第一章 昔の写真、持ってきてね
九月の終わりの水曜日、夜。
スマートフォンが、聞き慣れない音で鳴った。
何年も動いていなかったグループからの通知だった。
グループの名前は、「春日ゼミ 六期」。
〈ひさしぶり! 平田です〉
〈十月の第二日曜、ゼミのみんなで集まらない? お昼に、つばめ亭で〉
〈そのあと、大学のほうも歩けたらいいなと思ってます〉
平田さんは、ゼミで同じ学年だった。卒業してからも、年に一度くらい、このグループに季節のあいさつを送ってくれていた人だ。返事が少なくても、毎年、送ってくれていた。
通知は、すぐに続いた。
〈行く。子ども預けられたら〉──森くん。
〈行けます〉──戸川さん。
〈行きます〉──吉永くん。
〈行く!〉──ゆかり。
ミコは、ソファの上で、画面を見ていた。
ゼミの同期は、ミコを入れて六人だった。
卒業して六年。ゆかりとは、年に何度か会っている。八月には、駅の裏の甘味処で白玉を食べて、夕方の海を歩いた。でも、ほかの四人とは、卒業式の日から一度も会っていなかった。
(四人、ひさしぶり)
そう思ったところで、別の通知が来た。ゆかりからの、個別のメッセージだった。
〈ミコ来る? 来るなら、わたし朝の特急で行く〉
ミコは、グループの画面に戻って、打った。
〈行きます〉
送信した。
八月の自分なら、たぶん、もう少し考えてから送っていた。考えたぶん、ほんの少しだけ、送るのが遅かった。
〈やった〉とゆかりから返事が来た。
それから、もう一つ。
〈あと、次のミコの番、まだ考え中?〉
八月の帰りの電車で、ゆかりに言われたのだった。次はミコの番、行き先を一個決めといて、と。
〈まだ考え中〉
〈了解〜〉
グループのほうでは、平田さんが、もう一行付け足していた。
〈あと、昔の写真あったら持ってきて! わたしはデジカメのやつ、印刷していきます〉
その夜、ミコは、スマートフォンの写真を、大学のころまでさかのぼった。
ゼミの部屋。
窓ぎわの、古いソファ。
合宿で泊まった、山の中の研修所の夕ごはん。
卒論を出した日の夜の、居酒屋の、空いたジョッキ。
建物の前の、大きなクスノキ。
写真は、何百枚もあった。
平田さんが笑っていた。森くんが変な顔をしていた。戸川さんが、ゆかりの髪を結んでいた。吉永くんは、たいてい端で、少しだけ写っていた。
ミコは、どの写真にもいなかった。
いないのは、当たり前だった。
撮っていたのが、ミコだったからだ。
(わたしの写真は、わたしのスマートフォンの中には、ない)
ちょっと、笑ってしまった。笑ってから、もう一度、上までスクロールした。
一枚くらいはあるだろうと思った。
なかった。
本部では、キオクが、古いリモコンを手に取っていた。
「三年生の、四月です」
モニターに、ゼミの部屋が映った。
初めてのゼミの日だった。知らない顔が、長い机のまわりに座っていた。授業が終わると、平田さんがデジカメを出して言った。
「せっかくだし、一枚撮らない? 誰か、撮ってくれる?」
画面の中で、まだ二十歳のミコが、すぐに手を出していた。
「撮ろうか」
「それは、どうしてでしたっけ」とダイジョブが聞いた。
「並ぶ場所が、わからなかったからです」とキオクは言った。「真ん中に立つ人も、端に立つ人も、まだ決まっていなかったので。カメラを持っていれば、どこに立つか考えなくていい、と」
シンパイが、ホワイトボードの前で、深くうなずいた。
「正しい判断です」
「それから、八年です」とキオクは言った。
ホワイトボードには、もう、日曜日の想定が並びはじめていた。
〈四人の顔と名前が一致しない〉
〈近況を聞かれて、話すことがない〉
〈「ミコ、変わらないね」に、どう返すか〉
「変わらないね、には、ありがとう、でいいんですよ」とダイジョブが言った。
「ほめ言葉かどうか、わかりません」
「つばめ亭のハンバーグは」とハラヘッタが言った。「目玉焼きが、のっています」
それは、六年前から変わっていないといいな、とミコは思った。
部屋の隅で、ネムイは、濃紺のフードをかぶって眠っていた。
第二章 五台のスマートフォン
十月の第二日曜、十一時五十分。
つばめ亭は、大学の正門から坂を下りたところにある、小さな洋食屋だった。
赤いひさしは、六年前より少しだけ色が薄くなっていた。入口の横の黒板に、白いチョークで「本日のランチ ハンバーグ(目玉焼きのせ)」と書いてあった。
ミコは、黒板を見て、ほっとした。
青緑の上着の前を、軽く整えた。十月の福岡は、昼間はまだ少し暑いけれど、上着を着ていられるくらいにはなっていた。
扉を開けると、奥の窓ぎわの長いテーブルに、平田さんがもう座っていた。
「ミコー! うわ、ひさしぶり!」
平田さんは、立ち上がって手を振った。
髪が、肩より長くなっていた。テーブルの上に、厚い茶封筒が置いてあった。
「ひさしぶり」
「変わらないね!」
来た、とミコは思った。
「……ありがとう」
平田さんは、一瞬きょとんとして、それから笑った。
「なんでお礼?」
本部で、シンパイが、ホワイトボードの三行目に小さくバツをつけた。
十二時までに、全員がそろった。
戸川さんは、すっきりした短い髪になっていて、銀行の支店で働いていると言った。
吉永くんは、相変わらず口数が少なかったけれど、「ひさしぶり」と言うときだけ、昔と同じように少し照れた。
森くんは、いちばん最後に、汗をふきながら入ってきた。
「ごめん、子ども、義母に預けてきた。泣かれた。でも行ってこいって言われた」
「誰に?」と戸川さんが聞いた。
「子どもに。一歳だけど、たぶんそう言ってた」
ゆかりは、ミコの向かいの席に座った。朝の特急で来て、駅からまっすぐここへ来たらしかった。
「ミコ、上着、ちょうどいい季節になったね」
「うん。やっと」
ミコの席は、通路側の、いちばん端だった。
扉にいちばん近くて、店の人がお水を置きに来る場所だった。ミコは、来たときから、なんとなくその席に座っていた。
ハンバーグが六皿、運ばれてきた。
目玉焼きの黄身が、窓からの光でつやつやしていた。
平田さんが、両手を合わせて言った。
「待って、食べる前に写真!」
平田さんは、自分のスマートフォンを持って、テーブルを見回した。
ミコの手は、もう、前に出ていた。
「撮るよ」
「ありがとう!」
スマートフォンを受け取って、ミコは通路に一歩下がった。
窓が、みんなの背中側にある。このまま撮ると、顔が暗くなる。ミコは、通路をもう一歩斜めに動いて、窓の光がみんなの横顔に当たる場所を探した。
「森くん、もう少しだけ、左に。……戸川さん、お皿、ちょっとだけ手前に」
「出た」と森くんが言った。「ゼミのカメラマン」
みんなが笑った。
ミコは、その笑った顔を、三枚撮った。
「ミコも入りなよ」と戸川さんが言った。
「いいよいいよ」
ミコは、すぐに言った。
「わたし、撮るほうが落ち着くから」
本当だった。
カメラを持っていれば、自分がどんな顔をしているか、気にしなくていい。どこに座るか、誰の隣に立つかも、考えなくていい。画面の中のみんなは、ちゃんと楽しそうだった。それを、うまく四角に入れられたときは、うれしかった。
「ミコに撮ってもらうと、なんか、いい感じになるんだよね」と平田さんが言った。
「わかる」と戸川さんがうなずいた。「じゃあ、わたしのでも撮って」
「おれのも」
「……僕のも、いいですか」
一台が、二台になって、五台になった。
テーブルの端に、五台のスマートフォンが並んだ。
ミコは、一台ずつ、同じ角度で構えて、同じように言った。
「撮りまーす」
五回、同じ笑顔を頼んだ。五回とも、みんな、ちゃんと笑ってくれた。
最後の一台を返したとき、ゆかりが言った。
「ミコ、食べよ。目玉焼き、冷めるよ」
「うん」
ミコは、自分の皿に戻った。
目玉焼きは、ほんの少しだけ、冷めていた。それでも、六年前と同じ味がした。
食後のコーヒーが来たころ、平田さんが茶封筒を開けた。
「じゃーん。デジカメのやつ、コンビニで印刷してきた」
テーブルの上に、写真が広がった。
三十枚くらいはあった。
「うわ、吉永くん、若っ」
「合宿のこれ、覚えてる? 夜に全員で花火して、怒られたやつ」
「怒られたの、森くんだけだったよね」
「おれだけ火のついたまま走ったから」
写真が、一枚ずつ、手から手へ回っていった。
ミコのところにも、回ってきた。
ゼミの部屋。合宿の研修所。卒論を出した日の居酒屋。
スマートフォンの中で見たのと、同じような写真ばかりだった。
ミコは、どの写真にもいなかった。
平田さんのデジカメで撮った写真も、撮っていたのは、たいていミコだったからだ。
一枚だけ、居酒屋の写真の隅に、取り皿を配っている誰かの腕が写っていた。袖の色に、見覚えがあった。
(腕だけ、いる)
ミコは、その写真を、次の戸川さんに回した。
最後に回ってきたのは、四年生の秋の写真だった。
ゼミの建物の前の、大きなクスノキ。
その根もとに、五人が並んでいた。平田さんと戸川さんが真ん中で、森くんが左の端で変な顔をしていて、吉永くんは前にしゃがんでいて、ゆかりは右の端で、ピースを少しだけ斜めにしていた。
そして、写真のいちばん下に、長い影が一本、のびていた。
西日に引きのばされた、人の影だった。
顎の下で切りそろえた、短い髪の形。両手を、胸の前で、何かを持つように上げている。
ミコの影だった。
「これ、いいよね」と平田さんが言った。「ねえ、あとでさ、これ、再現しようよ。同じクスノキの前で、同じ並びで」
「いいね」と森くんが言った。
「やろうやろう」
ミコも、「いいね」と言った。
言いながら、もう、自分がどこに立つかがわかっていた。
みんなの前の、少し離れた場所。日差しを背中に受けて、スマートフォンを構える場所。
本部のホワイトボードに、シンパイが、新しい見出しを書いていた。
〈写真に入る場合の想定〉
〈目をつぶる〉
〈笑った顔が引きつる〉
〈どこに立てばいいかわからない〉
〈元の写真の並びに、わたしの場所がない〉
「最後の一行は、本当です」とシンパイは言った。「五人の並びの、どこにも、空きがありません」
「詰めてもらえばいいじゃないですか」とダイジョブが言った。
「さっき、自分で言ったんです。撮るほうが落ち着く、って。今さら」
「それも本当でした」
ダイジョブは、あっさりうなずいた。
「撮るのが好きなのも、本当。入りたいのも、本当。本当が二つあると、困りますね」
キオクは、何も言わずに、居酒屋の写真の隅の、腕だけが写った一枚を、モニターに出していた。
ハラヘッタが、コーヒーのおかわりの値段を、メニューで確かめていた。
ネムイは、まだ、眠っていた。
第三章 影の場所
十四時すぎ、六人で坂を上った。
正門の横に、見たことのないガラス張りの建物が建っていた。
大学の生協の前には、新しいコーヒーの自動販売機が並んでいた。日曜日のキャンパスは静かで、部活の掛け声が、遠くのグラウンドのほうから聞こえていた。
歩きながら、戸川さんが、ミコの隣に来た。
「ミコ、今、どんな仕事してるの?」
来た、とミコは思った。ホワイトボードの二行目だった。
「事務……みたいな。発注とか」
それで終わりそうになった。
そこで、夏のことを思い出した。
「この前、新しく入った人に、発注のやり方を、半日教えた」
「え、ミコが教える側?」
「うん。手順書、十二ページ作ったんだけど、いちばん大事なことが書いてなくて」
戸川さんが笑った。
笑ってから、「わかる、うちの支店のマニュアルもそう」と言って、銀行の手順書の話をしてくれた。
後ろから、ゆかりが言った。
「ミコ、この前、服屋で試着だけして帰ってきたっちゃんね」
「それは、言わなくていい……」
「なんで。えらいやん」
戸川さんは、何がえらいのか、よくわからない顔をしていた。
でも、楽しそうに聞いていた。
ゼミの建物は、六年前と同じ場所にあった。
その前の、クスノキも。
幹は、六年分、少しだけ太くなった気がした。葉の影が、地面の上で、風といっしょに揺れていた。
「ここだ」
平田さんが、印刷した写真を掲げて、クスノキと見比べた。
「はい、並んで! わたしと戸川さんが真ん中。森くん、左の端。変な顔もお願い」
「変な顔の再現、むずかしいな」
「吉永くんは、前でしゃがんで。ゆかり、右の端で、ピース斜め」
「ピースの角度、覚えとらん」
「写真見て」
五人が、写真のとおりに並んでいった。
ミコは、そのあいだに、平田さんのスマートフォンを受け取っていた。
誰にも頼まれていなかった。平田さんが「はい」と差し出して、ミコが「うん」と受け取った。それだけで、手の中に来ていた。
ミコは、五人から少し離れた。
写真と、目の前の五人を見比べながら、一歩下がって、半歩右に動いた。
ここだ、とわかった。
足もとを見た。
十月の午後の日差しが、背中のほうから差していた。ミコの影が、地面の上をのびて、しゃがんでいる吉永くんの靴の先まで届いていた。
写真と、同じだった。
(影まで、再現できちゃった)
「撮りまーす」
三枚、撮った。
平田さんが走ってきて、画面をのぞきこんだ。
それから、印刷した写真と並べた。
「完璧! すごい、角度までいっしょ。影まで入って……」
平田さんの声が、そこで止まった。
「……影?」
平田さんは、印刷した写真の、いちばん下を指でなぞった。
それから、スマートフォンの画面の、いちばん下を見た。
最後に、ミコの顔を見た。
「これ、ミコ?」
「……うん。わたし」
「えっ」
ほかの四人も、集まってきた。
六人で、一枚の印刷した写真と、一台のスマートフォンをのぞきこんだ。
「ほんとだ。ミコの影だ」と戸川さんが言った。
「ミコ、七年前から、影だけで参加してたの?」と森くんが言った。
みんなが笑った。
ミコも、笑った。
おかしかった。本当に、おかしかった。
影は、七年たっても、同じ場所で、同じ形をしていた。
「じゃあさ」
平田さんが、明るく言った。
「次、普通の集合写真も撮ろっか。ミコ、お願い」
スマートフォンは、まだ、ミコの手の中にあった。
本部は、しんとしていた。
モニターには、キオクが、二枚の写真を並べて映していた。
七年前の影と、今日の影。
シンパイは、ホワイトボードの〈元の写真の並びに、わたしの場所がない〉の前で、マーカーを持ったまま止まっていた。
部屋の隅で、ネムイが、フードの中から、もぞもぞと顔を出した。
半分だけ目を開けて、モニターを見た。
「……影って」
みんなが、ネムイを見た。
「笑ってるかどうか、わからないですね」
それだけ言って、ネムイは、また目を閉じた。
キオクが、リモコンを一回だけ押して、影の写真を大きくした。
両手を胸の前に上げた、短い髪の影。
どんな顔でシャッターを押していたのか、写真には、何も残っていなかった。
本当は、楽しかったのだ、とミコは思った。
撮るのも、楽しかった。でも、楽しかった顔は、どこにも写っていない。
シンパイが、マーカーのふたを閉めた。

「あの」
ミコは言った。
声が、思ったより小さかった。
森くんが、ちょうど何かを言っていて、ミコの声は、その笑い声の下に入ってしまった。
ゆかりだけが、こっちを見た。
ゆかりは、何も言わなかった。ただ、ミコのほうを見て、待っていた。
ミコは、息を吸った。
「次のは、わたしも、入りたい」
今度は、届いた。
平田さんが、目を丸くした。
それから、両手で口を押さえた。
「当たり前じゃん! え、待って、ごめん。わたし、今日ずっと、ミコに撮らせてた」
「ううん」
ミコは、首を振った。
「撮るのは、好きだったから。さっきも、楽しかった。……でも、今日のは、入りたい」
言ってしまってから、耳のあたりが熱くなった。
みんな、少しだけ黙った。
森くんが、最初に言った。
「入ろう入ろう。六年ぶりの本体だ」
「本体って」と戸川さんが笑った。
「タイマーで撮ろうか」と吉永くんが言った。
それが、いちばん早そうだった。
吉永くんは、クスノキの前のベンチに平田さんのかばんを置いて、その上にスマートフォンを立てかけた。
角度を決めるのは、ミコだった。
画面をのぞいて、かばんの向きを少し変えて、スマートフォンの下に折りたたんだハンカチを一枚はさんだ。
「十秒にした」と吉永くんが言った。
ミコがボタンを押して、走った。
五人のところまで、思ったより遠かった。
いちばん近い端に、すべりこんだ。
かしゃ、と小さな音がした。
みんなで、ベンチに戻って、画面を見た。
五人は、ちゃんと写っていた。
右の端に、ミコが半分だけ写っていた。顔の半分と、青緑の袖が、横にぶれて流れていた。森くんは、目をつぶっていた。
「……ミコ、半分」
「半分は、入った」
「影よりは、進んだね」と戸川さんが言った。
二回目は、ミコが走りだした瞬間に、かばんの上でスマートフォンがすべった。
かしゃ、と鳴ったとき、画面には、クスノキの枝と、十月の空だけが写っていた。
「いい空」と平田さんが言った。
「いい空やね」とゆかりも言った。
吉永くんが、「三脚があれば」と小さく言って、それから少し落ちこんだ顔をした。
「誰かに頼む?」と森くんが言って、まわりを見回した。
日曜日のキャンパスに、人は少なかった。
図書館のほうから、リュックを背負った学生が一人、こっちへ歩いてくるところだった。
平田さんが、手を挙げかけた。
「わたし、頼んでくる」
ミコが言った。
平田さんの手が、途中で止まった。
本部のホワイトボードに、シンパイが大きく書いた。
〈知らない人〉
「それは、そうですね」とダイジョブが言った。
キオクが、リモコンを押した。
モニターに、短い映像が、続けて流れた。
四月、隣の部屋のインターホン。
六月の終わり、道を探していた年上の姉妹。
七月、服屋で、試着だけして帰った日。
「知らない人と話したことは、あります」とキオクは言った。「毎回、心臓はうるさかったですが」
「それに」とダイジョブが言った。「どう撮ってほしいか、いちばんわかってるのは、ミコです」
シンパイは、〈知らない人〉の下に、もう一行だけ書いた。
〈撮り方は、知っている〉
学生は、背の高い男の子だった。イヤホンを片方だけしていた。
「すみません」
ミコの声は、少しだけ裏返った。
「写真、一枚だけ、撮っていただけませんか」
学生は、イヤホンを外した。
「あ、いいですよ」
それだけだった。
ミコは、平田さんのスマートフォンを、両手で渡した。
「ありがとうございます。あの、横向きで、木のてっぺんの、少し下まで入るように……ここから、二歩だけ下がって。それで、三回、押してもらえると」
言いながら、多すぎる、と思った。
学生は、少し笑った。
「詳しいですね」
「……いつも、撮る係なので」
「じゃあ、責任重大だ」
学生は、言われたとおりに二歩下がって、スマートフォンを横に構えた。
ミコは、五人のほうへ戻った。
今度は、走らなくてよかった。
「ミコ、真ん中!」と平田さんが言って、自分が一歩よけようとした。
真ん中は、平田さんと戸川さんの場所だった。
七年前の写真で、二人が笑っていた場所だった。
「……ゆかりの隣がいい」
ミコは言った。
ゆかりが、右の端で、少しだけ横にずれた。
「こっち」
ミコは、ゆかりの隣に立った。
ゆかりが、ピースを、写真のとおりに斜めにした。ミコは、両手をどうしていいかわからなくて、トートバッグの持ち手を握った。

「撮りまーす」と学生が言った。
ミコが、いつも言うのと、同じ言い方だった。
かしゃ。
かしゃ。
かしゃ。
第四章 その写真
学生は、スマートフォンをミコに返して、「いい感じだと思います」と言った。
「ありがとうございました」
ミコが頭を下げると、学生は軽く手を挙げて、またイヤホンをはめて、正門のほうへ歩いていった。
ミコは、スマートフォンを平田さんに返した。
平田さんの手もとを、六人でのぞきこんだ。
一枚目は、ミコが目をつぶっていた。
シンパイの想定の一行目だった。
二枚目は、全員が目を開けていた。
クスノキの下に、六人が並んでいた。
平田さんと戸川さんが真ん中で、森くんが左の端で変な顔をしていて、吉永くんは前にしゃがんでいた。右の端に、斜めのピースのゆかりがいた。
その隣に、ミコがいた。
トートバッグの持ち手を両手で握って、少しだけ肩を上げて、口の端だけで笑っていた。
引きつってはいなかった。少なくとも、ミコには、そう見えた。
三枚目は、森くんがくしゃみをしていた。
「二枚目」と全員が言った。
それから、平田さんが、画面のいちばん下を指さした。
「あ」
六人の足もとに、長い影が一本、のびていた。
背の高い、イヤホンの片方をぶら下げた人の影だった。
「今度は、知らない人の影が入ってる」と森くんが言った。
みんな、笑った。
ミコは、いちばん長く笑った。
「この人も、ゼミの一員ってことにしよう」と平田さんが言った。
「名前、聞いとけばよかったね」と戸川さんが言った。
「七期生やね」とゆかりが言った。
十六時半、六人で、駅まで坂を下りた。
改札の前で、平田さんが、「また集まろうね、今度は一年以内に」と言った。
森くんは、スマートフォンで子どもの写真を見ながら、急いで帰っていった。戸川さんと吉永くんは、同じ方向の電車だった。
ゆかりは、北九州へ帰る特急まで、四十分あった。
ミコも、ホームまで一緒に行くことにした。
ホームのベンチに並んで座ると、ゆかりが言った。
「ミコ、さっき、自分で言うたね」
「うん」
「わたし、正直、気づいとらんかった。六年、ミコの写真、ほとんど持っとらんこと」
ゆかりは、少しだけ、ばつの悪そうな顔をした。
「ほら、八月の海のとき、一枚撮ったやろ。あれ見て、ミコの写真、久しぶりやなって思ったっちゃん。でも、なんで久しぶりなんかは、考えとらんかった」
「わたしも、考えてなかった」
ミコは言った。本当だった。
撮る係は、撮る係のまま、楽しかったのだ。
「あ、でもね」
ゆかりが、自分のスマートフォンを出した。
「これは撮っとった」
画面に、つばめ亭の通路が写っていた。
窓の光の中で、ミコが、誰かのスマートフォンを横に構えていた。眉と眉のあいだに、うっすら力が入っていて、唇が少しだけとがっていた。真剣な顔だった。
「……変な顔」
「変やない。撮るときのミコ、いつもこの顔しとるよ。好きやけん、送っとく」
ミコのスマートフォンが、ポケットの中で小さく鳴った。
ミコは、画面の中の、真剣な顔の自分を見た。
七年前の影も、たぶん、こういう顔をしていたのだろうと思った。
ホームに、特急の到着を知らせる放送が流れた。
ゆかりは、立ち上がって、かばんを肩にかけ直した。
「次のミコの番、まだ考え中?」
「うん。場所は、まだ」
ミコは、少し考えてから、言った。
「でも、そこで、ゆかりと二人の写真を撮りたい。それは、決まった」
ゆかりは、一瞬だけ黙って、それから笑った。
「半分、決まっとるやん」
「半分」
「じゃ、残りの半分、待っとく。撮る人は、どうすると?」
「……頼む。誰かに」
「頼めるん?」
「今日、頼めた」
ゆかりは、もう一度笑って、特急に乗った。
ドアのガラスの向こうで、斜めのピースをした。
ミコも、手を振った。
ピースにしようか一瞬迷って、普通に手を振った。
帰りの電車の中で、グループの通知が、何度も鳴った。
平田さんが、今日の写真を、まとめて送ってくれていた。
つばめ亭の、ハンバーグの前の五人。五台ぶんの、ほとんど同じ笑顔。ミコの撮った写真ばかりだった。どれも、ちゃんと楽しそうだった。
それから、クスノキの写真が三枚。
ミコの影がのびている一枚。半分だけミコが流れている一枚。クスノキの枝と空の一枚。
最後に、二枚目が来た。
〈今日のベスト。七期生に感謝〉
その下に、森くんが〈本体〉とだけ書いていた。
戸川さんが、笑っている顔の絵文字を三つ送っていた。吉永くんは、少し遅れて、〈次は三脚持っていきます〉と書いた。
ミコは、返信を打った。
〈撮ってもらって、うれしかったです〉
それから、少し考えて、もう一行足した。
〈撮るのも、楽しかったです〉
送信した。
本部では、キオクが、新しい記録を棚にしまっていた。
ラベルには、日付と、場所の名前が書いてあった。
その隣の、七年前の、影の写真の記録と並べた。
シンパイは、ホワイトボードの〈写真に入る場合の想定〉を、上から見直していた。
〈目をつぶる〉──一枚目。当たった。
〈笑った顔が引きつる〉──二枚目。たぶん、外れた。
〈どこに立てばいいかわからない〉
〈元の写真の並びに、わたしの場所がない〉
シンパイは、最後の二行を、少し考えてから、消した。
場所は、自分で言えば、作ってもらえた。
ハラヘッタが、「目玉焼き、六年前と同じでした」と報告した。
ネムイは、もう一度、ぐっすり眠っていた。
ミコは、電車の窓に映る自分を少し見てから、スマートフォンに目を戻した。
二枚目を、もう一度開いた。
クスノキの下に、六人がいた。
右の端の、ゆかりの隣。トートバッグの持ち手を握って、少しだけ肩を上げて、口の端だけで笑っている。
その写真には、わたしもいる。
足もとには、名前を知らない誰かの影が、長くのびていた。
撮ってくれた人の影だった。ミコは、その影を、しばらく見ていた。


