第一章 四人目
十一月最初の月曜日、昼休みの給湯室で、北島さんがミコを呼びとめた。
「齋藤さん、金曜の夜って、あいてる?」
北島さんは、同じ課の先輩だ。ミコより二回りくらい年上で、声が大きく、笑うともっと大きい。今は電子レンジの前で、温めすぎたお弁当のふたを、指先でつまんでいた。
「金曜、ですか」
「村井さんのゲームの会。月に一回、仕事のあとに第二会議室でやってるの」
会議室の予約表に、毎月〈有志・ゲーム〉と書いてあるのは、ミコも見たことがあった。隣の課の、村井さんの字だった。中で何をしているのかは、知らなかった。
「四人でやるとちょうどいいゲームがあるんだって。いつもは村井さんとわたしの二人だから、さすがにね。瀬戸さんに声かけたら、行きますって」
瀬戸さんは、七月に中途で入ってきた、二十四歳の後輩だ。
入ってすぐのころ、ミコは半日だけ、瀬戸さんに備品の発注を教えた。瀬戸さんはミコの説明に何度もうなずいて、質問を一つもしなかった。わかっているのか、いないのか、あの日のミコには、休憩でノートを見せてもらうまでわからなかった。
四か月たった今、瀬戸さんは一人で発注を回している。それでも、自分からはあまりしゃべらない。
「瀬戸さんが、行くって言ったんですか」
「言った言った。だから、齋藤さんが来てくれたら四人」
北島さんはふたを開けて、「あつっ」と言った。
本部のホワイトボードには、もう文字が並びはじめていた。
〈ルールがわからなくて、足を引っぱる〉
〈負けて、気まずくなる〉
〈勝って、気まずくなる〉
三行目まで書いたところで、シンパイのマーカーが止まった。
「三行目は、いらないんじゃないですか」とダイジョブが言った。「ミコが勝ちすぎる心配は、しなくていい気がします」
「……そうですね」
シンパイは、三行目に細い線を一本引いた。消しはしなかった。
キオクが、リモコンを押した。
モニターに、小学校の教室が映った。放課後、机を四つくっつけて、トランプをしている。小さなミコの手札は、あと二枚。次にどちらかを出せば、上がりだった。
小さなミコは、少し考えてから、上がれないほうのカードを出した。
「ミコ、弱ーい」と誰かが言って、みんなが笑った。ミコも笑った。
「似たことが、何回かありました」とキオクは言った。
「みんな笑ってましたから」とシンパイが言った。「それで、よかったんです」
ハラヘッタは、モニターの中の小さなミコを見ていた。
笑っている顔だった。ただ、残った一枚を握る指先が、少しだけ白くなっていた。
「行きます」
ミコは言った。
言ってから、自分でも少し早かったと思った。春のころなら、一晩考えて、断る理由を探していた。
「よかったー。お菓子、持っていくね」
ゲームなんて、勝っても負けても、どっちでもいい。
わたしは、たぶん、そういう人だ。
ミコはそう思いながら、自分のお弁当を電子レンジに入れた。
金曜日の十八時半、第二会議室の長机に、村井さんが白い箱を置いた。
村井さんは四十代の係長で、会議ではいつも静かにメモを取っている人だ。その村井さんが、今日は箱のふたを開ける手つきから、少しうれしそうだった。
「うちで作ったゲームなんです。『ジャムのびん』っていいます」
箱の中には、厚紙を切ったカードが入っていた。表には果物が、色鉛筆で描いてある。いちご、ぶどう、みかん、りんご。いちごの粒々が、一つずつ律儀に塗ってあった。
「絵は娘です。小学四年生。ルールはぼくです。だから、変なところがあったら、ぼくのせいです」
瀬戸さんは、ミコの左隣に座って、ぶどうのカードを一枚、裏返したり表にしたりしていた。表情はいつもどおり静かで、楽しみにして来たのか、断れずに来たのか、ミコにはやっぱりわからなかった。
「ルールは三つだけです」
村井さんは、カードを四枚、机の真ん中に表向きで並べた。
「果物は四種類で、九枚ずつ。真ん中には、いつも四枚出しておきます。自分の番には、そこから一枚取って、自分の前に表向きで置く。取ったら、山から一枚足します」
「二つ目。自分の前に同じ果物が三枚そろったら、その場で『びん』です。裏返して重ねて、三点」
「三つ目。その果物のびんを、いちばん最初に作った人は、これがもらえます」
村井さんが出したのは、金色の折り紙で作った小さなラベルだった。四枚。果物と同じ数だ。
「金のラベルは一点。山がなくなったら終わりで、ちょうど一人八回ずつになります。点数の多い人が勝ち。それから、うちの決まりごとが一つ。ルールの確認は、いつでも、誰に聞いてもいい。作戦は、聞かれたら答えてもいいし、答えなくてもいい」
「同点だったら?」と北島さんが聞いた。
「同点は、同点です」
北島さんが声を出して笑い、ミコもつられて笑った。瀬戸さんは、ぶどうのカードを机に戻した。
本部では、ハラヘッタが口の端をぬぐっていた。
「ジャムの話をしながら、ジャムが一口も出てこない遊びですね」
「遊びですから」とシンパイが言った。
最初の番は、「いちばん最近ジャムを食べた人」になった。今朝トーストに塗ったという北島さんから、ミコ、瀬戸さん、村井さんの順に回ることになった。
第二章 すみません、と言ったけど
最初の何回かは、ほとんど考えずに取った。
いちごの絵がかわいかったから、いちご。次も、いちご。三回目の番に、また場にいちごが出ていた。
ミコがそれを自分の前に置くと、村井さんが言った。
「はい、びんです。いちごは最初なので、ラベルもどうぞ」
ミコは三枚を裏返して重ね、その上に金のラベルをのせた。
折り紙の、ただの四角だった。
それなのに、胸の中で、何か小さなものがぴょんとはねた。
(あれ)
ミコは、その感じに、すぐには名前をつけられなかった。
ゲームが半分を過ぎたころ、ミコの前にはみかんが二枚あった。
北島さんの前にも、みかんが二枚あった。
北島さんが場から一枚取って、山から一枚足した。
出てきたのは、みかんだった。
北島さんの次は、ミコの番だった。
ミコは、みかんを取った。三枚。びんになった。
みかんのラベルは、もう村井さんの前にあったから、三点だけだった。
「あー! それ、待ってたのにー!」
北島さんが、天井に向かって言った。
「すみません」
ミコは言った。
言いながら、三枚のみかんを裏返して重ねる指が、なんだか軽かった。
すみません、と言ったけれど。
すみません、とは、少しも思っていなかった。

本部では、ダイジョブが目を丸くしていた。
「今の、見ました?」
「見ました」とキオクが言った。「録画もしています」
「ミコ、ちょっと、うれしそうでした」
シンパイはホワイトボードの前で、月曜日に引いた細い線を見ていた。
〈勝って、気まずくなる〉。
「……まだ、勝ってはいません」とシンパイは言った。
その次の周、ミコの前にはぶどうが二枚あった。
ミコが場から一枚取って、山から足すと、ぶどうが出てきた。
(ああ、自分の番の前に出てくれたら)
次は瀬戸さんの番だった。瀬戸さんの前には、ぶどうが一枚。瀬戸さんの次の村井さんの前には、ぶどうが二枚。ぶどうのびんは、まだ誰も作っていない。
瀬戸さんがここでぶどうを取らなければ、次の村井さんが取る。村井さんは、びんとラベルで四点になる。
瀬戸さんの手は、りんごのほうへ伸びていた。
「瀬戸さん、そのぶどうは」
ミコの口が、勝手に動いていた。
瀬戸さんの手が、止まった。
瀬戸さんは、ミコのほうを見ないまま、小さな声で言った。
「あ、言わないでください。……自分で考えたいので」
「あ、はい。すみません」
今度のすみませんは、本当だった。
瀬戸さんはりんごを取った。村井さんが「では、遠慮なく」と言って、ぶどうを取った。びんと金のラベルが、村井さんの前に並んだ。
ミコは、自分の前のぶどう二枚を見た。
それから、気がついた。
さっき言いかけたことは、瀬戸さんのためではなかった。
村井さんに、ぶどうを取らせたくなかった。わたしの、ぶどうのために。
(わたし、親切な顔をして、自分の作戦を言おうとしてた)
本部で、シンパイが顔を両手でおおった。
ハラヘッタが、そっとその背中をなでた。
一回目は、村井さんが八点、ミコが七点、北島さんが四点、瀬戸さんが三点だった。
「作った人が勝つの、ずるくない?」と北島さんが言い、村井さんは「今日はたまたまです」と、まんざらでもない顔をした。
ミコは、拍手をした。
拍手をしながら、頭の中では、キオクがリモコンを押していた。
六回目の番。場には、みかんとぶどうがあった。ミコは、なんとなく、みかんを取った。
(あそこで、ぶどうを取っていたら)
もっと早く、ぶどうがそろっていたかもしれない。いなかったかもしれない。勝てたかどうかは、わからない。
巻き戻し。
もう一回、巻き戻し。
「キオクさん」とダイジョブが言った。「それ、もう四回目です」
「ミコが押させているんです」とキオクは言った。
ミコは、拍手の手を止めて、膝の上で指を組んだ。
一点だった。
たった一点のことを、こんなに何度も巻き戻す自分を、ミコは初めて見た気がした。
シンパイが、ホワイトボードの端に、小さく書き足した。
〈くやしい〉
それから、その字を、首をかしげて眺めた。
「これは、想定していませんでした」
休憩になって、北島さんが大袋のおせんべいを開けた。醤油の匂いが、会議室に広がった。
「村井さん、二回目もこれ?」
「二回目もこれです。二回目は、さっき勝った人から始めます」
「勝った人が最初なの? ますます、ずるい」
北島さんは、おせんべいを一枚割って、半分を口に入れた。
「うちの息子なんか、高校生なんだけどね。家でゲームして、わたしがちょっとでも手を抜くと、怒るのよ。『母さん、今わざと負けたろ』って。こっちは親切のつもりなのにね」
「怒るんですか」とミコは聞いた。
「怒る怒る。わざと負けてもらうのが、いちばん腹が立つんだって。わたしも、本当は、勝ちたいときは勝ちたいんだけどさ」
北島さんは笑った。
瀬戸さんは、おせんべいを小さくかじりながら、村井さんに一つだけ質問をした。
「山は、最初、三十二枚ですか」
「そうです。三十六枚から四枚出すので」
「わかりました」
瀬戸さんは、それきりまた黙った。
ミコは、瀬戸さんの横顔を見た。楽しかったのか、早く帰りたいのか。七月の説明を始めたころと同じで、やっぱり、わからなかった。
ただ、一回目のあいだ、瀬戸さんは一度も時計を見なかった気がした。
第三章 にらみ合うぶどう
二回目は、村井さん、北島さん、ミコ、瀬戸さんの順で始まった。
序盤、最初にびんを作ったのは瀬戸さんだった。りんごが三枚。
瀬戸さんは、三枚を裏返して重ねると、そのまま場のほうへ目を戻した。
金のラベルは、箱のふたの上に残っていた。
ミコは、それを見た。
瀬戸さんは、気づいていない。村井さんは、次の自分の番に向けて場を見ている。北島さんは、おせんべいを割っている。
本部で、シンパイが早口になった。
「黙っていても、誰も困りません。ミコは何も悪いことをしていません。言わなければ、瀬戸さんの点が一点少ないだけで」
「それ、ずるいです」とダイジョブが言った。
キオクが、始まる前の村井さんの声を再生した。
〈ルールの確認は、いつでも、誰に聞いてもいい〉
「作戦じゃないです」とキオクは言った。「ルールです」
「瀬戸さん、ラベル」
ミコは、箱のふたを指さした。
瀬戸さんは、はっとして、金のラベルを取った。
「……ありがとうございます」
「いえ」
いえ、と言いながら、ミコは頭の中で点数を数えていた。瀬戸さんが四点で、自分はまだ零点だった。
それでも、言わなければよかったとは思わなかった。黙ったまま勝っても、たぶん、ちっともうれしくない。それくらいは、ミコにもわかった。
ゲームは、思っていたより静かに進んだ。
村井さんが、いちごのびんを最初に作って、ラベルを取った。
北島さんが、りんごのびんを作った。ラベルはもう瀬戸さんのものだったから、三点。
ミコも、いちごのびんを一つ作った。三点。
そして、ぶどうとみかんが、なかなか出てこなくなった。
気がつけば、四人とも、ぶどうを二枚ずつ持っていた。
みかんも、四人とも二枚ずつだった。
机の上で、十六枚の果物が、互いに顔を見合わせているようだった。誰かの番に、ぶどうかみかんが一枚出れば、その人がびんとラベルを持っていく。出ないまま、番だけが回っていく。
「にらみ合いだね」と北島さんが言った。「ぶどう、出ておいで。みかんでもいいよ」
本部では、キオクが、場から出ていったカードを一枚ずつ記録していた。
「ぶどうは、四人が二枚ずつで、八枚です」とキオクは言った。「果物は八枚ずつですから、ぶどうは、これで全部出ました」
「じゃあ、ぶどうは、もう誰もびんにできないんですね」とダイジョブが言った。
「できません」
キオクは、丸い眼鏡を押し上げた。自信のある顔だった。
村井さんの八回目が終わった。
北島さんの八回目。北島さんは、いちごを取って、山から一枚足した。
出てきたのは、みかんだった。
「えー! 今? わたしの番、もう終わったのに!」
北島さんが、両手で顔をおおった。村井さんは、もう番が残っていない人の顔で、腕を組んだ。
場には、みかんが一枚。いちごが二枚。りんごが一枚。
山は、あと二枚。
次は、ミコの八回目だった。
そのあとに、瀬戸さんの八回目がある。それで終わりだ。
ミコの前には、みかんが二枚ある。
瀬戸さんの前にも、みかんが二枚ある。
(わたしが、みかんを取れば)
びんで三点、ラベルで一点。いまの三点に足して、七点。
村井さんは四点、北島さんは三点で、もう番がない。瀬戸さんは四点。ぶどうはもう出てこないから、瀬戸さんが最後に何を取っても、四点のまま。
勝てる。
(わたしが、みかんを取らなければ)
いちごか、りんごを取る。どちらを取っても、びんにはならない。
そして瀬戸さんが、みかんを取る。びんとラベルで、八点。
瀬戸さんの勝ち。
ミコは、場のみかんを見た。
色鉛筆のみかんは、ぽってりと丸くて、へたのところに小さな葉っぱが一枚描いてあった。
本部のホワイトボードに、シンパイが二行書いた。
〈取る → ミコが勝つ。瀬戸さんは四点のまま〉
〈取らない → 瀬戸さんが勝つ。みんな「よかったね」と言う〉
「取らないほうが、丸いです」とシンパイは言った。声が、少しかすれていた。「瀬戸さんは、一回目は最下位でした。入って、まだ四か月です。今日楽しくなかったら、来月は来ないかもしれません。いちごを取ったって、誰にもわかりません。いちごを取ることは、普通にあります」
ダイジョブは、すぐには言い返さなかった。
いつもなら「大丈夫です」と言うところで、黙っていた。
「でも、それ」とダイジョブは、やっと言った。「わざと、ですよね」
キオクが、リモコンを押した。
一回目の、ぶどうの場面だった。
〈あ、言わないでください。……自分で考えたいので〉
「あれは、遠慮だと思っていました」とキオクは言った。「ミコに気を使ったんだと」
もう一度、押した。
休憩中の、北島さんの声。
〈わざと負けてもらうのが、いちばん腹が立つんだって〉
それから、小学校の教室。上がれないほうのカードを出して、みんなと一緒に笑っている、小さなミコ。白くなった指先。
パイプ椅子で眠っていたネムイが、濃紺のフードの中で、少しだけ目を開けた。
「わざと負けた日って」とネムイは言った。「夜、ちょっと眠れないんですよね」
それだけ言って、また目を閉じた。
本部が、しんとした。
シンパイは、マーカーのふたを閉めた。
「……でも、瀬戸さんがどう思ってるかは、わかりません」
「わからないなら」とハラヘッタが言った。会議室のおせんべいの匂いのほうを向いたまま。「聞いたら、いいんじゃないですか」
「瀬戸さん」
ミコは言った。
自分の番の途中で、手を膝に置いたまま。
瀬戸さんが、顔を上げた。
「あの、変なこと聞いて、すみません。瀬戸さんは」
ミコは、一度、息を吸った。
「手加減されたら、いやですか」
会議室が、静かになった。
北島さんが、おせんべいを持ったまま止まった。村井さんが、組んでいた腕をほどいた。
瀬戸さんは、場のみかんを見て、それからミコを見た。
七月に、説明を黙って聞いていたときと同じ、静かな顔だった。
「いやです」
はっきりした声だった。
「わたしも、勝ちたいので」
ミコは、うなずいた。
うなずいたら、言葉が、思っていたより簡単に出てきた。
「わたしも、勝ちたいです」
言った。
口に出してみると、それは、恥ずかしいくらい普通の言葉だった。
「言ったー!」
北島さんが、おせんべいを持った手のまま拍手をした。村井さんが、小さく笑った。
ミコは、場のみかんを取った。
第四章 八点と、七点
みかんが三枚、そろった。
ミコは三枚を裏返して重ね、箱のふたから、みかんの金のラベルを取ってのせた。
「七点」と村井さんが言った。
ミコは、山から一枚足した。
残り二枚のうちの、上の一枚だった。
ぶどうだった。
「え」とミコは言った。
「ぶどう、まだあったの?」と北島さんが言った。
本部で、キオクがリモコンを取り落とした。
拾い上げて、震える指で巻き戻した。始まる前の、村井さんの声。
〈果物は四種類で、九枚ずつ〉
「……九枚」とキオクは言った。「八枚だと、思っていました」
「キオクさん」とシンパイが言った。
「申し訳ありません」
瀬戸さんは、場のぶどうを取って、自分の前に置いた。三枚。
裏返して、重ねた。ぶどうのラベルは、まだ誰も持っていなかった。
瀬戸さんが、山の最後の一枚を足した。りんごだった。山がなくなった。
瀬戸さん、八点。
ミコ、七点。
村井さん、四点。北島さん、三点。
また、一点だった。
「……くやしい」
声に出ていた。
自分でもびっくりするくらい、はっきりした声だった。
北島さんが噴き出した。村井さんも笑った。ミコは、口を押さえた。押さえたけれど、言ったことは、もう戻らなかった。それに、戻したいとも、あまり思わなかった。
「瀬戸さん、ぶどうが残ってるの、わかってたの?」と北島さんが聞いた。
「はい」と瀬戸さんは言った。「ぶどうは、八枚まで見えていたので。九枚目は、山の二枚のどちらかでした」
「数えてたんですか」とミコは聞いた。
「数えてました」
瀬戸さんは、少し考えてから、付け足した。
「在庫と同じなので。出ていった数を数えれば、残りがわかります」
ミコは、七月の、静かな瀬戸さんを思い出した。
説明のあいだは黙っていて、休憩に入ると三つの疑問を見せてくれた、あの半日。
少なくとも今日の瀬戸さんは、ミコより、ずっとよく見ていた。
「じゃあ」と村井さんが言った。「齋藤さんがいちごを取っていても、瀬戸さんは、みかんで八点だったんだね」
「はい。みかんを取ってたと思います」
瀬戸さんは、それから、言葉を選ぶように少し黙った。
「でも、齋藤さんがいちごを取ってたら、たぶん、わざとだってわかったと思います。そしたら、勝っても、帰りにずっと考えてたと思います」
ミコは、自分がいちごを取った場合を考えた。
自分は三点のまま。瀬戸さんは、八点。もらった八点。
誰もうれしくない、丸い一局だった。
「勝つと」と瀬戸さんが言った。「うれしいですね」
瀬戸さんが、笑っていた。
小さな笑い方だったけれど、ミコは、瀬戸さんが勝って笑うところを、初めて見た。
「負けると、くやしいですね」とミコは言った。
「はい」
二人で、少し笑った。

二十時、カードを箱に戻した。
村井さんは、いちごのカードを数えて、九枚、と確かめてから輪ゴムをかけた。ぶどうも九枚。みかんも、りんごも、九枚。
本部では、キオクがその数字を、黙って三回くらい聞き直していた。
「来月も、やりますか」
村井さんが、誰にともなく聞いた。
「やります」と北島さんが言った。
「やります」と瀬戸さんが言った。
ミコも、言った。
「やります。来月は、勝ちたいです」
北島さんが「わたしもよ」と言って、残ったおせんべいの袋の口を、きゅっとねじった。
エレベーターを待つあいだ、ミコは、瀬戸さんの隣に立っていた。
言うかどうか、ボタンの数字が三つ変わるまで迷った。
「あの、一回目の、ぶどうのとき」
「はい」
「言いかけたの、瀬戸さんのためじゃなかったんです。村井さんに、ぶどうを取られたくなくて。わたしも、二枚持ってたので」
言ってしまうと、思っていたよりずっと、ばかみたいな告白だった。
瀬戸さんは、エレベーターの扉を見たまま、うなずいた。
「知ってます」
「え」
「齋藤さんの前にも、ぶどう、二枚ありましたから」
エレベーターが来た。
扉が開いて、瀬戸さんが先に乗った。ミコは、少し遅れて乗った。顔が熱かった。
閉まる扉のガラスに、小さく笑っている瀬戸さんが映っていた。
帰りの電車で、ミコはスマートフォンを出した。
ゆかりとのトークを少しさかのぼると、十月の集まりのあとにゆかりが送ってくれた、写真を撮っているミコの写真があった。
あの日に話した「次のミコの番」は、場所がまだ決まっていない。決まっているのは、そこでゆかりと二人の写真を撮りたい、ということだけだった。
ミコは打った。
〈ゆかりって、ゲーム強い?〉
すぐに返ってきた。
〈強いよ。なんで?〉
〈手加減とか、せんけんね〉
ミコは、少し笑ってから、打った。
〈次のわたしの番、候補ができた〉
〈わたしも、手加減しない〉
〈えっ、何それ、こわ。楽しみ〉
本部では、シンパイがホワイトボードの前に立っていた。
月曜日に書いた三行が、まだ残っていた。
〈勝って、気まずくなる〉には、細い線が一本。
シンパイは、その行を、今度はちゃんと消した。
空いたところに、新しく一行書いた。
〈勝ちたい〉
それから、マーカーのふたを閉めて、少し離れて眺めた。
「それは、消さないんですか」とダイジョブが聞いた。
「消しません」とシンパイは言った。「来月、使うので」
キオクは、リモコンの裏に付箋を一枚貼った。〈九枚ずつ〉。
ネムイは、もう、ぐっすり眠っていた。
ハラヘッタが、小さく手を挙げた。
「あの、みかんのジャム、買って帰りませんか」
駅を出たところのコンビニで、ミコは、小さなびんのみかんのマーマレードを一つ買った。
明日の朝、トーストに塗ろうと思った。
一点差の味がするのかどうか、確かめてみたかった。


