一 千円の使いみち
金曜の昼休み、宮下ひよりは机の上にちらしを広げた。坂の上シネマの、十一月の終わりから十二月にかけての上映予定だった。毎月、野崎さんが文具店のレジの横に置いていく。
「それ、どれ見るの」
向かいの席で、戸川真央が焼きそばパンの袋を破りながら聞いた。
ひよりは一枚の写真を指でたたいた。『とおくの橋まで』。自転車に乗った女の子が、長い鉄の橋のまんなかで止まっている。橋は写真の左の端から右の端まで、はみ出しそうなほど伸びていた。
「地味そう」
「地味じゃないよ。予告、見たもん。この橋、ほんとに画面の端から端まであるの。女の子が弟を荷台に乗せて、この橋を渡りに行く話」
「それ、半年もすれば配信くるって」
「半年も待てない」
言いながら、ひよりは自分でも、待てないのは橋だけではない気がしていた。あの日曜から五週間がたっていた。試験があって、そのあとは文化祭の片づけがあって、毎日店の前から坂の上を見上げながら、一度も上れなかった。
鞄の内ポケットには、白い封筒が入っている。表に鉛筆で「映画」と書いて、今月のおこづかいから二千円を分けておいた。高校生は千円。残りで売店の塩の小を買って、まだ少し余る。店の棚にずっと欲しかった青いインクの小瓶があったけれど、それは来月にした。
「いっしょに行かない? 土曜」
「土曜は部活」真央はパンをかじった。「それにさ、二時間ずっと座ってるの、わたし無理かも。途中でスマホ見たくなる」
「見たら、怒られるよ」
「でしょ。だから家で見るの」
それはそれで正しい、とひよりは思った。思ったので、それ以上は誘わなかった。
「何時の行くの」
「二時半。二回目」
「なんで二回目」
ひよりは少し考えた。十一時の回は店番がある。夜の回は、終わってから坂を下りても九時には家に着くのに、なんとなく夜は特別すぎる気がした。それに、土曜の二回目は柴田さんの回だった。四十三年、あの人がそこに通っている時間に、自分も入ってみたかった。
「ちょうどいいから」とだけ言った。
「席とか決まってんの?」
「D1」ひよりはちらしをたたみながら、少し胸を張った。「わたしの席。左の端の、通路側」
「なにそれ、常連じゃん」
「まだ一回しか行ってないけど」
真央が吹き出し、ひよりも笑った。笑いながら、「わたしの席」という言葉が口の中に少し残った。悪い気分ではなかった。
二 D1の「予」
土曜は一時半まで店番をした。父は配達から戻ると、レジに座るひよりの頭の上から時計を見て、「二時半なら、もう行っていいぞ」と言った。
「まだ一時半だよ」
「並ぶかもしれないだろう」
「並ばないよ、たぶん」
それでも、ひよりは一時五十分には店を出た。生成りのニットに、小さな斜めがけの鞄。ヘアピンを一本、留め直す。坂は、五週間前より少し冷たかった。
ガラスの扉を押したのは、一時五十八分だった。右の売店では黄色い電球が光っていて、カウンターの向こうで三浦さんが手を振った。左の受付では、河合さんが顔を上げた。
「宮下さん。おひさしぶりです」
河合さんは座席表の上で鉛筆を持ち、「D1ですね」と言いながら、D列の左の端に先を運んだ。そして、そこで止まった。
ひよりも、座席表をのぞき込んだ。D列の左の端には、もう小さな丸が書いてあった。丸の中に「予」の字。
「あ」河合さんが言った。「すみません。D1は、予約が入ってます」
「予約……できるんですか」
「電話で、前の日まで。上映の十五分前までに受付に来てもらえなかったら、その席は空席に戻します」河合さんは鉛筆を浮かせたまま言った。「どこにしますか」
うしろに、二人並んでいた。ひよりは慌てて座席表を見た。D1に「予」。その隣は空いている。
「D2で」
封筒から千円札を出した。河合さんは券に「D-2」と書き、座席表のD列の左から二つめに印をつけた。印は、「予」の丸のすぐ隣に並んだ。
ロビーのベンチに座って、ひよりは券を見た。D1を予約する人がいる。前の日までに、わざわざ電話をして。それはつまり、あそこが誰かの席だということだ。土曜の二回目の、D列の左の端。
自分は五週間、その席を「わたしの席」と思っていた。真央にまで言った。
顔が少し熱くなったところで、ガラスの扉が開いた。からし色のカーディガンに、布の手提げ。柴田さんだった。柴田さんはひよりに目を丸くしてから、まっすぐ受付へ行き、言った。
「E1、空いてる?」
「空いてます」
河合さんが鉛筆を動かした。ひよりは、思わずベンチから腰を浮かせた。
「柴田さん、聞くんですか」
「何を」
「E1。河合さん、何も言わなくても書いてるのかと思ってました。前に、そうだったから」
「そりゃあ、わたしが毎回おんなじことを言うからよ。言う前に書いてくれる日もあるけど」柴田さんはひよりの隣に座り、手提げを膝にのせた。「埋まってたら、埋まってますって言われるわ。指定席なんだから」
「埋まってたこと、あるんですか」
「あるある。十年くらい前かしら。大学生の男の子に先に取られて、その日はF1。首が痛くなったわ」柴田さんは首をさすってみせた。「その子、次の週も来てE1だったの。三週目でやっと、わたしのほうが早く来たのよ」
ひよりは笑い、それから券を見せた。
「D1、予約が入ってたんです。だから、D2で」
「D1に?」柴田さんの目が、少し光った。「土曜の二回目で、前のほうの左の端なら……帽子の大島さんよ、きっと。あの人、いつも左のほうに座るの。ちょっと耳が遠いから、スピーカーに近いほうがいいって」
「スピーカーって、左にあるんですか」
「あるわよ、たぶん」
柴田さんは立ち上がり、受付の窓口に顔を寄せた。
「河合さん、D1って大島さん?」
「予約の方のお名前は、ちょっと」
柴田さんは戻ってきて、満足そうに座った。「ほら。やっぱり大島さんよ」
ひよりには、どこが「やっぱり」なのかわからなかった。それでも、知らない誰かよりは、大島さんのほうがまだ気が楽だった。大島さんの席を、自分は「わたしの席」と呼んでいたのだ。
二時七分、ガラスの扉がまた開いた。灰色の中折れ帽をかぶった、年配の男の人だった。柴田さんがひよりの膝を、ひじでつついた。
「ほら」
帽子の人は受付で帽子を取り、言った。
「Hの、まんなかあたり、空いてるかい」
柴田さんは、つついたひじをそっと戻した。
「……あら」
ひよりは声を出さないように、両手で口を押さえた。柴田さんが横目でにらんだが、その口の端も上がっていた。

「大島さん、今日はうしろなのね」
「スピーカー、左なんじゃなかったんですか」
「たぶん、って言ったでしょう」
三 端から端まで
二時十分、客席の扉が開いた。
ひよりはD2に座った。左隣のD1は、背もたれに誰の手もかかっていない。そこに誰かが来るのを、自分が待っているような気がした。来たら、なんと言えばいいのだろう。いつも座ってるんですか、と聞くのは変だった。
正面の幕には、紺色の地に白い字で「坂の上シネマ」と映っていた。上映の前に、いつも映っているらしい。それを見ていて、ひよりは、あの日曜のことを思い出した。
あの日の映画には、画面の右の端に古い時計が掛かっている場面があった。D1から見ると、右の端は遠くて、少し斜めだった。ひよりは首を回して、その時計を見た。それでも、楽しかった。通路側だったし、すぐうしろに柴田さんがいた。はじめての日には、それでよかった。
鞄から、たたんだちらしを出して広げた。鉄の橋が、紙の端から端まで伸びている。
ここからだと、この橋の右の端は、どれくらい遠いだろう。
ひよりは立ち上がった。客席には、まだ五、六人しかいなかった。誰も、座っていない席の背に触れる人を気にしていないように見えた。
D列の、まんなかへ行ってみた。D7に座ると、幕が急に大きくなった。左の端を見て、右の端を見るには、本を読むみたいに目を動かさなければならない。橋のまんなかの女の子は大きく見えるだろうけれど、橋の全部は、きっと一度には見えない。
二列うしろに下がった。F7。背もたれにもたれて、まっすぐ前を見た。目を動かさずに、幕の左の端と右の端が両方見えた。家でスマートフォンを横にして見るときの、あの小さな四角を、両腕いっぱいに広げたくらいの大きさだった。
見上げると、うしろの高いところから光の帯が伸びていて、頭の少し上を通っていた。白い字を映す光の中に、細かいほこりがゆっくり浮いていた。
念のために、いちばんうしろのH7にも座ってみた。光は真上にあって、幕は少し遠かった。橋は全部見えるだろう。でも、女の子の顔まで遠くなる気がした。二つ隣では、大島さんが帽子を膝にのせていた。
ひよりは、F7に戻ってもう一度座った。座ってから、自分の心臓が、券を買ったときより少し速く打っているのに気づいた。誰に聞いたのでもない。ここだ、と自分の目が言っていた。
ロビーに戻ると、受付には誰も並んでいなかった。
「あの、席、変えられますか。D2から、F7に」
「上映前で、空いていれば」河合さんは座席表を見て、D2の印を消しゴムで消し、F列のまんなかに印をつけた。券の「D-2」に線を引いて、横に「F-7」と書いた。
そのとき、受付のうしろの時計の長い針が、三のところに来た。二時十五分。河合さんは座席表のD1を見て、予約の帳面を見て、それから鉛筆の尻で「予」の丸を軽くたたいた。
「D1、予約の時間を過ぎたので、空席に戻しました」河合さんはひよりを見た。「宮下さん、移りますか。D1」
ひよりは、券を持ったまま立っていた。
D1。左の端の、通路側。五週間、「わたしの席」と呼んでいた席が、いま、千円のままで手に入る。
「……F7で、いいです」
ベンチで柴田さんが顔を上げた。「あら、D1じゃなくていいの? あなたの席でしょう」
「わたしの席って言ってたの、わたしだけなんで」ひよりは券をひらひらさせた。「それに今日は、橋がぜんぶ見たいんです。予告で、橋が画面の端から端まであって。D1だと、右の端が遠いから」
「橋?」と河合さんが言った。
「橋です」
河合さんは少し間を置いてから、「なるほど」と言った。何がなるほどなのか、ひよりにはわからなかった。でも、河合さんがさっき反射的に「D1ですね」と言いかけたことを、本人も思い出しているような顔だった。
二時十八分、ガラスの扉が勢いよく開いた。
黒いウインドブレーカーの若い男の人が、手袋を片方だけ外しながら入ってきた。息が切れている。坂の中ほどの自転車屋で、いつもタイヤに空気を入れている人だった。あの日曜、映写室に上がった中にもいた。
「すみません、予約の森です」男の人は受付の台に手をついた。「D1。店を出ようとしたら、パンクのお客さんが来ちゃって」
「十五分を過ぎたので、一度空席に戻しました」河合さんは座席表を見た。「まだ空いてます。D1でいいですか」
「お願いします」
森さんが千円札を出すのを、柴田さんがベンチから、じっと見ていた。
「大島さんじゃ、なかったわね」
「え?」森さんが振り向いた。「なんですか」
「なんでもないの」
ひよりは、どうしても聞きたくなった。
「あの、D1って、いつも座ってるんですか」
「いや、まだ二回目。あの日曜の、あれ以来」森さんはひよりの顔を見て、あ、と言った。「あのとき、左の端に座ってたの、君か。柴田さんの話のあと、通路側は気がらくって聞いて、君がそこに座ってたから。なんか、はじめての人の席っぽいなって」
ひよりは、券を持ったまま固まった。
D1の常連。誰かの席。自分が五週間「わたしの席」と呼んでいた席を、別の人は「はじめての人の席」だと思って、電話で予約していた。理由は、自分がそこに座っていたからだった。
柴田さんが、こらえきれずに笑い出した。ひよりも笑った。森さんだけが、わけがわからないという顔で、二人を見比べていた。
「指定席なので」河合さんが、券を森さんに渡しながら言った。「券を買った人の席です」
「はあ」森さんは券を受け取った。「じゃあ、今日は俺の席ってことで」
「今日はね」と柴田さんが言った。
売店から、三浦さんが呼んだ。「宮下さん、塩の小、いります?」
「いります」ひよりは売店へ行き、封筒に残った千円札を出した。「あと、この映画、うるさいところあるんです。予告で、貨物列車が橋の下を通ってました」
三浦さんは容器にポップコーンを詰めながら、目を丸くした。「もう、作戦が立ってるんですね」
「柴田さんのカードの、まねです」
「まねでも、場面を探したのは宮下さんでしょう」三浦さんは容器を渡した。「あとで、終わったら持ち帰りの袋も出しますから」
四 橋の右の端まで
F7に座ると、斜め前の、ずっと左の端のほうに、柴田さんの白い頭が見えた。E1。その前のD1に、森さんの黒い頭。二人とも、もう背もたれに背をつけていた。
二時半、客席の明かりがゆっくり落ちた。頭の上の光の帯が、急に濃くなった。
映画は、海の近くの坂の多い町から始まった。十五歳の女の子が、古い自転車の荷台に座布団をくくりつける。八歳の弟が、そこにまたがる。隣の町に、新しい橋がかかったのだ。父さんが若いころに、毎朝、渡し船で通った川に。二人は、開通の日の夕方にその橋を渡ると決めて、朝早く家を出る。
最初の三十分、ひよりは、ときどき左の端の二つの頭を見た。柴田さんは、ほとんど動かなかった。森さんは、女の子が坂道でチェーンを外してしまう場面で、少し前に乗り出した。自転車屋さんだからだ、と思うとおかしかった。
それから、ひよりは二人を見なくなった。
弟がサンドイッチを一口で食べようとして、両頬をいっぱいにふくらませる場面で、客席のあちこちから小さな笑いが起きた。うしろのほうで、大島さんらしい低い笑い声もした。女の子は弟のふくらんだ頬を見て、自分も笑っていた。ひよりも笑った。笑ってから、家で一人で見ていたら、この場面で声は出なかっただろうと思った。
途中で、パンクした。女の子は道ばたにしゃがみ、知らない農家のおじいさんに空気入れを借りた。おじいさんは何も言わずに、タイヤの空気をたしかめた。ひよりは、さっきロビーで息を切らしていた森さんの顔を思い出し、少しだけD1のほうを見た。森さんの頭は、いちばん前に乗り出していた。
日が傾いて、二人はやっと川に着いた。
橋は、まだ遠かった。土手の上から見ると、夕方の光の中に、細い鉄の骨組みが横に長く伸びている。画面が、女の子の肩ごしに、ゆっくりと橋の左の端から右の端までなめていった。ひよりは目を動かさなかった。動かさなくても、全部が見えた。
そのとき、低い音が客席の床から上がってきた。橋の下の線路を、貨物列車が通りはじめたのだ。がたん、がたん、と音がつづき、客席の椅子の背まで震えた。
ひよりは塩の小に手を入れた。一つかみ、二つかみ。容器のかさりという音は、列車の音にすっかり飲みこまれた。予告で見たとおりだった。誰にも振り向かれなかった。作戦、成功。ひよりは暗い中で、少しだけにやにやした。
列車が行ってしまうと、女の子は弟を荷台に乗せて、橋のたもとまで自転車を押していった。開通の日の夕方で、橋の上には誰もいなかった。式はもう昼に終わっていたのだ。紅白の幕のはしが、欄干に一本だけ引っかかって、風に揺れていた。
女の子が、ペダルを踏んだ。
画面が引いた。橋の全部が、幕の左の端から右の端まで入った。夕焼けの空と、黒い川と、その上を一本、まっすぐ伸びていく鉄の橋。そのまんなかを、小さな自転車が、ゆっくり渡っていく。荷台の弟が、両手を広げていた。
ひよりは、自分が前へ乗り出しているのに気づいた。背もたれから、背中が離れていた。左の端の橋の根もとも、右の端の向こう岸の家の明かりも、ちゃんと見えた。自転車は、そのまんなかにいた。

D1からだったら、この右の端は遠かったんだろうな、と思った。それでも、あの日曜にあそこに座ったのはまちがいではなかった。あの日はあの日で、通路側が必要だった。今日は今日で、この橋が必要だった。
自転車が橋のまんなかで止まった。女の子が振り返り、弟が何か言った。なんと言ったのかは、川の風の音で聞こえなかった。女の子は笑って、また漕ぎ出した。
エンドロールが流れはじめた。黒い画面ではなかった。夜になった橋の上を、一台ずつ車のライトが渡っていく映像の上を、白い文字がのぼっていった。
大島さんらしい人が、うしろの通路を静かに出ていった。ひよりは座っていた。ライトが一つ、左の端から右の端まで渡りきるのを、最後まで見た。
明かりが戻ったとき、塩の小の容器の底には、まだ三粒残っていた。
五 次の席
ロビーに出ると、売店のカウンターに、小さな紙袋が並んでいた。三浦さんが、深緑のエプロンで手を拭きながら言った。
「スパイス黒糖、持ち帰りの袋です。客席では出せないので、帰ってからどうぞ」
ひよりは封筒を出して、残った小銭を数えた。袋を一つ買った。父の分も、と一瞬思ったけれど、やめた。今日は、自分の映画の日だった。
ベンチでは、柴田さんが手提げに眼鏡をしまっていた。森さんが、そのそばに立っていた。
「どうでした、D1」とひよりは聞いた。
「よかった」森さんはすぐに言った。「あの自転車、古いランドナーなんだよ。泥よけの形でわかった。チェーンの外れ方も本物っぽかったし、空気入れのじいさんも、ちゃんと口金を確かめてた」
「そこですか」
「そこだよ」森さんは真顔だった。「あと、通路側は脚がのばせて楽。ただ、最後の橋は、右の端がちょっと遠かったかな。向こう岸のほう、首を回した」
「わたし、F7でした」ひよりは言った。「橋、ぜんぶ入りました。まんなかに自転車がいて」
「まじか」森さんは少し悔しそうだった。「次は、まんなかにするかな」
柴田さんが手提げの口を閉じた。
「わたしは、いつものところ。斜めの橋も悪くないのよ。四十三年、左の端から見てるから、右のほうが遠いのには慣れてるの」柴田さんはひよりを見た。「でも、あの橋がまっすぐ見えたなら、それはそれで、うらやましいわね」
「柴田さんも、たまにはまんなかに座ったらいいのに」
「E1が埋まってたらね」
河合さんが、受付の窓口から顔を出した。
「宮下さん、次から、F7で覚えておきましょうか」
ひよりは、少し考えた。F7は、今日の橋のためにいちばんいい席だった。でも、次の映画に橋が出てくるとはかぎらない。
「いいです。次は、次の映画を見てから決めます」
「予告を見てから、ですか」
「予告を見て、ちらしを見て、それで、なかに入ってから」ひよりは客席の扉を見た。「座ってみて、決めます」
河合さんは鉛筆を持ったまま、少し笑った。「じゃあ、言われるまで書かないようにします」
「お願いします」
柴田さんが立ち上がった。「わたしは書いてくれていいわよ」
「知ってます」と河合さんは言った。
ガラスの扉を出ると、坂の上はもう夕方の色になっていた。坂の中ほどで、森さんは「じゃ、店戻るんで」と言って自転車屋の中へ消えていった。シャッターの前に、空気入れが一本立てかけてあった。
ひよりは歩きながらスマートフォンを出し、真央にメッセージを送った。
〈F7で見た。橋がぜんぶ入った〉
すぐに返事が来た。
〈なんの暗号〉
〈席。今日はF7がいちばんだった。D1じゃなかった〉
〈わたしの席、とか言ってなかった?〉
ひよりは歩きながら、少し笑った。
〈言ってた。まちがいだった〉
〈部活おわった。で、おもしろかった?〉
〈おもしろかった。弟のほっぺがサンドイッチでふくらむとこで、みんな笑った。家だと、たぶん笑わない〉
返事は少し遅れた。
〈ほんとかなあ〉
〈今度いっしょに行こ。席は、行ってから決める〉
〈まんなかならいいよ〉
〈まんなかかどうかも、映画による〉
〈めんどくさ〉そのあとに、もう一つ来た。〈考えとく〉
ひよりはスマートフォンをしまい、紙袋の口を開けた。坂の途中で一粒だけつまんだ。甘くて、あとから少しだけ舌がぴりっとした。客席で食べたら、たしかに匂いで振り向かれそうだった。
坂の下に、宮下文具店の明かりが見えた。ひよりはもう一粒つまんで、それから袋の口をしっかり折った。残りは、帰ってから食べる。


