気がした。

「昨日、律くんは、ここにいたんだと思う」
「じゃあ、H6で寝てたのは」
「掃除のとき、H6の足もとにコーヒーの紙コップがあった。A6には何もなかった」

灯はしばらく黙って、それから言った。

「最終回で、コーヒーは一杯しか出てません。戸川さんのお父さんです。帰りは眠くて、って言ってました」

二人のうち一人は、明かりが落ちたあとでうしろへ移った。空いていたH6へ。そこで眠った。それから十五分ほどして、野崎がその席を、遅れて来たパーカーの客に売った。客は暗いなかで、自分の席に眠る人を見つけて、隣にずれた。

もぐりはいなかった。予約帳も、半券も、合っていた。合っていなかったのは、窓から見えるものを全部だと思ったことだけだった。

それでも、と河合は思った。父親は、買っていない席に座った。そのせいで、券を買った人が自分の席に座れなかった。眠っていた本人は、それを知らない。

開館前に事務室で話すと、野崎は座席表を見ながら聞いていた。

「もぐりじゃないなら、扉の件はいい。うしろに座りたいなら、うしろの席を買ってもらう。それだけだ」
「言い方が、難しくて」
「言い方は任せる。子どもの前で恥をかかせたいわけじゃないだろ」

それは、河合が考えていたことと同じだった。

月曜の休館日をはさんで、水曜の昼に、また戸川から電話があった。

「土曜の最後の回、また一番前のふたつ、いいですか。同じとこ」
「A5とA6ですね。お取りします」

河合は鉛筆を持ったまま、少しだけ迷った。

「お父さまも、前のお席でご覧になりますか」

電話の向こうが、一拍だけ静かになった。

「……ええ。はい」

河合は予約帳に先週と同じことを書いた。余白には〈親子〉ではなく、〈受け取りのとき、お父さまと話す〉と書いた。

四 いちばん前の顔

土曜の十八時すぎ、戸川親子は先週と同じくらいの時刻に来た。律の手首では、今日も大きな時計がくるりと回っていた。

「律くん、ポップコーンの機械、近くで見る? いまからひとつ作るとこなんだ」

灯がカウンターから声をかけると、律は父親を見上げてから、売店へ走っていった。打ち合わせたとおりだった。

河合は券を二枚、窓口の台に置いた。それから、券から指を離さずに言った。

「戸川さん。先週、上映が始まってから、うしろのお席に移られましたよね。H6に」

父親の顔から、さっと色が引いた。それから首のうしろに手をやった。

「……見えてましたか」
「いえ。映写室からは見えませんでした。あとで、わかりました」

父親は売店のほうをちらりと見た。律はガラスケースに顔を寄せて、はじける豆を見ている。

「土曜も朝から現場で。一番前だと首が痛いし、あの映画、静かでしょう。座ってると、どうしても。律はひとりで一番前に座りたがるし、うしろはがらがらだったから、一つくらいいいかと思って」
「先週、あのお席は途中で売れたんです。遅れていらしたお客さまが、暗いなかでご自分の席に戸川さんがいるのを見つけて、隣にずれてくださいました」

父親は目をつぶって、長く息をはいた。

「……すみません。それは、ほんとうに」
「うしろでご覧になるなら、うしろのお席をお買いいただけますか。A6はお戻しします。律くんの隣に、ほかのお客さまが座ることもありますが」

父親は少し考えてから、売店に向かって「律」と呼んだ。戻ってきた律の前に、父親がしゃがんで小さな声で話した。律は河合を見て、それから父親を見て、肩をすくめた。

「いいよ。隣、知らない人でも。映画見てるんだから、関係ないでしょ」

父親はA6の券を返して、うしろの列の券を一枚買った。H7だった。河合が座席表に鉛筆を入れていると、父親が小さく笑った。

「そこは、窓から見えないんですか」
「見えません。ちょうど窓の下なので」
「助かり……」と言いかけて、父親は口を押さえた。

十八時二十分すぎ、灰色のパーカーの男性客が入口のガラス扉を押した。今日は時間どおりだ。河合はその顔を見て、父親に小さくうなずいた。父親は客のそばまで行って、頭を下げた。

「先週、うしろの席で寝ていたのは、わたしです。あなたの席だったって、いま聞きました。すみませんでした」

客は目を丸くして、それから少し困ったように笑った。

「ああ……あのとき。隣で、ちょっといびきが」

父親の耳が赤くなった。客はそれ以上は言わず、リュックを背負いなおして券を買った。今日はG6。父親のH7の、ひとつ前の列だった。

「もし今日もうるさかったら、起こしてください」と父親が言った。
「そうします」と客は言った。

律は今日もクッションを断った。

「映写室からは、見えなくなるよ」と河合は言った。
「いいよ」

律は券を胸のポケットに入れて、左の通路を駆けていった。最前列の端から、背もたれの陰に入っていく。父親は先週より少しだけ堂々とした足取りで、うしろの横通路を真ん中まで歩いた。

明かりが落ちて、映画が始まった。

窓から見る最前列の線には、今日も何もなかった。A6が戻ってから前の列の券を買った人はいなかったから、そこにいるのは律ひとりのはずだった。H7は窓の縁の下だ。河合は頭を数えなかった。

十八時五十分すぎに、いつものように受付へ下りて、野崎と並んで座った。十九時を少し回ったころ、河合は「五分だけ」と言って立ち上がった。

「何か気になるのか」
「裏ぶたを開けるところです。音の大きい場面のうちに、通路を歩きます」

初日の夜、灯と客席のうしろに立ったとき、客は大きな音にまぎれて食べ、静かな場面では手を止めるのだと知った。歩くのも同じだ。港に船が入って汽笛が鳴る場面を待って、河合は扉を細く開け、横の通路から左の通路へ入った。懐中電灯はつけなかった。壁に手をそえて、腰をかがめて下りる。

最前列の左端の横、壁ぎわでしゃがんだ。

スクリーンの光が、横からA列を照らしていた。A5に律がいた。背もたれに頭までうずめて、ほとんど寝そべるように座っている。汽笛がやんで、老人の爪が裏ぶたの縁にかかった。ふたが外れて、歯車があらわれた。

律の口が、すこし開いた。横顔がまるごと、歯車の光で金色になった。律は左の手首を持ち上げて、自分の時計をスクリーンのほうへかざした。大きな歯車と、手首の小さな文字盤を見比べるように。

窓からは決して見えない顔だった。河合はしばらくそこにしゃがんでいて、次に大きな音が来たところで、通路をのぼって扉を抜けた。

壁ぎわの通路にしゃがむ河合と、左腕の大きな時計をかざして映画を見る律。

二十時二十分。最初に出てきたのは、今日もあくびをかみ殺した父親だった。灰色のパーカーの客がそのすぐあとから出てきて、父親に何か言った。父親が笑って首を振った。いびきは、たぶん小さかったのだろう。

律は最後に出てきた。父親より先に、受付の窓口へ来た。

「ねえ、映写室から、ぼく見えた?」
「見えなかった」
「やっぱり」

律はうれしそうだった。

「でも、いるのは知ってた」

律は少し考えて、それから声を落とした。

「お父さんがうしろで寝てるの、ぼく知ってたよ。先週、終わって振り向いたら、隣にいなかったもん。だから一番前がいいの。ひとりで見てるみたいでさ」

うしろで父親が、あーあ、と天井を見上げた。

「お父さん、今日は歯車見た?」
「……途中まで」

律は満足そうにうなずいて、父親の手を引いた。二人は売店で塩の小をひとつ買って、ガラス扉から商店街へ出ていった。坂を下りていく二つの頭が、入口の明かりのなかでしばらく見えていた。

掃除がすんでから、客席の明かりをつけたまま、河合はもう一度A5に座った。

スクリーンは白い幕で、何も映っていない。それでも見上げると首が上がり、背中が背もたれをすべった。この館の最前列には、だれも座らない。窓から見れば、きっといまもそう見える。

「河合さん?」

うしろの扉のところで、灯の声がした。客席を見回しているらしい。

河合は背もたれの上に、片手を高く上げた。

「いるよ。ここ」