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坂の上シネマ第3話
日常

エンドロールの、つづき

四十三年通った映画館の案内役。持ち時間は五分。話したい思い出は、便箋八枚ぶんあった。

読了目安
24分
長さ
短編
#ほっこり#映画館#世代をこえた友情
エンドロールの、つづきのイメージ

あらすじ

坂の上の小さな映画館に四十三年通う柴田澄江は、はじめて来る人のための回で、上映前の案内を頼まれた。うれしくて書いた思い出は、予行で二十分を超えてしまう。はじめて館に入る高校生のひよりが知りたかったのは、お手洗いの場所と、途中で出てもいいのかと、映写室の中だった。古い半券に残る姉の字から、澄江は自分の「いつもの席」の理由を思い出す。案内のあと、客席に座ったひとりの客として、澄江はこの作品の最終上映を楽しむ。

一 五分だけ

柴田澄江が坂の上シネマに来るのは、土曜の二回目と決まっていた。昼を家で軽くすませ、布の手提げに眼鏡と薄いひざかけを入れて、商店街のゆるい坂をのぼる。ガラスの扉を押すと、左の受付で河合が顔を上げ、何も言わないうちに座席表のE列のいちばん左に鉛筆の印をつける。澄江はその一瞬が、少し誇らしかった。

その日、『港の時計屋』を見るのは三度目だった。

上映が終わってロビーに出ると、売店の前で三浦灯が手を振った。深緑のエプロンの紐を結び直しながら、カウンターから出てくる。

「柴田さん、少しだけお時間いいですか。店長から、お願いがあって」

事務室の扉が開いて、野崎が出てきた。灰色のセーターの袖を肘までまくり、手に一枚のちらしを持っている。商店街の秋のスタンプラリーだった。坂の下の店から坂の上まで、七つの店をまわってはんこを集める。その七つめが、この映画館になっていた。

「ラリーの最後の日曜に、はじめて来る人向けの回をやります。『港の時計屋』の最終日、十一時の回です」と野崎は言った。「カードを持ってきた人は、券を少し安くする。差額は商店街の会とうちで半分ずつ」

「あら、いいじゃない」

「それで、始まる前の五分、だれかに館の案内をしてもらいたいんです。河合は映写があるし、三浦は入って一か月だし、わたしは」野崎はちらしで自分の顎を軽くたたいた。「しゃべると予算の話になる」

灯が横から言った。「柴田さんがいいって、わたしが言ったんです。この館のこと、いちばん知ってる人だから」

澄江は胸のあたりが急にあたたかくなるのを感じた。四十三年通っている。その年数を、だれかに数えてもらったことはなかった。

「わたしでいいの? 店員さんでもないのに」

「店員じゃないので、頼むのは前の五分だけです」と野崎は言った。「受付も案内も、当日はこっちでやります。そのかわり、その回の柴田さんの券はうちで持ちます。お礼はそれくらいしか出せません」

「券なんていいわよ。自分で払うわ」

「仕事を頼むので」

野崎がそれ以上言わないので、澄江は「じゃあ、その日だけね」とうなずいた。

受付の横では、制服のブレザーの女の子が、ラリーのはんこと朱肉を小さな箱に詰めていた。前髪をピンで留めている。灯が呼ぶと、ぺこりと頭を下げた。

「宮下ひよりさん。坂の下の文房具屋さんの。ラリーのお手伝いで、当日はここの受付の横で、はんこを押してくれます」

「宮下さんのとこの」澄江は目を細めた。「便箋、いつもあそこで買ってるのよ。お孫さん?」

「娘です。店は父が」ひよりは少し笑った。「あの、わたし、ここ入るの初めてで」

「初めて? あの坂の下に住んでて?」

言ってから、澄江は自分の声が少し大きかったと思った。ひよりは首をすくめ、「なんか、外から見ると……」と言いかけて、言葉を探すように朱肉の箱のふたを閉めた。「映画は、だいたいスマホで見ちゃうので」

「じゃあ、ちょうどいいわ。その日に、ぜんぶ教えてあげる」

受付の窓口から河合が言った。「予行は、火曜の夕方でどうですか。二回目と最終回のあいだなら、客席が空きます。宮下さんにも座ってもらえると、はじめての人の側から見られる」

「火曜、部活ないです」とひよりが言った。

その夜、澄江は台所のテーブルに便箋を広げた。宮下文具店で買った、薄い水色の罫の便箋だった。

はじめて坂の上シネマに来た日のこと。椅子がまだ緑色だったこと。冬にストーブが壊れて、みんなコートを着たまま見たこと。前の映写の中村さんが、ピントがずれると客席に向かって「直します」と声をかけたこと。売店で夏に冷凍みかんを売っていたこと。

書きはじめると、思い出は順番を待たずに出てきた。五分。五分で、ここがどういう場所かを伝えるのだ。澄江は一枚目の端に小さく「五分」と書き、その上に八枚目の便箋を重ねた。

二 二十分を過ぎて

火曜の四時四十分、二回目の客が帰ったあとの客席は、明かりがついていて、思っていたよりずっと広かった。

赤茶色の座席が八列、横に十二ずつ並んでいる。澄江はスクリーンの前、A列の座席と向かい合うところに立った。いつもE列の左の端から見上げている幕を、背中に感じる。客席のほうを向くと、全部の椅子の背が自分を見ているようだった。

ひよりはD列の真ん中に座った。学校帰りで、ブレザーのままだった。灯がその二つ隣に座り、河合は左の通路の壁ぎわに立って、手の中のストップウォッチを見せた。

「五分で一度だけ合図します。止めはしません」

「止めなくていいわよ。五分なんて、すぐだもの」

澄江は便箋を開いた。

「わたしが初めてここへ来たのは、十九のときでした。姉に連れられて」

声は思ったより響いた。最初のうち、ひよりはまっすぐこちらを見ていた。緑の椅子の話で、少し笑った。ストーブの話で、灯が「えっ、コートで」と小さく言った。中村さんの「直します」のところで、河合が壁ぎわでわずかに顔を上げた。

河合が片手を上げたとき、澄江はまだ便箋の二枚目にいた。

「ええ、わかってる。もう少しね」

三枚目で、そのころかかっていた映画の話をした。題名を言い、どの場面で泣いたかを言い、姉がその帰りに坂の途中で買ってくれたたい焼きの話をした。四枚目で、二十年ほど前に座席を張り替えたときの話をした。古い緑の椅子を一つもらって帰りたかったのに、言い出せなかったこと。

ひよりの目が、ときどきスクリーンの端や、扉のほうや、天井の暗い隅へ動くようになった。膝の上でスマートフォンを裏返し、また裏返した。灯は最後までこちらを見ていたが、途中から、何かを言いたいのをこらえている顔になった。

六枚目に入ったところで、河合がストップウォッチを押した。かちり、と小さな音がした。

「二十分を過ぎました」

澄江は便箋から顔を上げた。二十分。自分の声が、まだ客席の奥に残っている気がした。

「まあ、だいぶ削らなきゃね」と澄江は笑った。笑ったつもりだった。「でも、どれを削っていいかわからないのよ。どれも、ここのことだから」

灯がそっと手を挙げた。

「わたしは、全部おもしろかったです。冷凍みかん、売店で売れないかなって、ちょっと思いました」言ってから、灯はまっすぐ澄江を見た。「でも、長いです。当日は五分なので。ほんとに五分です」

「わかってるわよ」

声が少しとがった。言い直そうとして、澄江はやめた。灯の言うことは正しかった。正しいことを、こんなに若い人から、こんなにまっすぐ言われるのは久しぶりだった。

河合が、ひよりのほうを向いた。「宮下さんは、何が知りたかったですか。初めて来る人として」

ひよりは困った顔をして、それから思いきったように言った。

「あの……トイレって、どこですか」

灯が吹き出しかけて、口を押さえた。

「あと、途中でトイレに行きたくなったら、出てもいいんですか。出たら、また入れますか。暗いと、自分の席がわからなくなりそうで」ひよりは早口になった。「あと、ポップコーンって、食べてる音、うるさくないですか。静かな映画なんですよね」

澄江は便箋を持ったまま黙った。八枚の便箋は、その質問のどれにも答えていなかった。

「それと」ひよりは振り返って、うしろの壁の高いところを見た。両開きの扉の上に、小さな窓が暗く開いている。「あそこ、映写室ですか。わたし、あそこから見るのがどういう感じか、ちょっと見てみたいです。映画より、そっちのほうが気になってるかも」

言ってから、ひよりは慌てて澄江に頭を下げた。「すみません。昔の話も、おもしろかったです」

「いいのよ」と澄江は言った。いいのよ、と言いながら、便箋を四つにたたんでいた。

河合が事務室へ野崎を呼びに行き、野崎は客席の扉のところに立って話を聞いた。映写室は狭い。大人が三人入れば肩がぶつかる。

「終わったあと、三人ずつ、五分。上がりたい人だけ」と野崎は言った。「十三時二十分までに全部すませる。次の回の準備があるから。階段は急なので、河合が先に上がって、一人ずつ手を貸す」

「わかりました」と河合が言った。

ひよりの顔がぱっと明るくなるのを、澄江は見た。自分の二十分では、あの顔は出てこなかった。

帰り道、坂を下りながら、澄江は手提げの中の便箋の角を指でさわった。思い出が長いのは、四十三年あるからだ。それの何が悪いのだろう。そう思う一方で、ひよりがスマートフォンを裏返す小さな音が、耳のどこかに残っていた。

三 はじめての人の質問

水曜の昼すぎ、澄江は宮下文具店の戸を開けた。カードを買うつもりだった。便箋だから長くなるのだ。小さな紙なら、書けることも小さくなるはずだった。

レジに座っていたのは、ひよりだった。

「あら、学校は?」

「試験の前で、午前だけなんです」ひよりは単語帳を閉じた。「父が配達に出てて、店番です」

澄江は白い無地のカードを一束と、細いペンを一本、レジに置いた。ひよりはそれを袋に入れながら、ちらりと澄江を見た。

「昨日、すみませんでした。トイレとか言って」

「何がすみませんなの。トイレは大事よ」澄江は財布を開けた。「わたしのほうこそ。二十分もしゃべって」

ひよりは少し迷ってから、言った。

「わたし、ほんとはずっと、あそこに入ってみたかったんです。毎日前を通るし。でも、ガラス越しに見ると、中の人がみんな知り合いみたいで。受付の人が、来た人の顔を見ただけで何か書くじゃないですか。ああいうの、入ったら、なんで知らない人が来たんだろうって思われそうで」

澄江は財布の口を開けたまま、手を止めた。河合が、何も言わないうちにE列の左の端に印をつける。あの一瞬が、自分はいちばん好きだった。

「それ、わたしのことね」

「えっ、いえ、柴田さんっていうか……」ひよりは赤くなった。「常連さんがいるところ、って感じで」

澄江は笑った。笑ってみると、少しも悔しくなかった。あの印がガラスの外から見えていたことが、むしろおかしかった。

「わたしだって、最初は知らない人だったのよ」

「十九歳で、お姉さんと」

「覚えてるの」

「二十分ありましたから」

ひよりが真顔で言うので、澄江はもう一度笑った。

おつりを受け取ったところで、ひよりがふいに聞いた。

「柴田さんも、当日、見るんですよね。映画」

「見るわよ。前で話して、それから」

「よかった。前で話す人って、終わったら、どこか裏に行っちゃうのかと思って」

澄江は袋を受け取って、うなずいた。そういえば、当日のことを思い浮かべるとき、自分はいつもロビーに立っていた。はんこの机の横で、迷った人にお手洗いの場所を教えている。客席に座っている自分を、まだ一度も思い描いていなかった。

その夜、澄江は押し入れから半券帳を出した。分厚い大学ノートが五冊ある。いちばん古い一冊は表紙の角が丸くなり、セロハンテープが黄ばんで、何枚かの半券は浮いていた。

一枚目は、十九の秋の半券だった。余白に鉛筆で「E-1」とある。自分の字ではない。姉の字だった。

あの日、明かりが落ちる前に、姉は澄江に耳打ちしたのだった。お手洗いに行きたくなったら、通路側なら黙って出られる。戻るときは、うしろの扉から入って、目が慣れるまで扉の前で待つこと。食べるなら、音の大きいところで。終わっても、明るくなるまで座っていなさい。そこまでで一本だから。

四十三年、澄江はE列の通路側に座ってきた。それが自分の席だと思っていた。なぜその席なのかは、もうずいぶん長いあいだ、考えたことがなかった。

澄江は白いカードを一枚取り、細いペンで書いた。

〈お手洗い ロビーの奥。事務室の隣〉

二枚目。

〈途中で出てもいい。通路側なら気がらく。戻るときは扉の前で、目が慣れるまで待つ〉

三枚目には〈食べるのは、音の大きいところで〉。四枚目には〈エンドロール 立っても、座っていても。わたしは座ってる〉。

書きながら、澄江は自分が四十三年前の姉の声で書いていることに気づいた。思い出を削っているのではなかった。思い出の中にしまってあった答えを、ひとつずつ取り出しているのだった。

五枚目は、なかなか書けなかった。緑の椅子のことを入れたかった。入れれば、はじめての人には関係のない話になる。入れなければ、自分がこの館の案内をする意味が、少しだけ薄くなる気がした。

澄江はペンを置いてお茶をいれ、もう一度座って、五枚目に一行だけ書いた。

〈この椅子は、昔は緑だった〉

それから六枚目に〈終わったら、ロビーで〉と書きかけて、手を止めた。聞きたい人がいるかどうか、わからない。はじめて来た人を、帰りにまで引き留めるのは案内ではない気がした。澄江はそのカードを束から抜いて、いちばん古い半券帳の最後のページにはさんだ。

土曜の二回目、澄江はいつものように坂をのぼった。受付で河合が、何も言わずにE列の左の端に印をつけた。澄江はそれを見て、今日は少しだけ、ガラスの外を振り返った。

上映の前に、売店で灯に五枚のカードを見せた。

「五分にしたわ」

灯は一枚ずつめくり、三枚目で手を止めた。〈食べるのは、音の大きいところで〉。

「これ」灯は少し口を開けたまま、澄江を見た。「わたし、これ、初日に客席のうしろで知ったんです。知ってたんですか」

「姉に教わったのよ。四十三年前に」

灯は笑って、カードを返した。「長かったって言って、すみませんでした」

「長かったのは認める」澄江はカードを手提げにしまった。「でも、中身はまちがってなかったでしょう」

「はい」と灯は言った。

帰りがけ、澄江は野崎に、当日に半券帳を持ってきていいかと聞いた。ロビーのベンチに置いておいて、見たい人が見られるように。

野崎は少し考えてから言った。「上映中にロビーに置きっぱなしにするのは、やめてください。なくなっても、うちでは責任がとれないので。持って入るなら、どうぞ」

「じゃあ、膝にのせておくわ」

「それと、柴田さんが一人で番をするのもなしで。見せるのは、柴田さんがロビーにいるあいだだけ」

澄江は「はいはい」と言った。言われなくても、と思った。けれど言われてみると、言われなければロビーに立ちっぱなしになりそうな自分がいた。

四 はじめての日曜日

日曜の朝、澄江は十時二十分に坂の上シネマに着いた。ガラスの扉の内側で、ひよりが受付の横の小さな机に、はんこと朱肉を並べていた。生成りのセーターに、斜めがけの小さな鞄。今日は制服ではなかった。

「おはようございます。緊張してます?」

「してないわよ」と澄江は言い、手提げの持ち手を握り直した。

十時半に開場すると、ラリーのカードを持った人が、ぽつぽつと入ってきた。坂の中ほどのクリーニング店の夫婦。自転車屋で見かける若い店員。小学生の娘を連れた母親。会社員らしい一人の女性。ひよりは一人ずつのカードにはんこを押し、押すたびに少しだけ得意そうな顔をした。最後に、自分のカードにも押した。七人目だった。

いつもの日曜の客もいた。澄江が顔だけ知っている人も、知らない人もいた。クリーニング店の奥さんがロビーを見回して、「こんなふうになってたのね」と言った。五十年、坂の中ほどで店を開けていて、一度も入ったことがなかったという。

ひよりは売店で塩の小を買い、灯に小声で聞いていた。「静かな映画でも、食べていいんですか」

「柴田さんが、あとで言いますよ」と灯は言った。

澄江はロビーの真ん中で、迷っている人がいないか見ていた。自転車屋の若い人が、券を持ったまま売店と客席の扉を見比べている。澄江が一歩踏み出したとき、灯が売店から「客席は、正面の扉です」と先に声をかけた。

澄江は踏み出した足を、そっと戻した。

十時五十分、客席の明かりをつけたまま、河合が澄江を前へ案内した。スクリーンの前に立つと、火曜とはまるで違っていた。椅子の背の向こうに、人の顔があった。数えなかった。数えたら声が出なくなりそうだった。

D列の左の端に、ひよりが座っていた。火曜は真ん中だったのに、と思ってから、澄江は気づいた。そこは、いつも自分が座るE列の左の端の、すぐ前の席だった。

澄江は手提げからカードを出した。一枚目を見る前に、口が勝手に開いた。

「わたしが初めてここへ来たのは」

ひよりと目が合った。ひよりは小さく、膝の上のスマートフォンを指さした。電源は切ってある、という合図だった。澄江はひと呼吸置いて、カードに目を落とした。

「……お手洗いの話から、しますね。ロビーの奥、事務室の隣です」

クリーニング店の旦那さんが、うん、とうなずいた。

「映画の途中で出ても、だいじょうぶです。通路側の席だと、気がらくです。戻ってきたら、うしろの扉の前で少し待ってください。目が慣れると、自分の席が見えてきます」

ひよりが、自分の座っている通路側の肘掛けを、そっとさわった。

「この映画は、静かなところが長いです。売店のものを食べるなら、音の大きいところで。汽笛が鳴るところがあります。あそこはおすすめ」

小さな笑いが起きた。客席のうしろの扉の隙間から、灯が親指を立てるのが見えた。

「終わったら、エンドロールが流れます。立って帰ってもいいです。座っていてもいいです。わたしは座ってる派です。明るくなるまでが、この館の一本だと思っているので」

澄江は五枚目のカードをめくった。一行しか書いていなかった。

「この椅子は、昔は緑色でした」

だれかが、へえ、と言った。澄江はそれで、もう十分だと思った。

「わたしは四十三年、ここに通っています。今日は、みなさんと同じお客です。どうぞ、楽しんでください」

頭を下げると、拍手が来た。思っていたより、ずっとまばらだった。それでも、手をたたいている人の顔が見えた。壁ぎわで河合がストップウォッチを見せた。四分と少しだった。

澄江は左の通路をのぼり、E列の左の端に座った。いつもの席だった。手提げを膝にのせると、半券帳の固い表紙が布越しにわかった。河合が客席の扉から出ていき、しばらくして、明かりがゆっくりと落ちた。

最初のうち、澄江はスクリーンより、すぐ前の暗がりを見ていた。ひよりの頭が、少し前のめりになっている。だいじょうぶだろうか。クリーニング店の夫婦は、うしろのほうに座ったはずだった。旦那さんは耳が遠いと、奥さんが言っていた。聞こえているだろうか。小学生の女の子は、ちゃんと座っていられるだろうか。

少年が店の戸を押す場面が過ぎ、雨と秒針の音の場面が過ぎた。澄江はそのどちらも、ほとんど見ていなかった。ひよりの頭が少し傾いた。眠いのかと思ったら、姿勢を変えただけだった。

汽笛が鳴った。

客席のあちこちで、容器がかさりと鳴った。小学生の女の子の小さな笑い声がした。すぐ前で、ひよりの手が膝の上の塩の小へ動いた。音の大きいところで。カードのとおりだった。

その音を聞いて、澄江はようやく、自分がこの回をまだ何も見ていないことに気づいた。四回見た映画だった。それでも、この館でこの映画がかかるのは今日で最後で、今日の自分は案内の人ではなく、券を持って座っている客のはずだった。

ひよりが自分で汽笛のところを見つけたのなら、もう、自分が見張っている必要はなかった。

澄江は膝の上の手提げを足もとに下ろし、背もたれに背中をつけた。スクリーンの中で、老人が時計の裏ぶたに爪をかけていた。真鍮の歯車が、ゆっくりと光った。五度目なのに、そこで澄江は小さく息をのんだ。

左端の前後の席で、映画に見入る澄江と生成りのセーターを着たひより。

最後の場面のあと、エンドロールが流れはじめた。黒い画面を白い文字がのぼっていく。だれかが立ち上がり、通路を静かに出ていった。それでいい、と澄江は思った。立ってもいいし、座っていてもいい。

澄江は座っていた。すぐ前の、ひよりの頭も動かなかった。

文字が終わり、黒い画面が少しだけ残って、それから客席の明かりが、落ちたときと同じようにゆっくりと戻った。

五 エンドロールの、つづき

ロビーに出ると、河合が客席の扉の横で、映写室に上がりたい人を聞いていた。ひよりが真っ先に手を挙げた。小学生の女の子と母親が続き、自転車屋の若い人と会社員の女性も手を挙げた。

「三人ずつです。宮下さんと、そちらのお二人から。ほかの方は、少し待っていてください」

河合が先に階段を上がり、一人ずつに手を貸した。ひよりは一段目に足をかけながら振り返り、なぜか澄江に小さく手を振った。

待つ人がロビーに残った。自転車屋の若い人は、手持ちぶさたにコルクボードの案内を読んでいた。会社員の女性は、売店で灯から温かいコーヒーを買っていた。クリーニング店の夫婦はベンチに座り、旦那さんが「階段はね」と奥さんに言っていた。上がらないことにしたらしい。

澄江は手提げの持ち手を握った。半券帳が中にある。出すなら、いまだった。けれど、だれも頼んでいない。火曜の客席で、スマートフォンが裏返る音を思い出した。

奥さんが澄江に気づいて、会釈した。

「さっきの、緑の椅子って、ほんとうに?」

澄江は手提げを開けた。

「これ、待ってるあいだ、よかったら」

いちばん古い一冊をベンチの上に置いて、表紙を開いた。黄ばんだテープの下に、四十三年前の半券がある。余白に鉛筆の「E-1」。奥さんが顔を寄せた。旦那さんも眼鏡をずらした。

「この字、姉なんです。わたし、そのとき十九で」

そこまで言って、澄江は口を閉じた。続きはいくらでもあった。冷凍みかんも、ストーブも、中村さんの「直します」も。けれど旦那さんが、ページをめくる指を止めて、半券の一枚を押さえていた。

「この映画、わたしも見たな。駅のほうの映画館で」旦那さんは言った。「ここは昔、入口の上に看板を描く人がいただろう。はしごに乗って。うちの店の前から、よく見えたんだ。入ったことはないのに、看板だけは毎週見てた」

「いましたね」と澄江は言った。「描いてる途中で雨が降ると、みんなで傘を差しかけて」

「そうそう」

奥さんが笑った。「この人、入ったこともないのに、看板の話だけは昔からするのよ」

いつのまにか自転車屋の若い人が近くに来て、立ったまま半券帳をのぞき込んでいた。会社員の女性も、紙コップを持ったまま、ベンチの端に腰を下ろした。澄江は、自分がしゃべっている時間より、旦那さんの看板の話を聞いている時間のほうが長いことに気づいた。それが、少しも惜しくなかった。

階段の上から足音がして、最初の三人が下りてきた。ひよりは頬を赤くしていた。

「柴田さん、見えました」

「何が」

「柴田さんの席。上から。E列のいちばん左の、通路のところ。窓、すごく小さいんです。機械の音がずっと鳴ってて、客席の音が、ちっちゃいスピーカーから出てて」ひよりは一息に言ってから、ベンチの半券帳に目を落とした。「それ、何ですか」

「半券。ここで見た映画の」

河合が次の三人を呼んだ。自転車屋の若い人と会社員の女性が立ち上がり、少し迷ってから、クリーニング店の奥さんも「わたし、上がってみようかしら」と言った。旦那さんは「気をつけろよ」と言って、ベンチに残った。

ひよりは澄江の隣に座り、半券帳のページをめくった。何ページかめくって、手を止めた。

「冷凍みかん、ほんとに売ってたんですか」

澄江は思わず、ひよりの顔を見た。

「聞いてたの」

「聞いてました。あのとき、もっと聞きたかったんです。でも、始まる前だと、どうしても早く始まってほしくて。トイレのこととかも気になってて」ひよりは半券帳の端を指でなぞった。「いまなら、聞けます」

澄江は少し考えてから言った。

「夏だけね。売店の冷凍庫で、網の袋に入ってて。暗いところで皮をむくと、指が冷たくて、匂いが客席じゅうに広がるのよ。それで、前の人に振り向かれた」

「だめじゃないですか」

「だめだったわね」

旦那さんが声を出して笑った。売店で灯が、「やっぱり売れないかあ」とつぶやくのが聞こえた。

二組目が下りてきた。奥さんは「せまいのね、あそこ」と言いながら、旦那さんの隣に座って、映写室の窓の大きさを両手で作ってみせた。旦那さんは半券帳から顔を上げずに、ふうん、と言った。

上映後のベンチで半券帳を広げ、昔の映画館の話を聞く澄江、ひより、クリーニング店の夫婦。

澄江は受付のうしろの時計を見た。十三時十五分だった。

「はい、おしまい」

澄江は半券帳を閉じた。旦那さんが、名残惜しそうに表紙をなでた。事務室の扉が開いて、野崎が顔を出し、時計を見て、何も言わずに戻っていった。

客が帰りはじめた。クリーニング店の夫婦は、扉のところで振り返り、「今度は看板の話の続きをしに来るよ」と旦那さんが言った。奥さんが「なにそれ」と肩をたたいた。

ひよりは受付の横の机で、はんこと朱肉を箱に詰めていた。河合が、コルクボードに新しい手書きの案内をとめていた。来週からの作品は『雪の日の郵便配達』。雪の町の、郵便配達の話らしい。

「来週も、来ていいですか」とひよりが言った。「ひとりで」

「いいも何も、券を買えばだれだっていいのよ」

「……あ、そっか」

河合が受付の窓口から言った。「宮下さんの席、覚えておきましょうか」

ひよりは少し考えてから、首を横に振った。「まだ決めてないです。何回か座ってみて、決めます」

澄江は、それがいちばんいいと思った。

灯が売店から出てきて、エプロンで手を拭いた。「柴田さん、来週も前で何か話しますか」

「話さないわよ。来週はお客。券も自分で払うわ」澄江は手提げを肩にかけた。「土曜の二回目」

「E列の左の端ですね」と河合が言った。

ひよりが、あ、それです、と小さく言って笑った。ガラスの外から見えていた、あれだった。

その夜、澄江はいちばん新しい半券帳を開いた。今日の半券を貼り、余白に自分の字で「E-1」と書いた。それから、いちばん古い一冊の最後のページから、あのカードを抜き出した。

〈終わったら、ロビーで〉

言わなかった一行だった。言わなくても、そうなった。

澄江はそのカードを今日の半券の横に貼り、少し考えて、その下に小さく書き足した。

〈来週 二回目〉

ページをめくると、来週の分の余白は、まだたっぷりあった。